※オフ本のサンプル
※ソル中心シリアス本です。カイデズ前提、
死ネタ本。
※カイとソルが出会わなかったifパラレルの世界で気持ちだけ吸血鬼パロ。
※300年前に失踪した娘を捜し続けているソルが、迷い込んだ洋館で吸血鬼を自称する少年カイに出会い……という感じの薄暗い本。
※臓物は出ませんが、白骨死体とかはあります。何でも許せる人向け。
01
桜の樹の下に死体が埋まっているというのなら、あの花々の下に永遠が埋まっていたっていいでしょう?
――いつだったか、少女がそう言った。
言葉にしてみればひどく単純なことであった。裏庭にある秘密の花園には死体が埋まっていて、子供達が信じ込まされていた妄想は全部嘘っぱちだった。それだけのことだ。
嘘、嘘、うそ、うそ、無数に転がった嘘、星の数ほどの嘘、倒壊した家から這い出てくるシロアリみたいな嘘の群れが、あたりには散らばっていた。それで全部終わりだ。
「どうして――」
無限に連なる十字架の群れ、その最深部に、一人の少年が立ち尽くしている。背筋に映るのは絶望か、はたまた憎悪か。彼の背中からだけでは、その正確な答えは分かりそうもない。
男は舌打ちをして少年を追いかけた。色を奪われモノクロの色彩に堕とされた花々はむっとするほどの香りを立ちこめさせ、花園に立ち入った生き物の鼻をばかにする。空間の全てを白百合と白薔薇とが支配し、死臭さえも、あらゆる全てを覆い尽くし消してしまう。
「どうして……」
少年が今にも泣き出しそうな声で呆然と漏らす。男は幼い少年の震える肩に手を伸ばそうとする。
けれど触れられない。
どうしても、その指は彼へと届かない。
「わかりません、私には」
不意に彼が振り返り、純白の花びらが呪いのように舞い上がった。
ありとあらゆる白い花が整然と植えられた花園の中、たった一画だけの異質な空間に呆然と立ち尽くして、彼は純白の穢れに塗れていた。酷い有様だった。他の区画は間引きも剪定もしっかりされているのに、一番奥のその場所だけ、白百合と白薔薇がしっちゃかめっちゃかに入り乱れてぐちゃぐちゃに咲いている。美醜もへったくれもあったものじゃない。
全く違うふたつの花々が、お互いを侵すことなくなんとか共生しているのが不思議なぐらいだ。白百合と白薔薇は複雑に絡み合い、静かに、依存し合って咲き誇った。
男は喉の奥をせり上がってくるものを無理矢理押し戻し、なんとか、視線を戻した。異物を埋める白花たちはびっしりと群れ、心中自殺でもはかっているみたいだ。頼んでもいないのにシリアルキラーの殺人現場を見せられたような気持ちがする。
花に埋もれる異物は異様なほど美しかった。
たとえもし、今この瞬間に吐瀉物をぶちまけられたとしても、その美しさが損なわれることはないだろう。
(呪いだ、これは)
男は直感する。
これは呪われたゆえに美しい。あるいは、美しいゆえに呪われてしまったのだ、と。
「わかりません。なにも」
少年は青ざめたくちびるをこちらへ向けた。
少年の足下に転がっているのは死体だった。
男は死体の正体を知っている。
ああ、それこそは、男が探し求めていた――……。
◇◆◇◆◇
世界にはかつて「西暦」というものさしがあり、「時間」というスケールで窮屈に縛られていたのだという。
カイにはあまり馴染みのない話だ。そういう旧時代の規格みたいなものは、もう全部がらくたに成り下がってしまって久しい。書類にもそう書いてある。
だからこの屋敷には生きている時計がない。正確な暦を知る術もない。カイの自室にかけてあるカレンダーは永遠に二一八二年の五月三十一日を指し示しているし、大広間の古時計は十時三十八分を指し示したまま錆び付いてしまっている。
そんなわけでカイの世界では誰も時を数えることがないのだが、それで困るかというと、そんなこともない。なにしろカイには時間を気にする必要がなかったのだ。カイは生まれたての吸血鬼で、ほとんど、不老不死の存在なのである。
