※オフ本のサンプル
※沢渡シンゴ×榊遊矢でほのぼの少女漫画ラブコメ
※結構素良くんが暗躍してる
※サンプル部分は全六話構成のうちの一話
「はあ……?」
「頼む!」
「この通り!!」
「修行の一環だと思って!!」
「「「沢渡さんの彼女役を、引き受けてくれ!!!」」」
「ちょっと待って。冷静に考えても、意味がわかんないんだけど」
放課後、いつも通り遊勝塾に赴いた遊矢を待っていたのは、塾のすぐ側の木陰で張り込み待ち伏せをしていた沢渡シンゴの取り巻き達だった。沢渡本人のいないところで何かやましい考えでも……と警戒はしたものの、柚子も権現坂も、素良も揃っているような場所で仕掛けるのはあちらからしてみればどう考えても得策とは思い難い。そこで話だけでも聞いてみようかと思えばこれである。
頭を下げてひらに、ひらに、の体勢の三人は何か余程切羽詰まったかのような顔でぷるぷると震えながら遊矢を拝んでいる。遊矢はほとほと困り果てて、隣の柚子に目線で判断を仰いだ。柚子は、どうしたものかというふうに腕を組んで首を振る。
「そもそも彼女って……遊矢は男よ。そんなの、見ればすぐにわかることじゃない」
「これには込み入った事情があって、その、一日、一日だけ彼女のふりをしてくれればそれでいいんだ。何も本当に沢渡さんと付き合って欲しいとかそういうわけじゃなくて……」
「俺達だって榊遊矢が男だってのは分かってる。だから……騙されたと思って!」
「騙す気なのかよ!」
「そうだ。そう……俺達は、沢渡さんの幸せのために……沢渡さんのお父さんを騙す、その片棒を担いで欲しいと懇願しに来たのさ……」
遊矢がノリ突っ込みで返すと、意外な事に柿本が哀愁漂う顔でそれを肯定した。
「知っての通り、沢渡さんは割と見栄っ張りだ。特に、自分の名誉や沽券に関わることとなると、ついついその場の勢いに流されてホイホイ適当な出任せを口から出してしまう」
「そうだな」
「その見栄っ張りが先日哀しい方向へ動いた。沢渡さんは、夕食の席でお父さんにそろそろ彼女が出来た頃かというふうに話を振られたらしい。中学二年生だしな。手の早い奴は彼女の一人や二人や三人がいても確かにおかしくはない……」
「……それはちょっとおかしいんじゃないの?」
「さて、そこで我らが沢渡さんだが、当然彼女なんていない」
「まあ、だろーねー。彼女がいたら遊矢にちょっかいかけにきたりなんかしないでしょー?」
「しかし……沢渡さんは見栄っ張りだ。お父さんには、二つ返事でオーケーを出すような気軽さで、こう答えてしまった……」
「……大体察しがついたぞ。父親に対して当然彼女はもういると返事をしたわけだな」
「イエスオフコース……」
呆れ返った様子の遊矢達に対して、取り巻き達はがっくりとうなだれて膝を折った。
素良は露骨に不機嫌そうな顔をしながらペロペロキャンディーを舐めている。「ねえ、そんなくっだらないことで僕と遊矢の時間を邪魔しに来たわけ?」と鋭い指摘。
「大体さあ、それで見栄張ったからって、別に何もないじゃん。彼女を連れてきて証明しないと殺されでもするわけ?」
「とんでもない!! 沢渡さんはお父さんに溺愛されているんだ。それはない」
「ただ、溺愛されすぎてて、息子の初めての彼女に浮き足立ったお父さんは沢渡さんとそのまだ見ぬ彼女のデートをアルバムに収めるために大規模な撮影隊を秘密裏に既に手配してしまったらしいんだ」
「盗撮じゃん」
「沢渡家では日常茶飯事だ。沢渡さんの気負わない素の表情をフレームに収めるためにはお金を惜しまない」
「でも盗撮だよね」
「っていうか、お金の使い方がアホらしすぎ……」
