なまえのないかいぶつ
01 《ひがしのかいぶつ》の話
「むかしむかしあるところになまえのないかいぶつがいて、そいつは、名前が欲しくなってふたつに別れ、それぞれ西と東へ向かったんだ。東に向かったかいぶつは、男の子と仲良くなって彼の名前を貰った。お気に入りの名前だった。気に入ってたから、一生懸命我慢して人間のふりをした。でも、結局かいぶつはお腹が空いてその子も回りの人間も食べちゃうんだ。それから西のかいぶつと再会してそいつがそのことを話すと、西のかいぶつは名前なんかなくったって幸せだっていう。男の子に成り代わった東のかいぶつは、西のかいぶつを食べてしまった。それで、どうなったと思う?」
「……」
「せっかく名前がついたのに、誰も名前を呼んでくれる人がいなくなっちゃうんだ。『ヨハン』——すてきな名前なのに」
悲喜劇役者のように大仰な動作で、《ひがしのかいぶつ》は古ぼけた絵本を床に投げ捨てた。転がった絵本の表紙で、目の細い《かいぶつ》が寂しげに立ち尽くしていた。チェコ語だ。その下で、あんまり聞きなじみのない著者名が踊っている。
「お伽噺だよ。くだらない。涙と一緒に反吐が出てきてしまいそうなくらいに、くだらない。結局名前のない怪物は名無しでいた方が幸せだったんだ。だって最後には皆怪物のそばからいなくなってしまう。元は一つだったはずの西の怪物にすら拒絶されて、東の怪物は……一人ぼっちだ」
《ひがしのかいぶつ》が哀れを誘おうとするみなしごやひな鳥のような目をして、肩を竦めて言う。今までにたくさんの人間を「バリバリ、ムシャムシャ、バキバキ、ゴクン!」——殺してきた『人間』の動作としてはそいつは随分と道化めいていた。愚か者の東の怪物。破滅の光崇拝の犠牲になった少年はいつしか「なもなきかみさま」に成り果てた。神様は絶対の正義だ。神様は悪魔が許せない。
だから《にしのかいぶつ》は、同じように肩を竦めてこう言い返してやった。
「そいつは結構なお伽噺だな。知ってるか? 西の怪物は、別に東の怪物を拒絶したわけじゃない。東の怪物が分不相応にも舞い上がっていたからそれを諌めただけだ。西の怪物には東の怪物を受け入れてやる準備が出来ていた。名前を呼んでやることも」
《ひがしのかいぶつ》は《にしのかいぶつ》の言葉に少しだけ驚いて、それから首を振る。でも駄目だ。神には一つだけ許すことが出来ないものがある。
「でも、西の怪物は」
「なんだ、東の怪物」
「悪魔だった。俺の対になる『なもなきあくま』だ」
「ご名答」
《にしのかいぶつ》が悪戯っぽく言った。
◇◆◇◆◇
携帯のバイブレーションに眠りを妨げられて遊城十代は気怠い動作で瞼を持ち上げた。発信元はオブライエン。卒業してからぶらぶらとあてのない旅を続けている十代に時折、種々様々なクライアントから仕事を持ってくる仲介役だ。まあ本人は本人で色んな仕事を請け負っているから、昔なじみで本職のついでに斡旋をしてくれていると表現した方が正しいかもしれない。
仕事には実に色々なものがある。これまでに請け負ったのでも、「猫のタマがいなくなったので探してくれ」というありふれたものから、「紛争地帯の厄介ごとを秘密裏に処理してこい」という酷く物騒なものまで選り取り見取りだ。傭兵屋のオブライエンからしてみればそんなものも日常茶飯の範疇なのかもしれないが、出来ればもう戦争をしているところには行きたくないなあと流石の十代も思った。
メールを開封すると、いつもの事務的な口調の文面が現れて十代の目に飛び込んでくる。心なしか、いつもより分量が多い。
「なんだ……次の仕事の依頼? 『ベルリンで大量の失踪事件。どうもきなくさい匂いがする。お前にしか頼めない。至急チェコ・プラハまで来てくれないか』。またか」
『まただねえ。巻き込まれ物の匂いがぷんぷんするよ。大分長丁場になりそうだ』
「でも暇だしなあ。オブライエンが俺にしか頼めないって言う時は本当に俺以外に解決方法がない時だ。どうせ暇だし、断るのも悪い。受けておこうぜ」
『あーあ、君ってやつは本当にお人よしだよ』
「よし、送信、と。それじゃ、出掛けるか。チェコに行くのはいつぶりだっけかなぁ。あの国、何が美味しかったっけ」
