「遅いですわ。女性を待たせるなんて、あまり感心しませんわね」
「悪い。詫びになるかはわからんが、遠征先で前に欲しがってた菓子折りとブランドバッグ、土産に買ってきた。受け取って貰えるか?」
「……そういう計算高いところ、嫌いだわ……」
璃緒は顔をしかめて差し出された荷物を引ったくった。しかめられているばかりではなく、仄かに赤い。あー、この照れ顔、かわいいよな。内心で一人ごちる。トーマスの好きないくつかの表情のうちの、一つ。
「璃緒が気に入ればいいんだが」
「……ありがとう!」
「そうか。良かった」
つっけんどんに返事をした璃緒にニコニコ顔で応えた。職業柄身に付いたのっぺりした営業スマイルではなく、純粋に目の前の少女が可愛くて仕方ないといったふうのにやついた笑顔だった。
トーマス・アークライトと神代璃緒は題目上、つき合っている、ということになっている。とはいえ十七歳のトーマスに対して璃緒はまだたったの十四歳、女というよりは子供で世間的にはまだまだ幼い。だから実際には幼馴染みの許嫁のようなもので、家同士の付き合いの都合もあって、シスター・コンプレックスと名高い璃緒の兄凌牙も渋々トーマスが璃緒の荷物持ちになることを認めた。
そういった経緯もあり、二人は手こそ繋ぐもののキスもしたことはないし、セックスなんてものはもってのほかだった。アークライトも神代も旧家の家系でそういった不純にはとみに厳しい。しかしそれに慣れすぎてしまったために不満はなかったし、むしろ二人そろって「そんな不潔な」と遠ざけている節すらある。
結局、二人は家が近すぎて殆ど兄妹みたいなものなのだ。璃緒にとってトーマスは、凌牙とさしたる変わりのない存在なのだろう。トーマスは一人でそう結論づけていた。
トーマスにとっても半分ぐらいはミハエルと変わりない認識をしている存在だからそれは仕方ないのだと思う。別段それ以上を望むわけでもない。まだ、という認識がそれを遠ざけている。璃緒を欲しがる一方で、兄としての中途半端な自覚が彼女を純潔のまま守ろうとするのだ。
「お仕事、相変わらず忙しいのね。今回はどこだったかしら。ヨーロッパの方?」
「ああ。オーストリアの親善試合に……久しぶりに実家にも寄ってきた。じいさまもばあさまも口うるさくてかなわない。父さんへの文句をつらつら言われるのも相変わらずだ」
「まあ、それはろくに実家へ帰省しないあなたのお父様が悪いのよ。家に帰ったら言って差し上げるといいわ」
「そうする。俺がいない間、変わったことはなかったか? 凌牙はどうしてる」
「凌牙は元気すぎるくらい元気よ。今日出てくるときもいつも通り不機嫌そうな顔してたから、宜しく」
「……成長しねえなーアイツ……」
「お互いさまでしょ」
璃緒が澄まし顔で言った。この少女は相変わらず大人びていて、ともするとかわいげがない。傍目から見てもはっきりと分かるほどに美少女ではあるので往来で男の目を留めることは多々あるが、あまりにも性格が強気で勝ち気、そのうえキツい——と三拍子揃った扱いの悪さなので校内で声をかける物好きはそういないらしい。
そもそも校内には双子の兄がいて目を光らせている。しかし凌牙も璃緒のスケジュールに朝から晩まで合わせるわけにいかないから、こうして校外のエスコートに信用出来る男が一人必要なわけだ。
璃緒が「旧家のお嬢様ってめんどくさいわね。私、次に生まれる時は庶民でいいわ」と悟りを開いたような目で告げたのは、彼女が何歳の時だっただろうか。
もう、昔すぎてトーマスにはそれがうまく思い出せなかった。
「で、今日はどこのコースだ?」
「もうそろそろ七月になるでしょう、夏物、買い足しておきたいの」
「なるほど。お任せあれレディー」
