「……チェックメイト、だ。今度も僕の勝ちかな」
キングの駒を右手でつまみ上げ、そのまま盤上へ。最早回避する手段はなく、ステールメイトに持ち込めるような余地もない。タクミは両手を盤上から挙げて降伏のポーズをとり、敗北を甘受した。少し前だったら有り得ない事だったが――全ての戦いを終え、両王家の間に恒久的な平和が締結された今、二人の間にはそれを忌避するようなわだかまりはもう一つもない。
「参ったよ。あと一息だと思ったんだが、見事に巻き返されてしまった。全く、チェスじゃ君には敵わないな」
「君だって将棋じゃ負けなしだろう、タクミ王子」
「違いない。尤もレオン王子は筋も呑み込みもいいから、僕だって結構必死なんだ」
「それは僕もだな」
先に行われた将棋の対局では、八十五勝ゼロ敗でタクミの勝ち越しとなった。チェスは勝敗数をまるっきり逆転させてレオンの勝ち越し。百戦を超える頃ぐらいには、お互い何とか相手の土俵で勝ち星をあげたいものだが……どうなることか。
「まあ……見てなって。近いうちに必ず君を破って見せる」
「お互いに油断ならないね。ああ、そうだ。丁度折も良いし、この前借りた本を返そうと思って持って来ていたんだ」
レオンが思い出したように書を取り出すと、タクミもまたレオンから借り受けていた書を取り出してチェス盤を寄せて机上に載せる。貸し借りをした本も、もう二桁を数えるぐらいだ。生来の読書家であっただけに二人の蔵書は量が多く、ここのところずっと夜の読書にはお互い困っていない。
兄・カムイの率いる「見えざる王国」透魔王国との戦いの中で、かつて敵対し反目しあっていた両王子は行軍を共にすることになった。優秀な兄や兄弟じゅうから無条件に愛情を集めているように見えたカムイ、それらへのコンプレックスをタクミがようやく乗り越えはじめた頃にやって来た暗夜の王子レオンは何かと人を見下したような態度が鼻につき、とてもではないが相容れる相手ではないと互いに思わせていた。
カムイは度々そんな様子を見かけては二人を取りなそうと努めていたようだったが、レオンもタクミもそんな言葉で素直に手を取り合えるような間柄ではなく、末の妹たちが既に両国の王家であるという垣根を跳び越えて友好関係を築いていたのも尻目に、出会い頭にガンを飛ばし合うような日々をしばし送っていた。プライドの高い両者に和睦の道はない。レオンとタクミ当人だけは頑なにそう信じていたのだ。
だが、周囲は全くそう思ってくれなかったらしい。次第に二人はうんざりするぐらい、従者達や兄弟達から、「似た立場の王子同士、通じるものがあるのかもしれないな」「そうねえ……お姉ちゃんは、二人ともきっといいお友達になれるんじゃないかしらと思うわよ?」「お兄ちゃんたち、そっくりだと思うよ? サクラもそう言ってた!」「え? レオンとタクミの性格? うん、僕は似てると思うよ。二人とも、僕は大好きだな。ね、アクア」「そうね……ちょっと意固地なところとか、でも根は優しいところだとか、そうだと思うわ……」などなどとことあるごとに言われるようになった。これは最早、軍が総力を挙げて二人の親交を何としてでも深めさせようとしているのではないか? 軍内部でぎすぎすした空気が出ないように? などとレオンとタクミが同じように考え始めていた頃、それは発覚する。
好きな食べ物は汁物。好きな本は哲学書。趣味は、チェスと将棋。
二人はあらゆる分野で趣味思考が一致しており……腹を割って話し始めてみたところ、お互いにとってまたとない程の話し相手だったのだ。
「だからと言って君が即日チェスのルールを学んで来た時には随分驚いたものだったけどね」
「何を言っているんだ。僕がどうしても駒の動きが分からないところがあると頼み込んだのに、同じような返しと共に何故か詰め将棋の本を出してきたのはどこの誰だったっけ?」
「うん、まあ、僕だけど。王城に戻ればもっとマシな本があったのかもしれないけど、生憎あの土地じゃそのぐらいしか本が見つからなくてさ……」
「僕もカムイ兄さんが持ってた『初心者用かんたんルールブック』しか見つけられなくて……長い間敵対していた国のゲームなんだから仕方ないと言えばそうなんだけど……って、いや、そうじゃなくて、」
それでも、そのカムイ所持の「初心者用かんたんルールブック」に付箋とメモをしっかり書き込んで翌日現れたタクミは懐かしそうにそう呟いて慌てて首を横に振る。話が合う故なのか、割と頻繁に本筋から脱線しそうになってしまうのがタクミがレオンとの間に唯一感じている不都合点だ。
