さよならきみとぼくのユニバース
神になる少年の夢をみた。
「――はっ、っ、ぁ……」
少年は酷く澄んだ表情で、濁りなくしかし光彩に乏しい灰ねずみの瞳でどこかずっと遠くを見ていた。無雑作に拳銃を頭に突きつけ、おもむろに、何のてらいも躊躇いもなくそれを引き抜く。ばきぃんと硝子が砕け散るような音がして銃弾と鮮血の代わりに蒼いひかりが飛沫した。「ぺるそな」その人が口ずさむように謳い上げる。「おいでデス。ぼくのはらから。世界を終焉へ導く宣告者。ぼくのともだち――」少年の目が赤く輝いて、鳴上悠は息を詰まらせた。少年の内から棺桶を背負った死神がめりめりとわいて出て禍々しい月をバックに降臨した。少年は未だ拳銃をゆるゆると自らの頭部に突きつけたままで、そして、
(ああ、この名前も知らないひとは、)
笑った。どこか無邪気ですらあった。拳銃が下ろされ、死神が吼え猛る。月が少年に侵食されていく。いつの間にかまんまるい球体が少年の腕の中に収まっていて、それはまるで卵を温める母鳥のようだった。少年は手に抱いた丸いそれに「りょうじ」親し気に語り掛ける。ぞわりとする。背筋を駆け抜けていく。悪寒、に似ていたが嫌悪ではなかった。純然たる恐怖だった。そして哀しみだった。
(人間じゃなくなった)
鳴上悠はその時ぼんやりと理解した。このひとはきっと「禁断のアルカナ」《ユニバース》の力を手にしてしまったのだと。だから今でもまだ、そしてこれからも、あのひとは。
そこで目を覚ます。布団から勢い良く起き上がった鳴上悠は浅い呼吸を繰り返した後に手のひらを握り、そして開く。強く握り込んだ拳の中にアルカナのカードが現れることはない。ここは現実の部屋の中。八十稲羽市でも、ましてやテレビの中ですらない。愚者も魔術師も戦車も女教皇も皇帝も恋愛も運命も星も――出現しない。
「アルカナ・ユニバース……」
ほんの一時だけ悠も触れたあの力には文字通り世界を革変し神すらも相手取る力があった。あの時悠はすぐにそのアルカナを手放したわけだが、もし仮にそれを永遠にその身の内に宿すことになったら? 一人の人間が持てる「想い」のキャパシティを間違いなく超越しているユニバースに、人間のままで耐えることが出来るのか?
夢にみた少年はユニバースを行使していた。いやそうじゃない。力を間借りした悠と違って、彼は彼自身がユニバースだったのだ。そうに違いない。
根拠はまるでないが確信があった。だってあの少年は、どうしようもなく、人としての匂いが希薄だったのだ。恍惚として卵を抱くその姿はいっそ狂的ですらあって、だというのにそこに生々しい生の鼓動というものは一切感じられなかった。あんなに異常な光景なのに淡白だった。
「そういえば、ユニバースを使った時、確か」
世界を救う奇跡のアルカナに触れる前、叱咤し勇気を与えてくれた人々の声とは別に悠の耳に響いたものがあったことを思い出す。途切れ途切れの曖昧なものだが、それは思い返してみれば丁度あのぐらいの少年の声であったのではなかろうか?
『もしも世界を救いたいと願うのなら……』少年の声は言った。『《世界》を、君に貸してあげる』脳味噌に直接、しかし微かに。
「八十稲羽に行くのは……来週、か」
携帯のカレンダーで、何度も見返したスケジュールをまた確認する。あの波乱含みのゴールデンウィークからまた更に月日は流れ、今現在悠は夏休みを迎えていた。来週、正確には五日後には菜々子や仲間達との約束で三たび彼の地を訪れる予定になっている。気心の知れたメンバーとの再会も勿論楽しみだったが、八十稲羽のジュネスにあるテレビの存在が悠の関心を惹いていた。クマが住み処にしているテレビの中の特殊空間はまだ生きている。あそこならばまだペルソナが使えるはずだ。
どうしてだか、酷く強く少年のことを知りたいと思った。気がかりで仕方がない。銃を用いてペルソナを召喚するその方法には見覚えがあったし(シャドウワーカーと名乗った桐条美鶴と真田明彦も同様に銀色の拳銃を使っていたはずだ)、あの少年が夢の中で生み出された架空の存在だとは思えないのだ。
名も知らぬ神になった少年。濃い影を帯びたその言葉の並びを口中でもてあそぶ。もやもやとしてあちこちで引っ掛かった。からからと乾いていく。
「どこかのタイミングで、話を切り出せればいいんだが……テレビの中に入りたいと言ったら妙な顔をされるかもしれないし……」
会う度に事件に巻き込まれる男だなんだと陽介にはやされるのもあまり面白くないし、何より本当に一大事になってしまって皆を巻き込んでしまっては忍びない。
「……ん」
ふと、ベルベットルームの住人達を思い出す。鼻の長い主イゴール、種々のサポートを担ってくれたマーガレット。そしてゴールデンウィークに邂逅した、彼女の妹だというエリザベス。
『私はある大切な方のために、旅をしております。この度この地に立ち寄ったのもあの方を取り戻さんとしてのこと。しかし少々はしゃぎすぎてしまいまして、姉に叱りを受けそうです』、と彼女は言っていた。姉はマーガレットだ。マーガレットと同様契約者のサポート役を担っていた彼女が何らかの理由でベルベットルームを飛び出してしまったために自分がここで仕事をしているのだと、いつかマーガレットからそう聞いたように思う。となれば当然、エリザベスが受け持っていた契約者がいるはずだ。
「取り戻そう」という物騒な言葉に夢の中の少年を想起した。少年が喚んだ死神、いや、ペルソナのシルエットが朧気な記憶の中でクリアになっていく。その瞬間悠は「あっ」、と思わず声を漏らした。そうだ。あの死神は確か、
「『タナトス』。力を管理する者の権限で全書から借り受けたものだと、そんなことを言っていやしなかったか」
誰かの心の海から生まれ出でたかたちを借りて行使しているにしてはやたらめったらに強いペルソナだったが、ベルベットルームの住人にこちらの常識というものは通用しないのでこの際それは問題じゃない。パズル・ピースが埋められていくのを悠は感じた。だが真実には程遠い。まだ、枠組みすら完成していない。情報が圧倒的に足りなかった。
「イゴールは、恐らく知っているのだろうが……」
あの鼻の長い老人は「もう会うこともないでしょう」と言っていたし、仮に会えたとしても以前の顧客の情報を明かすとも思えない。完全に手詰まりだった。その行先の不安定さは、まるで「これ以上知ろうとするな」という拒絶と警告のように思われた。