スターダスト・クワイアの遺言




・オフ本のサンプル
・全六話構成のうちの一話目
・多量の捏造と独自解釈を含む
・アークファイブ本編沿いシリアス妄想、エクシーズ次元編突入前に書いたものなので本編との齟齬を含む場合があります
・零遊(ベク遊)前提の真月零中心黒咲隼多め
・人によってはやや隼ユト寄りに感じる描写があるかもしれませんが、隼ユトと言い切れるほどの描写はないです





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01


「かみさまがいなければ、世界はいつか、終わってしまうんですよ」
 それがクラスメートである真月零の口癖だった。


「だからこの世もずっとはもちません。終わりの時はやってくる。いつか、必ず、絶対に」
 零は繰り返してそう言ったが、隼にはその言葉はあまりに現実味が薄く、とても信じられたものではなかった。ニーチェの「善悪の彼岸」をぴかぴかのまま携えた少年の口癖はいつも嘘くさかった。神の不在と終末論について常に胡散臭いぐらいきまじめな声で語っているくせに、彼が信仰する神が一体何者なのか、教義で語られる唯一神なのか、或いは旧きものどもなのか、もしかしたら異端の神なのか、それさえもまったく知れないのだ。小学校の時分から付き合いのある隼でさえわからないのだから、恐らくそれは誰も知らないのだと思う。
 だから隼――黒咲隼はよくわからない、と言って首を振ったし、馬鹿げているとさえ思う、と彼に告げてやった。しかしやはり、彼は至って平然とした様子で「だけど本当のことだから」なんて、まだ言うのだ。
「まあ……もうとっくにかみさまはいないのだから、それの死というものがどういうことなのか、きみにはわからないのかもしれませんね」
 真月零は笑いながら口を閉じた。