しかしそう感じているのはレオンも同じなので、彼はくすりと微笑んで逸れかけた話を横に戻した。
「分かってるとも。だってあんな話をした後じゃ、是非とも対戦してみたくなるじゃないか。マークス兄さんは五年ぐらい前から僕とは勝負してくれなくなったし、カミラ姉さんは不得手らしいし、カムイ兄さんは忙しそうだし、エリーゼはそもそもルールを知らないし……」
「ああ、レオン王子もなのか。実は僕のところもそうなんだ。何故か五年ぐらい前からリョウマ兄さんは僕と打ってくれなくなってしまった。ヒノカ姉さんはご覧の通り策を講じる前に単騎で乗り込んで行くような人だし、サクラは将棋より琴の方が好きみたいで」
「そういえばこの前エリーゼがバイオリンを持ってサクラ王女のところにおしかけて行ってたな。うん、今度カムイ兄さんに話を通してとりあえず僕達の前で演奏して貰おう。……ともかく」
「そう。僕達は相手に飢えてたんだ。それも実力が拮抗した……」
「まったく願ったり叶ったりだったな」
レオンが苦笑するとタクミもつられて頬を緩める。レオンとタクミがチェスと将棋の腕を高めて行くにつれて、王城では殆ど負けなしになってしまい、心を揺さぶるような挑戦者は中々現れなくなってしまった。治安のいい白夜王国でもそうそう頻繁に城下町におりて将棋の勝負をふっかけて回るわけにはいかないし、ガロン王が座する暗夜王国では腕の立つチェスのプレイヤーを王城へ呼ぶことなどとても出来ない。臣下には恵まれていたものの、同年代の友人もいない二人は必然的に趣味から距離を置き、やることと言えば武芸の腕を磨くくらいで……
そんな最中で勃発した思いもよらぬ事態。暗夜王族と白夜王族がカムイという架け橋を得て個人的な交友を持つに至り、そして二人は出会った。今では自他共に認める大親友だ。何事も先入観だけで決めつけてはいけないな、と二人でそれはもう笑い合ったものである。
「僕はあんな性格だったから友達があまり……その、いなくて……」
「僕も立場上そんなにね……マークス兄さんにはコンプレックスもあったし……」
「そう。僕のリョウマ兄さんに対するコンプレックスもなかなか強烈だったよ……」
「カムイ兄さんは幽閉されてたし。初めてだったんだ。友達って」
「サクラとカザハナみたいなの、ちょっと羨ましかったなあ。……いや待って、カムイ兄さんって本当に幽閉されてたの?」
「父上……というか今思うと透魔王ハイドラの意向だったんじゃない? そんなに悪いようにはされてなかったよ。ただ気軽には会わせて貰えなかったな」
「そうか……てっきり……」
思いがけない事実にタクミが目をしばたかせる。彼は心なしか安堵したような顔までしていて、レオンの興を引いた。そこで少し意地悪く目を細めると、濁された言葉の続きを何となく察して鎌を掛けるように彼に尋ねる。
「僕達暗夜の兄弟がカムイ兄さんを独占してて悔しかったって?」
「え?! そ、そんなんじゃ…………そ、そうだ。温泉に入ろうレオン王子。疲れたし。それがいい」
図星を突かれたのかしどろもどろになって突然話題を変えてきたタクミにレオンは含みのある顔でにこやかに頷くと、それ以上の言及を止めて立ち上がった。温泉に入るのは好きだ。タクミと入ると背中を流して貰えるし、彼はずっと温泉文化のある白夜王国で育っていただけあってこれがなかなか上手くて気持ちがいい。レオンの方はまだ少し練習中なんだけど。
◇◆◇◆◇
白夜王城での滞在ももう手慣れたもので、実はゲストルームではなくタクミの部屋にレオンの滞在用の道具が幾らか備えてある。泊まりで訪れると、夜を徹して語り明かしてしまいあまりゲストルームに戻らないからだ。同じような理由で暗夜王城のレオンの部屋にもタクミの滞在用道具が備えてある。
暗夜王城をマークスとカミラに任せて、エリーゼの引率という名目で白夜王城を訪れていたレオンは慣れた様子で入浴準備を整えると、ホールで琴とバイオリンの合奏練習をしていた妹姫達の様子を見てから先に大浴場に向かったタクミを追いかけた。なにやら用があるとかで先に行ってしまったのは多分サプライズのためだろう。そろそろ暗夜王城でも温泉を……無理でも普通の大浴場を……と考えているうちに目的地につき、教わった礼儀作法に則って準備を済ませて浴場の戸を開けた。
「……これは?」
「待ってた。どうかな? 時期が良かったので、柚子を湯船に入れてみたんだ」
戸の向こうには見慣れた露天温泉が広がっており、その中には見慣れない黄色い球体がいくつも浮かんでいる。柚子? とレオンは首を傾げた。あまり聞きなじみのない名前だ。白夜の名産品なのだろうが……それを湯船に?