自我というものが形成されたその瞬間からカイは現在とまったく変わりのない姿形と思考回路を備えていた。人間の男の子でいう十歳と少しぐらいのかたちをして、もう何年もそのままだ。屋敷に住む他のふたりの吸血鬼もそれは同様で、老いることも死ぬこともない。だから時間の流れなんか誰も気にしない。
それに外の世界に出たこともないし、出ようと思ったことさえない。カイを含む三人の吸血鬼は、だだっぴろい屋敷の中で永遠を過ごしている。屋敷の庭には立派な畑と果樹園があり、野生の動物もうろついていて生きるに困らず、吸血鬼たちの生活は屋敷の中で全て完結している。
それでも、世界が古い本に記してあるように昼と夜とを繰り返していたのなら、やっぱり時間のことが気になったのかもしれない。だけどもう世界には夜しか残されていなかったので、その感覚さえカイにはわからない。
そのことについて、ほか二人の吸血鬼はいつも、「吸血鬼なんてものが生まれたせいで昼が死んでしまったんだろう」とか冗談めかして言った。でも信憑性のほどは誰も知らない。
「おい、カイ。花園の世話は」
庭園をぼんやりと歩いていると、カイの名を呼んで引き留める声があった。カイは立ち止まり、群れを成す法力ランプの向こうへ目を凝らして彼の姿を捜した。夜の明けない世界で植物を育てるために設置されたランプはやたらに数が多く、テラス席に座っているずんぐりした体格の男の子をその奥から見つけるのには、少しばかり時間がかかる。
「レオ」
友人の顔をようやくのことで認めるとカイは弾むような声を上げた。
カイと同じ吸血鬼であるレオが、テラス席にどっしりと陣取り、分厚い学術書をぱらぱらと捲りながら、人差し指でちょいちょいとカイを手招きしている。カイは招かれるままにぱたぱたと走り寄った。近づけば近づくほど、レオは眉間に皺を深くしてカイを見た。
「レオ、じゃあない。まだ花園の手入れをしていないだろう。日照再現用のジールが足りなくなってる。補填しなければ花が枯れるぞ」
近づいて早々、彼の口からお小言が飛び出してくる。ははあ、とカイは小さく唸った。どうやら眉間に刻まれた皺は、花の盛りを憂いてのものだったらしい。
なんでかは知らないけれど、レオは花のこととなると、ものすごく口うるさくなる。夜に包まれた世界でも滞りなく花が咲き果実が実り続けるよう、庭――特に「秘密の花園」を管理するのは、屋敷に住まう子供達の務めだ。だからカイも花のことはよく気に掛けているけれど、とりわけレオは、「務め」ということを差し引いて有り余る深い愛情を花に注いでいる。
彼は花が枯れることを何よりも忌み嫌う。
でも本当は、とくべつ花が好きなわけではないのだという。
「今日の当番はレオでしょう」
なんで彼はそんなに花が大事なんだろう。もやもやとしたわだかまりが胸に突っかかり素っ気なく返すと、レオはますます眉間の皺を複雑にした。
「いや、俺じゃない。なら誰だ? ダレルか?」
「ダレルなら、昨日からずっと部屋に籠もりきりですよ。自分の当番を忘れるようなやつじゃないから……だとしたら、やっぱりレオじゃないんですか?」
「うん……?」
カイが唇を尖らせて答えると、どうも納得いかないというふうにレオが顎に手をあて、うんうんと唸った。彼は花園の入り口とカイの顔とを何度も交互に見比べた。
「……なら、俺か。近頃は物忘れが激しくていかんな」
そうしてとうとう観念したのか、ぽんと手を叩くと神妙な声を出した。
「どうも、忘れっぽいというのは困る」
「仕方ありませんよ。そもそも吸血鬼は、物忘れが激しい生き物なんだもの」
「いや、そうかもしれないがな……」
カイはフォローのつもりでそう言ったのだが、自分の忘れっぽさが他のふたりに輪を掛けてひどい自覚があるレオは、余計に辛そうな目をしてカイに向けた。
「種族特性のせいにするというのも、俺としてはどうもいただけない」
「レオは律儀だなあ」
「それを理由に夕飯を抜かれたことがあるからな」
それを半ば茶化すように流すと、心なしか意趣返しめいた台詞を返される。カイが(レオにとって)無神経な返しをした後は、彼はきまって「カイが食事当番を忘れた日」のことを引き合いに出したがるのだ。けんかをした時とか、ちょっと負けが込んできた時の、彼の十八番なのだった。いつものことだ。
