※オフ本のサンプル
※シン中心シリアス。話はちょっと重めですがハッピーエンドです。
※CPなしオールキャラのつもりで書いていますが、同工場でソルカイを生産しています。
※聖騎士団時代にタイムトリップしたシンが聖ソルに助けられたりしながら15歳のカイに一人の人間として向き合う話。
※名前付きモブがちょっと出ます。いつも通り捏造設定過多です。










01 


 ――水晶の内に眠る父親を見て、その時オレは確かに、きれいだ、と思ったのだ。


「……なんで?」
 だけど同時に、こんなきれいさならいらない、とも思う。
 こんな、死んだみたいなきれいさなんて。
 死んできれいになるなんて…… かみさまみたいに祀りあげられてうつくしくなる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ なんて、オレは絶対に願い下げだ。
「なんで……カイは……こんな……」
「空間を時間軸から切除して凍結処理がされている。まあ、理屈で言えばバプテスマ13の時にギアメーカーがカイに施したものとほぼ同じだ。カイは眠り続ける。さながら結晶化してクリスタルになった聖人の如く、永遠に」
「ふざっけんな! オヤジ!! なんでこんなこと――」
 オヤジの胸ぐらを掴み、けど、そこで握り締めたままオレは立ち尽くした。オレは恐ろしいことに気がついてしまったのだ。オヤジがオレの手をはね除けない。拳骨を落とさない。怒鳴り声をあげない――どれ一つ、有り得ないことだった。オレが身勝手にオヤジに怒ってるこの場面では、絶対に。
「術者は俺だ。その気になれば今すぐにでも解除は出来る。だがそいつだけは許さん。俺はカイを失いたくない……いや、失うわけにいかない」
「おい……待てよ。カイを失う? どういう意味だ? まさか死ぬのか? このままだと?」
「死ぬならましだ。このままだとこいつは消える」
「はぁ!? き、消えるって」
「世界か、或いは世界の理を自由に操れる何者かにとって、カイが生きる未来は不都合だったらしい。このままだとコイツは、この歳まで生き延びて世界を治める王になったという事象を書き換えられ、この世のどこからもいなくなる。代わりに、十五歳で死んだ聖人君子様として世界中の聖堂にイコンを飾られて神様天使様と崇められる―」
 ああ、最後のだけは、今と変わらねえな。
 吐き捨てるオヤジの声は恐ろしく冷めきり、オレは固唾をのむしかなかった。ぶわりと冷や汗が吹き出る。背筋を母さんの氷より冷たいものがなで上げる。嘘だよな。おい、嘘だって言ってくれよ。だってそんなバカなことってあるか? カイが――オレの父さんが、この世から消えてなくなっちゃうって?
「嘘、だよな?」
「嘘じゃねえよ」
「だってオレ、ここにいるじゃん。カイが消えたら息子のオレだって消えるはずだろ」
「俺がカイを眠らせ、時の流れから隔離したことで辛うじて存在証明を繋いでいる。この水晶体の中は『どこでもない空間』だ。これがある限り敵はカイを決定的に消すことが出来ない。俺の法術がもたなくなるか、テメェが過去で取り返しのつかないヘマをやらかすか。そのどちらかが訪れるまではなんとかしといてやる」
 オヤジが淡々と告げる。オレは胸の内に抱えた心臓が今にも息を止めてしまいそうな気持ちになって、オヤジから目を逸らした。その先でカイは傷ひとつない美しい姿のまま時を止めて眠り続けていた。永遠を氷の中に閉じ込めたみたいに。百年、二百年経った後もそのようであるように。両手のひらを胸元で合わせ、いつも服の下に提げている十字架を握り締め、神様と世界と母さんに祈る時みたいに、目を閉じていた。
 オレが一番嫌いな姿だった。
 オレは小さい頃から、十字架に祈るカイの姿が、この世で最もうつくしいものだと感じながら、ひたすらに憎らしかった。
「シン、テメェは」