は〜あ、と素良がはばかりなく溜息を吐く隣で柚子も胡乱な目をして取り巻き達を眺めている。遊矢は勿論乗り気じゃないし、柚子達も進んで協力する謂われはない。要するにシンゴの父親に恥をかかせたくない、がっかりされたくない、だから……というとても自分本位な感情が彼らをこうして遊矢の元へ動かした原動力なのだ。それも自分で頼みにくるならまだしも、使いっ走りをさせての依頼である。
しかしその柚子の表情の変化を機敏に感じ取ったのか、大伴が「ま、待ってくれ!!」ぶるんぶるんと首を横に振って遊矢達を引き留めようとした。
「誤解しているみたいだが、これは沢渡さんに命令されたとか頼まれたとかそういうわけじゃないんだ。全部俺達の独断だ。沢渡さんは、今どうしたらいいのかわからなくなって自室に引きこもってアップルパイを食べている」
「いや、だからなんなんだよ」
「頼む……本当に、俺達はただ沢渡さんを幸せにしたいだけなんだ……。落ち込んで沈みきった沢渡さんなんてもう福神漬けのないカレー並。調子に乗ってない沢渡さんとくれば、ご飯のないカレーライス同然。この通りだ!!」
「んー……。ねえ、そもそも遊矢に彼女役させようったって、ご覧の通りこのままじゃそんなに女っぽくは見えないと思うんだけど。まあ権現坂とかと比べれば全然女に見えなくもないけどさ」
「あのさ、俺、自分が女に見えた方が嬉しくないよ?」
「遊矢は今喋んなくていいよ」
遊矢の言葉をぶった切り、素良は気怠げに取り巻きを問いただす。素良も、確かに遊矢は顔がいい、かわいい、ということは理解していた。だからこそ、じゃあどうするんだろう、というところにまだ若干興味が残されていたのだ。
問われると山部が間髪入れず返答をする。
「そこは勿論、対策は取る。俺達が諸々手配するからなんとかうまいこと女装させてくれ」
――その言葉に、素良の顔つきが変わった。
「ふーん、女装、そっかー、女装ね。うん。いいよ。面白いんじゃない?」
「あーそっかー女装……ってなんだよそれ!! お前も何で急にそんな乗り気な顔して、しかも勝手に承諾しようと……」
「本当か!! 恩に着る!! お礼は沢渡さんが何かしてくれるはずだ!!」
「って! 滅茶苦茶俺の意思を無視して話が進んでるし!! というかお礼を用意するのは沢渡なんだ?!」
素良がくるりと遊矢の方に向き直って、これ以上ないというぐらいに爽やかで愛嬌のある微笑みを見せる。背中をぞわぞわとした悪寒が走り抜けていくのを感じて遊矢は身を竦めさせた。やばい。これは、非常に、まずい。
なのにこの流れを変えられる気がまったくしない。
遊矢に比べると小さめな手のひらがずいと伸ばされ、思い切り遊矢の腕を掴み取った。ものすごい握力だった。紫雲院素良は、榊遊矢を逃すつもりなどもう毛ほどもないに違いない。
「遊矢ー、僕ね、これ結構いい機会だと思うんだよね。ほら、遊矢は立派なエンターテイナーになりたいんでしょ? だったらこれも立派な勉強。修行だよ。一流は、何でも出来ないとね! ――ねえ柚子、柚子もそう思うでしょ?」
「えっ、わ、私?」
「頼む柚子、こいつを止めてくれ!」
「ダメだよ遊矢。挑戦しないうちから逃げてるんじゃ、もうぜんっぜんダメ。柚子もさ、遊矢を綺麗にするの手伝ってよ。やっぱそういうの、女の子がいた方が上手くいくだろうし!」
「柚子ぅ……!!」
「え、ええと……うーん……」
素良に腕を拘束されたまま一縷の望みを託して柚子のほうを見遣るが、何故か柚子はきっぱりとつっぱねるでもなく揺れている様子だった。何でだろう。遊矢は次第に惨めで絶望的な心地で満たされていくのを感じる。この後、柚子はあっさりと自分を裏切って素良に売り渡してしまうんじゃないだろうか。そんな嫌な予感。
実のところ、幼い頃、柚子は遊矢に女の子の洋服を着せたり、そういう遊びをしていたことがあったりなかったりするのだ。勿論遊矢は覚えていない。その上この年になっても、(権現坂と比較すると尚のこと)遊矢が女装が似合う顔立ちをしているのもまた事実。