「その呼び方、好きじゃないわ」
茶化して言うと間髪入れず否定された。
璃緒の買い物は長い。女は大概長いがそのご多分に漏れず長い。彼女のショッピングに付き合えるのは同じく長い買い物をする女友達と、幼い頃から駆り出されて慣れてしまった凌牙にトーマスぐらいのものなんじゃないかというのがトーマスの見立てだった。とはいえトーマスも慣れているとは言っても璃緒以外の女の買い物に付き合える気はさらさらしないから、多分、身内への甘さなのだと思う。
トーマスにとって璃緒は既に身内だった。幼い頃は子供五人で庭のプールに放り込まれたし、風呂の中に入ったこともある。物心ついた頃だが、一緒に寝たこともある。あの頃は、凌牙とトーマスで璃緒とミハエルを挟み、川の字のようにごろごろと並んで昼寝を良くしていた。
もしいつか本当に、取り決められた幼馴染み関係のまま婚姻を迎えることになっても、璃緒はそういう意味で身内のままで、認識なんてそうそう変わらないんじゃないかとトーマスは思う。彼女が綺麗な作り笑顔を始終していなきゃいけないような堅苦しい相手であったことは一度もないのだ。
「ねえトーマス、このワンピースなんだけど、どっちがいいかしら。両方とも捨て難いのよね。私一人じゃうまく決められなくて」
「ああ、どれどれ」
ぼんやりと考え事に耽っていた思考を璃緒の声で現実に引き戻される。見てみると璃緒は二枚のワンピースを両手に一つずつ持ち、大分深い長考をしているといった塩梅の思案顔だった。
右手には水色のシンプルなサマー・ワンピース、左には同じく白色の、やや装飾の付いたワンピースが下げられている。トーマスはふむ、と顎に手を添え璃緒の方へ寄っていくと、まじまじと彼女と二枚のワンピースとを見比べた。どちらの方が隣に立っている彼女が着ていて嬉しいのか——華美な服装を好む父親譲りのトーマスのセンスからすれば答えは一つしかない。
「俺はこっちの方が好きだな。白は清楚な色だし、このぐらい着飾った方がかわいい。よく似合うと思う」
「そ、そう?」
思ったままのことを伝えたのだが何故か璃緒の顔が僅かに赤くなる。トーマスは首を傾げて、「ああ」短い肯定の意を示した。
「それでもまだ悩むようなら、俺が両方買ってやるよ。そっちの水色も捨て難いのはわかる。おまえの髪に似た空の色だ。似合わないってことは勿論ねえし。ただ、俺は白の方が好きだってだけだから」
「ううん、いいわ。こっちの白のだけにする。あなたが選んだって言ったら、凌牙は嫌な顔するかもしれないけど……」
「んなのいつものことだろ。シスコンの凌牙くんからのネチネチした姑みてーな嫌味なんか聞き飽きてるぐらいだ。今更気にもならない」
「でしょうね。それに、私、近頃は……」
そこまで口にして彼女は突然ぴたりと唇を閉じて黙り込んでしまった。何かを言うか言うまいか、迷っている様子だ。トーマスはそれを無理に促さないように気をつけながら璃緒の名前を呼ぶ。
ゆっくりと顔を上げた璃緒は、真っ直ぐに自分を呼んだ男の顔を見て、目を細めた。
「——なんでもないわ」
「そうか」
「ええ。ワンピース買ったら、一緒に靴と鞄も欲しいの。付き合ってちょうだいね」
「勿論。荷物持ちはもうずっと俺か凌牙の仕事だ、わかってるさ」
「……もうちょっと気の利いたことは言えないわけ?」
「それから、帽子も買っとけ。夏のお嬢さんが出歩くのに日除けの帽子は大事だ」
澄まし顔で言うと璃緒はまた顔を赤くして、「トーマス、あなたって、ばかね」と頬を僅かに膨らませてぷいと横を向かれてしまった。何故だかはわからないが、むくれているふうである。トーマスは首を傾げた。
だってお嬢さんにお嬢さんと言って何が悪かったというのだ?