 低い声が、大理石で出来た聖堂の床を這ってオレの耳まで届く。父さん。どうしてだよ。オレたち、最近うまくやってたよな。長く続いた親子げんかが終わって、国や世界を襲う危険もなんとか退けて。オヤジがスーパーヒーローみたいに活躍して、カイは世界の表舞台に立って人とギアが共存する世界っていう夢を一歩ずつ進めてて、母さんはそんなオレたちを暖かい家で待っていて、エルやラムも幸せに暮らしててさ。
 なのにまだオレの父さんは――カイ=キスクは、世界から何かされなきゃなんないのか。
「テメェはカイを守れ」
 父さんは祈る。動かない彫像の中で。世界を誰より救おうとしている人が、世界の方に疎まれ、オレたち父子は、そのさだめに抗おうとしている。
 どれだけ馬鹿げたことだと言われても、オレたちにとって、それより大切なことなんかないから。
「俺にはその役が果たせない。だからテメェの全てを賭けてでもカイを生かすんだ。世界のためなんかじゃない……ただ、テメェの大切なもののために」
 オヤジの手がオレの顔を掴む。オレは無理矢理顔を上げられ、ずっと直視出来なかったオヤジの目を真っ直ぐに見なきゃいけなくなった。ヘッドギアとぼさぼさの前髪の間から覗くオヤジの両目は、血も涙も涸れ果てたみたいに淀んでいた。オヤジは己の無力さを噛みしめていた。そして同時に、オレに全てを託さざるを得ない不甲斐なさを悔いていた。オレは地団駄を踏んだ。世界中全てに対して怒りの声を上げたくてしかたなかったが、出来なかった。
 オヤジの気持ちが、オレには痛いぐらいわかる。
 オレたちは同じだ。オヤジだって、出来る事なら自分の手でカイを守りたかっただろう。まだひよっこで危なっかしいオレなんかより、ずっと……。
 それでもオヤジは、オレを信じてくれたのだ。
「……わかった。オレがやる。やってみせる。絶対に……絶対にカイを消させやしない――」
 オレは自分の頬を両手でひっぱたき、しゃんと背を伸ばして、再びカイと相対した。カイはやっぱりきれいだった。
 オレはどうしても、何を賭しても、このひとを守らなきゃいけない。


◇◆◇◆◇

 ふあ〜ぁ、とあくびをしていたら、後ろから拳骨を落とされた。凝った意匠の手袋、その下から覗く黒いインナーにぴっちりと覆われた筋骨隆々の腕。間違いない。オヤジ……あー、いや、ソルだ。聖騎士団第七小隊隊長、ソル=バッドガイ。
「まだ慣れねえ……」
「あ? 何にだよ」
「あんたにだよ。オヤジって言うと怒るじゃん。でもオレ、あんたのこと『ソル』だなんて、ずっと呼んでこなかったからさ……」
 オレがぶつくさ言うと、「当たり前だ、テメェみたいな出来の悪いクソガキを子供に持った覚えはない」と追い拳骨を落とされる。あー、この感じ、ほんと変わらない。オレを育ててくれたオヤジと全部一緒だ。だからやっぱり、こいつは過去のオヤジで間違いないのだ。
 オレは空を見上げた。
 屍肉漁りの禿鷹どもが、不吉に朱く染まった空をぐるぐると旋回している。地上にある肉塊を目ざとく狙っているのだ。でも地上にオレたちがいる限りは、ビビって近づいてこない。オレたちは強い生き物だから。この世界では、オレが暮らしてきた世界よりずっと弱肉強食のルールが強い。
「ギアの肉なんか食べてうまいのかなあ」
「食わなきゃ死ぬんだ。それに宿主の活動が止まってさえしまえば、ギア細胞も活動を止めて全部壊死する。屍肉を食ったところで転移はしない。人間はギアに対する恐怖心が強すぎて、よほど貧に迫らない限りギア食に手を付けられないだろうがな」
「うえ。やめてくれよ、オレたちだってさあ……」
「――二人とも、このあたりは片付きましたか?」
 雑談の最中、急に鈴が鳴るような声が降ってくる。オレは心臓がヒュンと急降下するような心地を覚え、思わず胸を押さえた。ああ、よかった。ほんとに。この先を口にしてたら、オレたちは、今夜の食事にありつけないどころでは済まされなかったに違いない。
