※オフ本のサンプル
※真月零と九十九遊馬が過ごした夏のはじめ、それから、ベクターと遊馬が見た夏の終わり。夏をテーマにした五つの話からなるベクターと遊馬の短編集。
※収録タイトルは
「夏への扉」(零遊)
「神隠しの鏡」(警遊)
「エメラルドの海から」(ベク遊)
「君想フ、故二君ガ死ナラバト」(零遊)
「イン・ザ・サマー」(ベク遊)
の五本。「君想フ、故二君ガ死ナラバト」は三月に幻想ドルチェの黒霧さんの個人誌に寄稿したものの再録となります。
※サンプルはプロローグを兼ねた話である「夏への扉」の全文。五本がなんとなく繋がってる感じです。





「なんだか今日、とっても蒸し暑いですね」
 夏休みに入ってまだ間もない日のことだった。終業式の次の日から始まったプール開放の帰り、まだ湿り気の多い頭を二人で揺らして俺達は歩いている。「そりゃ、もう夏休みだし」って答えると真月が笑う。
「夏休みに入ったからって、そんな都合で急にお天気は変わりませんよ。遊馬くんって面白いなあ」
「なんだよお。だって現に昨日までは、もうちょっと涼しかったじゃんか」
「丁度、お天気が変わったんですね。まるで僕達の夏休みが始まるのを、お日様が知ってたみたい。……そう考えるとなんだかロマンチックだな」
 透明なビニールのプールバッグの中に、びしょびしょの水着とタオルが入っていて、その下からゴーグルも覗いている。真月は泳ぐのが苦手だ。一番最初、何も知らずに嫌がる真月を小脇に抱えたまま飛び込み台からダイブしたら、あとですっごいさめざめとした顔で「水、不得手なんです。どうしてだか……」と告げられて、悪いことをした時のいたたまれない気持ちになったのを覚えている。
 その真月の水嫌いを克服しようと、プール開放に通うことは真月の方が俺に提案してきた。「遊馬くんと一緒なら、僕、頑張れる気がしたんです」と言われたら、やっぱり悪い気はしない。
 蝉が鳴いているあぜ道を、特に行くあてもないままふらふら歩いていると不思議と色々なことが思い浮かんでくる。街中至る所が舗装されているハートランド・シティの数少ないあぜ道が、実は学校の裏手から山の方へ続く道には残されていて、それを見つけてきたのは真月だった。朝頑張って近道するための道を探している時に偶然見つけたんだって言う。だけど残念なことに、この道はのどかで、ゆっくり出来るし、すごくいい道だったけど完全に遠回りだった。
「もう夏休みなんですねえ」
「そうだよ。でも、なんでだか毎年夏休みってあっという間に終わっちゃうんだよな。そしたらすぐ二学期になって、文化祭の準備で忙しくて、秋になっちまう。俺はさ、夏が一番好きだから。それがちょっと寂しくて」
「ええ」
「でもその忙しない感じが俺が夏が好きな理由なのかもって、思ったりもするんだ」
 呟くと、真月は「そうなんですか……」と何か感慨深そうに頷いた。
 夏が好きだ。見渡す限り真っ青な晴れ空に白い入道雲がにょきにょき伸びていて、草は青々と生い茂り、虫があちこちにいて、時々合唱してるみたいにいろんな奴らが鳴いてることもあって、生きてるって感じがする。寒いよりは暑い方が得意なのは、きっと夏が好きだからに違いなかった。
『夏の色彩が眩しいと、そういえば君は昔言っていたな』
 アストラルがひょっこり皇の鍵から出て来てそんなことを言う。真月がいる手前、それに返事をするわけにはいかなかったので小さく頷くことでそれに応えた。夏は眩しい。いつもと変わらないはずの景色が、全部きらきらして見えるんだ。
「遊馬くんは夏が好き……」
「真月?」
「あ、いえ。少し考えていたんです。僕はどの季節が好きなんだろうって」
「へえ……で、答えは出たのか?」
「それが、まだ、なんとも。四つもある季節の中からどれか一つって、中々選び難くて。あんまり実感がないんです。僕が四季の中にいるっていうことが。だけど……」
「うん」
「なんとなく、僕もきっと夏が好きになるような、そんな気がしています」
 あぜ道から、緩やかに舗装された道へと変わっていく分かれ道に辿り着いたところで真月が不意に立ち止まってそう言った。近くの田んぼでは、稲が背を伸ばして揺れている最中だ。真月の背景、遠くに見える山との中間あたりを白い鳥が飛んでいった。まっすぐ、脇目もふらず、すごい勢いで飛んでいって、俺はその時どうしてだか、その鳥が真月みたいだなと思った。
「遊馬くんが好きな世界を見ることが出来て、僕、すごく幸せです」
「真月」
「遊馬くんと同じ世界で、同じ場所で、同じ地面に立って……こうして一緒に話を出来て。なんだろう。良かったなって、思って、それで」
「うん」
「それで……」
 そこで真月は言葉を詰まらせてしまい、「ごめんなさい。変ですよね」、そう言って俯いた。「なんだか、おかしな人みたいで」と俺の方を向いた真月は不安げで救いを求める猫みたいな顔をしている。
 思うところがあって真月の背中をドンと叩くと、真月はわっとびっくりしたみたいな声を出して俺にその俯きがちの顔を見せた。
「ゆ、遊馬くん? どうしたんですか、いきなり」
「ん? いや、さ。真月が急にしょげてるから。別に俺は全然、お前のこと変だとか、おかしいとか思わないよ。俺が好きな季節を真月も好きだって言ってくれたら、それはすっげえ嬉しいぜ! 自分の好きなものが、みんなも好きだと、なんか幸せな感じ、するからさ」
「え……」