ディパックを引っ提げて起き上がる。荷物はそんなに多くない。必要なものだけでいい。いつどうなるかわからない身の上なのだ。仮に何か財産を蓄えたとしたって、渡すあてもない。せいぜい、デュエル・アカデミアに寄付するぐらいだ。
「オブライエンには世話になりっぱなしだからな。やばそうな匂いがちょっとするしさ、そういう時こそ俺の出番じゃないか」
『君がそう言うのなら、まあ、ボクに止めることは出来ないんだけど……十代、ボクはとても嫌な予感がするんだ。君がこの案件に首を突っ込んでどんな思いをしたってボクは知らないからね?』
「上等。だいたい、俺の人生において最も悲惨な気分になったあの異世界のことを思えば、大抵のことはどってことないさ」
『どうだか……』
ひらひら手を振ってホテルのチェックアウトをしにフロントへ歩む十代の半歩後ろを付いて移動しながら、ユベルは腕組みをしてひとりごちた。機嫌の悪そうな、それでいて最愛の十代を案じて不安になっているような、そんな顔をしている。元々紫色の唇が余計に青ざめて映っていた。ユベルは悪魔だ。悪魔の嫌な予感は、大概、よく当たる。
『君は、ヨハンの、あの馬鹿のこととなると心を乱されっぱなしだ』
ユベルの消え入るような声は前を歩く十代には届かず、彼女の胸中にわだかまるに留まる。
でもユベルは知っていた。十代が追い詰められ、窮地に陥り、精神的にぎりぎりの段階まで追いやられる時、必ずそこにはあの男の影がちらついているのだ。
ヨハン・アンデルセン、ユベルが一番に大嫌いなご都合主義者の影がだ。
プラハ国際空港で十代を出迎えたオブライエンは相変わらずあの洒落っ気も何もない傭兵スタイルをしていて、彼は学生時代から本当に変わらないなと十代を感心させた。卒業から二年ほどが経ち、その間にオブライエンを中継ぎに仕事はいくつか請け負ってきたが、そういえば在学中の友人にこうして会うのは卒業以来初めてのことだった。
一言二言軽い挨拶を交わすと「急ごう。それほどのんびりしていられるわけでもない」と素っ気なく返ってくる。この気質も、学生の頃と変わらない。彼は個性豊かな四人の留学生達の中でもとみにきまじめで、ジムとは正反対にあまり冗談が通じない性格をしている。
人混みをかき分け、中央通りのやたらとごった返している世界チェーンのカフェテリアに入ると、注文したものが運ばれてきたことを確認して彼は世間話もなしにすぐさま本題についての話を始めた。
「《138キンダーハイム》?」
「そうだ。数年ぶり二度目の大量失踪事件がそこで発生した。《138キンダーハイム》は孤児院なんだが、そこの児童・職員、果ては関係者のその全てに至るまでが忽然とある日突然痕跡を消している。どう考えてもまっとうな人間の仕業じゃない」
「まっとうな人間の仕業じゃないって……まさか俺のこと、疑ってたりすんのか?」
「いいや。そういう意味の『まっとう』ではなく、『善悪の箍が外れた裏社会の関係者』という意味だ。そもそもこの《138キンダーハイム》にしたってただの孤児院じゃない、というふうに調べが付いている。でなきゃ十年前に住人が全員消滅した怪しげな建物が、そのまま流用されると思うか?」
人智を超越した半人半精の自らを指し示して十代が訝しげに問うとオブライエンはなにを馬鹿なことを、とでもいうみたいに首を振った。
ずた袋からどかりと手品みたいな分量の書類の束を取り出し、十代の前にドン、と置く。文字、とりわけ公的文書なんかのたぐいの小難しい文章を読むのが嫌いな十代は露骨に嫌そうな顔をした。そもそもその書類に書かれている言語が十代が解読可能だという保証がない。世界中飛び回っているうちにどんな国でも必要最低限のコミュニケーションを取ることは出来るようになったが、読み書きとなると日本語以外にせいぜいドイツ語と英語が読めるようになったぐらいの知識しかないのだ。
オブライエンが溜め息混じりにそんな十代を見上げて「心配するな、オレが読む」と静かに言った。「これがあの覇王と同じ人間か……」という嘆息が心の闇として僅かに漏れ出、十代の鼻腔をくすぐる。
「悪かったな。覇王やってた時と真逆の威厳のなさで」
「オレとしては、その方がありがたい。トラウマだからな……知っているだろう十代、マイフレンド?」
「知ってる。そういう意味じゃ、俺はこの上なくオブライエンを信頼してるよ」