でもレオと同じぐらいカイも律儀なので、何度言われてもこの話にはしゅんとしてしまう。
「……ごめん」
ばつが悪くなり、レオから視線を反らしながらカイが謝った。あれはいつのことだっただろう。何年前だっけ。もう十年か二十年は前だと思うんだけど。しかし何しろこの世界の時間というものはとっくに死に絶えてしまっているので、いつも、その正確なところが全然わからない。
ちゃんと思い出せないのでますます気が重くなり、カイの視線はいつの間にかレオから遠く離れた明後日の方向へ向かっていく。その途中ではたとレオではない別の誰かへ目が合い、カイが「あ」と小さな声を漏らす。
「……そこにいるんですね」
どこか恍惚としたように呟き、カイがその華奢な手のひらを虚空へ伸ばした。
ばらばらと空をなぞる指先が空を撫でると、カイの瞳に少女の姿が映り込む。少女の偶像は朝靄のようにぼんやりと浮かび上がってカイをじっと見つめている。
カイは指先をばたつかせ、彼女のかたちを握り締めようと試みた。いつも、彼女を瞳の奥へ捉える度、そうしなければならないと強く思うのだ。カイは彼女の名前を知らない。彼女の声を聞いたこともない。彼女がどれだけ必死に口を動かしても、空気の流れ一つ伝わらない。しかしそれでもカイは、彼女に触れたいと思っている。
もう何年も前から。
物忘れの激しい吸血鬼には覚えていられないほど、はるかずっと昔から。
長い青髪を二つに結って仕立てのいい黒のワンピースに身を包み、十かそこらの姿かたちをしていつも微笑んでいる幽霊の女の子を、なんとか抱きしめてあげたいと思っている。
「今日も私たちは触れ合えないのですね、レディ」
けれどいつだって、その望みは叶わないのだ。
カイは全身から力が抜けていくみたいに腕を降ろし、力なく首を横へ振った。少女に触れられたことは一度もない。彼女の声も永遠に知れない。彼女はいつも微笑んでいたが、その薄く形の良い唇が意味のある言葉を作ったことは今までに一度もない。黒いワンピースだっていつ見ても同じ仕立てだし、胸元につけられた白薔薇のコサージュは常に同じ角度を保っている。
「また『喪服を着た少女の幽霊』か」
落胆しきったカイの姿を認めて、レオが呟いた。
なにもない空間をカイが必死に掴もうとする光景は、レオやダレルにとってあまりにも見慣れたものだった。初めの頃はぎょっとしたものだが、今となってはもうとやかく言う気力さえわいてこない。それは既に、この屋敷におけるタブーの一つに成り果ててしまったのだ。
とはいえ、その行いが異質であることに変わりはなく。
「ええ。また……彼女の声は聞かせて貰えないようです」
「あー、そうか。その、なんだ、お前相変わらずだな……カイ」
カイが大まじめに答えると、レオも大まじめに肩をすくめて見せた。これ見よがしな辟易のサインだった。
こんな遣り取りを、もう何回繰り返したのだろう。
時折、レオはそんな益体のないことを考える。……でも本当はわかっている。時間の感覚がない吸血鬼が、そんなことを気にしたって仕方がない。数なんか数えるほうがばからしいと相場が決まっている……。
だから今日もレオは洪水のような無数の言の葉を喉の奥へ押し込み、カイにしがみつくいばらの呪いの正体から、目を背け続けるのだ。
「俺様はお前の親友だから、今日も一度だけ、言ってやるが……」
レオはひとつ溜め息を吐くと、長ったらしいお小言の類をぶつける代わりに首を横へ振り、カイの頭をぽんぽんと叩いた。
「ここには俺とお前の他に誰もいない。庭だけじゃない、この屋敷には少女なんかいないんだ。俺たちの他には、部屋に引きこもってるダレルしか」
結局ジールの交換は二人でやることになって、ほうぼうのランプを順繰りに確認して回った。毎日ちょっとずつ点検をする手はずになっているのに、あちこちのランプがジール切れを起こす寸前だった。吸血鬼たちの物忘れが、よくない方向へ向かっているのかもしれない。
「このあとしばらくはダレルに頼みましょう……」
ようやくのことで屋敷じゅうの点検が終わり、やっと一息ついた頃には二人ともくたくただった。