「うん、俺は、だけどな。だからさ、もし本当に真月が、『やっぱり夏が一番好き』だなって思ったら、その時はまた俺に教えてくれよ。内緒話でも、なんでもいい」
 背中から手を離して笑いかけると真月もつられたみたいに笑った。少しだけ、恥ずかしそうにはにかんでいた。
 俺の好きなものを、真月が好きだって言ってくれたのが嬉しいって気持ちに嘘偽りはない。道がすっかり舗装が施されたものになっていた時にはもう別の話題になってしまっていたけれど、俺は全然違う話を真月としながらそのことをまだ考えていた。
 真月のプールバッグを持った白い手が、ちらちらと視界を横切る。俺の日焼けしきった肌の色よりも随分白くて、カイトみたいに不健康な程ではなかったけれど、こいつは外に出てる割には日焼けしないんだな、とそんなことを思う。
 昼下がりになってますます元気になってきたアブラゼミの輪唱の中を抜けて街へ戻っていく。「宿題、いっぱい出ましたよね」という真月の言葉に相槌を打ちながら俺はまだ真月の肌を見ていた。制服の下から覗いている腕とか、少し汗ばんだ首もととか、横顔、とか。
 人間の肌の色をしたそこかしこに血が通って、真月も今俺の隣で生きてるんだって思えたのだ。俺達の回りで鳴いている蝉のように。風に揺れていた青い稲穂、そこらへんの道にぼうぼうに生えている雑草、真月の向こうを飛んでいった白い鳥、お日様、雲、青空、それらと同じように真月も今ここで生きてるんだって。
 それで思わず、真月の腕を掴んだ。俺が考えていることが嘘じゃなくて本当のはずなんだって、確かめたかったんだと思う。
「わっ、遊馬くん、どうしたんですか。急に……」
「あ……ご、ごめん。嫌だったか?」
「いえ、そんなまさか。僕は遊馬くんの大ファンなんですよ。嬉しいです。嫌なはず、ないじゃないですか」
「そっか。へへ……」
 真月の腕は、幽霊みたいにすかっと通り抜けたりしなかったし、ちゃんとあったかくて、そしてどくどくと脈打っていた。俺の腕の中で鼓動の音を響かせていた。「もう、ほんとどうしたんですか……」と真月が困ったふうな声を出したけれどその手をなんとなく離したくなくてまだ握っていると、諦めたのか、「どうぞ、好きにしてください」なんて言う。
「僕はここにいます。いなくなりませんよ、どこにも」
 夏の陽炎じゃないんですから、と真月の捕捉が入る。俺はもぞもぞと手を動かして、腕から手のひら、そして指先へと握る先を動かした。指と指を合わせると真月の方がこっちに指を出してくれる。丁度二人で手を繋いで歩くような格好になって、まだ人が少ない道だから良かったけれどちょっと恥ずかしいなってやっと気が付いて、慌ててぱっと離してしまった。
「大丈夫ですよ……遊馬くんが置いて行ったりしなければ、僕は必ず君のところへ帰ってきます。きっと……」
「……なんか、気恥ずかしい言い方だな、それ」
「僕だって、さっき遊馬くんにされたこと、結構恥ずかしかったんです。だから、おあいこです」
「わ、悪かったって……」
 街の外れから、中心部の市街地へ入ってくると自然とそういう話はしなくなって、俺達の話題は新作パックのことだとか、宿題の話に、それから今度発売するらしい新作ゲームのことへとりとめなく移っていく。真月ももうそれっきり、俺が真月の手に触れたことは聞かなかったし、俺も聞かれなかったから、そのことは話さなかった。
 話してはいけない気がした。
「それでは、僕は家があちらなので、ここで。また明日のプール開放も、よろしくお願いします」
「おう。任せとけって、もうちょっと頑張ったらきっと二十五メートル泳ぎ切れるようになるぜ!」
「う……それは、が、頑張ります。あの、あんまり速く泳いでおいてかないでくださいね。僕、本当に心細くなってしまって」
「うん、気を付ける。じゃあな、また明日!」
 分かれ道で手を振って、そうしてふと、「真月から夏のにおいがしてた」と、今更のように思った。
 アストラルがスス、と寄ってきては『なんだか今日の君はおかしな感じだったな』と首を傾げている。アストラルの言うことに俺は反論しなかった。今日ばっかりは、アストラルの言うことが正しいように思った。
『彼が言った通り……まるで『真月零』という存在が、明日にでもぽっかりといなくなってしまうのでそれを恐れているふうだった。恐れているとまではいかなくとも、危惧していた……と言うべきか』
「ううん……どうなんだろうな……」
『だが、君のそのおかしな考え、私には理解出来るように……そう、思わないこともない』
「えっ、マジで?」
『ああ。今日の彼は、どうも奇妙に儚い感じがした。白い鳥が飛んでいった時など、特にそうだ。君が彼の手を握ったのはその後だった』
「へえ……」
 お前って俺より俺のことよく見てるよな、と言うとアストラルは『当然だ』と腕組みをして答える。
 それからその次の日も、次の次の日も、一週間ぐらい俺は真月とプール開放に行ったけど、何故かそれきり帰りにあぜ道は通らなかった。だからもう二度と真月の後ろを鳥が通ることもなかったし、真月が儚く感じられて手を握ることもなく、そして結局、真月零は二十五メートルを泳ぎ切ることが出来ず、俺達はプール開放に行くのを止めてしまう。

 それが俺とあいつの、一度目の夏の話だ。


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