◇◆◇◆◇


 この遣り取りが何度目なのかももうわからない。

「今日は迎えに行かないんですか? きみの弟くん」
「弟ではなく、幼馴染みだ。何度言えば覚える、零」
「だって実情はそんなに変わらないでしょう。彼はきみの弟みたいなものですよ……ほとんど」
 声を掛けられたことに気がついて振り向くと、そこにはオレンジ色の頭を上向きに跳ねさせた少年が立っていた。腐れ縁の真月零。友達が少ないやつ。でも本人はそのことをあんまり気にしていなくて、「ともだちなんて、ほんとに少しでいいんですよ」などと言っていたりする。少し……かなり不思議なやつだ。隼に言わせれば、彼はわざとそう思われるように振る舞っているような節があった。
 彼はいつも大体ニーチェの本を小脇に抱えて歩いていたが、その日携えていたのは「人間的な、あまりに人間的な」と題されたハードブックだった。終礼のあと、放課後の掃除当番を終えて竹箒を掃除ロッカーにしまい込んでいる隼に、彼は後ろからついと現れてそんなことを問うとにっこりと笑ったのだった。
「気分を害したなら、すみません」
「別に。もう慣れてる。お前がそういうふうにわざと突っかかってくるのは俺だけだということも、とっくに知っているわけで……」
「そんなことはないですよ」
「どうだかな。少なくとも俺はあまり見たことがない」
「……きみって奇特な人だってよく言われませんか?」
 一応指摘してやると、零が微笑んだままあっけらかんとそんなことを言う。まあ、確かに「奇特」、という部類には入るのだろう。特にこの男に関しては、自分がそういうカテゴリに分別されうることを隼は自覚している。
 言うまでもないことだが、真月零という少年はよく言えばいわゆる「不思議ちゃん」で、悪く言えば「変人」、ほどほどに言っても「変わりもの」だった。とにかくつかみどころがなくて、いつもどことなくふわふわしていた。地に足が付いていなかった。学業成績は常に学年の首位の方にいたが、さほど存在感は強くなく、時折、「真月くんってなんだか幽霊みたい」と言われることがあると彼自身知っているはずだった。
 その真月零に対して最も日常的に接する機会が多く、結果的に彼に対するパイプ役のような部分を持ち合わせているのが黒咲隼。隼と零は小学校からの付き合いで、何度クラス変えをしてもいつも同じ学級だったし、隼はあまり物怖じをしない方だったから、気がつけば腐れ縁のようになって何かと世話を焼いてしまっている。
 どうも他者と積極的に関わろうとしない零のほうも隼に対しては幾らか気を許している部分があるようで、件の神の不在と終末理論を彼がとうとうと説く相手もまた黒咲隼に限られた。この荒唐無稽な話が、相手を選ばずに紛糾するべきものではないことを彼は十全に理解しているのだ。だが隼相手にはしつこく繰り返す。つまり彼はきわめて頭は良いが、性格にとても難があるのだった。
「ところで最近、きみの妹さんが他校の学生と一緒にいるところを見た、って誰かが言ってましたよ。過保護なお兄ちゃんとしては、あんまり気分のいい話ではないんじゃないかなあ」
「……他校の?」
「見たことがない制服だったって。もしかしたら私服かもしれないですけど。他校っていうぐらいだから、きみの弟じゃないでしょうし」
「だからユートは……いや、今はそれより瑠璃だ。どこで聞いた、その話は」
「学校で。耳を澄ませていると、色々噂話が入ってくるものですよ。ほら、僕って暇人ですから。そういうのは結構……あ、でも誰が話していたかまではちょっと」
 暇人ではなく奇人の間違いだろう、と思ったが口に出すほどのことではなかったので思うに留めて隼はロッカーの戸をばたりと閉めた。たった一人の妹を非常に溺愛している隼は、彼女に対してやや過保護なきらいがある。そんな彼にとって、大事な妹のそばに他校だかなんだかの知らない男が近づいている……という事実は、確かにゆゆしき問題だ。
 だが、気が気でなくなって自分の席に置いてある鞄を急いで取りに戻ろうとすると、零が後ろ手にさっと隼の鞄を取り出して見せ、妹の所属する学級へ走り出そうとしていた彼の足を止めた。
「何をそんなに急いでいるんです? ああ、妹さんのクラスに押しかけるつもりなら、僕はあまりおすすめしませんけれど。そんなことばかりしていると、今に『お兄ちゃんなんか大っ嫌い』とか、言われてしまいますよ。もう来月には中学二年生になるんだから。結構、辛いですよ。そういうの」
「ぐっ……」
 悲しいことに図星だった。つい先日、妹の交友関係に口出ししようとしてきつく言い返されたばかりだ。
 押し黙ると零はちょっとだけ楽しそうな顔をして眼を細める。
「あ、さてはその顔、既に何回かやらかしてるでしょう。……でも、神代のところみたいになるよりは、幾らか健全だと思いますけどね、僕は。それに今日はユートくんが多分一緒にいるから平気ですよ。きみが掃除当番で遅れる日はだいたいいつもそうでしょう?」
 教科書のあまり入っていない軽い鞄を受け取って隼は無言で首を振った。最初に「今日はいいんですか」なんて言ってきたくせに当然のように全てを把握している。そういう、知っていることをわざわざ聞いてくるあたりに彼の回りくどさというか、性格がどうしようもなくにじみ出ている。
「……本題はなんだ、零」
 仕方なく一応尋ねてやると、零は「よく出来ました」と言う代わりに隼の耳元に口を寄せて囁いた。
「久しぶりに一緒に帰りませんか。寄りたいところと……あと、話したいことがあって」
「お前の終末論なら、もう毎日聞いてると思うが」
「とっておきなんですよ。ここじゃなんだから、ってこと、です。モールのカード屋に行きましょうよ、デッキの強化、しといた方がいいですよ。春の大会もあるし。僕は出ませんけど、きみは確かエントリーしてたはずですよね」
「ああ……わかった」
 その言葉にふとした予感が胸の内を過ぎって、隼は素直に零の誘いに興じた。
 彼の急な誘いが意味を持たないことはこれまでの人生の中でほとんどなかった。それにデッキを強化しなければと思っていたのも事実だ。つい先日、ユートとの模擬戦で構築の穴を確かめたばかりである。
 鞄を肩に掛けて零が軽やかに廊下へ出て行く。廊下にずらりと並んだガラス窓の向こうから差し込んでくる陽射しが雲一つ無い空の色を伺わせる。下駄箱へ向かう道すがら、なんだか今日は胸騒ぎがするぐらいに晴れ渡っているな、と隼はぼんやり思った。