「そうか。オレもだ……話を続けよう」
オブライエンのいかにも傭兵、軍人然とした無骨な指が丁寧に分厚い書類の束を捲る。《138キンダーハイム》、《カルト宗教?》、《十年前の謎》……全文は判読できないが、でかでかと印字されたそれらの小見出しは十代にも識別が出来た。いかにも胡散臭そうな単語が列を成している。
「調べでわかったことだが、孤児院というのは表向きの顔で、実際の《138キンダーハイム》は《壁》健在時に設立された旧東ドイツ系列の団体をバックボーンに持つ一種の養成施設だったらしい。あからさまな危険思想を掲げ、それを強引に推進しようとした強硬派の息が掛かったその施設はまず優秀な『素体』を収集することからことを始めた。東世界の優れた男女を選り集め、より優れた子供達を実験材料として『生産』させる。そうして生まれた子供達に過酷な生活を強いた。……しかし、これらは行きすぎたカルト思想の一端に過ぎん」
バン、と机に叩き付けるようにして示されたページには《ゼロ・リバース計画》という文字列が踊っている。ぞっとした。その単語だけで、身の毛がよだつほどの悪寒を覚えた。
「ゼロ・リバース……?」
「正確には《パーフェクト・ゼロ・リ・バース》——《Perfect・Zero・Re:birth》の失敗実験らしいが。オレの力で掴むことが出来たこれが最大の核心事項だ。十年前にこの施設で起こったとされる事件は、まずおぞましいほどの光が施設全体を覆い尽くすことから始まったらしい。それから、時間が逆巻きにでもなったかのような濁流が起こり、数秒の後光は収まった。しかし、その跡地にはもはや虫の一匹でさえも生物の痕跡が残されていなかったそうだ。
残っていたのは乾いた大量の血痕と弾痕の数々、有り余る弾丸、激しい戦闘の面影を匂わせる状況証拠。だが肝心の争っていたと見られる人間は死体も含めて塵一つ見つからない。そこから動かした形跡もなく、まるで忽然と消えてしまったかのようで——そうだな。丁度日本の表現に置き換えるとすればこう言い表せるだろう。《集団神隠し》と」
或いは、原爆投下直後のナガサキやヒロシマか。淡々と言を紡ぐオブライエンを十代が慌てて遮った。オブライエンの言葉が止まる。十代は敏い。気付いたのだ。
「ちょ、ちょっと待てよ……一帯の人間は消滅してるんだろ? なんでそんな、細かい状況証言とか残ってるんだ? それっておかしくないか」
「外観の様子は旧ソビエトの人工衛星に残っていた動画データからのものだ。逆に言えば、お前が察した通りこの事件には肉眼での目撃がないことになる。そしてオレが今回そのデータを信用するに至った決め手がこれだ」
別のページが現れ、赤字で《第二次ゼロ・リバース》という題字が踊っていた。事件の日付は僅か七日前。場所は先と変わらず、《旧138キンダーハイム跡地》となっている。この事件の特筆すべき点は十年前のゼロ・リバース事件とあらゆる点が酷似していることで、前件同様原因や詳細、犯人は不明。
「カルト思想がまた復活していたことも問題だが、今回に限っては奴らは犠牲者側だ。しかし当然施設に痕跡は残されておらず、捜査は困難を極めている。そこで十代、拒否を覚悟の上でお前に頼みたい。……お前の持つユベルの力で《138キンダーハイム》に残る心の闇を、見てきては貰えないだろうか」
『ヤだよ。なんで、十代がそんなこと!』
「いや、ユベル。俺は受けるぜ、この案件」
『はぁ?! なんで?! いくら君の決定とはいえ、ボクが嫌だよそんなのに協力するの……』
「駄目だ。俺は多分これに関わる必要がある。……あのさ、オブライエン。お前はわざとぼかして説明してくれたけど、そのハイムが信奉してたカルト思想ってさ……」
いやだいやだと子供のように暴れるユベルを片手で適当にあやしながら十代が、何かを恐れながら口を開く。ごくりという生唾を呑む音。よく見れば、僅かに指先が震えていた。
「……《破滅の光崇拝》。そうだろ?」
俯いたまま一句一句を確かめるようにそれを告げる。一瞬だけオブライエンの目が丸くなり、しかしすぐに表情を元に戻してオブライエンは黙って頷いた。「ああ、やっぱり……」とぐったりした声音で十代が息を漏らす。
