月に啼く、君よ安らかに眠れとて


 お別れだよ、と彼は言った。影時間にだけ現れるあの不思議な子供。度々意識の中に現れて、あの子は俺に問いかけた。世界を形づくるもの、空の色、星の光、俺の好きな音楽。
 特に音楽は……度々聴きたいとせがまれて、けど叶えてやることは出来なかった。MP3プレイヤーはただの何の変哲もない機械だ。影時間には、動くはずもない。
 そしてやはり音楽を聴かせることが叶わないまま、ファルロスはいなくなった。ある日突然ふらりと消えた。いなくなった。俺の世界から。俺を残して、ひとり。
『どうせみんないなくなるから、人は一人で生きるしかないって』
 俺の中に残ったのはファルロスの言葉だけ。
 思い出という名前を付けられた、空虚な……とても空虚な残滓。


「結城くんだと、なんだかよそよそしいし、名前で呼んでもいいかい?」
 カフェ・シャガールでアルバイトをしている最中、そいつ――望月綾時は唐突にそんなことを聞いた。時価ネットたなかの社長のスーツをびりっと破いてしまい、その弁償のためにお金が要り用になった俺は黙々と皿洗いをしているただなかで、だからはじめ、よく言葉が飲み込めていないのにろくに聞きもせず「どうでもいい。好きにすれば」と返してしまいそうになり、寸でのところで口を噤んだ。
「……なんで」
「うーん、なんでって、言葉の通りなんだけど」
「よそよそしいも何も……別に、そういうんじゃ、ないだろ」
 今こうして同じ職場でバイトしてるのだって殆どが成り行きというか、望月の方から勝手に押しかけてきて気が付いたら「君とお揃いだね!」とかにこにこ笑いながら同じ制服に袖を通していたのだ。この店の店長は色々緩すぎる。採用基準、一体どうなっているんだ。
 しかし望月はそんなふうにすげなく断られたのがお気に召さない……というよりあまり理解がいっていないようで、ただ、なんとなく気まずそうに「僕何か、変なこと言った?」と首を傾げた。
「君の名前ってとても素敵だと思うんだ。結城理――、ゆうき、まこと。真理を目指し、或いは内包している。そういう感じ」
「……知らないけど」
「だから君さえ良ければ僕もその美しい名前を、呼ばせて貰いたいんだ。ね、理……」
「もう呼んでるじゃないか……」
 俺の答えなんか、結局待ってないじゃんか。溜息を吐いてから動かしていた手を止めた。次の皿の補充、しないと。しかしこの望月綾時という男は本当にずけずけ人の領域に入って来ようとするというか、……無遠慮というか、なんというか。そういえば女の子と見れば手当たり次第に声掛けてるらしいし、自分なんかとは色々考え方が違う人種なんだろう。きっとそうだ。
 正反対だ、と思った。本当に正反対。俺はファルロスがいなくなって以来とみに人を避けてる。誰かと親しくなるのがもう嫌だった。大切なものが増えていくのが嫌だ。いつかそのしっぺ返しが来るって、やっぱりそういうのから逃げられないんだって、知ってしまったから。
(まるで人間みたいなこと言うんだね)
 そう思う度に、頭の中に住んでいる自分が呆れた声で囁いた。人間みたいに痛がって、怖がって、苦しがるんだね。それが絆のもたらしたものなの? ねえ、教えて? 厭みったらしい声。やめろよ。知ってる。ファルロスはいなくなったんだ。窓ガラスの向こうにあの子が見えても、それって全部幻覚なんだよ。
「ごめん。でもだって、友達なら君をそう呼ぶかなって思ったんだ。順平たちみたいに」
「……友達?」
「うん。僕、君と友達になりたいな」
 簡単に言ってくれる。だから嫌なんだ。ずけずけ、ずけずけ、土足で踏み込んできて踏み荒らして、そのくせいつかいなくなってしまうのに……
「……そういうのもう嫌なんだ」
「うん?」
「だっていつか望月もいなくなるから」
 言葉少なに、そう言い捨てた。手ひどくすれば、もう俺なんかに構わないかもしれないと思ったから。望月はそれでなくとも今学校中話題で持ちきりの噂の転校生、明るくて社交的でみんなの人気者だ。そうだよ。わざわざ結城理を選ぶ理由はこいつにないんだ。
 けれど望月はそんな意に反して、怒ることも悲しむこともせず、「君はやさしいんだね」と少しだけはにかんだ。
「僕はいなくならないよ。いつか、離ればなれになる時が来たとしたってだ」
「……それ、矛盾だ」
「君の前から全て消え失せることはない。だって、絆が僕らをいつでも繋いでいるから」
 その言葉を聞いた瞬間、世界じゅうが一瞬だけ時を止めたような心地がした。
『たとえ今日が最後になっても』
 あの子が言った。ハングドマンのあと、二人の最後の時間に。忘れないで、大丈夫と微笑むように。影時間にだけ訪れる不思議な「友だち」。人差し指を手に当てて内緒話をする仕草がよく似合う、きみ。
『絆が僕らをいつでも繋いでいる』
 望月はファルロスと同じことを言う。なんでもないみたいに。当たり前みたいな顔して。
 手を止めたまま振り返った望月の顔を、なんだかあまりうまく見ることが出来なかったのはどうしてなんだろう。
 
