それがすべて夢ならばよかったんだ
 俺は悪い夢にうなされているだけで
 目を開ければ君が心配そうに俺を見ていて
 「大丈夫だよ」と俺は笑う

 きっと俺と君は勇者と姫なんてそれこそ夢物語のような役柄ではなくて
 どこにでもいる、普通に幸福な恋人達で
 神も魔王も無縁の世界で
 他愛ない日々を過ごしていたんだ。



トロイメライ



(……嫌な夢)
 目を覚まして。横たわる自分を見て嫌悪する。夢が幸福であればあるだけ不幸せだった。現実との落差が激しすぎて、たまらなく嫌だった。
 夢見がちな少女のように、目の前の奈落から目を逸らしたがる自分が醜くて嫌いだった。
「どうした」
「……なんでもない。ただの悪夢だ」
「"ただの悪夢"、ね」
 反芻する声に嫌そうに顔をしかめ、目を覚まして初めて声の主――彼自身の具現化した影を見やる。しかめっ面はいぶかしむ顔に変わった。
「なんでガキのカッコしてるんだよ」
「悪夢でも――"彼女"を見た後に自分と瓜二つの男は見たくないだろう。むさいからな」
「……俺は別にむさ苦しくない」
 反論して、しかし彼は小さく「ありがとう」と呟く。大きな体躯でどことなく恥ずかしそうにする彼に、小さな体躯の影は素っ気なく返事をしてベッドに腰掛けた。


「『それがすべて夢だったらよかった』――っていうのはさ。ある種永遠の命題だと思うよ、俺は」
 叶いっこないからさ、と気軽なふうに言って影は続ける。
「お前が今の残酷な現実を切り棄てたいと願うのは、俺が姫に触れたいと願うのと同じだ。それは実現不可能で、だけど甘美な色でもって俺たちを誘惑する」
「……そうだな」
「逃げたくて、逃げたくて、汚ならしい現実から目を背けたくて、でも赦されなくて。剣を握って振り回し、返り血と死を振り撒いて。昔のお前はこんな感じだったな」
「……否定はしないよ」
 かぶりを振って、思い浮かんだ痛々しい過去を端に追いやる。影はそれを淡々と見ていた。眼差しは何も物語らない。
 不意に、問う。
「なあ、"あの頃"より今は厳しいか? 残酷で冷淡で、殺伐としているのか? お前が甘えてるだけじゃなくて?」
「……それ以上は刺さる。俺の硝子の心が砕けちまうから勘弁してくれ」
 指摘の一つ一つが正確無比であまりにも鋭利に飛んでくるものだから、リンクは精神的に参ってしまった。本当、容赦がない――きっと自分だからだろうけど。
 もぞもぞと体を動かし、影の隣に座る。
「でもそれは特殊硝子だな」
 自嘲を若干含んだ顔で、影は言う。
「フィジカルな攻撃には滅法強いがメンタルへの攻撃には滅法弱い。例えるならばハンマーでも壊せないが魔法なら一撃、って感じか」
 隣から伸びてきた手を払わず、影はまるで独り言のような調子で言葉を続けた。言葉は腕で繋がった影の本体に伝わり、少なからず彼を動揺させる。でも二人は表情を変えなかった。
「相変わらず俺のことはお見通しだな」
「昔、一番最初に言った。"俺はお前だ"って」
 普段深層意識に棲んでいる分本人よりも物事は把握しやすい、と短く理由を述べて影は手を握る。とくん、と鼓動の音がした。本体にはあって、影にはないもの。
 限りあるいのちが、燃え盛って生きている音。
 時々影が羨ましく思うものの一つ。
「あれからどれだけ経ったっけ」
 ふと、本体がこぼす。吹雪のスノーヘッドで泣き喚いたあの日から、自分は何か変わったのだろうか? 相変わらずゼルダのことは彼の心の大半を埋め尽くしているし、愚かしいところは何一つ直っていない。大事な妖精は傍におらず、異質な影を隣に置いて精神の安定を図っている。
「俺はどうあればいいんだ」
「理想論を言えば、喪ったことを割り切って過去の懐かしい思い出にしてしまうのが一番良いだろう。それが出来ればだが」
「出来るわけないだろ」
「だろうな」
 本体は即答し、影もまた即答する。わかりきっていた質問だった。
「あのひとは俺の全てだ。彼女より大事なものは要らない。彼女より愛しいものは有り得ない。彼女以上の存在はない――俺はずっとゼルダに縛られたままだ。これまでも、これからも」
「『それを不自然に思ったことはなく、それだけが真実でそれだけが現実』」
 影がすらすらと続きを述べたてるとリンクはそうとわかる程に顔を歪めた。あからさまに嫌がっていた。
 その顔に、影は逆に面白そうに笑う。
「だから、いい加減俺の心を読むのを止めろ」
「それは出来ない相談だな――だって」
 そこで言葉を切り、彼はおもむろに人差し指で床を指す。床には滲むような影が、ランプの明かりを受けて出来ていた。
「俺たちはここで繋がってる」
「……」
「特別何か思わなくても、伝わってくるよ。強すぎる思いの丈はさ」