「じゃないかなって、嫌な予感がしたんだ。《ゼロ・リバース》。前に一回だけ聞いたことがあった。そいつは熱心な《破滅の光崇拝》信者で……酒場の隅っこで飲んだくれながらきーきー喚いてたのを横聞きしただけなんだけど、声高に叫んでたんだ。『我らが救世主が復活なされた。あのお方が、世界の全てを白く染めるだろう!』——で、ちょっと気になって記憶を読んでみたわけだ。それで辿り着いたのがこのワード。やばそうだったからその時は深入りしないようにしてたんだけど」
『ねえ十代、ボクその時も言ったよね。ろくなことないから、無視しようって』
「ああ、ユベル。でもどだい無理な話だったんだよ。……だって俺は『優しい闇を統べる者』なんだから。多分、どうしたって引き寄せられちまう運命だったんだ。この言葉、きらいなんだけどさ……」
運命。十代が大嫌いな、すごく不確かな言葉だ。その言葉の中に一切の説得力がないのに、それだけで全てを有耶無耶にしてしまおうとする。選んできたつもりのものを「運命」だと断じられた時、一体どういう顔をすればいいのだろう? それがわからなくて思い悩んでいた時が昔あった。ほんの一時だ。ユベルとは前世からの縁で繋がっているということを知ってしまった時。
今は、だとするのならばそれは断ち切るか塗り替えるかしかないのだと、そう思っている。
「思えば破滅の光とは光の結社やらがアカデミアに出来た頃からの長い付き合いだ。ここらで一回、けりをつけておくべきかもしれない」
「光の結社……噂に聞いたことはあるな。あれに関わっていたのもお前だったのか」
「そうだよ。オブライエン、あれだけ情報網持ってるのに知らなかったのか」
「アカデミアは秘密主義だ。そうおいそれと情報の外部流出を許しはしない。情報が欲しければ自らが内に入るしかないようなそんな場所だ。俺はそういう、あそこまで徹底した情報管理をしている組織を民間ではアカデミアの他にもう一つしか知らない」
「海馬コーポレーションとか?」
あと、インダストリアルイリュージョンとか。そう問うと首を振られる。十代から見ればKCもI2も鉄の防護壁を敷いているように思えるのだが(何せあの海馬社長や、ペガサス会長を擁する組織だ)裏事情に通じている人間からすればそうでもないということなのか。
「いや、あそこは結構乗っ取られてるからわりとザルだ。シュレイダーのような、ある種の狂気じみた天才なら突破出来てしまう。構築主の海馬兄弟がそういう天才だから、逆に読みやすい。問題は執念的なまでに病的に、しかしそれでいて機械的に全ての面においてプロテクト・シャットアウトを実装している連中だ。そう言う意味では人間味が確認出来るだけアカデミアはまだかわいいものだな」
「じゃ、お前が言うそのもう一つってなんなんだよ。件の《138キンダーハイム》関係か?」
「いや……」
オブライエンの言葉が濁る。迂闊に口を滑らせてしまったことを後悔し、その先を続けてもいいのかどうか、躊躇っているようだった。秘匿事項でもない限りは大体のことをきっぱりと言い切ってくる彼にしては珍しい。
まるでそれによって十代が傷つくことを恐れてでもいるかのようだ。
「なんだよ。変に俺を気遣うようなことなのか?」
「……十代、先に断っておくがオレは正気だし本気だ」
声が濁っている。そうしてまた顔色を伺うように(それこそ、覇王の気色を覗き込む下僕達のようにだ)「十代」、と名を呼びオブライエンはその名前を口にした。
「ヨハン・アンデルセン」
「……んん?」
「オレは今まで、ヨハンほど徹底的に情報の隠蔽された存在に会ったことがない。十代、オレ達は一体『アカデミア・アークティック主席の留学生だった』ということ以外に奴の何を知っている? 祖国。住んでいる場所。誕生日。血液型。今、どこで何をしているのか。家族構成。以前までの経歴。……非常に恐ろしいことに、そのどれについてもオレ達は知り得ない……」
「オブライエンが、死力を尽くしても?」
「ああ。あいつほどのデュエリストともなれば、卒業後どこそこで活躍していない方がおかしいんだ。そうでなくとも進路ぐらいは調べればわかる。それにアカデミアに提出する書類に経歴は書かなきゃならないから、それで綺麗に判明して然るべきだ」
「ヨハンの書類、そんなに未記入項目があったような覚えがないんだけど」