 その日から彼は俺の事を「理」と呼ぶようになった。俺は、彼の眼差しが期待してせがんでいるような気がして、だから……「綾時」と呼び返すように、した。
 後から思うとそれって全部言い訳なんだけど。


◇◆◇◆◇


 アイギスが入り込んできた諸々でごたごたが起きて庭園の池にみっともなく落下した後、先生達にしこたま叱られながら入浴の許可を貰って部屋へ帰ってきたのは、もう随分と夜も更けた頃だった。部屋の中央に放置されていた食べかけのポテトチップスに手を掛けて畳にへたり込む。なんだか随分疲れてしまった。初日だというのに、これでいいんだろうか。
「やー、参った。お手上げ侍、ここに極まれりってカンジ? アイギスも理の事となると妙に暴走することあるよなあ」
「うーん、というか僕、相変わらずアイギスさんにはすごく嫌われてるよね……結局あれから一回も食事に誘えてないんだよ……」
「綾時のその度胸、俺っち真似出来ません」
 ほら食えよ、と順平が差し出してきたポテトチップスをつまみながらふと順平の顔を見た。旅行に行く前、そうだ、確かチドリの見舞いにあんまり行かない方がいいって言ってから微妙にぎこちなかったはずの順平が、気付けば今はまったく以前と同じ通りに自分に接している。それを不思議に思ってきょとんと彼を見上げると、その視線に何か思うところがあったのか茶化すように「んだよ〜あんま見んなよ照れるだろ」と順平が頬を掻いた。
「……ごめん。別に、順平の顔に何かついてたわけじゃ、ない」
「あー……あぁ。いや、なんつかよ、リョージが言うからよ……なるほどってな。ちょっと思ったわけ」
「……なにそれ?」
 言わんとしたことが態度の軟化だってことはすぐ分かってくれたみたいだけど、その後の台詞がいまいち飲み込めない。綾時が? 綾時が何を言ったって言うんだ? 一言で順平の損なわれていた機嫌を補ってしまうような何かを……
 訝しむようにじっとりと順平を見ていると彼はどんどんしどろもどろになっていって、代わりに、綾時が彼の手の中から次のポテトチップスを手にとって「なんでもないんだよ」とあっけらかんと言った。
「僕はね、君が繊細で優しい人だって、言っただけ。別に本心からみんなに冷たくして回ってるわけじゃないって。……今の君はちょっとナイーブだ。堅い甲羅に引きこもっちゃってる。甲羅はとても堅いし厚いから、簡単に中に触れられないし、外にも出て来ない。……僕はそう思ったんだ」
「……俺のこと」
「そう。君のこと」
 綾時が笑った。でもポテトチップスの食べかすが口端に付いていてなんだか台無しだった。
「そうそう綾時のやつ、理のことなら自分のことみてーになんでもわかるとか、言っちゃってサ。でもなんつーか……本当にそんな気したんだよなあ。綾時が来てからお前、また変わったよ。少し明るくなったし笑うようになった。そんな風に思ったわけ。だからあながち綾時の完璧な思い込みってわけじゃないんかもなぁって俺も納得したんだ」
「変わった? 俺が?」
「そーそ。綾時のこと、名前で呼ぶようになってから……なんつか、人間らしくなったよな。あ? それじゃ今までの理は人間らしくなかったってことになんのか?」
「……別に。正直自分でもそういうふうに思うとこ、あるし」
 今更そんな気にしなくていいから。そう首を振って次のポテトチップスに手を伸ばした。
 人間らしいからしくないか。そういうふうに聞かれたら、自分自身、「人間らしくなかった」と答えられる。わかってたし。笑うと、なんか明日は雨だなみたいな反応される時点で気付かないはずもない。
 でも、変わった? そう言われると途端に自信がなくなってくる。絆がいつかなくなってしまうことを恐れているのは、この恐怖はずっと一緒だ。なくならない、と思う。手に入れたはずのものが隙間から零れ落ちていくことへの嫌悪はとても強烈で。
 荒垣先輩が死んだあとのみんなの顔、ファルロスがいなくなってぽっかりと心に空いたブラックホール。失うことを怖くないと強がるのは、俺にとってそれらをなかったこと、嘘にしてしまうとのまったく同意義なのだ。だから絶対に恐怖を消すことはない。
 それでも、人は変わっていけるのか。
「……俺もよ、チドリがいなくなるのは嫌だし怖いぜ」
 順平がぼそりと零した。
「でもだからって仲良くしないとか、一緒にいたくないとか、そういうことにはなんねー。人間さ、生きて死んでくんだ、いつか絶対別れは来るだろ。それが分かってるから俺はチドリに会いに行くんだ。今を生きて一緒にいるってことを覚えておきたいんだよ。思い出は、なかったことにはならない」
「……だけど思い出に縛られたら、人は足を止める」
「そんならそれで、いっぺん足止めちまえばいいだろ。そんで、思い出と一緒に生きてくことも出来るんじゃ、ねえのかな……」
 順平の言葉はたどたどしくて、彼自身、はっきりと全てを悟ったりしているわけじゃなくてもがき苦しんで歩いてるんだってことが伝わってくるようだった。綾時が、手を握ってくる。大丈夫だよ、って言うみたいに。
 思わず彼の目を見た。あおい瞳の向こうに、あの子がいた。それで口を開いた。
 瞳の奥のあの子が何を言うかはもう、知っていた。
「『絆が僕らをいつでも繋いでいる』……」
「およ? どしたん、急に悟り開いたみたいな声で」
「……俺じゃないし。二回、言われたことがある。一度は綾時に、突然前触れなく馴れ馴れしく」
「えっ、あの時のこと、もしかして理は怒ってたりする?!」
「いや……別に。綾時はそういうやつだし。綾時は……無責任で脳天気で、あと自分勝手。でもそれでいい。綾時は綾時」
「あれ、もしかして僕今理にすごい褒められてない?! ねえ順平!!」
「あーウン、そうだねー。ある意味褒められてる。褒めてる褒めてる。そんで? もう一人って、誰よ」
「ちょ、ちょっと順平!! その流し方はいくら何でも酷いよ!!」
「……もう一人は、知らないよ、二人とも。友だちだったけど……もういなくなっちゃったんだ。だから……こんな言葉、嘘だって、思ってた……だけど」
 順平に抗議して頬をぷうと膨らませていた綾時が俺を見る。泣きぼくろのある顔が、まっすぐに、見てきている。
「今は少しだけ信じられる気がする」
 胸に手を当てた。ロザリオはないけれど、そこには心臓がある。