◇◆◇◆◇
「似合わん」
帰るなり聞いた凌牙の第一声がそれだった。
「絶対似合わねえ。なんだそのアークライトみてーなセンスの服は」
「えー、僕はいいと思いますよ。清楚なお嬢様って感じがして、とても」
「そういうタマじゃねえだろ璃緒は。着飾ったところで無茶がある」
そこまでむすっとした顔で言ったところで璃緒の左肘ストレートが凌牙の鳩尾に決まった。強烈なインパクト音。しかしそこで膝を付くことなくギリギリ立ったまま耐えるあたり、凌牙も慣れというか根性がある。
「要するに凌牙は兄様の選んだ服が気に食わないんでしょう?」
その様を見てミハエルが心底呆れたふうに言った。凌牙とトーマスの不仲は、意地の張り合いが終わらない腐れ縁として親族中に知れ渡っているところだった。
そのついでにミハエルも凌牙には辛辣で口が悪い。璃緒にはレディ・ファーストの貴族精神が先行してそこまででもないが、凌牙に対しては本当に非道い。しかしそれも恐らくは、兄トーマスが凌牙にかまかけるのが気に食わないというブラザー・コンプレックスの発露なのだろうということも、トーマスとミハエル以外には親族中が知っていることだ。
「璃緒が兄様の好みのファッションをしているのが嫌で仕方ない。相変わらずお子様ですね」
「童顔のお前に言われたくない」
「まー、よく吠えますね。僕が話しているのは内面です。外見じゃない」
「なんだと——」
「まあまあ、二人ともその辺にしなさい。ミハエル、それにトーマス。喧嘩は良くない」
扉の向こうからクリストファーが現れて仲裁に入る。白衣姿のクリストファーの後ろには同じく白衣を翻したカイトの姿もあって、見飽きた光景に「またか」という呆れ顔をしていた。
親族の子供たちの中でも頭一つ年齢が飛び抜けているクリストファーは幼い頃から出来の良い監督者だった(少なくとも、トーマスが物心ついた頃には既にそうだった)。人格も頭脳もアークライトの兄弟の中では目立って優秀で、研究に没頭することがなければ何の疑問もなく彼は家督を継いだだろう。しかしそれにしたって、とトーマスには未だに兄に納得出来ていない節があるのも確たる事実であった。
「トーマス、おまえは後継ぎなんだから。おまえがしっかり執り成してやらないでどうする」
「……後なんて兄貴が相続すりゃいいだろ。兄貴の方が色々と優秀なんだから……。俺はうちの財産には興味ねえし」
「私は自分よりおまえが相応しいと思っている。だから推した、それだけだ」
「面倒なこと押し付けようってんだろ?」
「おまえが家督を継げば、おまえにとって一番望ましい縁組になると思った、というのもある」
「なっ……?!」
クリストファーの駄目押しのような言葉に続いてまたカイトの溜息。カイトは隣に立つ師の脇を指でつつくと、「クリス」短く急かすように、彼がハルトを愛おしむのと同じ声で名前を呼んだ。
「ここに来た用事を早々に済ませて戻りましょう。検体の観察を続けなければ……」
「そんなに急くことはない。カイトは少しせっかちすぎるな。ちょうどいい、休憩にしよう。今はゆっくりしていいのだから」
クリストファーの手がカイトの頭を撫でた。
天城カイトはクリストファーの研究助手であり、また学業・デュエルその両方の弟子だ。クリストファーに傾倒している節があるのが度々気にかかるが、基本的には害のない存在である。クリストファーのスパルタ指導の犠牲者であるという点についてはむしろ同情すら覚えていた。一週間不眠不休でデュエルをさせ続けられるというどう考えてもまともではない実験の被験者を引き受けていた精神力は評価出来るものだ。
そしてそれに関して、立案・実行の中心人物であったクリストファーに一切の文句を言わず尊敬を忘れることなく付き従う姿は、最早クリストファーという一人の男を信仰する忠誠心にも似て、トーマス達は口にこそしないものの感心をしているのだった。
「用件、ってのはなんだ」
「神代璃緒の方を呼びに来たんだ。応接室までご足労願う、とバイロン氏にクリスが言伝を頼まれた。……クリスはああ言ったが、俺がここにいても多分、邪魔だ。クリス、俺は彼女を応接室まで送って研究室に戻ります」
カイトがきわめて事務的に告げた。璃緒が凌牙の隣を離れ、扉の方へ歩を進める。彼女だけがトーマスと璃緒それぞれの父親に呼び出されるのはこれが初めてのことではなかった。呼び出されて何を話しているのか璃緒は決して教えようとはしなかったから、何がしかの密約があるのだろうと考えてトーマスはそれを一度も問うたことがない。
聞いてはいけないのだろうとずっと思っている。
「ですって。それじゃあトーマス、私行ってくるわ。いつもと同じぐらいに、帰り、迎えに来てちょうだい」