 モールのカード屋はいつも通り学校帰りの学生でごった返していた。ハートランド学園の制服が殆どだったが、ちらほらと他区画の学生も見受けられる。一番の混み合いを見せているエクシーズ・モンスターのシングル展示をしているショーケースを避け、魔法カードの箱をひっくり返して掘り出し物を探していると店内に入って一度はぐれた零が横から顔を覗かせた。
「探してるカードがあるなら、手伝いますよ」
「なら頼む。闇属性の補助になりそうなのを適当に」
「サモンプリーストと終末の騎士なら僕のストレージに何枚かありましたけど」
「そのあたりはもう足りている。足りないと言えばダーク・バーストなんかだな。この前ユートにやってしまったから」
 慣れた手つきで箱じゅうを確かめたが、ストレージボックスからはさほどお目当てのカードを見つけられなかった。そのあとショーケースも見たが、財布の中身と相談すると若干厳しいものが殆どだ。数枚だけレジに持っていって店を出ると、先に出ていた零が手を振った。
「最近闇属性デッキ流行ってますし、需要が上がってるのかな、やっぱり」
 隼のあまり芳しくない顔つきを確かめると、なんとはなしに光デッキ使いの彼が言った。
「ユートくんもそうだったでしょう、確か。……何かいいの、買えました?」
「まあまあだ。お前がそうやって気を回すほど、成果も悪くはない。だが闇属性汎用はからっきしだな。エクシーズ三枚で予算を殆ど持って行かれた」
「僕もこの前四枚ぐらいで諭吉持ってかれました。……自分で創ることが出来れば楽なのになあ」
「馬鹿言え、カードの偽造は犯罪だぞ」
「知ってますよ。知ってます……」
 どこか含みのある口ぶりで言葉端を濁すと、少しの間、彼は唇をぴたりと閉ざしてしまった。モールの片隅にある喫茶店の前に来ると、恐ろしく規則的に歩いていた彼の足取りがやっと止まる。寡黙で学生好きのマスターがやっている、ハートランド学園の生徒御用達の店だ。店内には既に多くの学生達の姿が見て取れて、うち何人かは、デッキの調整をしているようで唸り顔をガラス越しに見せている。
 空いている席に案内されていつもと変わらない品を注文すると、一息吐いて、彼は「なんだか今日もまだ寒いですね」とぼやいた。
「瑠璃も言っていた。コートがまだ手放せない、と」
「今年は厳冬がいやに長いですからね。まるでなにがしかの前触れみたい。ねえ、隼、知っていますか? 長い冬が続くと……あ、なんですかそのうんざりした感じの顔。そんな顔をするということは、まあ知らなさそうですね。多分知っていた方がいいと思うから、教えておいてあげます。ちゃんと聞いてくださいよ?」
「どうかな。お前の話は長いから」
「でもそう言いながらもいつもちゃんと最後まで聞いてくれるんだから、隼はやさしいですよね。……あのですね、『新エッダ』によれば、北欧神話の有名な終末戦争ラグナロクが起こる前にはその前兆として三度の厳しい冬が訪れたそうです。風の冬……剣の冬、そして狼の冬。長く恐ろしいフィンブルヴェト。その果てに人々のモラルは崩れ去り、生き物は死に絶え……」
 そう言うと零が付近の閲覧用ラックから新聞を手に取って広げた。開かれたページには「長引く恐慌の兆し 世界恐慌再来の懸念も」「××地区での内戦やまず」「ハートランドタワーで空間異常を検出、今日未明発表」などのあまり明るいとは言えないニュースたちが躍っている。隼が唸った。あまりぴんときた様子はなかった。
 これらの話題は確かにここずっと続いていて、夕方のニュース番組でそういう話題が出ることには隼もいい加減うんざりしはじめていたぐらいだったが、しかしながら零に言わせればそれではなにもかもが遅すぎた。この街に――この世界に住む人々は自体を楽観視しすぎていてもはや手遅れだろうというのが零のほうの見立てなのだった。
「それでいつもの話に続くのか」
