※オフ本のサンプル
※主に聖騎士団時代と警察官時代の二部構成です。聖騎士団時代では、パトロンの指名を受けてマルセイユへ赴くカイとその護衛としてついていくソル、警察官時代では、ドラッグを追っていたところベルナルドの計らいでソルと同行することになったカイ……という感じの話になります。
※ソルカイの性行為やカイへの性描写はありませんが、モブ美少年がわりと酷い目に遭っていたりインモラルな内容を含みます。R-15です。
※サンプルには二部の導入にあたる冒頭の日記部分と第一部の一話を載せています。













 拝啓、いつかどこかで暮らしている、未来の私へ。


 貴方自身がそうだったのだから当然ご存じの通り、わたしはソルがきらいです。もう、本当に、大嫌いです。でも貴方は、それがごく一面的な意味しか持たない言葉だということも、ご存じのはずですね。ええ、そうです――わたしは彼の自由がきらいなのです。
 誰にも縛られず、わたしの手をすり抜け、わたしを置いてひとりでどこかへ行ってしまう、彼の魂とでも言うべき場所に根ざしている自由が、大嫌いなのです。
 昨夜彼が団からいなくなりました。
 神器封炎剣を宝物庫から盗み出し、引き留めようとした私をこてんぱてんにのして(貴方はまだ覚えていますか? それなのに彼、わたしに対して手加減なんかしていたんですよ! まったく人をなめくさっています。彼のそういうところも、わたしはきらいです。その中途半端な多分やさしさだと思ってでもいるであろうものが)、彼はどこぞへ消えてしまいました。
 クリフ様は泣きじゃくるわたしを夜通し慰め、彼がここへ来るに際して交わしていたのだという「約束」についてをわたしへ話してくださいました。封炎剣は、はじめから「その時が来れば」ソルに譲渡するつもりでいたこと。彼はクリフ様に期された役目を終えたのだということ。そしてクリフ様は出がけの彼がわたしを気に掛けていたというような旨のことも仰いましたが、それに関しては、きっとクリフ様のやさしい嘘でしょう。人のことをぶちのめしておきながら気に掛けてるとか、虫が良すぎます。それともあの男ならやりかねないのかな。……本当に?
 話が逸れてしまいました。彼のことです。わたしが大嫌いな自由そのものが肉体を持って生きているとしか思えない、ソル=バッドガイという男についてのことです。
 一年……たった一年、あの男は大人ですから、彼からしてみればほんの僅かな時間だったのかもしれませんが……彼と寝食を共にして、わたしは少しぐらい、彼のことをわかったつもりでいました。彼がずぼらで面倒くさがりなこと、それから、頭がいいくせしてなんでも武力で解決しようとしてしまうきらいがあることだとかです。だから彼がわたしを置いて行ってしまった時、わたしは目の前が真っ暗になったような心地を覚えました。その時になってわたしはようやくそれをはっきりと知らしめさせられた。わたしは、彼のことを何も知らなかったのです。
 何も知らなかった。わたしは彼の誕生日も本当の名前も知らない。
 それから急に、彼の考えていたことが、何一つわからなくなってしまいました。
 先行するわたしをなんだか異様なまでに必死の形相で追いかけて来てくれたあのローマの時だとか、ストックホルムで風邪を貰ってきてしまったわたしが目覚めるまでずっとベッドのそばで本を読んでくれていたのだという時、それから、そうです、あのマルセイユで、文字通りわたしにつきっきりになってくれていたあの時のことも。
 わたしはずっとうぬぼれていました。彼はわたしのことを案じていて、多少なりとも大事に思っていてくれたから、わたしに気を掛けてくれていたのだと盲信していました。わたしがそうであるように。わたしが彼を案じるように――彼もわたしのことを見てくれているのだと、すっかり思い込んでいました。
 でも、それは違うのではないか、と今のわたしは思うのです。
