その国には力の女神がいた
 知恵の女神もいた
 勇気の女神もいた
 けれど愛を司る女神はいなかった。



君想フ、例エソレガ罪ナレド



「姫 様」
 凄みのある声でわだかまる怒りを露にするインパにゼルダは微笑みかけた。
「あら、なんでしょうインパ」
「なんでしょう、ではありません! 姫様はこの事をどう処理なさるおつもりなのです!!」
「この事、と言われてもなんの話なのか想像もつかないのですけれど」
 鼻息荒く息巻くインパから若干遠退きつつ、ゼルダはそう続ける。インパがこれほどまでに動揺するようなことをした覚えはなかった。子供の頃やったような悪戯は、さすがにもう卒業している。
 ゼルダがきょとんとした顔をすると、インパは何事か思い当たったのか肩で荒く息をして少し声を落ちつかせた。
「……失礼しました、姫様。確かにこの事実はまだあなたはお知りでない」
 だからといって許される問題ではないのですが! とまた息巻いてインパは取り出した羊皮紙をゼルダに手渡す。羊皮紙の先頭には落ち着いた紅色でこう記されている――「健康診断表」。
「ああ、この前の健診の結果ですか。ですが解せません。一体これの何にあなたはそれほどまで興奮しているのです」
「こちらを! ご覧くだされば自ずと!!」
 インパが勢いよく指差した先には興奮気味の黒インクが走っている。ゼルダはインパの指を離してその文字を読んだ。「御懐妊。数ヶ月で御出産と思われる」。
「あら、まあ」
 ゼルダは少しびっくりして、けれども嬉しそうに微笑んむ。その様子についに堪忍袋の緒が切れたらしい。インパは激昂した。
「何故そう暢気なのです! 一国の王たる方が婚姻も無しに御懐妊などと!! 有り得ないことです、一大事です!!」
「何が一大事ですか。わたくしはもう18なのですよ」
「どこぞの馬の骨とも知れぬ男の子供が一大事ではないと?! 馬鹿馬鹿しい、先代の王が御存命ならばなんと仰ったこと……か……」
「お黙りなさい」
 興奮のままに捲し立てたインパの腕をゼルダの右手が掴んだ。酷く強い力で、インパは言葉を失う。ゼルダは失言を犯したインパをきつく睨んでいた。ぞっとする瞳だった。
「わたくしが、誰とも知らぬ男に体を許すほど無節操な女だと思っているの? 誰の子かははっきりしているし、立派なひとよ。――あのひとを侮辱することは赦さない」
「……失礼、しました」
 ゼルダの気迫に気圧されインパは非礼を詫びる。その態度で誰との子なのかは容易に想像がついた。彼女がこうまで怒るなど、一人の為を除いては有り得ない。
(……時の勇者。あやつか)
 内心溜め息を吐き、彼の若者の顔を思い浮かべる。良い瞳をした若者だった。強く、逞しく、正義感に満ちて、確かに立派な若者だった。しかし。
(時の神殿で目覚めてから魔王との決戦までには二ヶ月もかかっていない。一体いつの間に……姫様の……)
 そこまで考えるうちにわいてきた怒りを(乳母として大事に育て守ってきた姫だ。当然といえば当然か)気取られないように隠すと誤魔化すためにインパは窓を見た。硝子の奥に、雲一つない青空が広がっていた。



◇◆◇◆◇



 あの日、彼がいなくなった日からゼルダは泣き伏していた。侍女らは目通りもままならぬ日々が続き、食事のトレイや替えのシーツ、掃除用の箒などを手に右往左往する者が続出していた。
 泣き続ける姫の噂はまことしやかに囁かれ、彼女の想い人の話は余計な尾ひれをくっ付けてあっという間に城内に広がった。
 けれど誇張された噂の中にはただ一つ真実が含まれていた。曰く、「彼と彼女は神によって引き離された」のだと――。悲劇性を増すために誰かが付け加えたのだろう。よもやそれが真実であるとは夢にも思わずに。
「姫様」
 ゼルダはノックの音を無視して枕を抱き寄せた。腕の中に温もりはなく、柔らかくとも布の感触しか存在しない。大きくて、優しくて、温かだった彼はもうどこにもいない。
「うっ……っ、」
 死別であったのならまだ諦めがついたのかもしれない。彼の最期を看取ったのなら、彼の遺志を継ごうと、そういうふうに思うことも出来たかもしれない。けれどそうではない。死んでなんかいない。生きている、ゼルダの手が届かないところで、生きている。
「リン……ク……」
 諦めがつくようなことじゃない。想いは何処までも尾をひいて、ゼルダを苦しめる。でもきっと、彼だってそうなのだ。ゼルダ一人が苦しいわけじゃない。ゼルダ一人が辛いわけじゃない。だからいつまでも泣いていていいわけじゃない。そんなことはわかっている。
 あの時彼は泣かなかった。絶句して、でも無理をして泣かないでくれた。崩れそうな顔で、吐露しながら彼は……


「俺にはっ、ゼルダだけが全てだったっ……! 君の声が聞きたくて! 君の笑顔が見たくて! その為だけに戦った!!」


 あの時自分はどんな顔をしていただろう。
 彼の言葉が嬉しくて嬉しくて、けれどそれは手遅れだと知っていて、どうしようもなくて。
 せめて彼に心配をかけまいと涙を零しながら無理矢理に笑おうと、そう努めたのだっけか。