「あ、ああ! だいじょーぶ! ここら一帯、全部死んでる。討ち漏らしもないと思うぜ」
「……? どうしたんですか、そんなに慌てて。ああ、メダルでちゃんと報告しなかったから?」
「そ、そう。そんな感じ……」
「もう……そう思っているのなら、次からはちゃんとすぐに報告を上げてくださいね。まあでも、シンはソルに比べたら全然ましですから。すぐメダルを壊さないし、書類も……提出の努力はするし。中身はともかく」
「こいつバカだからな」
「出さない人はバカ以下です。ああいえ、シンが馬鹿だってわけじゃなくてですね……!」
 ソルの売り言葉を素直に買ってしまったカイが、すぐにはっとして青ざめ、ぶるぶる首を横へ振ってオレに謝ってくる。別にいいのに。オレの知ってるカイなら、「あなたは馬鹿じゃないんですから、もう少し進歩というものを覚えなさい」とかなんとか、もっと冷たいことサラって言ったりするしな。
「仕方ないよ、オレがバカなのは本当だし。文字の読み書き、昔ほどじゃないけどまだ自信ないしな。……それより、カイが来たってことは第七小隊の担当地区以外も制圧完了したってことだろ? なら、本部に帰ろうぜ」
「あ、そうでした。撤収の声を掛けに来たんです。パリへ帰りましょう、ソル、シン。私たちは人間ですから、休まねば次の戦いに備えられませんもの」
「そうそう。オレもう腹減っちゃって……」
 適当に口を合わせ、立ち上がる。オレが帰り支度を始めた事に気がつくと、ソルも煙草を口から外し、その辺にポイ捨てして靴で踏み潰した。カイはそんなソルを「ポイ捨て厳禁」とでも言いたげに睨み付けたが、溜め息を零すだけでそれ以上は何も言わない。あたりにはもうギアの屍体と瓦礫しかないのに、そんなことを一々言ってソルの機嫌を損ねるメリットはどこにもないからだ。
 こうして見るとカイって案外、小さな頃から合理主義だったんだな。
 ……オヤジが口うるさく愚痴っていたより、よっぽど。


 パリ本部に帰ってきて、烏の行水場みたいな大浴場をくぐり抜ける。そこから全力でベッドに向かって駆け出し、やっとの思いで自室に戻った頃には、もう深夜を大分回っていた。日帰りで隣国まで遠征なんかするからこうなるんだよな。まあ、仕方ないんだけど。オレはごろりと寝返りを打つ。聖騎士団はいつだって人手不足だし、人間全体が物資不足に喘いでいる。
 ――うん、そう。聖騎士団、だ。
 オレは今、聖騎士団に所属している。あのお伽話の世界みたいに感じていた、人間とギアがドンパチするだけの時代にいる。なんでかっていうと、水晶に閉じ込められたカイの前でオヤジに誓いを立て、過去へ向かい……その足でパリの聖騎士団本部に志願兵として入団したからだ。
 オヤジがあらかじめ手回しをしてくれていたのに乗っかり、過去へはアクセルのおっさんに連れてきてもらい(片道切符でゴメンとか言われたけど、深く考えている余裕なんかなかった)、そのままこの時代のソルにも話をつけ、聖騎士団への橋渡しを頼んだ。ソルがどんな反応をするかが若干気がかりだったんだけど、思っていたほど、どうということも起こらなかった。
 ただ、ソルは、オレを見るなり「こいつは俺の同類か」と言った。それから複雑な顔色で未来の自分からだという頼み事を引き受けた。
 そんなこんなでトントン拍子にパリ本部配属になり、クリフのじいさんにもなんか気に入られ、早三ヶ月。聖騎士団での生活は順風満帆にいっている。まあ、オレはもともと、 同族ギア を殺すことに抵抗がなかったしな。向こうがどうしても殺す気だって言うなら、オレもそうやって立ち向かうしかない。そこには相手がギアだからとか人間だからとか、そういう線引きは存在しない。賞金稼ぎとしてのオヤジはオレにそういう生き方を叩き込んでいたし、カイだって、相手に降伏の意思や良心のかけらが見出せないときは、そういう殺し方をした。