「でも……」柚子が躊躇いがちに口を開いた。どうも、この話に乗るには決め手が欠けているらしい。渋る様子を見せる程度には柚子も遊矢寄りらしかった。
しかしそれを察した柿本の策は非情かつ恐ろしい程に有効打であった。
「そうしたら……これでどうだ。お礼は、デパ地下限定二十個のゴージャスカルテットベリームースケーキ、フランボワーズソースがけを用意出来るよう、沢渡さんにお願いして」
「わかったわ。当日は遊矢を最高に可愛くおめかしさせるから、準備は前もって早めにお願いね!」
「ゆ……柚子が買収された……」
がっくりと肩を落とすも、権現坂ですらこの場を満たすオーラに気圧されて「諦めろ」と首を振っている。男権現坂、柚子と素良をまとめて敵に回すのは気が引けたらしい。
最早この場に遊矢の味方はなし。素良が含みのある表情で「ね、僕と柚子でしっかり打ち合わせしておくから、遊矢は大人しく僕に身体を任せてね?」と耳元で囁いてくる。体積の減っていないペロペロキャンディーの甘ったるい香りが、かえって「ああ、これはもう逃げられない現実なんだ……」と遊矢の悲壮感を煽り立てていた。
項垂れて天を仰ぐと、夕焼けが真っ赤でとても綺麗だ。泣きたい気持ちをぐっと堪え、やけくそ気味に笑顔を形作る。泣きたい時は笑え、という教えをここで思い出すのは何か間違っているような気もしたけど、それ以上になんだかすごく泣きたくて仕方なくて、遊矢の口から零れるのは渇いた笑い声ばかりなのだった。
◇◆◇◆◇
悲しい時、辛い時、そっと寄り添って遊矢を励ましてくれたゴーグル。両腕のリストバンド。羽織るとかっこよく(と、遊矢本人は信じている)広がる制服のジャケット。洒落っ気の少ないシャツ、だぼだぼのカーゴパンツ。遊矢が普段外に出て行く時に身に着けるものたち。
それらを端から奪われ、ベッドの上にぽいぽいと投げ捨てられていく。ロールプレイング・ゲームとかで敗北して身ぐるみ剥がれた勇者一行はきっとこんな気持ちなのだろうと思うと、何とも言えない気分になる。
「ペンデュラムは残してあげていいんじゃないかしら……」
「そうだね。遊矢のトレードマークっていえば、そうだし」
「それじゃゴーグルも返してくれよ!」
「だめよ」
「だーめ」
「なんで?!」
「この格好にあれ、合わないもの」
にべもなく一刀両断。遊矢は柚子が手にしているものをもう一度しげしげと眺め、そして、「ほんとにそれ着るの」しおしおと情けない声を出す。
柚子がつまみあげているそれは、どこからどう見ても百パーセント見まごうことなく、ワンピースだった。正真正銘女物のスカート。それもただのワンピースじゃない。なんというか、絵本の中の金髪の女の子が好きそうというか、ちょっと可憐で儚げですらあるというか。
遊矢の趣味なはずがないし、柚子もあまりこういうのは着ない。素良は好きみたいだったけど、それは見る側だからそんなことを言っているのだ。遊矢はこの服をしっかりと一式揃えて持ってきた沢渡シンゴの取り巻きを恨んだ。柿本だか山部だか大伴だか知らないが、とにかくその全員に、今は恨みをぶつける。いないから胸の奥で。
「ウィッグ、ちゃんと遊矢の髪の毛に合わせてあるのね……用意がいいわ……」
「この長さならなんでも出来るね。どうしよっか?」
「個人的にはツインテールが好きなんだけど、遊矢だったらロングでそのまま下ろした方がかわいいと思うの。どう?」
「ん。僕もそれにさーんせい」
素良が手に巻き尺を持ったまま頷いた。さっき、どさくさに紛れて色々採寸されていたような気がするけど一体何に使うつもりなのかは怖くて聞けなかった。