「わかった。そこから家まで送る。おい凌牙、てめえは一人で帰れるだろ」
それとも送迎が欲しいか? トーマスが割合真面目な顔で問うと凌牙は逆上して「テメエの力なんざ借りねえよ!」とむきになって反論する。馬鹿にするな、という憤慨に気を遣われたことへの苛立ち、それから僅かな喜色と思慕がその中には含まれていた。
メイドに通された扉の向こう、見飽きた応接室のソファの上に璃緒の父とトーマスの父が並んで座っている。この圧迫感のある光景に初めのうちこそ璃緒は内心戸惑ったりもしたものだが、今ではもうすっかり慣れて、退屈すら覚えていた。
応接室で璃緒が聞かれるのは、いつも決まって身の上のことだった。凌牙はどうしているか。トーマスとは休日に何をしているのか? 友人は、学校は、不満は。根掘り葉掘り、しかし璃緒が解答を拒めばそれ以上追及しようとはしてこない。
璃緒はいつも、この尋問と面談の中間にあるそれをカウンセリングのようだと思っていた。バイロン・アークライトは決してメンタルカウンセラーなどではなかったが、退出の際に他言を禁じられるところなどが、どことなくそういうものに似通っていると感じられるのだ。
だから今日もきっとそうだ。璃緒はあからさまにつまらなそうな顔で対面のソファに腰掛けると「それで、お父様」早々に話を促した。
「今日の用件は何なの。私、買い物に行って今日は少し疲れているんです」
探りを入れるように、口早にまくしたてる。璃緒の父はそれを聞き流してカップに手を付ける。
「お父様」
「璃緒。トーマスくんと結婚するのは、嫌かね?」
璃緒の父が言った。
バイロンは相変わらずにこにこと笑っていて考えが読めなかった。璃緒は予想だにしなかった言葉に目を白黒させる。今までこんなことは聞かれたことがなかったからだ。
自分達が決めたくせに何故今更そんな事を聞くのだろう。
「いいえ。私は、ミハエルより、クリストファーより、トーマスがいいわ」
「結婚相手の範囲はアークライトに限ったことじゃない。そりゃ私だって出来るだけいいところに一人娘を嫁がせてやりたいし、アークライトなら申し分はないが……お前に好きでもない男と契りを結ばせるのも酷だと」
「結構よ。私はトーマスがいいの」
父親の回りくどい台詞に嫌気がさしてぴしゃりと遮る。勝手に許嫁の約束をしたのは父親同士だ。今更それについてとやかく言うつもりも異論もないが、子供達のことをよく知りもしないで勝手なことを言われるのは我慢ならない。
三兄弟の中だったら「トーマスがいい」わけじゃない。全ての中で、あまねく見渡して、それでもやはり「トーマス・アークライトがいい」のだ。
少なくとも璃緒は。
「何を考えているのか知らないけれど、むしろ問題はトーマスの方。お父様、バイロンさん。この話をするのなら、私ではなくトーマスにするべきだわ。いつだって優柔不断なのは私じゃなくて彼よ」
「なるほど、それも尤もだ。しかし璃緒、私にとっても有益な発見があったよ。……きみが、うちの次男のことを優柔不断だと思っていることだ」
「誰から見ても明らかなぐらいに、煮え切らないわ、トーマスは」
「どうかな」
バイロンが含みを持たせた声で璃緒を宥めるように言った。穏やかな横顔はクリストファーが良く似ていたが、何故だかその時、そのアークライトの長兄ではなくトーマスのことを思った。良く似た親子だ、ということを。
「私の知っている息子は、反抗的ですぐに口が出て、なんでも勝手に一人で決めて進んでいってしまう子だった。プロ・デュエリストになったのもそうだ」
そうしてまた口を閉ざす。璃緒はぽかんとしてその言葉を反芻する。だってそんなトーマスは知らない。トーマスは璃緒のわがままを大概受け入れてくれたし、何かを決める時は必ず璃緒に意見を求めた。璃緒、明日、どこに出掛けようか。ソースはどっちが好きだ? 何か欲しいものはないか。これ、どっちがいいと思う。好きな方買ってやるよ。教えてくれ。……ちょうどそんなふうに。
しかし言われてみれば、選択を求められた時に迷うこともなかったように思う。たまに璃緒の機嫌がいい時などはトーマスの洋服も見に行ったりするが、そこで璃緒に意見を求める一方で璃緒がどちらでもいいと突き放したり決め難いと返答をしたりすると、彼は決まって即座に独力で判断を下すことが出来た。璃緒を待たせないためだ。
それに今着ているワンピースを選ぶ時も、彼は少しも迷いを見せなかったではないか。
(……どうして)
璃緒は小さく首を振った。今までよく知っているとばかり思っていた青年のことが、急に何もわからなくなってしまったような嫌な気持ちだった。
「確かに、あの子にも尋ねておくべきかもしれないな。……璃緒、今日はもう帰りなさい。外でトーマスを待たせているのだろう。トーマスは何かを待つのがあまり得意ではないんだ」