 多分だけど、それは、戦争が二人に刻み込んだ戦い方だったんだろう。今になってオレはそう考える。昔のオレは時々、何故か二人に共通している謎の思いきりの良さに首を傾げることがあったんだけど――だってオヤジとカイって普段は主義主張がデコボコだし――でも、こういう世界で生きてたら、生き残るためにはああならなきゃいけないんだと思う。
 何が言いたいかっていうと、そのぐらい、このくすんだ血まみれの世界の人間は追い詰められてるってことだ。
 なにしろこの世界の人間には、時間も余裕も何一つ残されちゃいなかった。一番物資を回されてる聖騎士団だって、相当遠くで緊急の時でないと飛空挺ひとつまともに動かせない。可能な限りは、馬に乗って日帰りで行かされる。正直無茶苦茶だと思うけど、仕方がない。なんたって、あのソルが文句を言わずに行ってるぐらいなんだから。
 それを考えれば、今日の「突貫日帰り遠征」なんて随分マシな方だ。なにせ明日はオレもソルも、それにカイも休みを貰える。オレたち三人全員が揃って休めるってことは、本当にどん底ってほど、限界ギリギリにきてるわけじゃないってことだ。
「人間は、休まねば次の戦いに備えられない、か……」
 帰りがけにカイが言った言葉を口の中で転がした。人間。人間、か。オレもソルも。今のところ、オレたちは、この組織の中で人間としてカウントされている。まあ、そうじゃなきゃとっくに殺されてるけどさ。それでもなんか、オレたちが本当はギアだってことを隠しているのは、ちょっとばかり後ろめたい。
 でも、どんなに後ろめたくても、やましくても、カイを守れるならそれでいいんだ。だからオレたちは人間ってことになっている。カイが求める限り、オレたちは人間であり続ける。
 それが、三ヶ月前にここへ来て、オレとソルが最初に取り決めた約束事だった。カイがオレたちにそう願う限り、世界がそれを求めている限り。オレたちはカイに嘘を吐き続けるのだ。
 これは、ソルだけじゃなくって、オヤジとした約束でもあった。「その時≠ェ訪れるまで絶対に正体を悟らせるな。いいな。もしそうなればカイの生きた歴史は永遠に失われるだろう」。――それが、オヤジがオレにくれた最後の忠告。オレはその約束を遵守する。聖戦が続く世界では、ギアってやつは、オレが生まれ育った時代の数十倍……いや、数千倍、恐れられ忌み嫌われている。見つかった瞬間皆殺しにされるぐらいに。
 それはもう、差別とかそういう生ぬるいものではなくて。生きるための残酷な区別。生存するためのカテゴリー分け。不可侵の領分。死にたくないがための、ナワバリの明文化。そのぐらい、あまりにもはっきりしていて、どうしようもないものなのだ。
 だからなのかな。「オレがいた未来では人とギアは少しずつ歩み寄りを始めていた」って話した時、ソルはオレに同情のそぶりを見せた。かわいそうにな、これからさぞ傷付くことだろう、ぬるま湯から来たテメェは。そんな顔してオレを見ていた。心外だっただけに、良く覚えている。
 でもオレは、それに反論はしないでおいた。なんでかっていうと、そのへんも前もってオヤジに言い含められてたから。ソル――過去のオヤジにとって、打算も何も無く人間となれ合うギアなんてのは自分ぐらいがせいぜいで、そうそう存在しないものだった。オヤジは微妙な顔をして、そう教えてくれていた。特にオレみたいな、自分がギアだ化け物だみたいな難しいことを考えずに人の味方をするようなギアは……あの時代じゃ有り得ないから、って。
 オレがあんまそういうこと考えないのは、毎日呪いみたいに「俺は化け物だからな」って言い続けてたオヤジと、逆に、「人もギアも同じ生き物ですよ」って言い続けてる両親を見てきた影響が大きいんだけど、そのへん、オヤジはどう思ってんだろう?