◇◆◇◆◇



 確かそれは、王国に珍しく雨が降っていた時のことだった。しとしとと降る雨は隠れ泣く乙女の涙に似ていて、物静かな憂鬱さを孕んでいた。
「嫌いだな、雨は」
「そうネ……じめじめして、なんだか湿っぽいことばっかり考えちゃうヨ」
 エポナが嫌がり、思うように先へ進めないのでリンクは止むまで雨宿りをしようと決めてハイリア湖畔の研究所に世話になっていた。研究所所長のみずうみ博士は奇人だが、信頼出来る人間だ。子供の頃から、釣り堀の帰りによく立ち寄っていた。
 雨に濡れた窓から見えるハイリア湖は、涙を溜め込む雨瓶のようだ。溢れそうな水を、彼が先日浄化した水の神殿が……いや、目覚めた水の賢者が必死に調整して、なんとかあの量で食いとどめている。
 頬杖をついて、物憂げに彼方を見やる。小さな溜め息を洩らしては目を細めたり、瞑ったりした。嫌なことばかり考えてしまう。
「ゼルダは……この雨をどう思っているんだろう……?」
 リンクにとって雨はまるで彼女の嘆きのようだった。白くて綺麗な、かつてハイラル城にあった東屋。あそこで彼女が屋根を借りて泣いているような、そんな感じだ。
 勿論そんなことは有り得ない――かつてそれがあった場所は魔王に蹂躙され屍が無造作に転がるような場所になってしまったし、第一ゼルダがそんなところにいたらあっという間にガノンに捕まってしまうだろう。
「何を嘆いているんだろう?」
 夢想を広げ、思考する。彼女が嘆きそうなことはごまんとあった。国の疲弊。魔王の支配。跋扈する魔物。そして思い上がりかもしれないが――自分と、逢えないままに過ぎ去ってしまった七年の時。
「あいたい」
 泣きたそうな声で、ちいさく洩らす。
「逢いたいよ、ゼルダ」
 大きな体躯には不釣り合いな、子供みたいな願いはしかし飾り気も偽りもない彼の本心だった。逢いたい。逢って、君の声を聴きたい。君の瞳を見たい。君の美しい髪に触れて、褒められて恥ずかしがる可愛らしい君の顔を見たい。

 きみに、あいたい。

 だから雨は、本当はリンクの涙なのかもしれなかった。乙女の涙ではなく。強く在ろうとするがために泣けない、リンクの代わりに空が泣いているのだ。リンクが彼女に重ねたものは彼自身の想いの丈で。
 嘆いているのは、彼。
 おもむろに手を伸ばし、そして幾度か握る。すかすかと空気を掴むのみのその手は酷く虚しく見えた。


