墓標のない、小さく粗末な墓がそこにあった。墓前に手向けられた花束と線香の類がなければ、そこを墓だとは思わなかったかもしれない。墓はひっそりと隠れるように存在するのみで、あまり多くの客は歓迎しないような、そんな雰囲気を持っていた。
墓の前に座り込んだ男が、徐に立ち上がって墓前を後にする。上質な洋服に身を包み、高貴な出で立ちをしたその男は少し歩いてから立ち止まり、一言、
「また来るよ」
そう言い残してそこを立ち去った。
少年らしさを残した顔立ちにそぐわない、右頬の大きな十字傷が特徴的な男だった。
「兄様。またお墓に行ってきたんですか」
「ああ。何か問題でも?」
「問題ですよ。何が……そんなに、兄様を引き付けるんですか。僕には、それがわからなくて……」
そう言って過保護気味な視線を向けてくるのは弟のミハエルだ。トーマスは、はン、と溜息をついてわざとらしく弟に諭すような顔をしてみせた。あからさまな子供扱いにミハエルの頬がぷうと膨らむ。そうやってすぐ態度に出るから子供扱いのままなんだ、と言ってやるとより一層抗議の視線が厳しくなる。
「だいたいお前は大袈裟なんだよ。墓参りの一つや二つで、何をそんなに咎められなきゃならないんだ」
「ええ。僕だって、我が家のご先祖様のお墓でしたらこんなに心配しませんよ。誰のものかも、いつのものかも、さっぱりわからないのに兄様が足繁く通っているから心配なんです。何か、良くない秘密でもあるんじゃないかって」
「馬鹿言うな。ないよ、そんなものは……第一ミハエル、俺は確かに兄貴には隠し事ぐらいはするが……お前に今まで、そういう真似をしたことがあるか?」
「それは……ない、です、けどっ!」
「そういうことだよ」
トーマスはひらひらと手を振ると宙を仰ぎ見ながらぼやいた。
「あの墓には何もないんだ。名前もないし、中身もない。空っぽだ。墓標だって、単にそれらしい石っころが地面に突き刺さっているだけなのかもしれない。だが俺はそこに行かなくちゃならない。——知ってるんだ。俺は、弔わなければならない誰かがいたということを、知っている。だから花を供える」
「——青い花を?」
「……ああ。何で知ってんだ、おまえ。わざわざ見に行ったのか?」
ミハエルが無言で肯定の意を示すので、トーマスは柔らかく笑って、「ほんとうに心配性だなぁ、お前は昔っから」と弟の頭をくしゃくしゃと撫でた。
トーマス・アークライト、職業はプロ・デュエリスト。ミハエルの自慢の兄だ。極東エリアのチャンピオンの座にいる実力者であり、彼本人のプレイスタイルと出自の良い家柄がもたらす相乗効果によって「最も紳士的なプロ・デュエリスト」とまで呼ばれている。女性ファンが多く、少女めいた容姿をしているミハエルがマネージャーとして同行すると一部の過激なファンにミハエルが絡まれてしまうことも少なくない。ただ、最近になってようやく弟がマネージャーをしているという事実が広まりつつあるらしい。
彼はアークライト家の次男坊で、母親こそ病で早くに亡くしてしまったものの恵まれた人生を送ってきた。優しい父、聡明な兄、愛くるしい弟、それから……勇敢な飼い犬。頬の十字傷だけがその幸福な人生にそぐわない異彩を放つものだったが、どうしてだか、傷を持つことへの疑問はなかった。
十字架の形をした傷痕は、常にトーマス・アークライトと共にあった。戒めの楔のように。
そんなトーマスが多忙なスケジュールの合間を縫って墓参りに行き始めたのは、エキシビションで招待されたワールドデュエルカーニバルが終わって間もなくのことだった。ミハエルが九十九遊馬という少年とひょんなことから交友関係を温め、それを兄に報告しにきた頃にその兆しが見え始め、間もなくトーマスは名前のない墓に足繁く通うようになる。
墓はハートランド・シティの隅にある、さびれた洋館跡の庭に鎮座している。奇妙な色をした双子石だ。それにトーマスは何を思ったのか、数日のうちにその敷地を丸ごと買い取り、屋敷跡ごと墓を自身の私有地にしてしまった。
ぼろぼろの廃屋だったとはいえ、敷地ごと買い取るなんて普通じゃない。正直に言うと、ミハエルは恐れているのだ。兄にそこまでさせる何かを、得体の知れない力をおぞましいと思っている。
(そりゃ、僕だって……兄様に過干渉だって思う気持ちはありますけど……)
こっそり後をつけて行って、そうして向き合ったあの墓を思い出す。本当に小さくて粗末だけど、正体のわからない強い力を確かに感じた。怨念、執念、未練……そういった感情のどれにでも似ていて、しかし正確にはそのどれでもない。背をせりあがっていくぞっとしない何かに凍りつくような恐怖を覚えた。ミハエルは、あの墓が怖い。
(兄様を奪われてしまうような気がして)
墓の中には何もないのだと、そう兄は言ったが、どうもその言葉をそっくりそのまま鵜呑みにしてしまうことはミハエルには出来かねていた。何もないのならば、どうしてお花なんて手向けに行くのですか、兄様。本当の本当に何も存在しないのならば。そりゃあ、掘り起こしたところで骨の一つも出てこないのかもしれない。形のあるものはあそこには残されていないのだろう。だけれども。
(——でも、だとしたら、形のないものは?)