◇◆◇◆◇


 二人で音楽を聴いたばかりだ。イヤホンを片方ずつ分け合って、ひとつのMP3プレイヤーを共有して、肩を並べて屋上で。俺のお気に入りの音楽を聴きながら君は言った。「うん、いいね」。それが嬉しかった。なんでもない日常。この先も続いていく、ずっと、ずっと、いつまでも。
 嫌な予感が拭えなかった。影時間の薄暗い空の下を無我夢中で走り抜けた。だってそんな、いなくならないって言ったのに。最近、やっと決めたところなんだ。友達を受け入れるって。そういうの、いいかなって、やっぱり。思ったばかりだったのに。
 同じ音楽を聴いて二人で一緒にいた時のあの感覚を肌がまだ覚えている。ファルロスと内緒話をしていた時と同じ充足感みたいなものがその時あって、きっとこれが友達といると嬉しいってことなんだろうとか考えたりした。心臓が痛い。身体に鞭を打って走り続けていることだけが理由じゃないだろう。ずきずきする。この痛みを知っている。
 ビル群に囲まれて視界に掛かるムーンライトブリッジは、いつにも増して不気味で、恐怖を駆り立てた。音楽プレイヤーは相変わらずあの曲を流し続けているけれど、恐怖は燃えるどころかしとどに垂れ広がって、心臓を絡め取り、包み込んで、底冷えさせていく。
 心臓の音は早鐘。無理矢理動かしている両足は鉛。氷よりも酷く冷えた両手を、今はまだ祈るように合わせることさえ出来ない。
 綾時と会って、友達になって、大丈夫だ受け入れられると思っていた感情が一気に押し寄せてきていた。恐怖という恐怖、怯えという怯え、嫌悪という嫌悪。絆という言葉、概念が、急に細く心許ない一本の糸になってしまったかのようだった。寄り合わされていると信じていたものは、ただの蜘蛛の糸だったのだ。
 非常階段を駆け上がると、橋の上には深い煙が掛かっていた。硝煙のにおいが酷い。兵器が何かを殺そうとした名残だ。鼻をつき、目を細める。げほ、と咳さえ出て来た。煙のにおいはあまりにも悲壮で、最悪だった。
 やがてそんな嫌悪さえも一緒に取り払って煙が晴れていく。見たくないものが、ねえ聞こえる、これが世界の真実だよってしたり顔で促して、見せびらかそうとしてくる。
 道路に横たわっているのは、アイギス。寮から消えていた仲間。「私の永遠はそのためにあります」「私はいなくなりません」「一緒に行きます」と確かに言ってくれた少女。
 横たわった彼女を見つめているのは、長身矮躯の少年。黄色いマフラーがはためき、シルエットを不気味に象っている。背中を向けていて、顔が見えない。
 背中に、「きみにみられたくないよ」と、稚拙な震えた文字で必死に書き殴ってあるような気がした。
「なんで」
 俺は問う。認めたくない現実から、それでも目を逸らす事が許されないから。
 うそつき、そんな心ない言葉が口をついて出ようとする。いなくならないって言ったのに。うそつき。喉元まで迫り上がってきて、でもそれを必死に押し留める。うそつき、うそつき、うそつき。言葉は喉に引っ掛かって、詰まり、気管を押し潰す。
 綾時が振り返る。俺を見る。唇を開き、今にも泣きそうな、別れの日のあの子みたいな、そんな声を出す。
「……ごめんね」
 ファルロスとまったく同じ顔をした少年は、俺を悲しそうに見てそう言った。