ワンピースを一度ベッドの上に置いた柚子は、遊矢の地毛に綺麗にそうように染め抜かれた赤と緑のツートーンのカツラ……ウィッグをしげしげと眺めている。あんなの、どこで買ったんだろう。自慢じゃないけど遊矢は自分と同じ髪の色をした人間はあまり見たことがない。もしかして特注なのか。そんな阿呆な。
「遊矢、ほら、早く脱ぎなさいよ」
「ゆ、柚子……」
「そんな子犬が訴えかけるような目で見てももう無理よ。余裕は取ってるとはいえ、あと三時間以内にここから遊園地に着いてなきゃいけないんだから。着替えを渋ってる時間はないの」
「いや、だって冷静に考えてさ、」
「遊矢は素材がいいから絶対かわいくなるわ。絶対。私の本気、見せてあげるから……!」
そんな本気は要らない。
柚子の気迫に逆らうことが出来ず、おずおずと寝間着を脱ぎ出す。まさか、幼馴染みの前で彼女に強要されて服を脱ぐというとんでもない醜態を演じる日が来るなんて思ってもみなかった。パンツ一丁になって震えながら「こ、これでいいの……?」と伺いを立てる。
しかし返ってきたのは容赦のない「だめ」という簡素な一言。
「な、なんで……」
「スカートはくのに、そんな見るからに男物のトランクスとか、もし風でめくれたらどうするのよ。せめて身体にフィットしてるのならともかくだぼだぼじゃない。後ろ向いててあげるからこっちに履き替えてね。勝負用パンツ」
「柚子は一体俺に何の勝負をさせたいんだよ?!」
「生きる……ってことかな……」
絶対に違う。絶対に。
アンニュイな表情の柚子に蒼白な面もちでぶるぶる首を振ったが、彼女にそれを聞き入れるつもりはこれっぽっちもないようだ。駄目元で素良の方を振り返ったが、やはり彼は遊矢の私物に手を付けて弄くるばかりで、どう見ても助けてくれるようには思えない。
パンツを手渡して柚子が背を向けた。明らかに女子向けの、レースやらがぎっしりの派手な赤色のパンツだ。
「なんだか開運しそうだね」
素良がすっとぼけて言った。だけど今は風水とかそんなものより、気にするべきことがあるだろう。
遊矢は生唾を呑んだ。こうなったら、いくら柚子を待たせたって状況は好転はしない。悲しい事実だったが、遊矢には経験上わかっている。穿くしかない。派手で、赤くて、女物で、色々とポジショニングとか心配になるけど、やるしかない。
素良の視線はなるべく意識から抹消して出来るだけ高速でパンツを脱ぎ、そして一思いに赤いレースのそれに足を通した。着心地が悪い。もぞもぞする。いや、ていうか、これは。
「お、落ちつかないんだけど……」
「女の子は毎日穿いてるわよ。スカートの下を覗こうと思うのなら、そのぐらいは我慢しなさいよね」
「俺別にスカート覗きたいと思ったことないもん!」
「でも我慢しなさい」
理不尽な台詞を放り投げ、柚子がせめてもの慈悲と言わんばかりに「見ないであげるから、ワンピースに袖を通しちゃって」と振り向かずに告げてくる。相変わらず素良にはガン見されているような気がしたけど、確かに、この不格好で無様な姿を幼馴染みの少女に正面から見られるのは恥辱よりもっと酷い辱めであるように思え、退路を断たれた遊矢は大人しく自分からワンピースを手に取る。
これもやっぱりレースがひらひら付いていたけど、パンツよりはまだ抵抗が少なかった。人生で初めてのスカート。意を決して袖を通すと何故かジャストフィットサイズで、意外とこちらは着心地は悪くない。足下がスースーするけど、それはもう予想が出来ていたし諦めた。
「まあ、いい感じじゃない?」
「あ、着替え終わった?」
「うん。僕はまあいいかなって思うけど、髪はこれからどうにかするわけだし」
「そうね……今は取り敢えず及第点ってところかしらね」
「うう……」
「じゃあ、次は髪の毛ね」