「柚子は暗夜でよく栽培されてる檸檬と同じ種類の植物で、柚子湯は厄払いの禊ぎに入れたりなんかするんだ。僕は柚子湯の香りが割と好きなんだけど……どうかな」
「ああ、檸檬の香りは僕もなかなか好きだな。へえ……果物を風呂に……暗夜でも薔薇を浮かべる地域があるって聞いたことあるけど似たようなものかな」
かけ湯をしてからタクミが手招きするままに湯船に足を入れる。初めて嗅ぐ香りだったが、中々いい感じだ。「面白いな白夜は……」と呟くと、「暗夜の薔薇を入れる風習もユニークだと思うけど」となんとはなしに返ってくる。
「しかし禊ぎって、何か明日、儀式でもするのか?」
「うん……まあ特にそういうわけでもないんだけど、ほら、結局国は兄さん達が継ぐことになっただろう」
「そうだね。暗夜はマークス兄さん、白夜はリョウマ王子、で、再建した透魔はカムイ兄さん」
「そんな中で、僕達が何が出来るか……というのを常々考えていた。王位を継いだ兄さんの補佐をするのは勿論だけど、それだけじゃない。そんな折にレオン王子、君のことを思い出した」
湯船の中、隣り合って腰掛けてタクミがレオンの方をじっと見る。真摯な瞳にレオンもそれに魅入ってしまう。タクミの瞳は様々な感情を綺麗に映し出す。怒りや猜疑を向けられたこともあるし、近頃は友愛や好意をその中に見る。今は、とても美しく生真面目な赤色だ。
本当になんて綺麗なんだろう。もしかしたら、レオンが今までに見た彼の瞳の中で最も美しい部類に入る色を、今彼は覗かせているのかもしれない。
「王城の人間は、僕達が頻繁に行き来するせいもあってか君達暗夜王族に対してかなり友好的だろう。僕が暗夜王城に行ってもそう感じる」
「まあね。父上亡き後、暗夜上層部に入り込んでいた不穏分子はマークス兄さんと僕で一掃したし。尤もマクベスやガンズが既に戦死してたから殆ど面倒なのは残ってなかったけど」
「だけど国民全員が友好的だとは決して言えない。特に白夜は母上……先代女王の一件があったから、何が何だかわからないうちに暗夜はトップが入れ替わって王族同士が仲良くなってたらしい、みたいな認識の国民が多いんだ」
「それは……そうだ。ノスフェラトゥをずっとけしかけていたような国だったからな、僕達暗夜は。今は全部引き上げて処分したけど……そういう問題じゃないって事は理解している」
「そう。だからこそこの禊ぎの湯に君と入っておきたかった」
タクミが言った。その言葉の意味を解して、レオンは黙って湯船の中に沈んでいるタクミの手を握りしめた。
暗夜王国と白夜王国の間に生じた溝は、決して浅いものではない。短くない間緊張状態が続いており、つい先日まで抗争も発生していた。その間に植え付けられた国民感情は推してはかるべし、だ。そのことを何より争い合っていた当事者である両王家はよく知っている。
でも。この戦いを通して暗夜王家と白夜王家は手を取り合うことが出来た。少し歴史が違ったら、互いに殺し合っていたかもしれない者同士で同じものを守り抜いた。甚大な犠牲を出すことなく……消すことの出来ない憎しみを抱くこともなく。
だから、両国民もわかり合うことが出来る。そしてそれを担うのは、きっと自分達の役目なのだ。
「兄さん達は執政に忙しい。そりゃあそうだ。僕達が適任だな」
「僕と君となら出来ると思ったんだ。だって……その、僕達もう、友達じゃないか」
「違いない。それじゃ……この湯で今までにあったちょっとの確執も、全部流し禊いでしまおう」
「うん。……あ、いや、待ってくれ。一つだけ……一つだけ無理かもしれない……」
