きみにしてあげられないいくつかのこと
きみの顔が忘れられない。
「これは初めてシャドウに襲われたときに……岳羽からもらったナイフだ。いつも持ってる。お守り……みたいなものかな」
君の手にナイフ。よく研ぎ澄まされて、やすやすと柔らかな皮膚を引き裂いてしまうであろう、鈍色。足音が静かに僕へ近付いて来ていた。君はとても静かだった。静かに、あの灰ねずみの眼で、僕を見据えている。
ナイフが首筋に迫り、ぴたりとそこで止まる。頸動脈に喰らいつくほんの僅かな瞬間を切り取り、僕達の時が止まる。そのナイフを動かさないの、湊君。君がひとたび望めばそれで終わるのに。
君の仲間達は、どうやら僕を生かすつもりらしい。でも結局最後に決めるのは君だ。実行者は、断罪者は、咎人は、君でしかない。
「……怖くないの?」
「怖い?」
ナイフを留めた君の瞳に浮かび上がっていたものはなんだったのだろう。恐怖? 戸惑い? 悲しみ? ……それとも怒り?
君は感情が分かりづらい、顔にあまり出ないからって、クラスメートの人達にはそう思われていたよね。でも僕は知っていた。君の心が顔を覗かせる場所。それは瞳だ。君の目はいつも、決して僕には嘘を吐かない。
それなのに僕にはその時、君の目に映るものが、あまりよくわからなかったんだ。
「僕を殺すということへの抵抗感で選択を曲げる必要はない。前にも言ったけど僕はどのみち消える存在……死への抵抗感はまったくない。変な同情心は無用さ」
どうしてナイフを留めるのか。先へ行かないのか。終わりにしないのか。
「……君のほうが」
僕を……殺さないのか。
「ふるえているよ」
怯える鈍色。それはナイフだったのか、君の瞳だったのか。僕は誠心誠意、彼の「決意」を後押ししようと言葉を繋げた。ねえお願い、僕の最初で最後のわがままを叶えて、湊君。僕は君を苦しめたくない。君にあの姿を見られたくない。君の世界の中では、この、愚かな「望月綾時」のままでいたい。僕は僕でいたい。
叶うなら人としてのおわりは君の手で迎えたい。
「常に前を向こうとするのは素晴らしい生き方だと思う。でもだからってそれ以外の生き方が間違いだってことにはならない。どの道が幸福に通じてるかなんて誰にも見えやしないんだ」
君達は前を向いて生きるんだって言う。決して敵わない死を前に、無駄なのに、絶対意味なんかないのに、ただ苦しくて悲しくて怖くて傷付くだけなのに、忘れたくないんだって言う。
「怖くなんてない」
湊君、僕だってね、本当は……本当は。
「僕は今すごく『幸せ』だよ」
君に忘れられたくないよ。
だけどそうしなければきっと君を守れない。
◇◆◇◆◇
きみの顔が忘れられない。
「怖くなんてない。……僕は今すごく、『幸せ』だよ」
綾時は気付いていたんだろうか? その時、自分がどんな顔をしていたのかってことをだ。きっと、気付いてない。わかってない。そうに決まってた。あの子はやさしいから。やさしいから……自分に嘘を吐くのが、得意で。
僕は自分の顔色がこれまでにない程に青ざめて、ひどく強張った表情で綾時を見つめていることを自覚した。ひどい顔だって鏡を見るまでもなくわかったけど、その面持ちをどうにかすることは出来そうにもなかったし、する気もなかった。
「君と出会えて……うれしかったよ。こういう気持ちが、たぶん……『幸せ』っていうんだと思う。……本当にありがとう」
急速に冷えわたっていく。僕のナイフ、それから僕の眼差し。冷えて、翳りを帯び、そして僕は留めていたナイフを動かした。僕達の止まっていた時間が動き出す。約束の時が、刻限が既に喉元まで迫り上がり、迫っていた。
だけどナイフは綾時の首筋を素通りしてそのままベッドにまっすぐ降り注いでベッドカバーを切り裂いた。殺してやる気が、もう完全に、失せた。どうしてそんな顔でそんなことを言うの。そんな寂しい顔をして、そんな苦しそうな顔をして、辛そうに、悲しそうに紡がれた「しあわせ」を、どうして僕が信じてあげられると思ったの?