形になっていないから、手で触れることが出来ないから、だからこそ恐ろしい。手で掴めるのならばその姿を確かめることが出来るし、必要なら振り払うことだって出来る。捨てることも。なくすことだって。
だけど今トーマスにまとわりつくものはそうじゃない。目に見えないし触れられない。そこに何があるのかさえわからない。何がトーマスを駆り立てるのか、ミハエルの兄を突き動かし、縛りつけようとしているのか。
ビオラ。ローズマリー。オーブリエチア、クレマチス、そしてブルーファイアー。墓前に供えられていた種々さまざまな、しかし皆一様に青ざめた死人のように真っ青な色をしていた花達を思い返す。いったいトーマスはどのような思いでそれらの花を買ってきたのだろう? それを考えると言いようのない恐怖が迫ってきて、ミハエルは瞬間、息が止まってしまいそうなそんな心地になった。
青い花達に各々付けられた花言葉は、「記憶」「私を思ってください」「君に捧げる」「高潔」そして、
「兄様、トーマス兄様、あなたは……わかってるんですか、それが、どういうことなのか」
——「命を捧げます」。それが、ミハエルが知るブルーファイアーの花言葉なのだ。
◇◆◇◆◇
「それで、俺んとこ来たのか」
「そう。こんなこと、君ぐらいしか相談出来る人が思い浮かばなくて」
「ぶ……クリスとか父ちゃんには?」
「言ったよ。でも、『好きにさせてやりなさい』ってそればっかりなんだ」
ミハエルが溜息を吐いて悩ましげに睫毛を伏せった。彼の本当の名前が「ミハエル・アークライト」というちゃんとした普通の人間らしいものだということを今はもう遊馬も知ってはいるが、実は慣れのせいでまだうまく呼び方を調整出来ずにいる。
遊馬って、変なところで不器用だよね。そんなふうにミハエルが言ってくれた時、もうそばにはいてくれない人間の姿が、ちらちらと脳裏をかすめた。
「でも、相談なんて、俺あんまりうまいことは言ってやれないと思うぜ。ほら、俺、ばかだし。カイトみたいに頭よくねーからなぁ」
「ううん、聞いてくれるだけでいいんだ。遊馬は聞き上手だから、それだけで十分さ。それにどんなに頭がよくたってうまい解決策なんて、この話にはないと思うんだよね」
「んー。お前がそれで構わねえって言うんならいくらでも話は聞いてやるけどさ」
そんなふうに適当な相槌をうって遊馬はまなじりを下げた。
実のところ、遊馬の方には件の名前のない墓には心当たりがあった。遊馬だけは知っている、と言ってもいい。墓がある廃墟のことも、その墓にどのような意味があるのか、どうして青い花をトーマスが選んでしまうのか、そして、何故トーマスが墓に足を運ぶのか、その全てに見当がつく。
きっと世界中で遊馬だけがそれを知っている。
「ありがとう。君がそう言ってくれると、僕なんだか安心するんだ」
「そっか。なら、よかった」
「うん。どうしてだろうね? 君は本当に不思議な人だ……僕ね、家族以外でこんなに心を許せる人って君ぐらいのものなんだよ」
「それはなんか少なすぎねぇ?」
「ふふ。いいんだ、大事なものは、本当に大切なたった少しきりで」
ミハエルがはにかんだ。少女が理想を語るような眼差しは、まっすぐで儚く、昔トーマスが「父さんを恨まないでくれ」と言った時の顔によく似ている。
そのことを、ミハエルはきっと知らないのだろう。彼の兄トーマス・アークライトが一体誰に頭を下げたのかを。
(知ってるのと知らないのと、どっちが幸せなんだろう?)