「人々のモラルなんてもう二千年も昔から崩れ去っているようなものですし、生き物はいつだって死にかけです。考えようによっては今の今までこの世が存続してきた方が異常なんですよ。神の御使いなんてものがいるのならそれこそ、あの悪徳の街のように滅ぼされて然るべきだった。悲鳴の王宮なんて言って、壁画に残すくらいなら……」
「よくわからないが、相変わらず何でも見てきたように話すな、お前は……。そもそも、お前が今言ったことに則るのならば、俺達が今生きていること自体が不自然になってしまう」
「不自然ですよ。でもかみさまがいましたから。その時は――まだ」
「神を知っているかのような口ぶりだな」
「隣にいましたもの」
 冗談めかして言って新聞を片付け、零は鞄からスリーブに包まれたカードを取り出した。洒落っけのない真っ黒な公式スリーブを裏返すと一枚の魔法カードが露わになる。随分レアリティの高いカードだ。それに見たことがない。
「《RUM−レヴォリューション・フォース》……?」
 他にも数枚、「RUM」と頭についた知らないカードがある。隼は怪訝な表情で零をじっとりと見た。世の中には確かに星の数ほどカードがあるので、おおよそ全てを把握するのは難しいが(何しろカードの種類は日々増え続けているのだ)……けれど自分のカテゴリに関連するカードぐらいは隼だって一応把握に努めている。
「これは」
「レイドラプターズの補助カードです。きみに差し上げます」
 尋ねると零は淡々とした口調で答えた。
「そんなことは見ればわかる」
「どこで手に入れたか、なら内緒です。……だめですか?」
 首を傾げて上目遣いで尋ねてくる仕草は非常に愛らしいたぐいのそれだったが、愛らしさ以上に胡散臭くて隼は顔をしかめた。この腐れ縁がこんなふうな仕草を隼に見せたことは今までになかったはずだ。裏があるのだ。追求をすれば痛い目に遭いますよ、と暗に言われているような気がした。
「……藪を突くのは、控えておく」
「きみのそういうところは、うん、結構好きですよ。……それはね、きみが生き延びるための『武力』なんです。すぐに必要になります。持っていて損をすることはないんじゃないかな。きみは近いうちに力を求めるでしょうし、その通り、力は必要となるでしょう。きみにはよくしてもらいましたから、たまには親切にしてやってもいいかなって思ったんです。親近感みたいなものも、ちょっとだけ、ありましたしね……」
「お前が俺に親近感? 一体どこに」
「ユートくんに執着してるところ。僕があのお人好しの彼をどうしても忘れられなかったことと、よく似ていたから」
 零が言った。
 幽霊のような顔をしていると、その時になって初めて隼も思った。
 彼が「あのお人好し」という言葉を口にした時に見せた横顔はとてもじゃないが十五歳の少年がしていいものではなかった。そこには郷愁があり、恍惚と憎悪、慕情と恋情、執着と殺意、そして悲しみと嘆きが見え隠れしていた。ぞっとしない感情が隼の背を走り抜ける。確かに目の前にいるのは腐れ縁の少年であるはずなのに、まるでそれは憎しみに身を焦がし破滅した老人を見遣るかのような……
(あるわけがない)
 ぶるぶると首を振ってもう一度見ると、いつもと変わらない顔をした零が「どうしたんですか?」と隼の額に手を当ててくる。人好きのするあどけないその顔つきは、いつも通りのはずなのに、先ほどの生々しいそれと比べると急に能面めいた愛想笑いのように思えて嫌な予感がした。
「熱はないみたいですね。……でも、今日はきっと帰って早く寝た方がいい。デッキは枕元に置いておくべきですし、そうだな、備えは大事です。いついかなる時も」
「お前は……何を知っているんだ……?」
 冷や汗を感じながら恐る恐る尋ねた。この少年をこれほどまでに恐ろしく思ったことはない。胡散臭い話が好きな変なやつぐらいにしか思っていなかったものが、得体の知れない何かに変質してしまったかのような……いや、その認識は正しくない。彼は常に彼でしかなかった。どちらかと言えばこれは、正体を現したというべき変貌だ。
「何って、いつも言っているじゃないですか」