「こんなのが『幸せだなんて』……」
「僕の言うこと……うまく伝わらなかったかな……」
綾時が首を振った。お互いに急き立てられていて、僕達には時間があまりなかった。
「……零時までまだ少しだけ時間があるね。君には見せたくなかったけど……仕方ない」
俯いて視線をそらした僕に構うことなく、綾時が言う。僕は努めて目を逸らし続けようとしたけれど、その瞬間彼を包んだ気配が余りにも異様でそれも叶わない。視線が彼へ向く。糸を手繰り寄せられたように、見たくないのに、見てしまう。
「…………!」
そこにいたのは、死神だった。
ファルロスがくれたタナトスに似て、けれどもっと純度が高く濃い死の気配をそこら中に纏い、撒き散らす異形だった。人間・望月綾時よりも一回りも二回りも体躯が大きく、けれど悲しそうな眼窩は彼と同じ色を宿している。
『ご覧よ……僕は人間じゃない』
死神が言った。出来るだけ心を殺して、平坦に宣告者の仕事をこなそうとしているふうだった。
『僕はあくまでもこの世界に『死』をもたらすらめの存在。消すことにためらいを持つ必要なんてない。……よく考えて欲しい、『ニュクス』と対峙することが本当にみんなにとっての幸せなのかどうかを……今の君達は真実に驚いて迷ってしまっているだけさ。でも世界には『どうにもならないこと』がある。君達はそれを知らないんだ……』
言葉はえらく駆け足だった。宣告者・デスは確かに本心からそう思っているのだろう。人間じゃないものを殺す事に躊躇いは要らないし、そうすることで、仮初めだとしても人々は救われると、心底思いきっている。だから自分のことなんか忘れて、と心ないことさえも言える。悪質な宗教に似ていた。信仰が彼の意思を殺す。
『記憶なんて曖昧なものさ……欠けたってすぐにそれが新しい現実になる。今はいんなを苦しみから救うべきじゃないかな? これは君にしか出来ない選択だよ。いいかい、これが最後だ。もう一度君の答えを聞こう』
そうやって足早に駆け抜けることで、自分自身が疑問を抱くことを封じようとしているのだ。僕に甘き死をねだり、そうして……僕に「殺される」ことで、自分自身を納得させることさえ、しようとして……
なんて卑怯で、ずるくて、悲しいことを僕に願うんだろう。
デスの落ち窪んだ眼窩の向こう、その奥に宿る色が綾時のそれとちっとも変わらないっていう僕の見立てはきっと正しいだろう。僕はポケット・ナイフの刃をおもむろに仕舞った。彼に向ける刃は最早これではない。
「殺したくないんだ」
聞こえてる、僕の大事な君。
「君を殺したくない。だって友だちだろ? 友だちになろうって言ったのは、君ほうじゃないか」
ファルロスが――綾時が、僕にそう言ってくれたあの時のことを鮮明に覚えている。君と過ごした時間を僕は忘れない。僕のそばにいる人たちや、いなくなってしまった人たちのことを僕は覚えているし、それはこれからもこれまでもずっとそうだ。
僕はその時とてもまっすぐに刃を彼に向けていた。目に見えない刃を彼の心臓に突き立て、打ち込んでいたに等しかった。殺してなんかやらない。そんな終わりなんてくそくらえだ。馬鹿げた信仰は、いらないよ。僕は君を生かす。生きてまた会うために。
思い出を嘘にしたくない。
「君だけじゃない。僕の友だちのこと、もういなくなってしまった人たちのこと、みんなのこと、忘れたくない。ここに来てからあったことぜんぶ――みんな本気で選んできたことだから」
ここに越して来てからの八ヶ月間、それに、僕が生きてきた十七年間。それは全部僕が選んできた道で、誰かに選ばされた末路なんかじゃない。綾時と友だちになったこと、ファルロスを慈しんだこと、それら全てが僕自身の答えなんだ。
それを否定することはいくら綾時だって、許せそうになかったから。
月明かりが窓から差し込んで来ていた。影時間のあの禍々しい月の色ではなく、蒼白い師走月だ。それが僕達を照らし出し、何もかもを晒しだそうとしている。
デスはじっと僕を見ていた。食い入るように、ひょっとして……君はその時泣いていたのかもしれない、と思う。理由はいくらでもあった。あの子はわがままを聞いて貰えなかったし、たった一つのささやかな願いごとさえ却下されたのだ。
やがてデスの姿が望月綾時のそれにするすると立ち戻っていく。長い溜息を吐くと、すごくたくさんの感情をぐちゃぐちゃに混ぜ込んだみたいな声で「わかったよ」と綾時が呟いた。
「残念だけど命は君達自身のものだ。……その使い方もね。君の……君達の選択に従うよ」
僕は手を伸ばす。綾時はそれに手を重ねる。僕達は手を取り合い、お互いを確かめ合う。そこに綾時がいて僕がいた。綾時の手は温かい。僕の手よりも、いくらも、ずっと、確かに。
「みんなのところへ戻ろう」
僕のいる季節、君のいる季節。僕達はその時まだ温もりを持っていて、きっとそれこそが本当に、「しあわせ」、ってことなのだと、二人とも実はもう知っている。
たとえそれが最後の僕達の、触れ合った瞬間になったのだとしても、だ。