カイもダレルもそれなりに体力に自信はあるが、だだっ広い屋敷じゅうをぐるりと一周したものだから、もうすっかり疲労困憊しきって一歩たりとも動きたくない。地面に直接腰をつけるなんて、普段なら絶対やらないようなことをしてしまうぐらいのガス欠だ。
「紅茶が飲みたいな」
そうカイが呟けば、
「ダレルがプリンを隠し持ってるはずだ」
レオが疲れ切った声音で同調する。
「ああ、ダレル……どうかお願いです、親切なダレル。どうせ聞いているのでしょうから、私たちのためにティーブレイクの用意をしてくださいよ」
カイはレオの提言に下心たっぷりで同調すると、大声で聞こえよがしに大声で叫んだ。
なにせダレルは聞き耳がすごく聡い。それに間もいい。なんでかはわからないけれど、大抵の場合、ダレルはカイが名前を呼んで五秒以内に返事を寄越してくれるのだ。
「……すまないが、プリンを譲ることは出来ない」
期待した通り、すぐにそこの茂みから彼の声が聞こえてくる。カイは勢いよく振り返り、茂みを掻き分けて丁度やって来たところらしい少年の肩を思いっきり掴んだ。
「ダレル! 聞こえていたんですね、親切なダレル」
「ああ……いけないな。おべっかだと分かっていても、君に?親切なダレル?と言われてしまうと、私は君のお願いを叶えてやりたくなってしまう。我ながら難儀なさがだ」
「じゃあ……」
「しかし、今は君の願いにすぐ応えてやることが出来ない。わかってくれ、私は話があってここに来たのだよ」
ぶるぶる揺さぶられながらダレルがまなじりを下げる。カイはびっくりして肩を掴んだままダレルの顔をまじまじと見た。彼がカイの「お願い」を後回しにするなんて滅多にあることではない。
言われてよく見ると、確かに彼の衣服が乱れている。どうも大急ぎで走ってきたところらしい……。
成り行きを見守っていたレオも、それでようやく「どこか変だな」ということに気がついたのだろう。心底面倒くさそうにダレルの方へ向き直った。
「なんだって? おい、ダレル。そいつは、屋敷中の法力ランプを点検してこれ以上一歩も動きたくない俺やカイを動かすほどの用事なのか?」
「レオ、そんな言い方」
「いや、構わない。君たちが疲れているのは承知の上だ。だがこと今回のケースは、君たちふたり――特にカイに、確かめてもらわねばならないのでね。悪いが、一緒に表玄関へ来てくれたまえ。そこで改めて説明をしたい」
早口でまくしたてるダレルの剣幕には、一目でそうとわかるほどに焦りと困惑が浮かび上がっている。
カイはレオと顔を見合わせ、仕方なく立ち上がった。ダレルの様子を見て放っておけるほど、カイは同胞たる友人たちに淡白ではいられないのだ。
◇◆◇◆◇(中略)◇◆◇◆◇
夢を見ている。
そう、これは夢だ。だからてっぺんまで昇ったお日様に照らされてきらきらと輝く真昼の世界の中で、白いワンピースを身に纏った娘が嬉しそうに男の手を引いている。
むすめは微笑み、盛んに「うれしい」という言葉を繰り返していた。うれしいな。やっと、お父さんに紹介できるの。この時がどんなにか待ち遠しかったことか。お父さん、ちゃんと挨拶してね。あそこにいるのが私の旦那様なの。それから、彼の腕に抱かれているのが、わたしたちの大切な……。
娘の声は弾み、永遠に続く幸福を信じ切っているかのように軽やかだ。けれど男はとてもそんな気持ちでいられない。男はまばゆい光に照らされた娘の手を握り返し、震える声で頼みかける。
「おまえの顔を見せてくれ」
たったそれだけの、簡素な願い。
けれどそんな簡単な願い一つ叶いやしないのだということを、本当は十二分に知っている。
「もう遅いのよ、お父さん」
娘が男の声に応じて振り返った。
振り向いた彼女には顔がなかった。のっぺらぼうならまだましで、顔面だけをぽっかりと抉られたように深い闇がその奥へ広がっていた。
「秘密なの。あのことは、永遠に……」
ごめんなさい、と娘のかたちをした虚が囁く。
男は絶叫し、怯えのまま娘の手を振り払った。やめてくれ! やめてくれ。こんなむごい真似を、何故――!