ベッドの上からウィッグを手に取り、柚子がぎらぎらと野望に燃えるような声で宣告した。椅子に座らされ、上からすっぽりとそれを被される。目の前に急ごしらえで設置された鏡の中に、ロングヘアーの自分が映し出された。その向こうに柚子がいて、素良はキャンディを舐めながらニコニコしている。
ウィッグがずれないように固定し、髪を溶かしていた柚子がブラシを置くとデスクの上からアクセサリを一つ取って差し出した。
「ゴーグルは駄目だけど、代わりにこれ付けてって。カチューシャ」
「ゴーグル」
「だめよ」
「遊矢〜何度同じこと言わせたいの? 遊矢は困るとすーぐゴーグル付けるんだから。これ、今日一日僕預かりね」
「なっ、ちょっ、お前……!」
「だーいじょうぶ、別に何もしないからさ。遊矢はさ〜その癖そろそろ克服した方がいいんじゃない?」
これから先ずっとなんかあったらゴーグル付けてるわけ? 素良が肩を竦めてゴーグルを後ろ手に隠してしまう。でも遊矢にはわかる。今の素良は、一見遊矢の今後を案じていいことを言っているふうだけど……実際の所、面白がっているだけなのだ。
というか、素良は何のためにこの部屋にいたんだろう? さっきから遊矢を飾り付けているのはもっぱら柚子で、素良がしたことと言えば遊矢の着替えをじっと見てゴーグルを取って……そこまで羅列したところで、素良がまるで遊矢の言わんとしたことを察したかのようにワンピースの裾をくい、と軽く引っ張った。遊矢は深く考えることをやめた。
「うん、カチューシャ、かわいい!」
柚子が手を叩いた。ウィッグをずらさないように固定する役目も兼ねてるから外さないでね、という解説に虚ろに頷く。
「後は化粧して、カバンの中身は私がもう揃えておいたから、それを持ってちゃんとお勤めしてくるのよ!」
「お勤めって何?!」
「ケーキが掛かってるんだから、頑張って!」
「幼馴染みのプライドはケーキ以下なの?!」
柚子は相変わらずニコニコ顔だ。時計を見ると、もう確かにあまり約束(しているらしい)時間まで余裕がない。柚子がずい、と可愛らしいカバンを差し出してきたのを受け取る。確かこれは柚子のお気に入りの、一番大事にしているカバンだった気がする。このカバンに何かあったら、遊矢が何かされることはまず間違いない。
「大丈夫よ一日だけだから。それに相手は沢渡でしょ? 事情は聞いてるかもしれないし、聞いて無くても話して大丈夫だし。沢渡を一日騙さなきゃいけないわけじゃないんだから、遊矢なら出来るわ。遠くから盗撮してる人達にそれっぽく見せられればいいんだから、簡単よ。――頑張って」
省略された「私のケーキのために」という言葉を振り払い、遊矢はもう一度鏡の中の自分を見た。
少し短めのワンピース、櫛が綺麗に通ったツートーンの長い髪。全体的に少女らしいガーリーな装いで、絵に描いた女の子のような格好をさせられている。細身であることが幸いしてちぐはぐさはない。これが自分の姿でなければ、まあ男が女装しているとはぱっと見では確かにわからないかもしれない。
その姿に、「もうどうにでもなれ」という言葉が遊矢の脳裏を過ぎった。ここまでされたからには、女装して彼女のフリしてデートだろうがなんだろうがやってやろうじゃないか。素良がけしかけてきた通り修行だと思えばいいし、そうだ、どうせ相手は沢渡なんだし。
沢渡だから大丈夫だろう。変な顔をされたらエンタメってしまえばいい。大丈夫だ。もう一度言い聞かせるように繰り返す。大丈夫、なんとかなる。
大分やけっぱち気味の脳みそでそんなことを考え、スイッチを切り替えた。そういえばこういうの「背水の陣」って言うんじゃなかったかとそんな考えが過ぎったけれど、素良と柚子の「「行ってらっしゃい!」」という非常に楽しそうな声でで、の考えもどこかへ溶けて消えていってしまった。
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