トーマス・アークライトが誰がために傷を負い、戒めを己に刻み、罪悪と友愛とをないまぜに、しかし、逃れることなく向き合おうとしていたのか。
遊馬にはそれがわからない。でも、たった一つだけはっきりしていることがある。
そのことを知っているのは遊馬だけで、知ることを許されているのも遊馬だけで、だからミハエルもトーマスもそこに辿り着くことはできないということだ。
神代凌牙と神代璃緒というふたりの人間が、かつてそこに存在していたことに。
「ミハエルはさ、家族のことが本当に好きなんだな」
「そりゃあね。僕達兄弟は家族四人で生きてきたから。家族っていうのはね、自分一人だけよりも、或いは大切なものなんだ。とてもとても……そうだね。きっとそれは、何にも代えられないものだから。自分の命でさえも、まかなえっこない」
「いのち」
「そう。生きている限り一番大事なものじゃない? それって。日本語で命あっての物種って言うじゃない。だから……僕はなおのこと兄様が供えている花が嫌なんだ。花言葉、すごく不吉で」
「ああ……『ブルーファイアー』?」
「え、あ、うん。それ。驚いた、遊馬がまさか知ってるなんて」
だってこれ、かなりマイナーな花じゃない? と悪気なく言うミハエルに遊馬は気乗りしないふうに頷いた。確かにあまり知名度の高い花じゃない。でも、遊馬にはそれを忘れられない理由がある。
「昔贈られたことがあるから。『遊馬くん、僕、遊馬くんになら、この命を捧げてもいいんです。この花の花言葉みたいに!』ってさ。すげー笑顔で、忘れろって言うほうが無理」
「うわ……誰、そんなことしたの。僕は遊馬を守る騎士として、そいつを粛清してやらなきゃいけないような気がする」
「もういないよ。あいつはいなくなったんだ。……ところでミハエル、目、マジなの怖いんだけど」
「そう? 普通だよ?」
「普通? なのか?」
ミハエルは至って真面目なふうにこくこくと頷く。仕方ねえなぁ、という塩梅に目を細めて遊馬は彼の頬に触れた。驚いたように目を丸くするミハエルの仕草は、かつて遊馬からアストラルを奪おうとした彼の姿とはあまり似ていない。
大事な人達と、幸福な関係に、幸せな家族に戻ったから。
きっとそうだ。
神代兄妹が世界から失われて、ミハエルやトーマス達家族が歩んだ足跡も、遊馬が見てきたものとは歪んで変わってしまった。
トーマスに会いたい、とふと思った。懺悔の言葉を憑き物が落ちたみたいに投げつけて、シャークに怒られていた?に会いたい。会って話をしたい。遊馬の知っている、「神代凌牙」という男について。それから、彼が身を挺して救った「神代璃緒」という女について。
「お前の家族、元気か?」
「もちろん。トーマス兄様もクリス兄様も忙しそうだけど、元気だよ。トーマス兄様は、墓参りに行く時以外はだいたいそんなに変わりない。たまに、窓の外をぼんやり眺めているけれど……どうだったっけ。昔から、そんなふうな人だった気も、するし……」
「そっか。それなら、もう、ぜんぜんいいんだ」
でもぐっと呑み込んだ。そんなことをしたっていたずらにアークライトの人々を混乱させてしまうだけだ。
それは摂理を乱すことなのだと、きっとあの青いからだをした相棒が隣にいてくれたら言っただろう。
(俺……いつからこんな残酷なこと、自分の気持ちに嘘を吐いて騙すことなんか、出来るようになったんだっけ……)
そうしてふと、自らの指先を見て絶句した。
(ああ)
指先に染みついた目に見えない彼の痕跡にめまいがした。その疑問の答えは決まりきっている。一つしかない。
ベクターに、真月零に出会ってからだ。
神代凌牙と神代璃緒は双子の兄妹だった。遊馬が知る限り彼らはとても強くたくましく、まっすぐな心を持った人間だった。血を通わせて涙を流し、喜ぶことや悲しむことを人並みに知っていた。二人とも確かにこの世界に存在して、懸命に生きていた。自分たちをありふれた人間の兄妹だと信じて疑わずに。
でもある日ふたりは忽然とその姿を消してしまった。
その日をきっかけに世界中から「神代凌牙と神代璃緒という人間」が生きていた痕跡がすべてなくなってしまった。
誰に聞いても「そんな奴は知らない」という答えが返ってくるし、二人が住んでいた家も更地になっていた。D・ゲイザーのアドレスはきれいさっぱり消え去っていた。まるで最初からそんな人間なんていなかったんだとでも言わんばかりに。