 ――かみさまのいない世界が終わる日のことですよ。

 すると真月零はやはりいつもと変わらぬ笑みで嘯くのだった。

 結論から言って、世界の終わりは確かにやって来た。終末のラッパ吹きも来なければ神々の黄昏も起こりはしなかったが、その日以降確かに、黒咲隼の世界は終わってしまったのだ。


◇◆◇◆◇


 平和を築くことには多大な犠牲が必要だが、平穏が音を立てて崩壊するまではほんの一瞬だ。その日、ハートランド・シティは壊滅的な「終わり」を迎えた。それまで当たり前だった何もかもが奪い取られ、デュエルは楽しむべき遊戯やスポーツから、命を守るための武器に変貌した。
 皮肉にも零に「武力」として手渡されていたカード達の力で辛くも難を逃れた隼は裏路地をひた走る。頭上には分厚い曇天の雲。そこら中から悲鳴と歓声、逃げ惑う足音、それを嬉々として刈り取る侵略者達の下卑た笑い声が響いてくる。
 隼は一瞬だけ忌々しげに破壊者達の声がした方を睨み付けたが、それよりも優先すべきことのためにその場を後にした。
 街の機能を司る中枢であるタワーが占拠され、放送をジャックされたのは数時間前のことだ。見知らぬ制服に身を包んだ男達がこの街の管理を司る老人を人質に取り、侵略と破壊を一斉に通知した。まず手始めに彼らは人質に取った老人を手に掛けた。デュエルで打ち負かし、信じられないことに――カードに変えた。
 それは例えるのならば、銃弾を一発撃ったことと同じだ。為政者が暗殺されたのと同じ。それが引鉄になり、世界中で地獄が始まった。
「瑠璃……ユート……どこにいる……!」
 地獄はあっという間に世界中のあらゆる全てを浸しあげた。侵略者達は自らを異次元――融合次元から来たアカデミアなる組織の者だと名乗り、圧倒的な暴力でもって人々に暴虐の限りを尽くした。デュエルの痛みは謎の力によってソリッド・ヴィジョンシステムを超えた現実となり、時に致命傷を負わせた。統制を失った現状では街の機能の殆どは死滅しており、正確な情報を知る手立てはなかったが、自分たちが侵略者に対し圧倒的に不利な立場であることだけはひしひしと感じ取れていた。
「――誰だ!!」
 不意に曲がり角の向こうから人の気配を感じて隼が鋭く声を発する。ディスクを構えて応戦の姿勢を取り、全身で向こう路地の何者かを威嚇すると、ひょこりと少年の影が現れる。
「あ、カード、役に立ちましたか?」
 するとそいつは呑気にそんなことを尋ねてくるではないか。聞き知った声に隼の緊張が少しだけ緩んだ。彼も無事だったのか。
「なんだ……零か。驚かせるな」
 声を掛け、それに続くようにして視界に映ったのはやはり真月零の姿だった。
「まあお前なら生き延びているとは思ったが」
「どうもすみません、驚かせてしまって。そうそう、どうやらこの付近にはアカデミアの人達はいないみたいですから、しばらくは鉢合わせることもないでしょう。……それで、どんな気分ですか?」
 いつもと変わらない制服を着て、まるで放課後の教室で談笑をしている時のように何気なく尋ねてくる零に隼は眉間の皺を寄せる。こんな時だというのに彼の制服は細部に至るまできっちりとアイロンがかけられていて、シャツはぴんとのびてしわ一つない。ただ一つだけいつもと違うのは、胸元にペンダントが下げられていることだった。小さな紅玉のペンダント。大きさも何もかもまるで違うのに、その時隼には何故かそれが誰かの眼球のように思えてならなかった。
「何がだ」
「決まってるじゃないですか。実際に世界の終わりを迎えてです」
「……最悪の気分だ」
 零の問いかけは、またしても終末論に関連したことだった。どう思うもなにも、こんな地獄に放り込まれて口から出てくる答えなんて知れている。でも「こんな時までそんな話を」と言う気力もなくて、隼には辟易した調子でそう答えてやるのが精一杯だった。
 それに対して零は「ふうん」と面白くもつまらなくもなさそうな平坦な声で頷き、「まあでも、本当だったでしょう?」と首を傾げた。
「きみは信じていなかったみたいですけど」
「そうだな。最早信じる信じないの話ではなくなった。それは認めよう。……それで? 性懲りもなく話を振るということは、お前、まだ何か知っているのか」
「ええ。本当の最後に、きみがどうすべきか、それだけ伝えておかなくちゃと思って」