 ま、今となっては、確かめようがないことだ。
「シン、寝てますか?」
 オレの長ったらしい考えごとを遮るようにノックの音が響き、カイが部屋へ戻ってくる。オレはむくりと起き上がり、「起きてるよ」とひらひら手を振った。
 自分の部屋でもあるっていうのに、入る度、カイは必ずノックを欠かさない。本当、律儀だと思う。
「遅かったじゃん。風呂が混んでたから?」
「それもありますが、クリフ様への報告が長引いてしまって。今日はあなたがた第七小隊に特別よく働いてもらいましたから、そのことをきちんと伝えねば、と」
「オレとソルがやったのなんて、カイが避難誘導を済ませた地区で好き勝手大暴れしたぐらいだろ。本当によく働いたのは第五小隊の方だよ」
「そんなことはないですよ。第七小隊がいなかったら、こんなに早く殲滅を済ませて全員が帰還することはなかったでしょう。今日の群れには、大型も何体かいましたから」
 オレの隣にぽすりと腰掛け、カイが訥々と言った。相部屋に設置された二段ベッドのうち、上段がカイ、下段がオレ、という配置になっているので、何か二人で話をしようという時は、こうやって二人で並んで下段のベッドに腰掛けるのが常になっていた。
「ああ……安定して大型を相手取れるの、オレとソルと、カイと……あとクリフのじいさんぐらいなんだっけ」
「個人だとそうなりますね。それでも、あなたとソルが来てくれてから、随分と楽になってはいるんです」
「カイもじいさんも指揮官だもんなあ。ずっと前に出てるわけにはいかないって、オヤジが言ってた。だからさ、その代わり、オレとソルのことどんどん前線に出してくれていいし」
「ふふ。出た、シンの『オヤジ』さん。その人の話をする時、いつもあなたは嬉しそうな顔してますよ。私も会ってみたいなあ……」
「あー、うん。そのうち、いつかな」
 ぽりぽり頬を掻いて、オレより一回りも小さなカイに照れ笑いを返す。オレと二人きりの時、カイはほんのちょっぴりだけ、オレに甘えるような仕草をすることがある。
 どうも十四歳のカイにとって、図体が大きいオレは兄みたいなものとして捉えられているようなのだ。自分の父親から兄扱いされるなんて最初は全然しっくり来なかったけど、何ヶ月も一緒の部屋で寝起きしてギアを殺して回っているうちに、もう慣れてしまった。
「明日のお休みはどうしますか?」
 カイが尋ねる。オレの手を握り、年頃の子供みたいな顔して。
 オレはかぶりを振る。カイの顔が持つ意味を、オレは正確に理解出来る。だってそれは、オレがまだ一歳にも満たない頃、仕事に行く父親の裾を引いている時に浮かべたものだったから。
 一緒にいて欲しいっていう、すごく単純な気持ちが、よくわかるから。
「いいよ。カイが行きたいとこあったら行こうぜ。ソルも誘ってさ」
「本当!? 嬉しい! ねえ、そしたらセーヌ川の方へ行きましょうよ!」
「もち。今飛んでる鳥、なんだっけ」
「かもめですよ。ちょうど内陸に出てくる季節なんです……」
 オッケー、それじゃ、また明日の朝。はにかむカイの額におやすみのキスをして、オレはベッドの上段へ昇っていく。下段からそんなオレを見送ってカイが手を振っている。たぶん、オレは明日、カイがしてくれるおはようのキスで目を醒ます。
 オレたちは毎日、家族のキスをする。この世界でオレとカイは他人ということになってるし、ソルには「団員に知られたら面倒なことになるから気をつけろ」と言われていたけれど、オレはべつに、これは変なことではないと思っている。
 だってそのキスは、オレが昔、父親にしてほしくてもらえなかったぶんで。もしくは、オレが昔、母さんにしてもらえて嬉しかったぶんで。
 そしてなにより、カイが誰にももらえなかったぶんを、オレとソルとで手分けして渡すようにしている、それだけのことだから。
「おやすみカイ、いい夢を」
「あなたも」
「うん。それじゃまた明日」
 ――カイには両親がいない。
 父親も母親も、顔も名前も見たことさえないんだっていう。
 そんな簡単なことを、オレはカイの息子なのに、ここへ来るまでまったく知らなかったんだ。



(中略)


 しとしとと雨が降り注いでいた。例年より少し早く訪れたという雨期が、図書室の雨をぐっしょりと濡らしている。オレはあくびをして窓の外から目を戻した。机の上には参考書と問題集が積まれていて、それから、二冊のノートが広げられている。片方は几帳面な綺麗な字。もう片方が雑で形も曖昧な字。