男の叫びに応える者はない。
夢はいつもそこで終わる。
◇◆◇◆◇(中略)◇◆◇◆◇
案内された浴場は、ソルが今までに利用したことのあるどんな風呂場よりも広かった。維持が大変だろう、誰が掃除してるんだ、と聞けば、カイは「三人で分担制にしています」とこともなげに言う。「使い魔のコウモリたちがやってくれています」とか言われるんじゃないかと思っていたソルはやや拍子抜けしたが、まあ当然の返答ではあった。コウモリは風呂掃除なんかしたりしない。
「ソルは立派な身体をしているんですね。大人のひとってみんなこうなんですか? 私も早く大人になりたいなあ。こんな小さいと、なんだか窮屈」
シャワーを手渡しながらカイが呟いた。彼は自分の体格にコンプレックスがあるらしい。「こんな綺麗な身体してんのに何が不満なんだ?」と思ったが、カイがずばぬけて華奢な体つきをしているのは確かだから、嫌になる理屈はわからないでもない。彼の身体は細くしなやかで、簡単に手折れてしまう儚い白百合をどこか想起させた。
(しかしまあ、お綺麗な体してやがる)
改めて、少年の裸体を舐め回すように見る。穢れのひとつもなさそうな白い素肌にくるまれた線の細い肉体は起伏が少なく、どこに出しても恥ずかしくない第二次性徴期以前の少年のそれをしている。人間と明らかに異なる部位はどこにも見受けられない。服の上からではわからない傷跡があるかとも思ったが、それさえない。ちょっと不自然なぐらいにだ。
不自然といえばソルの身体もそうだが、これにはれっきとした理由があった。ソルの身体には傷が残らないのだ。自己治癒能力が高すぎて、あっという間に肉が盛り上がり破れた皮膚を繋いでしまう。だからソルは剣ばかり振り回してきたわりに綺麗な身体をしている。
とはいえカイの方がそんな細かいところにまで気をかけているということもなかろう。ソルの体つきに言及するカイの目には、純粋な尊敬の念だけが映り込んでいた。
「まあ、食い扶持を稼ぐために傭兵まがいのことをやり続けていたからな。生きるか死ぬかの毎日を繰り返してりゃ、こうもなる」
ソルが宥めるように言うと、唇を尖らせていたカイは一転して不可思議な顔つきになった。
「生きるか、死ぬか……外はそんなに危ない場所なんですか」
「ああ、世界に昼がなくなった日からは特にだ。……ここは? 違うのか。外敵の侵入なんかは」
「ないですよ。この屋敷は、絶対安全ですから。代わりに、不変なんです。外からやって来たのはあなたが初めてのはずですよ」
だからあなたに会えて本当に嬉しかった、とカイが呟き、彼は何故か頬を薔薇色に染めた。
(こいつが俺に対する警戒心を持ってないのは、それも原因か?)