 あれからわたしはずっとマルセイユのことを考えています。あの時彼がわたしに言ってくれたこと、わたしにしてくれたこと、それらの全てを鮮明に思い出します。あの時の彼は、なんだか今思うとびっくりするぐらいわたしにやさしくて、それでなんだか、無性に泣きたくなります。
 わたしは彼のことを知りたい。
 彼がどうして自由を愛し、自由を選び、わたしの知らない世界へ戻って行ってしまうのか。彼がどんな気持ちでわたしを抱きしめたのか。どんな思いで、少年達が大人達に陵辱されるその現場で、わたしに目を背けるなと言ったのか。
 それを予期していた彼が、一体どんな気持ちでわたしにシャワーを掛け、さあ行け、と言う代わりに、剣を握らせたのか。
 彼の全てが知りたいとまでは言いません、あの人の本当の名前だって永遠にわからぬままでいい、ただあの男が、ソル=バッドガイという「おとな」は、わたしという「こども」をどのように見ていたのかそれだけでも知りたいのです。
 残念なことに、彼が一度自分の意思で団を離れた以上、少なくとも聖戦が終わるまではわたしに彼を捜しに行く時間はとてもないでしょう。聖戦が終わったとしても、彼を見つけられる保証はない。わたしはもう永遠に彼と再会出来ないのかもしれません。彼は自由なのだから、そういった結末も十分に有り得るでしょう。彼をそばに長く引き留めるというのは、彼の自由を、ひいては彼自身のアイデンティティを奪うことです。それはわたしには出来ない。もう一年も彼の時間をわたしのために使わせてしまったのだから、わたし自身がそれを望むのは傲慢もいいところです。
 彼は既に代償を支払っていました。神器を手に入れるための、とても大きな代償。それが彼の時間だった。
 この日記を読む貴方は、覚えているでしょうか。クリフ様が教えてくれた彼の「役目」についてです。彼はわたしを守るために聖騎士団へ来たのだとクリフ様は仰いました。はじめ、わたしはまさか、と言ってクリフ様に乾いた笑いを向けることしか出来なかった。でもお話を聞くうちに、それは確かに納得出来る理由だと思いました。
 彼はギアの女王をひどく憎んでいて、いつかそれをその手に掛けて殺すことをこそ彼という存在の宿業なのだ――というようなことを言っていましたから、わたしはそのために聖騎士団へ来たのだろうと漠然と思っていたのですが、言われてみれば彼ほどの腕があるならば聖騎士団という集団はむしろ彼への枷でしかありません。ギアを殺すのも、ジャスティスに刃を向けることも、彼はたった一人でやりおおせることが出来る。彼は形式上わたしの部隊に所属する部下でしたけれど、他人と連携してギア討伐をしていたことなんて一度もなかった。
 けれどわたしを守ることは、なるほど確かに、わたしのそばにいなければ成し遂げられないことです。
 ……まだ、頭が混乱しています。この日記を書けば少しは気持ちが整理出来るかと思ったのですが、どうもそんなことはなかったみたいです。
 わたしは明日もギアを殺しに行かなければなりません。騎士団にいた頃の彼がわたしを守るという役割を帯びていたように、皆を指揮し、ギアを駆逐するのがわたしの役目です。でもこんな気持ちのままではきちんと役目を果たせないと思うので、せめてそれを日記に書きました。
 マルセイユの事件が終わり、リュクサンブール公園で彼と話したことを、わたしは胸にして明日からの戦場へ赴きます。わたしには地獄を終わらせる力が無かった。けれど聖戦を終わらせる力はある、と彼は言いました。そこから少しずつ、出来る事を増やして行けばいい、とも。
 彼がもしもわたしを忘れていったとしても、わたしはずっと、彼の言ってくれた言葉を覚えています。
 そして……考えています。わたしはいつか、彼を知ることが出来るのでしょうか。貴方がこの日記をふたたび手に取る時には、何かが変わっているのでしょうか?