神代凌牙と神代璃緒は、ついこの前までそこに存在していたのに。
直前に、ドン・サウザントに浸食されたバリアン七皇のリーダーであるナッシュとデュエルの刃を交えていた遊馬だけは、それが原因なのか、それとももっと別の要因があるからか、二人のことを覚えている。忘れようもない。多分、ナッシュとメラグの同僚であるバリアン七皇達も覚えているのだろう。だけれどもあの一件以来遊馬はアリトにも、ギラグにも、ミザエル、ドルべ、そしてベクターにでさえ会っていないから、それは確かめようがない。
本当は信じたくなかった。ずっと一緒にいた友達がこの世界の人間じゃなくって、そのうえ、もう何年も前に死んでいたなんて信じたいはずがない。
(でも考えているうちにわかった。友達は友達で変わりない。バリアンでも、なんでも。俺にとって神代凌牙は神代凌牙で変わりない)
アリトとはバリアンであるという事実を知ってからも友情を持ち得た。ベクターだって、真月零という嘘を吐いていたと彼は言ったけど、それでも彼はともだちの真月零に相違ない。だったら、神代凌牙がナッシュだったとして、神代璃緒がメラグだったとして、それもやっぱり友達だという事実に変わりはないはずだ。
(だから余計にあんまりだって思うんだ、俺は)
内心で溜息を吐きひとりごちた。向こうがどう思っているのかはわからないけれど……少なくとも遊馬はそういうふうに考えることが出来る。何故なら覚えているからだ。だけど、忘却を余儀なくされそれすらも奪われてしまった人達はどうすればいいのだろう。ミハエルやトーマス、神代兄妹と縁があったたくさんの人達は彼らをもう覚えてすらいないのに?
(それってすごく卑怯なことじゃないか?)
遊馬はアストラルを悼むためにナンバーズ・クラブの面々が建てた小さな墓のことを思い出した。彼らが墓を建てようとした姿勢にミハエルから聞いたトーマスの姿が重なった。
トーマス・アークライトの中で、きっと覚えてもいない二人の人間は、死んでしまったのだ。
「ミハエル、しばらくこっちにいるんだよな。そしたら、なんかあったらまた来いよ。相談ぐらいならいくらでも乗ってやるから」
「本当?」
「ああ。家族に……トーマスに、よろしくな。一回、俺も行こうかな。そのお墓」
「もちろん。ああ、でも墓はおすすめしない。じめじめして……はっきり言うと、いやなところだよ。あそこは。それに場所、わかり辛いし。私有地って言っても遊馬なら兄様も咎めないとは思うけど……」
「場所は知ってる。俺にも覚えのある場所だから。まあ、じめじめしてるってのは俺もそう思うよ」
ミハエルが怪訝な顔をするのでひらひら手を振って曖昧に答えてやった。場所は知ってる。覚えがある。嘘じゃない。その場所は、遊馬の記憶の中で和解して「ともだち」になった(ように遊馬には思えた)凌牙と?が璃緒のためにタッグ・デュエルをした場所だった。
遊馬とミハエルはそこでその様子を二人で見ていたのだ。だから本能的に、「いやな場所」だと感じてしまうのだろうか?
「もし何かあったら教えるよ。トーマスにも、会って話したいことがあるんだ。もしかしたら会えるかもしれない。そしたら、ミハエルが嫌がってたって伝えておくし」
「ふふ、ありがとう」
ミハエルの柔らかい指が遊馬の手を握った。消えない汚れの付いた皮膚をきれいなものに触られている。あてのない懺悔の言葉がぐるぐると遊馬の中をまわる。ごめん。ごめん嘘ついて。何も教えられなくてごめん。本当は全部知ってるのに、きれいごとばっかり並べ立てて、それで騙すんだ。
笑顔を守りたいとか、平穏を崩したくないとか、そんなのは独りよがりだ。本当は遊馬が誰より怖がっている。トーマスが墓に花を供えることも、それにミハエルが不快感を示すことも、「彼らが忘れているけど忘れられなかった」ことが、怖いのだ。
「優しいね、遊馬は」
ミハエルが言った。遊馬は首を振る。
「どうだろ」
ミハエルの言葉が苦しかった。真実を独り占めしてそれに知らんぷりをしている遊馬が、優しいだなんて。そんなことはない。指先の陰鬱な重たさが余計に身に染みた。
「うそつきの、恥知らずだよ。おれは」
そうして彼の手を振り払った。