「でも俺は、ゼルダを、あの時花みたいに笑っていた女の子を、今ここにいる君を愛しているんだ!!」


 好きだよ、と言ってもらえたのは七年前のあの日。
 愛してる、と言ってもらえたのは二度と逢えなくなる、その間際。
 言ってもらえただけ幸せだった。なのになんて自分は欲深いのだろう? 形になくても、ないからこそ、彼はたくさんのものを残してくれた。十分だ。全ての彼の言葉は自身の中で生きている。絶対に生き続ける。
 それなのに、それ以上のものが欲しいだなんて。
「……わたくしは、馬鹿だ」
 馬鹿で愚かで傲慢だ。
「国の為に今一番わたくしの力が必要なのに」
 口を動かすのも億劫になり、涙が止まらないまま目を瞑る。
 やがてゼルダは泣き疲れて微睡んでしまった。



◇◆◇◆◇



 薪がはぜる音が室内に静かに響く。窓の外には一面の銀世界が広がっていた。
「リンク、リンク。どうかなさいましたか?」
「え? あ、すみません姫。ぼんやりしていたみたいです」
「もう、駄目ですよこんなに美味しそうなケーキの前で他のことを考えては。ほら、折角ですから、リンクから好きなものを取ってくださいな」
「では、お言葉に甘えて」
 少女と少年が、暖炉のある部屋でティータイムを始めようとしているみたいだった。少女はポットを手に取りカップに注ごうとするが、慌てた少年にそれを止められる。危ないから、という説明に少女は渋々従った。
「そのくらいは俺がやりますから。ね?」
「わたくしだって、そのぐらいは出来ます」
「何かあって王様に言われるのは俺です」
「う……それはもっともですね」
 少年がミルフィーユを皿に取るのを確認してから少女はチョコケーキを嬉しそうに自分の皿に取る。可愛らしい少女の挙作をみる少年の顔は、僅かに淋しそうに曇っていた。

「リン、ク?」

 ゼルダは小さく呟く。夢だろうな、と思うがそれにしては少しはっきりしすぎている。もしかしたらこれは、あの時賢者の力で創った「喪われた世界」なのかもしれない。
 少女に向けて笑いかける少年の顔は、どこか欺瞞じみてゼルダの目に痛々しく映る。笑顔の仮面を被って、でもその仮面の裏はひび割れていて、いつ壊れるかわからない。そんな感じがした。

「リンク」

 これは夢だ。呼んだって届かない。それでもゼルダは彼の名前を呼ぶ。愛しいひとの名前を口にする。

「リンク!!」

 叫びは虚しくこだました。ゼルダの耳の中でだけ反響して消え誰にも聞こえない、そのはずだ。
 だけどその声は、意地悪いかみさまの手をすり抜けて一つの希望をゼルダにもたらした。

「……?」
 少女が何かに反応して、後ろに振り向く。少年はそれをいぶかしんで不思議そうな顔をした。
「姫。どうかしましたか」
「いえ……その、誰かがあなたの名前を呼んだ気がして……」
「まさか。ここには姫と俺以外いないんですよ?」
「でも、聞こえたのです。悲痛な叫びだった」
 疲れているのかもしれませんね、と少女は曖昧に言葉を濁し、少年もそれを肯定する。しかしゼルダはそれにむしろ微かな"繋がり"を感じて胸に手を当てた。
「聞こえて……いた?」
 あちらの世界の、もう一人の自分が聞いたのは間違いなくゼルダの叫びだ。悲痛な、悲愴な声で彼を呼んだその叫び。
 本当に、聞こえているのだとしたら。
「時の賢者としての力が作用した?」
 一応あの世界の創造者はゼルダだ。自身の行き来を神が封じていたとしてもまだ可能性の余地はある。だからもし、ゼルダが本気で「二つの世界のゼルダ姫」を繋げようと思ったなら。
 それは可能なのではないか。
「諦めては駄目ね」
 とくん、と誰かの鼓動が重なる。
「わたくしにしか出来ないことがある」
 胎動の音を、聞く。



◇◆◇◆◇



 姫様が御懐妊になった、という噂は瞬く間に城中に知れ渡った。
 夫がいない状態での懐妊に、インパはゼルダの人望が落ちることを危惧していたのだが夢見がちの侍女たちにはどうやらその心配は無用だったようだった。彼女らは例のごとく余計な尾ひれを好き放題に生やして、楽しそうに噂話に興じた。
「なんでも、あの戦禍の最中に一晩……って話よ」
「姫様って意外と俗なのね?」
「いやあね、愛よ、愛! 死に急ぐ二人……ロマンチックじゃない?」
「ああ、でも、そのお相手の勇者様! きっとすごくかっこよかったんでしょうねえ、お会いしたかったなあ」
「あっ馬鹿、その話は禁句なのよ!」
「え? なんで?」
「姫様が一時期泣き伏していらっしゃったのなんでだと思ってるの?! 侍女長の見解じゃお亡くなりに……」
「コホン」
 仕事もそぞろにぺちゃくちゃと喋り続ける侍女たちを、通りかかったインパは睨んだ。わざとらしい咳は彼女らを飛び上がらせ、そそくさと仕事に戻らせる。
「噂好きだけはどうにもならんな、まったく」
 大方的を射ていた噂の驚くべき情報精度もさることながら、彼女らのゴシップ好きは常に悩みの種だった。噂はなにも良いものばかりではない。貶めるものだってある。
「姫様に人望があって助かった」
 はぁあ、と溜め息を吐いてインパは辿り着いた扉をノックした。ぱたぱたと可愛らしい足音がして扉が開く。
「姫様、経過はいかがですか」
「そうね、いたって順調だと言って差し支えないわ」
 お腹を愛おしそうに抱え、ゼルダは笑った。