 出来ればそうであればいいなと思います。そして、その頃にはわたしが彼の自由を愛せるようになっていればもっといいな、と思っています。


 二一七三年 ヴァンデミエール 葡萄月の二十九日目に
 いつかこの日記を見返すかもしれない未来の私へ 敬具





・・・・・・・・・・





01


「どうかの? この前採寸したとおりに仕立てたんじゃが、きゅうくつだとか、そういうのは問題ないか? 見た目の問題はさておき」
「採寸して作った服が体格に不似合いなワケねえだろが。よっぽど仕立て屋の腕が杜撰でなきゃあな。見てくれ以外は完璧だ、問題ねえよ」
「おお、そりゃいい。仕事が終わったらそいつはくれてやるから、有事の一張羅にでも使うと良いぞ。お前さんわしと違ってこの先も長いんじゃから、ま、どこかしらで使える時もあるかもしれん」
「賞金稼ぎが稼業として成り立たなくなるほど先の時代まで、こんな服が俺の手元に残ってるかよ。それより本題だ。じいさん、ついぞギリギリまで話そうとしなかったってことは後ろめたい部分でもあるんだろうが、古い付き合いだ、野暮な詮索はほどほどにしといてやる」
 平素はぴったりとした布地に覆われて惜しげもなく見せられている屈強な肉体を不慣れなダークスーツの中に押し込んで立ち、ソルがやれやれと首を振った。スーツは意匠もデザインも仕立ても超一流だったが、頭部だけは普段と変わらず長いポニーテールに真っ赤なヘッドギアをやめないものだから、どうにも、要人のSPというのが異常なまでにしっくりとくる見た目だ。イタリアあたりへ行けばマフィアか何かと勘違いされても何らおかしくはない。
 彼がフレデリックであった頃でさえ、スーツの堅苦しさが嫌いで本当に必要な時しか身につける気にならなかったのだ。こんな服を着たのは百五十年ぶり以上だった。本当はあまりスーツ姿に乗り気ではない彼がこの衣装を拒まなかったのは、それを頼んできた相手にのっぴらきならない事情が見え隠れしていたからである。
 団の運営における「政治的な側面」にはなるべく首を突っ込まないようにしていたソルでも薄々勘付いていたようなことだ。事態は恐らく、急を要するところにまで差し迫っているのに違いなかった。
「昔のよしみじゃ。わしとて、おぬしにあれこれ隠したまま頼みだけ聞いとくれなんてムシのいいことは言わぬよ。ただお前さんが急にやさしくなったりすればカイが戸惑うじゃろ。だから直前までは伏せとったんじゃ」
「優しくなる? 俺が坊やに? ……まさかじいさん、坊やに春でも売らせようってんじゃ……」
「阿呆が。それを防ぎたいからお前さんをつけるんじゃ。こちらにその意思がなかろうと先方がそれを望んどるのは明白だからのう。どんな薄汚い手を使ってくるのか老人の頭では思いもよらんぞ。――そういうわけで、今回の作戦の最優先事項は『カイに傷をつけないこと』。そのためなら多少は……まあ、損壊が出ても仕方あるまいな。ただしあとでうまいこと先方のせいに出来るよう整えるのが望ましい」
 とりあえず思い浮かんだ「最悪の予想」について尋ねると、クリフは否定の次に「そうなるかもしれない」という釘を刺してくる。金持ちと権力者は他人の意向を重視しない――よくある話だ。ソルはちっとも心が安まらず、忌々しげにソファに身体を沈み込ませた。
 聖騎士団は人類を守護するための戦闘組織である。しかし、これだけの組織を維持するのには絶対的に金が必要だ。騎士団は国連の下位組織であるからにして勿論予算は卸されているが、それもまったくの無尽蔵というわけにはいかない。正直な所を言えば、お上からのお恵みではまったく足りていない……というのが現状であり、正義と信仰は経済や国連役員の腹の足しにはならないというのがその本懐である。
 そもそも、国連だって金が潤沢にあるわけではない。この世の富はもともと不平等分配されて久しいが、それが更に、聖戦が長引くに連れてどんどんと偏りが酷くなっている。では一体その偏った金はどこへ行ったのか? 答えは簡単だ。金持ちが更に金を貯め込み、貴族の地位はほぼ中世のそこまで再向上した。それもこれも警察組織らしきものが真っ当に機能しないせいである。当然、司法は言うに及ばない。