(…………くるしい)
 恋焦がれる、苦しい感情を彼に寄生する"それ"は感じ取っていた。苦しい。胸がきゅうっとして締め付けられて、痛い。
(……あいたい。ゼルダに、あいたい。だから、くるしい?)
 宿主の心を常に侵食する存在。彼が愛し、焦がれ、しかし守り損ね、影の魔物に生存本能を与えるきっかけとなった存在。
 ハイラルの王女ゼルダ。
(なきたいくらいに、つよくおもう。あいたい。ふれたい。そしてこんどこそ――まもりたい)
 護る。それは影の魔物が初めからもっていたただ一つの絶対であった。何か一つの対象を命を賭して護る。かつて生まれた時は、水の神殿を。力及ばず倒されてからは、宿主の意思と同じく可愛らしい姫君を――。
(でも、おれはリンクじゃない)
 強い宿主の感情の揺れ動きを受けて、影は次第に自我をはっきりとさせていっていた。急速に成長したそれは今、自己の概念を得たようだった。
(おれはリンクのかげ。ゼルダがすきなのは、リンク。おれじゃない。…………おれは、なにをまもりたい?)
 自己問答はそこで終わりを告げた。その問題は難しすぎて、すぐに答えが出るようなものではなかった。
 けれど影は、その時確かに学習して成長した。それは事実だった。


 水の中から生まれた影が得た成長のきっかけ。それはやはり、水――。嘆き、しかし弱さを晒せない勇者の代わりに零される、空の涙だったのだ。



◇◆◇◆◇



「お前の強すぎる感情は、俺に信じられないくらい強く影響するんだ。実を言うと自己の概念を確立したのもそんな感じの時だった」
「……へえ? いつだよ」
「お前の代わりに、空が泣いていた時」
「…………は?」
 わけがわからん、と髪をぼさぼさに掻くリンクにお構いなしにダークは言葉を紡ぐ。
「思い出せないんならまあ……思い出さなくていいってことなんじゃないか。ほら、わけがわからなくなっているうちに悪夢の名残は少し溶けていっただろう?」
「まあ、寝起きよりはましになったな。姫に謁見してくるぐらいの気分にはなった」
「それは良かった」
 すとん、とベッドから降り立つとダークは姿を子供のものから大人のものへと変えた。その様を直視してしまったリンクはうへえ、と嫌そうな顔をする。
「だからもう、直で子供から大人になるのは止めろよ……いくら影たるお前が変幻自在だからって、見てるこっちが気持ち悪いことに変わりはねえんだし」
「知らねえよ、そんなの」
「あと外見に喋り方が依存してるのもどうにかならんのか」
「お前が直さない限り無理。俺はお前の影――オリジナルを模倣して動いているからな」
 図体がでかくなるにつれて口調が粗暴になるお前が悪いんだよ、というダークの意地悪い言葉にリンクはげんなりして、頭を抱える。けれどリンクは少し笑っていた。
「……ありがとな、ダーク。楽にはならないけどそんな感じに錯覚出来た」
「錯覚って言い切っていいのか……?」
「いいんだよ」
 事実、錯覚なんだからな、とリンクは皮肉っぽく笑った。



◇◆◇◆◇



 すべて夢ならば良かったんだ。
 逢えなくて苦しかった日々も、神を呪い嘆いた日々も、忘れたくて血にまみれた日々も。
 全部全部、夢ならば良かった。
 ……そう思わないと言えば嘘になる。
 俺は君のいない日々に絶望して、辛くて、けれどその感覚すら麻痺して、それでも生きている。

 生きている。

 それは一つに死ねないからでもあるし、一つに生きなければならないという思いがあるからでもある。
 だって生きて過去の日々を肯定しなければ、それこそ夢幻のように泡沫に消えてしまうだろうから。
 苦しい過去はそれでも構わない。けれど、過去はそれだけではないから。
 君との想い出は、嘘にはしたくないから。

 この想いは、偽善だろうか?
 欺瞞だろうか?
 苦し紛れの、言い訳だろうか?

 でも、一つだけ確かなことがあって。


 俺は君をずっと、愛してる。




Fin