 カイとオレの字だ。
「十二法階基礎理論の話は前回一通りしたが、シン、覚えてるか」
 手袋がはまっていないソルの指先が、オレのミミズが這いつくばったあとみたいな文字をトントンと突く。ちょっと待って。このへん確か、前回ノート取った部分なんだ。ええと……法術は聖天貸法って呼ばれる六百六十六種類の術に分類出来て、そのうち六つが禁呪で、だから、ええっと……。
「……。わかんねえ……」
 オレが三秒で匙を投げると、ソルは溜め息さえ吐かず、カイに匙を放り渡した。
「だろうな。カイ、教えてやれ」
「はい。あのですねシン、十二法階基礎理論というのは、聖天貸法とはまた別の話なんです。要は、聖皇庁が始めにパッケージ化して配布した十二種類の符号化規格のことで……中でも、第四法階と第七法階、そして第八法階がポピュラーに使われています。第四法階は炎や水など四元素の記述に適していて、シンプルな記述になる分高速です。第八法階は、音や光に関係するちょっと複雑な法術式によく用います。ちなみに私は第七法階が一番好きです」
「……? ぜんぜんわかんねえ……」
「う〜ん……このあたり、けっこうソルが噛み砕いて説明してくれてたような気がするんですけど……シン、そのノート、一体何が書いてあるんですか?」
 オレが「まるでわからん」という顔で疑問符を乱立していると、カイはちょっと呆れたような顔をして(子供のカイがこういう顔をしてオレを見るのは、すげー珍しい。というか勉強会の時しかしない)、オレのノートを取り上げた。そしていもむしの大行進みたいな文字列とにらめっこして、三十秒ぐらいがんばり、匙を投げるようにオレの前へ戻す。
「シン、このノート、読めないですよ」
 カイはふるりと首を横へ振った。
「ちょっと……だいぶ、可読性が低いというか。象形文字みたい……」
「オレにはギリギリ読めるぜ」
「だめですよ、ノートはみんなが読めるように作らなきゃ。ねえソル」
 カイが溜め息混じりにソルへ目配せをする。カイに名前を呼ばれ、学術書を捲りながらガリガリと筆記をしていたソルの手がそこで止まる。わら半紙に書かれたソルの字は、カイより雑だけど、オレの十倍ぐらい読みやすい。
 ソルは小難しい式がたくさん書かれている紙から顔を上げると、ちらりとオレのノートを一瞥し、「改めて見ると確かにひどいな」とかぶりを振った。
「どうやらテメェのオヤジはろくに筆記訓練をさせなかったらしいな」
「それほどでもないかな!」
「褒めてねえからな。……まあ、カイならともかく、シンに十二法階を全部理解しろとは言わん。せめて自分がよく使ってる符号ぐらいは覚えとけ、って話だ。シン、なんでもいいから法術使ってみろ」
「今?」
「そうだ。かんたんで、周りに害の及ばないやつな」
「うん」
 図書室だもんな、ここ。オレは頷き、指先に意識を集中させる。紙がいっぱいあるから火はダメ、あと水もダメ、雷も厳しそう、ってことは風か。あとは明かりを灯すようなやつ。
 オレは法術の意識的な制御がからっきしなんだけど――オヤジ曰くは、母さんからの遺伝、すなわちギアの資質で強引に使ってるらしいので――過去に来てからは少しずつ勉強するようにして、四属性の使い分けぐらいはなんとか出来るようになってきた。まだ全然大雑把だけど。それでも、カイは「シンには才能がありますよ」とにこにこ笑顔で褒めてくれる。カイが笑顔で褒めてくれると、なんか、頑張れるんだよな。オレって単純なのかも。
「えいっ――」
 オレが手を振ると、そこからつむじ風が巻き起こり、机中の書類が巻き上がって宙を舞った。カイが「あっ」と小さく声を漏らす。ソルの顔が「やりやがったなこの阿呆」というふうに歪み、チッという鋭い舌打ちが聞こえてきた。あっ、やべ、やっちまった。やっちまった……風の法術使うのは、うん、この場では失敗だったな……。
「シン…………」
「うん…………」
「紙、拾いましょうね……」
 図書室中に舞い上がった紙を指さしながら、カイが困り眉で言ってくる。オレはもう一度力なく「うん……」と頷き、立ち上がった。オレがちらりと目をやると、既にソルは視線を下へ戻していて、なんとか守りおおせた数枚のわら半紙に没頭していた。インク瓶が引っ繰り返っていないのが、多分、不幸中の幸いだった。
 はあ……。