 しかし騎士団はそれでも人類を守護しなければならない。クリフたち歴代の団長もそれは重々承知していて、少ない資金をどうにかやりくりするために出来るだけ清貧を心がけていた。しかし腹が減っては戦が出来ぬ。戦帰りの騎士達にシャワーを浴びさせることも出来なくなれば、感染症が蔓延して戦い手がいなくなる。自ずと騎士団は国連の他にもパトロンを持つことになり、クリフが引き継いだ頃には既にそれが慣習化していた。
 パトロンの多くは、残された金持ち達の中でも特に心根の正しい者達で構成されていた。子息が聖騎士団に入団したよしみや、人類守護の命題に感銘を受けて出資をする者達は見返りを要求しない。それ以上をおもねる者からの援助は拒んできていたし、逆に言えば、今までは「そういう手合い」は無視していても、団が成り立っていた。
 それには団の財源の多くを担っている「ハプスチャイルド家」の存在が深く関わっている、のだが。
「これが先方からの招待状じゃ。パリの旧国立劇場で演目は『くるみ割り人形』。その観劇に是非カイを招待したい、とのことらしい。バレエのあとはマルセイユにあるハプスチャイルド一族の屋敷でディナー。何時にカイを騎士団に帰して寄越すかについては何も書いとらん」
「ガルニエ宮か。こんなご時世に国立劇場でバレエ観劇とは、いいご身分だな。バレエを演るような人員が今も残っているとは思わなかったぜ」
「好事家と金持ちの道楽は戦争程度じゃなくなりやせんよ。聖騎士団に無償出資するような体力を残しているパトロンともなれば、『世界のため』に価値ある芸能にも金を投じるのは当然のことじゃ。先代はオペラやバレエが何より好きでのう、わしもたまに呼ばれて観に行っとったんじゃよ」
「は……皮肉だな。まるっきり中世だ。下々は明日のパンにも苦労するというのに上流階級は夜毎に舞踏会を開く。ったく、一度は全世界を電子通信網で繋いだ世の後だっつうのによ。……で、だ。再三の確認で悪いが、じいさん、今度もテメェが行くってワケにはいかねえんだな? 隠居なら今この瞬間にされたって俺は一向に構わねえんだが」
「ハプスチャイルドの当主がこの前代替わりしよった」
 めいっぱい皮肉ったあとにソルが渋い顔をして一応尋ねると、クリフは至極残念そうに首を振って見せた。
 そして「当主が代替わりした」という言葉の意味を正確に汲み取り、ソルはますますげんなりした顔つきになる。
「……そういうことかよ……」
「先代は本当にいいヤツじゃったが、まあ、寄る年波には勝てず、な。わしは次期当主に息子を強く推しとったんじゃが、これがまったくもって最悪なことに先代の弟が後を継ぐことになった。ま、お前さんならここまで言えば後はわかるな」
「……こういう交代劇の場合、大抵人の出来た先代当主の弟は出来が悪い。そいつ、放っておけば先代の息子を殺しかねないぞ」
「そういうわけじゃな。先代子息の命もついでに助けられれば後々まで高く付く恩を売れる。まあ、頑張ってくれ」
 クリフもこれには大分辟易した様子だ。それだけで「今代当主」の人柄や趣味がおおよそ読めてきて、ソルはこめかみを強く抑える。
 優れた名士であった先代当主が死に、出来の悪いその弟が子息を無理矢理押さえ込んで襲名。代替わり後初めて送られてきたオペラ観劇の招待状には、これまでずっと先代と観劇を共にしていたクリフが存命かつ現団長であるのにも関わらず、先日守護神に昇格したばかりの少年を指名。しかも招待状には帰りの時間を書かない。絵に描いたようなシナリオだ。どこの三文小説だと首根っこを引っ掴んで聞きたいぐらいに。
「野郎、美童趣味だな。豚野郎が……」
「頼むから口には出さんとくれ。頭の痛いことに予算の四割をあの家が担っとるんじゃ。風呂の湯が止まるぞ」
 ソルはあからさまに嫌そうな顔をしたが、それ以上は口に出さず、苛立ちもあらわに舌打ちをするにとどめていた。元々似合っていなかった高級そうなスーツはさらにきゅうくつそうになり、顔面との違和感にちぢこまって見えた。
「本当にシャワーが止まるだけならじいさんともあろうタヌキが虎の子のカイをわざわざ出しはしねえだろう。どんな理由を付けても断ったはずだ。俺を付けてまで出すっつうことは、それ以上の意味があるってことに他ならない。ジジイ、別口で同時に依頼を受けやがったな」
