※ゼアル終盤のベクター視点原作補完話
※零遊からのベク遊
※まあまあシリアスめのハッピーエンド






01 


「だから……おれ、恋するの、やめるよ」
 彼が言った。
 それから振り返って、底抜けに明るくて、天真爛漫な、あどけない顔をして、その先で呆然と佇んでいた俺に笑いかけた。


◇◆◇◆◇


 かつて、破滅的な恋をしてみたいと願ったことがあった。
 それがいつのことだったのかは、ぼんやりとした感情の残り香しかわからなくて、もうずっと思い出せずにいる。まあ仕方ないかなとも思う。俺の物覚えはかなりいい方だが、何しろいつぐらいにバリアンとしての生を受けたのかもイマイチよく分からないぐらい長い年月を既に過ごしてきているのだ。百年とか二百年とかそういうスパンじゃない。それこそ人の暦で言うのであれば千年とか、そういう感じだ。
 そのうえバリアンとして活動している間に無数の謀反や闇討ちを企て、星の数ほどの悪行を働いてきているので、そういった些末なことは割とどうでもよくなってきていて、そのせいで余計に昔の記憶というのは曖昧だった。バリアンがどこから生まれて来たのかみたいなことも一回ぐらいは考えたことがあったはずだが、とうの昔に飽きが来て、そんなものは既に忘れ去ってしまっていた。
 さて話を戻すが、いつだかさっぱりわからないほどの大昔にそんな阿呆くさい願望を持ったことが、確か、いや多分……半々ぐらいの確率で、あったように思う。幼稚な感情だが、俺の抱いた欲望だ、普通なら叶えるためのプロセスを踏んでいるはずなのだが、これだけは実行されていない。
 何故なら恋をするにはどうしたって相手が必要になるからだ。一人で出来ることじゃない――し、一人きりで自己陶酔を極められるほど、俺は自分のことを(その意味では)溺愛していなかった。
 しかしてそこから先に進むことが出来ず、結局破滅的な恋とやらは知らぬまま、その代わりに有り余るほどの憎悪や害意、敵意、汚濁を手に入れて俺は今に至る。砂糖水を全部抜いて泥水で煮凝らせたのだから、俺の身体があんな色をしているのもむべなるかな、だ。
 だからそんな俺がこんなことを口にするのは滑稽で、なんだか少し、正気の沙汰ではないような気さえ覚えているのだった。もしこれが作戦の一環でなかったら、気が狂ったかなあだとか、俺もとうとうヤキでも回ったのかなどと自分で自分を疑っていたところだ。
 まあ……俺なんてものはいつだって狂気の沙汰で、それこそが俺という存在の正気なのだから、そんなもんなのかもしれなかった。
「恋をしましょう、遊馬くん。ええ、恋、です――そうです間違っていません、『恋愛』の『れん』ですよ。大丈夫。正気だし、平熱です。恋をしましょう。君と、それから僕で」
 ハートランド学園の男子トイレ、その個室の中。そこにズボンを降ろすどころか着衣ひとつ乱していない俺達が詰め込まれ、空間の狭さ故密着するようにし、そんな会話を交わす。なるたけ優しい顔を見せてやらんとして飴を与えられた幼稚園児よろしくにこりと笑うと、遊馬も流石に訝しげな顔をして首を傾げた。
「真月も、そういう冗談とかって言うんだな」
 辿々しく、彼にしては珍しく言葉を選ぶような調子で遊馬が言った。
「冗談なんかじゃありません。それともこう言った方がいいですか。これは大切な指令なのだ、と」
「や、でも、真月……」
 そんな殊勝な彼の態度に気を良くして強気に言葉を繋ぐと、やや気圧されたように控えめな声でまだ反論をしようとしている目線ががっちりと合わせられる。向けられている視線は困惑そのものだった。いい顔だ。舌なめずりを押し殺して朗らかな笑顔を取り繕った。やり甲斐のある、そそる表情ではないか。
「でも、なんでしょう、遊馬くん」
「でも、だって。……恋って、そういうもんじゃなくないか?」
「そういう、とは」
「そういう……ええと、なんていうか。するとかしないとか、そうやってはじめるもんじゃ、ないような……。前に姉ちゃんが言ってたぜ。恋はある日突然落ちるもの――、とか、なんとか」
「そこはそれ千差万別ですよ!」
「せんさ……なに?」
「千差万別。人それぞれ、ということです。遊馬くん、恋に定められた正解なんてありません! 僕はきみと恋がしたい。それで、何か、不都合でしょうか?」
 恋はするものではなく落ちるもの、とは遊馬のくせにうまいことを言う。チッ、と喉まで出かかった舌打ちを懸命に胃袋の方まで押し戻して、俺は強引に彼の手を握りしめると、話を押し通すべくずずいと距離を詰めた。具体的には、鼻と鼻が付くんじゃないかってぐらい至近距離まで。
 それに遊馬はちょっとだけ息を小さく呑んだようだったが、抵抗の意思は見せなかった。こういう「熱意」というものにこいつは弱いのだ。俺は知っている。
「それとも……遊馬くん。きみはそんな『任務』は請けられないとか、そういうことを言うつもりですか?」
「け、けい……や、真月!」
「これも必要の一環です。僕達に不可欠なことなんです。だから……」
 アストラルがいないのをいいことに、耳元に息を吹きかけるようにして嘯いた。さもそれが真実であるかのように、そこには「ベクター」の思惑しかないのに、守らねばならぬ正義であるのだと言わんばかりに押しつける。
 そう、ただ俺は、「真月零」と「九十九遊馬」の繋がりを強固にしておきたいだけなのだ。繋がりをめいっぱい強めて、そして最後にずたずたに断ちきるためだけにこんなことをしている。そのためには、ただの友人では物足りない。情愛で結ばれた相手に裏切られたあとの憎しみこそが一際強力な形になって結実することを、俺以上に熟知しているやつは七皇にいないだろう。
 この子供が裏切られて泣く姿を見てみたい。愛して信じたものに蹂躙されて感情を裏返す様を目に焼き付けたい。願わくばその愛も憎しみも一身に受けるのは俺がいい。他の誰でも嫌だ。俺以外でその道に導くなら相手にはアストラルが最適なのだろうが、それはもっと、一番、嫌だ。どちらかというと俺はアストラルが憎悪に身を焦がす姿も愉しみたいのだ。
 遊馬がうまく判断を付けられずにぐるぐると目を回しているうちに、予鈴のベルが鳴る。それまでのねっとりとした接近などなんでもなかったかのようにぱっと距離を開け、風通しを良くしてやると、遊馬はやはり困り顔のまま(それなのに完璧な否定も出来ないまま!)俺をじっと見、それから目を泳がせる。
「……授業、始まっちゃいますね。じゃあ、仕方ないな。続きは夜お話しましょう。ちゃんと来てくださいね」
 それで言い含めるようにして目配せをすると、無意識のうちに首からぶら下がっている例の鍵を握りしめて遊馬が息を吐いた。今はその中にいない相棒に、それでも万が一にもこの会話が聞かれていたら、と思うと怖いようなのだった。
 信頼という美徳を踏みにじる秘密。ああ、遊馬、お前の秘密の味はさぞや苦いことだろう。苦々しい隠匿。(だがな)、俺は鼻歌まじりに歌い出してしまいそうな唇をそっと咎めた。俺にとり、これより甘い、蜜のような秘め事は、他にない。




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