「……私の買い物に付き合う時は、終わるまで黙って待っていてくれるわ」
「それはきみが神代璃緒だからだ。相手がクリストファーだったりしたら、まず付いていってやりさえしないだろう。……最も、あれは弟の性質をよく把握しているから、どうしたら動かないものを動かせるのかも熟知していて、よく見ないとわからないかもしれないがね」
バイロンは確信を持った顔で言い切った。
それが璃緒には恐ろしい。知らないことを、山と並べ立てられてそのうえで平然と微笑まれることが、とても。
◇◆◇◆◇
「今日は早かったな。……顔は、いつもより嫌そうな感じだが」
「別に……」
「何があったかとかは聞かないが、嫌なことは溜めててもろくなことねーぞ」
トーマスがぽつりと言う。その「ろくなことがない」を何度か体験してきたのだろうなぁ、というふうの声音だった。一体彼が何を溜め込むというのだろうか。実の父に我慢弱いと言われてしまうような体たらくで。
「私から言うことはないわ。それより、あなたこそ何か溜めてたりしないの」
「いいや、別にないな。俺は我慢とか、苦手だからさ。そんなに溜め込んでは生きてられない」
「——嘘ばっかり」
「ん? 何か言ったか?」
「なんでもない……」
よく考えれば、無条件にトーマスが璃緒に隠し事をしたり嘘を吐いたりしないと信じていた方がおかしいのかもしれない。人間なのに。しかも反抗期で少しひねている男の子が。
そこまで考えて初めて、璃緒は「トーマス・アークライト」という幼馴染みが「男の子」であったことを思い出した。彼は兄の凌牙と同じで、璃緒とは違う性別のいきものだった。体のつくり、メカニズム、その全てが璃緒とは異なるのだ。
違う。同じじゃない。
ちがう。
「トーマス」
「なんだ」
「私、猫が嫌いなの」
「知ってる。子猫でも駄目だもんな。だからうちで飼ってるのは犬なんだ」
「トーマスは平気なのよね」
「そりゃまあ。……いきなりどうしたんだ。熱でもあるのか」
「ううん……」
少し言い淀む。璃緒を真っ直ぐに見てくる瞳は綺麗な柘榴の色をしていた。璃緒と同じ色だ。凌牙の青とも、ミハエルの緑、クリストファーの空色とも違う。これだけは、二人で同じものを持っていた。
「私とあなたって、違う人間なのね」
流れる血も、髪の色も、肌も、人種も違う。すごく当たり前のことで、今更口にするのもなんだか馬鹿らしかった。
「私達は、一つとして交わることが許されず、二つとして同じものはない」。誰かの言葉を思い出す。神代璃緒はトーマス・アークライトにはなれない。逆もまた然り。
しかしそれを今になってようやく思い知らされたのだ。
「きっと同じではいけないんだわ……」
独り言は、通い慣れた帰宅路の中に沈み込むようにして消えていった。二人で物心ついた頃から歩いてきた道は体が覚えていて、オートパイロットのように迷いなく足は動いている。まんじりともしない沈黙。気まずさはなく、ただ静かで、安らぎがある。
道すがら、見覚えのない小さな双子の石が見えた。それを横目で眺めたトーマスは何故だかそれを「墓石」だとそう感じた。
璃緒の手を握る。儚い少女の指先。それでいて、心臓を胸に抱いているかのようにじっとりと汗ばみ、トーマスの手のひらに纏わりつく。
「……同じだったら」
もたつく舌を動かして、沈黙で張り付いた唇を開いた。璃緒の視線が上目遣いにトーマスに寄せられる。
愛らしい、とそう思う。
「もし俺達が同じだったら、俺はお前の声も聞けないし、手も握れない。顔も見られない。だから俺はそれで良かったと思う」
「そうね」
そうして二人して繋ぐ指先に力を込めた。
結局その後はとりたてて何も話さなかった。人通りの少ない高級住宅街は物音がなくしんと静まり返って、二人の靴音ばかりが響く。耳を澄ませれば呼吸の音すらも聞こえそうな気がした。ただ一つ五月蠅いとしたら、それは指先を循環する血の音だった。
神代の家の玄関門が近付いてくるのを確かめて、璃緒の手を離す。璃緒が門に手をかけ、中に入ろうとするのを反射的にトーマスは引き留めた。
璃緒が振り返る。目の色で、先を促している。
「なぁ、璃緒」
「何?」
「今度、キス、しよう」
まるで「明日また学校で」と約束を取り交わす友人同士の約束のような口調だった。トーマスはいつもと変わらない調子で立っている。がさつそうな外見に反して乱れた様子のない胸元のリボン、体に合わせて仕立てられたフリルのあしらわれたシャツ、ぴったりした黒いスラックス。
明日は彼は高校の制服を着て璃緒の前に現れる。
「いいわよ。今度ね」
璃緒はトーマスから目をそらして、素っ気なく言った。