 ソルが問い詰めるとクリフは悪びれたふうもなく肩を竦める。
「そこまでばれていちゃあ仕方ない。実は保護している先代の息子の方からちょいとな」
「ほう?」
「先代の孫息子もウチのカイほどじゃあないがなかなか綺麗な子でのう。先代に散々自慢されておって、わしにとっても孫みたいなもんじゃ。頭もいい。ブタの餌にされたんじゃあ、先代に顔向け出来ん」
 クリフの苦々しげな声を聞けば、嘘でないことは明白だ。しかし血の繋がった……実の兄の孫にまで手を出しかねない勢いだとは。
「……ほとほと呆れた糞野郎だな、今代当主とやらは。……しゃあねえ。あとで俺の私設口座に追加で五〇〇〇ワールドドルだ」
「なんじゃ、そんなんでええのか」
 ソルの言葉にクリフが毒気を抜かれたような声を上げる。クリフの要求はつまり「何らかの機に乗じてなんとか現当主を失脚させろ」ということだ。それだけの働きに対する見返りとしては、破格の値段である。取るところはきっちりぶんどっていくソルが自ら提示してくる額とはとても思えない。
 するとソルは深い深い溜め息と共に押し出すような声を漏らした。
「坊やに手垢がつくのを黙って見過ごせるか」
「……ははあ、半分は私情じゃからさっぴいたのか。おぬしにしては良心的じゃな。つつがなく事が運べばラフィットの一九八二年もので歓待してやっても良いぞ」
「ジジイの秘蔵酒じゃねえか。大盤振る舞いだな」
「元々先代からいただいたもんじゃ。首尾良くいった暁に祝いの酒として開ければ、先代もうかばれるだろうて」
 クリフが言った。そして少し間を置き、やや俯いて彼にしては珍しい暗い声をひねり出す。
「……それから、今代じゃが。噂じゃ、『牧場』も持っとるとかいう話もある。ことを詳らかにしようと思えば、恐らく関わりを避けては通れんだろう。じゃから……今回ばかりは、カイに全く何も悟らせるなとは言わん。その代わりあの子のあとのケアも込みで頼む。賃上げ要求をするなら今の内にな」
「牧場? ……ブローカーか?」
「もっとたちの悪いもんじゃよ」
 クリフの声音が全てを物語っていた。何かを起こすとしたら、後始末にはソルだけでなくカイも動かすことになるだろう。その時、あの感受性の高い少年が自らの信義にもとる悪徳を目の当たりにしてショックを受けずにいられるはずがない。カイとて全ての人間が善人であると思っているわけではなかろうが、彼の短い人生の中に極悪人は殆ど現れたことがなかったのだ。
「あの子は純粋じゃ。純粋すぎる。それにわしらが必要以上に箱入りにして育ててしまった。あの子はまだ知らんよ、この世にギア以上の悪もあるということをな。そしてそれが人の形をしたブタの姿をしていることや、自分がその標的にされかねないということを……」
「ここまで蝶よ花よと育てたんだ、なら一生知らせねえで目隠しでもなんでもして守り通せばいいじゃねえかよ」
 だが、カイをそのような世間知らずに育ててしまったのは他ならないクリフと聖騎士団だ。そのことをソルがたっぷりと皮肉をこめて言うと、クリフは自嘲気味に笑んだ。
「そういうわけにもいかん。いずれ知らねばならん時がやってくるのは決まり切っていたことじゃ。あの子は正義に傾倒しておる。正義を信奉してさえいる。であるならば正義の対局に位置するありとあらゆる醜い悪逆に、目を背けることは出来ぬ。今までは単に、あの子の認知する悪が人殺しのギアだけで出来ていたのに過ぎぬ……」
 そうぽつぽつと零すクリフは孫を思って泣く祖父の顔をしていた。まったく歳月ってやつはろくなことをしない。あのギアに殺されそうになっていた無知で無力なアンダーソン少年だって、その瞬間は人の形をしたブタのことなんか知らなかったのだ。それがいつの間にか大人になって薄汚いドブと欲望のはきだめについて見聞きしなければならなくなり、今度はまた次の無垢な子供がその闇に直面しなければならない事実に心を痛めている。
(クソッタレが)
 ソルは思い切り頭の中で悪態を吐いた。いつかカイもこうなってしまうのだろうか。世の中にはびこる汚い権力に、頭を悩ませるような大人に?