ソルは口には出さず、そう思案する。「絶対安全」。なればこの空間はある種の結界か。「外界からの侵入者を悉く阻む」だとか、「敵意のある存在は侵入出来ない」といった類の制約が掛けられた空間。尤も前者であった場合、ソルがここに居る時点でそのロジックは破綻してしまっているが……。
――ともあれ、要するにここは清浄の楽園なのだ。
そう考えると、大体の辻褄が合うような気がした。外界から隔絶されただだっ広い屋敷、世間ずれして常識の欠片もなさそうな子供達。全員がそうかはわからないが、少なくとも、このカイという子供は純真無垢を少年のかたちに濾し取ったような空気がどこかにある。
(――純潔、か)
ふとそんな言葉が脳裏を過ぎる。この細い身体を見てソルが最初に想起した白百合の花が、確かそんな言葉を与えられていたような気がする。
「もう一度だけ聞くが」
「ええ」
「坊や、急に外からやってきた侵入者が玄関で倒れていておかしいとは思わないのか」
「思いません。あなたいい人そうだから。それにそういうのは私の担当じゃないんです。レオや……もっと言うと、ダレルの役割です」
念のため尋ねると、カイがなんでもなさそうに言う。「レオ」と「ダレル」。知らない名前だった。先に話していた「屋敷にいるもう二人の吸血鬼」のことだろうか。そこまではスムーズに理解が及んだが、「役割」という単語が喉に刺さった小骨のようにどこか引っ掛かる。
「じゃあ、私も質問。あなたは何をしていて、ここへ迷い込んでしまったのですか」
ソルの神妙な顔を見て何か思ったのか、カイが尋ねてくる。遅かれ早かれ来ると思っていた質問だ。ソルは少しだけ考え、
「娘を捜している」
それから本当のことを答えた。嘘で取り繕うことも出来たが、面倒な結果を生むような気がしてやめた。
「ずっと長い間、娘を捜して世界中あちこちを旅している。で……その最中に行き倒れて気がついたら坊やに運ばれてた」
「そうですか、娘さんを…………え。うそ。あなたお父さんだったんですか!?」
「そんなに驚くことか」
「あ、そう、ですよね。すみません。お父さんとかお母さんとか、そういう……『人間的な』ものを見るのも初めてなので……」
だから許してください、とカイが俯いた。
それから少しばかりしんとした間が張り詰め、あたりにはざあざあと流れ落ちるシャワーの音だけが響き渡った。湯気が上がっているのに身体が冷めていくような心地がする。父も母も知らないと言う子供の横顔はやはり吸血鬼らしくはない。
『子供の姿をした吸血鬼には注意したまえ、友よ』
その様に蘇ったのは、あの誰よりも吸血鬼らしい吸血鬼が、最後にソルへ語って聞かせた話だった。
『生前どんな歳であろうと、吸血鬼はみな青年期のかたちで生まれる。その後ごくゆるやかに歳は取っていくが、若返ることはない。知っての通り吸血鬼の大半は信仰に反した人間が堕ちて成り代わる種族だから、子供が生まれないのだよ。無論自然発生に頼らずとも、血を吸った相手が生き残りさえすれば、隷属という形で殖やすことも可能ではあるが……これも、対象が十分に成熟していなければ、ただ闇雲に相手を殺してしまうだけだ。とまあそんなこんなだから、私のような変わり種以外は家族という構造そのものに無頓着だし、たいてい、子供のことを嫌っている。
故に子供の姿をした吸血鬼には注意が必要なのだよ、君。それは摂理に反した存在であることの標榜に他ならないのだから……』
言葉の全てに、カイという存在への警句が込められているかのようだ。ソルはかぶりを振った。カイは父も母も知らないと言うが、その割に、どこかそういった存在に感じ入るものがあるようだった。在りし日に共に暮らしていた娘がそうであったように、普通の子供と同じ郷愁をそこに抱いている。吸血鬼を名乗るくせに。