訝しげに食い下がるとオブライエンはただ静かに首を振った。静かだったが、それは強固な否定と拒絶の意思表示だった。
「あの書類の経歴はでたらめだ。ちょっと調べただけなら鵜呑みにしてしまいそうに偽装してあるが、もう幾らか踏み込めばあっさりと偽装経歴であることを見抜けるように出来ている。アカデミアのチェックを切り抜けて、本校に潜り込める程度のプロテクトだ。十代、オレとアモン、ジム、そしてコブラが乗ってきた本校行きのフェリーにはヨハンはいなかった。だがやつは本校に現れ、お前に接触した。あの船でやつがオレ達に何と呼ばれていたかというと——」
オブライエンの指が虚空を指し示す。何もない場所をゆっくりとなぞり、そうしてぞっとしない表情で、声音で、オブライエンは囁いた。
「——『幽霊』だ。《ヨハン・アンデルセン》はありもしない『幽霊』ではないかというのがオレ達の中での通説だった」
◇◆◇◆◇
「ああ、漏れた」
男が言った。みすぼらしい廃屋の隅に空いた屋根の穴から、雨だれが垂れ落ちて床にしみを作る。彼は映画スターがスクリーンの中でそうするように大仰に首を横に振って、心底残念そうに肩を竦めた。でも声は楽しげだ。
「まあいつかばれるとは思っていたけどね。流石はオブライエン、彼は思っていた以上に優秀だ。優秀すぎるぐらいだ。想定外だよ」
廃屋の壁際にはこれもまたみすぼらしい様相の祭壇が設けられていた。その正面に気負わないふうに立ち、男が悩ましげに息を吐くと祭壇に向かって祈りを捧げていた人々が一斉に視線をそちらに向ける。鍛え上げられた共産主義国の軍隊さながらにずれのないぞっとしない動きに男はただ曖昧に笑いかけた。
何かの宗教の信徒達と見られるそれらの人間は、老若男女さまざまな姿をしていて、盲いた老人から赤子を抱えた母親、スラム在住であろうストリート・チルドレン、でっぷりと肥え太った上流階級の貴婦人まで種々とりどりのサンプルのようにそこに取り揃えられている。ただ一つ共通した点として、彼らの目は皆彼方を見ているようで、どちらも見てなどいなかった。
「オブライエンは優秀な男だ。となると、彼が動かそうとする相手も自ずと絞られてくる。このケースに当てはまるのは一人しかいない。本校の『ジューダイ・ユーキ』。あいつじゃなきゃ辿り着けないし、だけどあいつだと辿り着いてしまう。なかなか難しい選択だが、オブライエンの方に迷っている余裕はないだろう。必ず、動かしてくるはずだ……ふふ」
ふと一人の老婆が男によぼよぼに弱ったしわくちゃの右腕を差し出した。絶え間なく小刻みに震え続ける腕で何度も空を切りながら、それでも必死に男に触れようと求めてくる。神の奇跡を望んで群がってくる愚者達の醜態。餌に群がる蛙のそれとさして変わらない。
気紛れに男は老婆の頭を撫でた。脳味噌の中が空っぽになってしまっているみたいに随分と軽い頭だなと思った。
「楽しみだな。あいつと会うの、随分と久しぶりだ」
『……それは、誰の感情かしら? あなた? それとも……』
「そりゃあ、俺自身のものに決まってるさ。生憎食べちゃったやつの感情なんてご丁寧に取置いてやるほど容量ないしね。だから十代と会うのは、俺自身が本当に本当に楽しみで仕方ない。——だってそうだろう? 俺達は、『ともだち』なんだから。友達に会いたくないやつなんていないさ。それが人間ってものだ」
『人間、ね……』
信徒達の呻きや嗚咽のような懺悔と祈りは続いている。しかし男はそれを歯牙にもかけず、布を翻すのみだ。実際のところ、男は何も望んではいない。もっと複雑で、もっと恐ろしいところで、人間にはわからないものをその内に飼いならしている。
「『誰がその怪物のようになれるのか……誰がその怪物に逆らって戦うことが出来るのか……』」
ヨハネ黙示録の《666の怪物》のくだりを澄んだ声音が歌うように謳いあげる。すると彼に心酔している信徒達は皆揃って歓喜の声を上げ、信仰する神の歌声を祝福した。
「面白いだろう?」と男がそう問うと、彼女——ペルシア猫のような姿をしたそれ——は首を横に振る。明確な否定の意だ。
『あなたは人間じゃないわ』
モンスターよ。その言葉に、足元で丸まっていたずんぐりとした体つきの、耳が四つあるリスのような小動物がぱちりと目を見開いてその赤い瞳を丸くした。