 そしてあの少年にだけはそうなってほしくないと心のどこかで願っていた自分に気がついて、またいっそう腹立たしげにぴかぴかの靴で床を蹴った。


◇◆◇◆◇


 おろしたてのタキシードを着付けられ、頭をワックスで綺麗に固められたカイは、貴族の子息と並べてもまったく遜色がない「身なりの良い裕福な少年」そのものの姿形をしている。迎えに寄越された馬車の御者がほう、と溜め息なんぞを吐いていたのもむべなるかなというところだろう。元々見目の良い子供だが、飾り付けるといっそ凄まじいまでの破壊力になる。これが普段はソルをしつこく追い回して時折よじ登ってくることがあるとか、返り血で体中どろどろの朱に染めることがあるなどと、この姿からではとても想像出来まい。
「思っていた以上に、これは随分……きゅうくつですね。でもソルほどじゃないかな。あの……やっぱりそのヘッドギアは外せないんですよね?」
「無理だな。たとえどれほどスーツと合っていなくとも」
「うーん、残念だ。その、スーツ姿自体は、とても良いと思います。意外性があって……」
「似合わねえと思ってるんならはっきりそう言え、坊や」
「いえ、決してそんなことは!」
 カイが勢いよくぶるぶると首を横に振った。どうもソルの機嫌を損ねたと思い込んでいるらしい。ソルにも不似合いの自覚はあるので別にそんなことでへそを曲げたりはしないが、しかし護衛にもそれなりの箔が必要だ。いつもの装いで行ったら門前払いされてしまう。
「道すがら、諸々の説明をする。坊や、爺さんからどの程度聞いてきた」
「え、いえ、粗相のないように、としか。それからソルの言うことをよく聞くようにって……テーブルマナーなんかは、ソルよりもわたしの方が上手に出来ると思うんですけどね……」
「殆ど何も説明してないじゃねえかあのジジイ……」
 気を取り直して尋ねればこんな返事だ。頭を抱えたくなったが、もう時間がない。ソルは腹を括ることにしてカイと並んで馬車の中に腰を下ろす。どうせぶっつけ本番なのだ。プランなんて元々ないに等しい。
「今日、バレエを観に行くんですよね」
 そんなソルの懊悩など素知らぬふうに、カイがほんのりと期待で朱に染まった頬を見せ、ソルをじっと見てそう訊ねた。平素の背伸びがなりをひそめ、随分子供らしいというか、年相応の屈託のない表情だった。お偉いさんにお呼ばれして出掛けるとはいえ、カイは命の遣り取りをするつもりでこの馬車に乗ってはいない。今は、「子供でいられる時間」。無意識に、彼自身そう判じているのかもしれない。
「ソルは……見たことがあるんですか?」
 尋ねる声音も僅かに興奮し、上ずっている。未知のものに触れる前の子供がするであろう反応を、今日の彼はすっかりと取りそろえていた。戦場ではおくびにも出さないそのあどけなさが、カイが本当はどういった存在なのか、ということをソルに幾度も念押ししてくる。クソッタレ、あのジジイ。ソルはますます心中で悪態を酷くする。きつい役目を全部放り投げて行きやがって。
「まあ一度、二度は……。だが随分と昔の話だ。くるみ割り人形にしたって、大筋は知っちゃいるが、細部は」
「あ、なら、内容は内緒にしておいてください。たまたま知らなかったから原典も読まないで来たんです。お芝居はやっぱり新鮮な気持ちで観たいから。……実を言うとお芝居を観るの、はじめてで。そういうものに触れる機会が今までなくって……時間があれば少しでも勉学や鍛錬に費やした方がいいと思っていましたし、実際、財政的にも、そんな余裕はなかったから。でもクリフ様がそういうのは情操教育にいいって」
「は、情操教育、ねえ」
 しかして継がれた二の句に、ソルはまた深々と溜め息を吐いてしまった。
 確かにソルが子供の頃からそういった物語芝居は情操教育にいいと言われていたが、しかし今回の件でクリフが言ったという前提に基づくとなんとも含みの多い言葉だ。ソルは鼻で笑うような声を抑えきれなかった。もし事が本当に起これば「情操教育」ではすまないというのに。それとも、あの狸爺さんはひょっとして、ここまで潔癖症の箱入り息子に育ってしまったものを無理矢理矯正するにはそのぐらい過激な「物語」の方がいいとでも考えているのか?