しかしそこで思いがけず、提案してきたはずのタクミの方が言い淀む。一体何が彼の心に引っ掛かっているのだろうか? 自然と繋がった手に二人とも力がこもった。緊迫の一瞬、レオンがタクミの目をじっと見つめるとタクミは一瞬逸らしそうになった視線をなんとか固定し、恐る恐る唇を開き……小さな声を絞り出す。
「レオン王子、君のほうが僕より身長が高いじゃないか。僕は……その、それが……」
見ると、タクミの肩がふるふると小さく震えていた。考えたこともなかったその言葉に、レオンは目を見開いてそれからタクミの身体を上から下まで見、繋いでいない方の手を湯船から出して座高を測った。座高も僅かにレオンの方が高い。立っている時の身長も……言われてみれば……そうだ。
途端、笑いがこみ上げてきてしまう。堪えきれずに破顔するとタクミが顔を赤くして――これは決して湯でのぼせたわけではないということを、タクミが自分よりずっとのぼせにくいことを知っているレオンにはわかっていた――慌てた顔をする。
「あはは! そうだな、それは確かに事実だ。僕の方が身長が高いな!」
「わ、笑うなよ! かなり真剣に気にしてるんだ! 僕ももっと……せめて君よりほんの少し高いぐらい身長があったらよかったって……!」
「リョウマ王子はマークス兄さんと同じぐらい体格がいいだろう。まあ、まるっきり不可能ってわけじゃないと思うよ。……そうだな。それじゃ明日、城下へ出掛けないか。身長に効くとっておきのものを教えてあげるよ」
「そ、それは本当か?!」
試しにそう言ってみると、半端ではない食いつき方をされる。これは相当深刻な悩みのようだ。確かつい先日、暗夜王国から白夜王国への牛乳の輸出が始まって城下町の店で販売が始まったと記憶している。タクミの――親友の悩みのために、是非とも牛乳を紹介してやらねばならないだろう。まあ尤も毎日牛乳を飲んでいてもカムイはそれほど高身長にはならずに今に至っていたりするのだが……さておき。
「勿論さ。それに、一度君と二人で出掛けてみたいとも思ってた。僕達、出掛けようとすると大概臣下が付いてくるだろう。だけど君の悩みのためには、臣下は置いて行かないとな。あ……待てよ。これってもしかして僕、君の秘密を知ってしまったということになるのか?」
「そうだな。……あれ? なんかこれ、不公平じゃないか、僕ばっかり……」
「拗ねないでくれよ。明日二人きりになったら僕も何か君だけに秘密を教えてあげるから」
「明日? 今じゃないのか?」
「うん。だって」
不思議がるタクミに目配せをし、露天から更衣室へ繋がる扉の向こうを指さす。タクミの顔色が警戒心に強く曇った。どうやら聡い彼はその可能性に気が付いたらしい。
「僕の勘が正しければ、多分戸の向こうでカムイ兄さんが聞き耳をそばだててると思うから」
そんな可能性を肯定するように告げると、戸ががらりと開いて「ご、ごめん! その……盗み聞きする気はなかったんだけど!!」としどろもどろになりながらぶんぶんと手を振ってカムイが現れる。タクミがぷるぷると身体を震わせ、半泣きしそうな顔になった。カムイに今の会話を聞かれてしまったのが余程堪えているらしい。
「大丈夫。僕の秘密も……いくらかはもうとっくにカムイ兄さんにはばれてるやつだから……」
法衣がよく裏返ってることとか、とか。そう小声で告げると、タクミは「僕達はもしかしてそういうところまで一蓮托生なのかな……」というような顔をして、握り合った手を離すまいとするように力を込めた。