◇◆◇◆◇
『それじゃ……さよなら』
『よいお年を』
去年聞いた最後の綾時の言葉だ。初詣を終え、タルタロスへ向かうまでの準備をする最中で誰からともなくその話を切り出した。一礼をしながら彼が贈ったその言葉は、なんだかちぐはぐな感じがしていた。
「綾時くん、どんな気持ちで、私達にああ言ったのかな……」
「皮肉とか、言うヤツじゃねえしよ、アイツ……ありゃ本心からの気持ちだったんだと思うぜ、俺はさ。リョージとしては……だけどよ……」
「ああ。彼もまたその狭間で思い悩んだことだろう。或いは今も……そう言えば、有里。その……こんなことを問うのも、何なのだが……彼と、何を話したんだ? 少し、気になっていて」
「あ、いや、言いたくなきゃ言わなくてもいいんだぜ! な?!」
美鶴先輩の言葉を慌てて順平が捕捉する。周りのみんなもその問いにざわついていたけれど、どの顔も「知りたい」という好奇心と「踏み込んではいけない」という躊躇いでないまぜになっていた。
装備一式の点検を終え、召喚銃を磨いてみんなの支度を待っていた僕はそこではたと動きを止めてゆるやかにラウンジを見回した。なんとなく後ろめたい顔をした彼らが、僕の出方を窺っている。それが少しおかしくて苦笑すると、ゆかりが一番にそれに気が付いて微妙な顔になった。
「……別に、そんなに大したことは、してないんだ。綾時はどうしても僕に自分を殺させたかったみたいで……どうしてそうしたかったのか、わからないこともなかった。綾時はそうすることで僕やみんなを守れる、救えるって信じてるみたいだったから。だけど結局、僕はそれは嫌だって言った。殺せないし殺したくないし殺す気もない。……友だちを殺したくない。綾時を嘘にするのは、嫌だった」
召喚銃に込められたペルソナをひとつずつ呼び出して確かめる。僕が結んだ人々との繋がりの証、スルト、スカアハ、アリラト、オーディン、キュベレ、トール、メタトロン、そしてタナトス。僕が生きて来たことを示すひとかけらたち。その全てが僕が自分の心で決めて選んだものだ。
全力で、本気で、どこにも嘘なんかない。それを今更変えてなんかやれないのだ。
「ま……な。ダチを殺すのは、なんか、やーな感じだよな。俺も嫌だ。ここにいるみんな、そう思ってた。だからそう決めてたんだもんな。なのにあいつそれでもまだお前にんなこと迫ってたのかよ」
「綾時は迷ってたよ。最後まで……綾時は綾時で必死だった。僕達には時間が無くて、お互い必死にならざるを得なかったし。だけどね……思ったんだ。僕は」
タナトスを戻して、召喚銃をホルダーに仕舞う。僕の心の海の中にペルソナが溶ける。根源に至り、一つに戻る。
「僕に殺されることをしあわせだって言う綾時の顔を、絶対、忘れちゃだめだって思ったんだ」
あの眼差しを思い返しながらそう呟くと同時に、その場の何人かが息を呑んだ。風花なんか、彼女は人の心の機微に得に敏感だ、その意味をかなり正確に推測出来たのだろう。ひどくむごいものを見るように、口を手で覆っている。
僕も出来ることなら、綾時にあんな顔はさせたくなかった。ファルロスにそんな仕草を教えた覚えなんかないのに、本当、どこで覚えてきたんだろう。
「しかもその後、自分は人間じゃないから躊躇わないでって言うんだ。僕はそれで躊躇いなく――ナイフを仕舞った。それで、おしまい。あとは下へ降りてきてみんなも知っている通り」
肩を竦めて息を吐いた。みんなの空気が、少し重くなる。その後にあったことと言えば綾時の宣告者としての役割、ニュクスに纏わる諸々の話だ。みんな、自分の選択を悔いていないと言葉では言いつつ恐れを棄てられたわけじゃない。それでちょっとまずったかなと思ったところにアイギスが点検をしっかりと終わらせて僕の方へ歩み出て来て、それからみんなを見た。
「……アイギス?」
「綾時さんのその行いは、とても人らしい、と私は思います」
「……うん」
「とても……とても。葛藤は人間の心が生み出す最も深く重い、『システム・エラー』です。機械は疑問を抱きません。心なきものは欺瞞を知りません。綾時さんの迷いは、彼が人である証に他ならない」
パピヨン・ハートが埋まった場所に手を添えて彼女はそう明確に告げた。自分自身に生きろと命じた彼女は、心を得た機械人形は、その事実を誰よりも確かに知っている。
「私は……彼の気持ちが少し、わかる気がする……だから私、行きます。『生きて』また綾時さんに会いに行きます。私も、あの人に聞きたいことが……あるんです」
「……なんて?」
「それは内緒であります」
尋ねた答えは悪戯っぽくはぐらかされてしまったけれど、彼女が最後に綾時に言ったことからすぐに見当は付いた。
「うん……そうだね」
僕が頷くとみんなも頷く。考えていることは、この場にいる僕らみんな、まあおおよそ同じなのだ。
――僕達は。
これからタルタロスをまた登っていく。滅びの塔を登り、そして、また会いに行く。
僕達の友だちに。
「よいお年を」と言った彼に、返事をするために、必ず。