 流石にそんなことはないだろうが……よくよく、クリフはソルのことを過信しすぎだ。そしてカイのことも。時々皆が忘れてしまっているのではないかと思う時がある。カイは――まだたった十五の子供なのだ。
 それを自覚する度、ソルは嫌気が差して仕方ない。こんな子供を戦場へ送り出す大人達に。こんな子供に頼らねばならない現実に。こんな子供を生み出してしまった世界に。そして、こんな子供一人、子供部屋のベッドで寝かしていてやることも出来ない自分自身に。
「あ、なんですか、その声。また、わたしのことを子供あつかいしたでしょう……」
 カイがむっと顔をしかめて頬を膨らませて見せる。意図的な子供っぽい仕草。子供と大人の使い分けというものをこの年で弁えてしまった少年は、ソルやクリフの前でだけ時折子供らしさをさらけ出す。彼らにだけは、時と場合を選べばそう扱って貰えることを彼は知っているのだ。彼らがカイ=キスクという少年の内に偶像を求めていないことを、聖人であれと望まないことを、一人の少年でいていいと許されるのだということを、悲しいぐらいに。
「いや? ひでぇ皮肉もあったもんだなと思っただけだ。……坊や、いいか。世の中には嘘だったらいくらもマシだった本当のことっていうのが、いくらでも存在する。今回の主催はクサい。物語だったらなんぼもよかったようなことをやってるんじゃねえか、っていう疑いがもう掛かってる。俺達が招待されたのはそれの調査も含めてのことだっていうのを努々忘れるな。具体的には」
 彼の幼い輪郭に指先を添えてじっと眼差しを見据えた。グローブに覆われた無骨な指先に掴み取られ、逃げ場を無くした少年の瞳が真っ直ぐにソルを見つめてきている。この少年を守らなければ。それが今回のソルの仕事だ。死ぬよりも悲惨な辱めに直面し、心が揺れてしまうことがあるのだとしたら、そのあとを宥めるのはソルの役目だ。
「何を見てもそれが現実だと思え。芝居も、貧富の差も、不測の事態も、何もかも全てが」
「へんなことを言うんですね……」
 カイの表情は、なんだか困ったような笑い顔だった。
 きっとまたいつもの、ソルのちょっとへたくそなジョークか何かの類だと思っているのだろう。そう思えるのなら、その方がいいのかもしれない。このまま何事もなく済むのが一番いい。そう感じるのが何故なのかは、ソル自身薄々気がついている。本当は、この世界がうつくしいものだけで出来ていると思い込んでいる少年に、薄汚れた真実を見せるのが嫌なだけなのだ。まるで赤子はコウノトリが授けると信じている生娘に、無修正のスナッフ・ポルノを見せつけるみたいで……。
 いや、最低な話だが、この場合は例えるまでもなく真実その通りだった。ソルは少年にこの世にはびこる悪逆を直視させるための、処刑台への連行人をクリフに任されているのだから。
「心構えの話だ。坊や、いつも言ってるだろう。子供扱いするなってな。大人は現実を見てるもんだぜ。ま、その上で芝居を楽しむこった。バレエは……悪くはないさ」
 呟くソルが見せた横顔はあまりに複雑な色を滲ませている。
 その真意をカイが理解したのは、この一連の騒動が全て過ぎ去り、彼が過去に思いを馳せて男が浮かべた珍しく神妙な表情を、最早懐かしさと共に手繰り寄せる、その時になってからだった。


| home |