シャワーの湯が止められ、無言のまま手を引かれて浴槽へなだれ込む。たっぷりとしたお湯が波打つ湯船には薔薇の花びらが浮かび、考え事に耽るソルの意識を引き寄せた。無数の白い花びらの中には三つのつぼみと見事に咲いた一輪が混じり、何かの儀式めいていて妙な気持ちになる。
「……娘は、駆け落ちしていなくなったんだ。最初はな」
だからその気持ち悪さから逃れたくて、つい口走ってしまったのかもしれない。
「……え? かけおち、って?」
「好きな男が出来て、だが身分とか色々な問題があって、まあ主に男の家の方が結婚を認めたがらなかったんだな。だから二人して駆け落ちした。娘は男の元を選び、姿を消した」
自分でも何故話し始めてしまったのか納得しきっていなかったが、一度滑り出してしまうと、あとはもう止まらなかった。ソルは自分でもよくわからないまま、堰を切ったように誰にも話したことがなかった本当の理由を告げた。ソル=バッドガイという男の三百年を構築する核をあけっぴろげに話した。
この少年にだけは、それを伝える義務があるような気がしてせき立てられていた。
「まあ俺自身父親としてろくでなしだった自覚はあるが、嫁に先立たれた俺にとっちゃ、大事な一人娘だったんだ。それがある日忽然といなくなった。とはいえ最初のうちは、足取りがわかっていた。だからよかったっちゃあ、よかった。あれは律儀な娘だったから、駆け落ちして行方を眩ませたあとも、特に結婚に反対していなかった俺にだけは近況を報せる手紙を送って寄越していた。……それがある日ぱったりと消息がわからなくなった」
「それは……いつ頃ですか?」
「ずっと昔だよ」
そう、ずっと昔だ。三百年前、世界にまだ昼があった、この世が狂うより前の話だ。
「だが娘は、どこかでまだ俺を待っているような気がしている」
ソルは感傷の抜け落ちた声で淡々と述べた。
その話を聞いて、カイは不思議そうな顔をした。ソルがいきなり自分の身の上話をしたことに対してではなく、どうしてこの人は、そうまでして娘を捜しているのだろうということが心の底から不思議みたいだった。
ソルの喋り口はまるでからからに干上がった湖みたいで、どこかに諦めとも似た乾きを感じるものだ。それなのにまだ、娘を見つけたいのだろうか? 今も? カイの顔にはありありとそんなことが書いてある。
「見つからないとは思わないのですか」
「あ?」
「娘さんのことです。だってお手紙をくれていたのに、ぱたりと止んでしまったのでしょう? ただでさえ、吸血鬼の私たちと違って人間の一生は儚いんです。……私には、あなたが不幸になろうとしているようにしか思えない……」
「俺の娘が死んでるって言いてぇのか、テメェは」
「そ、それは」
「……いや、いい。誰だってそう思うだろう。だがそれならそれで、俺にはやるべきことがある」
しかしカイが尋ねると、ソルは小さく首を振った。
カイの手を取って握り締めると、その柔らかな感触が幼かった娘の指先に重なっていく。三百年もの長きにわたって娘を捜しているのは、たぶん、決着をつけたいからなのだ。ソルは思う。いつしか昼が死んでしまったこの鬱々とした世界、吸血鬼さえ死に絶えてしまったようなおかしな世界が、終わる時が来るのならばそれに居合わせるのが自分の役目だと思っていて、その終焉は娘のそばで眠っているとなんとなく信じている。
同時に、ソルとて、それがいかに不毛な行いかということは自覚していた。ソルがずっと娘を捜し求めていることについて、紅の魔女は盛んに「やめときな」と言ったし、旧知の友人も「それは多分君を不幸にするだけだ」と繰り返した。奴らは気に食わない輩の筆頭だが、言っていることは正しい。
だがそれでも、終わりを見届けなければ……きっとソル=バッドガイは立ち止まれない。
「墓が見つかるのなら、それはそれでいい。だが墓さえなかったら手を合わせることも出来ないだろ。……俺は確かめたいだけなんだ。エゴの結末を」
身じろぎをすると水面がさざめいた。湯船に浮かんでいる薔薇のつぼみがほどけ、排水溝へ流され、そして消えてゆく。
|
home |