 やけっぱち気味に聞き返してみると、意外な事に、彼は素直に頷いてみせるではないか。「どうしてこんなことになったのかは、僕にもちゃんとした理由はわからないんですけど」と前置きをして彼は隼の手を取った。
「つまり限界が訪れたんです」
「……限界?」
「はい。この世界は言ってみれば、重要な支柱を抜かれた巨大な箱庭です。中央の支えを失って今にも崩れそうなそれを、数本だけ残した他の柱で無理矢理支えている。でも何事にも限度があります。補えるものが少なければ、それだけ負荷も早いでしょう。しかも僕は役割を勝手に放棄してしまいましたし。……それでも、天城カイトや神代凌牙なんかは、充分以上にその役割を果たしていたと思いますよ。彼らは立派でした。……でもやっぱり、代わりにはなれなかった。かみさまの代わりなんか、誰にも出来るわけがない」
「天城? 塔の管理人の名が何故ここで」
「ハンプティ・ダンプティは……一回落っこちたら、終わりです。もう二度と、誰の力でも、元には戻せない」
 続けてマザーグースの一節を謳った少年は、よく見ると、こんな時だというのに傍らにニーチェの本をちゃんと持っていた。「ツァラトゥストラはかく語りき」。傷一つ無いハードブックにとうとう隼は疑念を深める。
 ――どうして彼は、この戦禍の中にあって、無傷のままここに辿り着けたのだ?
「……そんなお伽話について話している場合じゃないだろう。それよりお前、デッキはどうした。ここに来るまでに、一度ぐらいデュエルを吹っ掛けられていないのか」
 思いの外強い声音が飛び出してしまい、その問いは詰問を通り越して最早糾弾にほど近かった。しかし批難の色を隠し切れていない声音に零はまったく気を悪くしたそぶりを見せず、顔色一つ変えやしない。まるで想定済みだとでも言うように。
 裏切られることに、罵られることに、慣れ切っているとでも言わんばかりに。
「ええ、何故か。僕はほら、幽霊ですから。きっとアカデミアの皆さんの目には映らないんですよ」
「冗談を言っている場合か!」
「さあ、どうでしょう」
 隼が零の手を振り払うと、それを気に留めたふうもなく零はくるりと踵を返して隼が元来た道へ向かって歩き出した。
「では、お元気で。もう二度と会うこともないでしょうけれど、僕、きみのことはけっこう好きでした。珍しいんですよ。僕が他人を放っておかないなんて。あのお人好しの馬鹿がうつったかな。こんな人間みたいなことしたの、随分久しぶりのような気がする。思えばもう何年もあれと顔を合わせていないんだから……。
 ねえ、隼。ユートくんを――『九十九遊斗』を、守ってください。何があっても、その命を賭してでも、生き延びさせることです。きみがもしそれでも足掻こうとするのであれば絶対にです。いいですか、死なせちゃだめだ、何と引き替えにしても。損なわせてはいけない。彼はね、きみの生きる世界に宛がわれた最も重大なピースなんです。僕のかみさまを引き抜いた……ううん、違うな。違うんだ。僕の神様を押しのけてまで……世界に安置された彼を。代替品を、世界の因子を、この世を書き換えるための天秤を持たされた少年を……どうか守って。きっときみにしか出来ない」
「何を……言っている……?」
「事実を、です。あのですね……遺言代わりに教えてあげますけれど、隼」
「……れ、い?」
 その時彼は、ぴかぴかの本を持って真っ白なシャツに身を包んだ少年は、世界中で最も儚い存在だった。朝靄のように頼りなく手を伸ばせば霞んで消えてしまいそうだった。まるで彼は黒咲隼の人生の中に入り込んだ亡霊だった。「幽霊みたい」なんて生やさしいものではなく、ほんものの、嘘偽りのない、正真正銘の、「幽霊だった」。


「『九十九遊馬』と言うんです。僕のかみさまの名前は」


 神の名を紡ぐ彼の声はいつもより低く、べったりとしていて、言葉に出来ない感傷で出来上がっている。
「待て――零――お前は一体、どこへ――!」
 そうして慌てて振り返った先には、しかしやはりと言うべきか、もう誰もいないのだった。そこにはただ肌を刺すような怖気とこちらへにじり寄ってくる敵意が渦巻いているばかりだ。彼は蜃気楼の如く消え失せた。一瞬で、不吉な遺言だけを残し、まるで最初からいなかったみたいな顔をして「この世から消えた」のだ。隼には確信があった。
 そうしてそれきり、もう二度と黒咲隼が真月零の姿を見ることはなかった。




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