 大人しく、明かりをつける法術の方にしときゃよかった。
 オレはしゃがみこみ、床に散らばった紙を拾い集める。いやでも、明かりをつけるやつ、苦手なんだよな。第八法階だっけ? さっきカイが言ってたやつ。あれ全般苦手なんだ。なんかせせこましくてさ。
 そういやカイは、第七法階が一番好きって言ってたけど、あれ、何に使う法階だっけ。
 そんなことを考えながら再び立ち上がると、トントン、と角張った優しい手がオレの肩を叩く。
「うん?」
「シンくん、こっちに飛んできた分、拾っておいたぞ。勉強熱心なのはいいが、ここは一応図書室だからな。つむじ風はミスチョイスだな」
 振り向くと、ずんぐりしたクマみたいな体格のおっさんがオレに紙束を差し出してきていた。
「……あ!」
 オレは見知った顔に表情をほころばせる。この人はすごくいい人なのだ。なんたって、一部では「特攻野郎Aチーム」とかわけのわかんない恐れ方をされている(らしい)オレとソルに対して、物怖じしないで話し掛けてくれるんだから。
「マクスウェル小隊長。サンキュ!」
 紙束を受け取り、にかっと笑う。するとマクスウェル小隊長――第三小隊所属、ジェームズ・パディントン・マクスウェル小隊長も、蜂蜜を見つけた絵本のクマみたいに笑った。
「どういたしまして。今日は何の勉強をしているんだい」
「十二法階の話。先週もソルに教えてもらってたんだけど、オレ、あんま覚えてなくてさ。今、カイと復習してたんだ。マクスウェル小隊長は?」
「私は資料を取りに来ていてね。治癒術をもう少し修めておきたくて」
「へえ……」
 オレはふかぶかとその言葉に頷いた。治癒術……治癒術か。なんか、ぽいな。マクスウェル小隊長は、体格がでかくていかついんだけど、顔つきは優しいし、マジで絵本に出てくるクマって感じの人なのだ。戦いのスタイルも、攻撃よりも守りに特化していて、第三小隊の生還率の高さは、ひとえにマクスウェル小隊長のガードとブロックのおかげ――って話もあるぐらい。
 それに、戦場で一番役に立つ法術が何かって聞かれたら、まず間違いなく治癒術だ。次に水。その次炎。風と雷は三の次。結局、敵を殺すよりも味方の命を繋ぐ方が、大事だし難しい。そのことを、戦場に出るようになって最近は特によく考える。
「治癒ならそこにひとそろい初級テキストを出してる。読むか」
「ああ、助かります、バッドガイ殿。私は法術はからきしでなあ、でも腕っ節だけじゃあ、この先何かと厳しいでしょう」
「腕っ節も大事だと俺ぁ思うがな。坊やなんかいい例だろ、歩く人間砲台みてえなことやってるからいつまでも体が育たないんだよ」
「えっ!? ちょっとソル! なんですかその言い方!! 確かに私は、シンやソル、それにマクスウェルさんに比べると、いくらか――だいぶ――貧相、です、けど……」
「はは、とんでもない。バッドガイ殿、あまりカイ様をいじめるのはよしてくださいや」
 ソルがまたいつものクセでカイをからかい、マクスウェル小隊長がそれをたしなめる。
 うーん、出来たオトナ、ってやつだな。ソル(っていうか、オヤジ)は時々子供っぽい事をカイに対してやったり言ったりするんだけど、マクスウェル小隊長にはそれがない。オレもいつかは、ああいうオトナになれるといいのかなあ。
 そんなことをぼんやり考えながらソルを除く三人がかりで紙を拾い集め、また机の上に戻し、椅子に座った。マクスウェル小隊長が端の席で治癒術のテキストを読み始めると、カイはオレの隣に改めて腰を下ろし、「いいですか、シン」とオレの手を取る。カイの手のひらは、さっきつむじ風を起こした人差し指をふにふにと触り、何かを確かめている。
「シン、先ほどあなたが行使した術の構成式、紙に書けますか?」
 カイがいたってまじめな声音でそう尋ねた。
「えっ? うーん、あー、たぶん。まず励起に精霊へのコンタクトを簡単にやって、演算は……大雑把に……こう、気合いで……」
 オレは自分の指先をふにふにして柔らかい手のひらから解き放ち、羽ペンをノートに走らせる。自分が使っている法術を演算式に直すそのやり方は、オレが過去へ来てから覚えたことの一つ。「学を身につけろ、多少は手伝ってやる」という言葉を守り、ソルが根気よく教えてくれたのだ。
 ……まあ、それにあたってオレとソルは、オヤジがオレに基礎を教えないで匙を投げた理由に直面することになったんだけど、それはまた別の話。演算式を書き起こすなんてのはどうも法術を使う上では初歩中の初歩らしいんだけど……感覚的に「デカイ雷!」「早い雷!」「黒い雷!」と考えるだけでなんでもぽんぽこ出していたオレにはろくすっぽ理論が備わっていなかったので、そもそも、式を書くための言葉を何一つ知らなかったんだよな。
「風の演算は、普通、大雑把には出来ないんですけどね。まあいっか。ええと……このコーディングだと……うん、一応ベースが第四法階になってて、ところどころ第七法階の時のクセが出張してるのかな。シン、何故ソルがあなたになんでもいいから法術を使うよう促したのか、わかりますか?」
「え? いや、ぜんぜん。なんで?」
「あなたの一番得意な法階を探るためですよ。どうもシンの得意は第七法階みたい」
 そうして、「わたしとおなじですね」と、カイが微笑んだ。
「第七法階は、一般に治癒術や結界術によく使われます。シン、あなた、もしかしたら治癒の大技が向いてるのかも」
「ホントかあ? オレ、雷しか自信ないよ」
「ほんとほんと。若干、コントロールに微に入り細を穿つ作業が必要なんですけど……気合いで雷とかつむじ風を起こせるなら、まあ、なんとかいけるんじゃないかな。詠唱の呪文、教えますから。覚えておくといいですよ」
 オレのノートを横から引っ張って、カイのペンがさらさらと文字を書き連ねていく。読みやすいクセのない筆記体。オレが小さな頃、自宅の執務机で、休みの日も書類にサインをしていた時に見たのとそっくり同じ……いや、それよりもっと綺麗な筆跡。
 それが今、サインではなく、オレのために詠唱のスペルを記している。オレは舐めるようにカイの字を見た。オヤジの文字と違って、小文字の一つを取っても、他の文字に化けちゃいそうな曲がり方はしていなかった。几帳面な性格って言えばそれまでなんだけど、何故か複雑な心地がした。
「……悲嘆に伏せし背に、添える手は愛。欲心に慎ましく……世俗に真理あらば、寛容に。健やかに心育む時、四海はその涙。=c…シン、これはね、お祈りの詠唱なんです。法術の詠唱呪文には色々種類があって、お祈りはその一つ。治癒とか、防護とか、その系統の法術式はだいたい祈祷文で励起することが多いんですよ」
「なんで?」
「さあ……。人を癒すとか、守りたいだとか、そういう術は、みなさん祈ったり願ったりして使うものだからなのかな、やっぱり」
 どこか他人事めいて呟く。カイは息をしているだけで祈られるけど、自分で祈ったことはないんだろうか。
 オレがそれを尋ねると、カイはこてんと小首を傾げて見せる。
「私はいつもお祈りしていますよ。神様に、それから世界に。朝と昼と夕と、『どうか人々が幸福になれる世界が訪れますように』と」
「……世界って。もっと……身近な人のことは? ソルとか……ベルナルドのおっさんとか……クリフのじいさんの無事とかは、祈らないのかよ」
「祈りません。だってそれは、祈っても仕方のないことですから。私が祈らなくてもみなさん強いですし、けど、それでも、みんな死ぬ時はいつか死ぬんです。死んじゃったら、おしまいですよ、仕方ないけど」
「……自分のことは」
「それこそ、最も、どうしようもないことです」
 ――ただ祈るよりも、力を付けて、ギアを殺して、殺して、殺して、そして生存者に治癒を掛けた方が、効率がいいんですよ。
 カイが言った。丘の上の鐘を朝と夕と決まった時間に鳴らす羊飼いのように。
 オレは息を呑む。
 唇が震え、ぴたりと貝のように閉じ、開かない。
 それからしばらく、カリカリとペンが紙をひっかける音だけが図書室に響き渡った。オレたちがざわざわおしゃべりをしていた図書室は、急にしんとして、誰もいないみたいにじっと静まりかえった。
 オレはぼんやりとカイの書き記した祈祷文を確かめる。この祝詞をオレは知っている。バプテスマ13の時、或いは慈悲なき啓示との戦いの時、父さんが口にしていた祈りの言葉と同じだったから。父さんが――みんなを守るために口ずさむ祈りが、鳥の朝鳴きみたいに心地よくて、柔らかく、あったかくて……大好きだったから。
 あの時オレの父さんは、世界のためよりもオレたち家族のために祈ってたって、オレはずっと、そう思っているのに。


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