01 キャンディアソート・イン・ザ・レイン
それでもまだ、研ぎ澄まされた剣のような少年だったなら、いくらもましだっただろう。
「チッ……胸くそ悪ぃったらねえ……」
骸を掻き分けて足早に進む。折り重なったギアの死骸からはとめどなく血と死臭があふれ、出来損ないのミルフィーユ・パイを思わせた。屍の数は数えていない。そんなことをしても無駄だ。何の意味もない。
「どこ行きやがった、あのクソ馬鹿野郎」
積み上がったギアの亡骸たち。その地獄のような有様を造り上げたのが誰なのかなど、考えるまでもない。
ソルは歯ぎしりをした。あいつの仕業だ。あのいけすかないガキ。カイ=キスク、まだ十四の誕生日を迎えたばかりの、「天才剣士」の名を欲しいままにしている、ひとのかたちをした機構。
くそ。くそが。くそったれが! 益体のない、稚拙な罵倒ばかりが口を突く。どうしてこんなところで、必死の形相で走っているのだろう。世界とは無関係でいようと思っていたはずじゃないか。人と関わるのはもう止めようと。だから、付き合いを持たなければいけない相手は慎重に選んだ。まず第一に殺しても死ななそうな輩。第二に渾身の力で殴り合ったあとに旨い酒を酌み交わせる相手。そして第三に、死を迎えたとしても思い出の中の良き友人として綺麗にしまいこめて、時々懐かしんでは幸せな気分になれるような、そういう相手とだけ、……そう決めていたのに。
それなのに全部あの雨の日が変えてしまった。
水を吸って鈍重になったケープが身体に張り付く。重たく、忌まわしい質量。あの日もこうだった。大地には、わからずやの幼子におもちゃ箱をひっくり返されたみたいに、物言わぬ化け物たちの残りかすが散らばっている。そこらじゅうに生き物の死臭と僅かな雷の残滓が漂い、「天才剣士」の正体をソルにいやでも想起させる。
「あんなのは天才の冠で持て囃していいもんじゃねえだろうが……!」
声からは苛立ちが滲んでいたが、舌打ちさえする気になれなかった。
あの日、ギアを追いかけて行った先に在ったのは、地獄だった。
そこには百年戦争が煮凝りかたちを得たかのような、この世の不条理を体現した光景が広がっていた。
子供の姿をしたものが剣を持ち、顔色一つ変えず、義務的に聖書の読み上げをしているような調子で命を奪っていく。事務的に。機械的に正確に。うまく出来たでしょう、と誇ることさえなく。
まるで屠殺場の機械だ。
ソルが見た「何か」には感情がなかった。慈悲などなかった。一切の隙はなく、無駄もなく、ましてや油断や躊躇——恥や外聞などというものは、ありようもなかった。
そこには冷徹と効率主義、無慈悲と無感動、最適化された歯車としての何かだけが存在していた。磨き込まれた武器ならまだいくらもましで、それは単なる剥き出しにされた部品でしかなかった。しかも使い捨てのだ。
心底、反吐が出た。何が「天才剣士」だ。どの面下げて、「お前も気に入ると思うぞ」などと連絡を寄越したのか。こんなものを見せるために自分を呼び寄せたのかと思うとあまりにもおぞましくて、ソルは初めてクリフのことを恨んだ。
騎士団への入団はその二日後に決めた。
ソルの決断も早かったが、戦場へ派遣されるのも早い。支給されたばかりの制服を身に纏って戦場へ向かったのは、入団から三日後、屠殺場を目撃してから五日後のことだ。騎士団は慢性的に人手不足を患っている。一人入る間に三人死に、五人死ぬと仇をとるために七人入ってくる。そういう危うい絡繰りの中に放り込まれたことへの若干の後悔は、しかしすぐに消え去った。
二度目に見た戦場は、もっと凄惨を極めた。戦況は芳しくなく、ひどい劣勢で、戦線崩壊の寸前までもつれこんでいた。騎士団が最後まで相手取っていたギアはメガデスとまではいかないが、なかなかの大型だ。そのまま真っ向からやり合っては、危険に過ぎる。かといって搦め手を使おうにも猶予が無い。
するとどうだ。
「おい、どうする」とソルが口にするより数秒早く、第八小隊の人間が無言のまま率先して前へ飛び出した。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。無言であんな馬鹿正直に飛び出すなんて、何を考えているんだ? それじゃまるで自殺志願じゃないか。仮にやけっぱちだとしても、何かこう、意味のない雄叫びを上げたりして叫ぶものだろう。
ソルは唖然とした。そんなソルの目の前で、半開きになった口を閉じる間もなく彼らは死んだ。悲鳴ひとつ上がらなかった。
(なんだ、こりゃ)
奴らには死への恐怖ってものがないのか?
身投げした連中の動きはあまりに鮮やかで、統率が取れすぎていた。第八小隊は自殺志願者の群れなんじゃないかと思った。そうだと言われた方がまだ気が狂わずに済む。自殺志願者たちか。なら、仕方がないな。逆にそうでないと言うのならば、あの一糸乱れぬ隊列の中核にあるものは決まり切っている。一つしかないのだ。
狂信だ。
(……ッくそ、誰も、彼も!)
死にたがりたちが囮になり、一人ずつ解体されている現場に、小さな影が躍り出る。カイだ。カイは素早くギアの懐へ潜り込み、小さな身体で思い切り大地を蹴って飛び上がると、そのまま、己の身を叩き付けるように剣を抜いてまずギアの目を抉った。そうして両目を失った痛みに暴れようとしたギアの四肢をもぎ、最後に心臓を刺し潰した。
機械の如く正確無比な手つきで行われたそれは、十秒にも満たない間の出来事だった。
見事な手際だ。それは認めよう。だがあんなものは、魚の解体にも劣る。まともなやり口じゃない。
(狂ってやがる。一人残らず全員が……!)
この組織の人間は皆狂っている。その中でも一際、あのカイという機械は、狂気をきわめている。
「これ以上の自殺志願はごめんだぞ、俺は」
今日が三度目の戦場だ。瀕死で倒れていた第六小隊の人間に手当をしているうちに、カイは行ってしまった。怪我人をうち捨てて駆けていった彼の判断はまったくもって合理的だ。死にかけの人間一人にかかずらっているうちに、ギアを何十体も殺せる。一人を見捨てることで何百何千人を救える。それがカイの中にある計算式だ。
正しい。あまりにも正しすぎて、この世全てを呪いたくなるほど。
ヘンゼルとグレーテルが落としたパンのかけらのように、ギアの屍は地を這い続いている。鳥さえ啄まない目印の先にカイがいる。ソルは足取りを早めた。速く。もっと速く。あの愚かな、大人になりたいとさえ思うことを許されなかった少年が生きているうちに、はやく。
◇◆◇◆◇
「賞金稼ぎ? 賞金稼ぎですって?」
初対面の時、ソルを紹介されたカイは憮然とした口調でそう宣った。明らかに馬鹿にしてきていたし、人を人とも思わない様子は大層ソルの鼻についた。
「だって賞金稼ぎって、あの……粗雑で、野蛮で、教養の欠片もないような。命を大切にしない人達の識別記号と同じですよ。……クリフ様。よく、こんな人を団に招き入れようと思いましたね」
「ソイツは俺の台詞だがな。よくもまあ、こんなクソガキを前線に放り込めるもんだ。爺さん。この坊主に〝教養ぐらい〟教えなかったのかよ」
「なっ……あ、あなたは——む、むぐっ?!」
かちんときたソルが嫌味たっぷりに言い返すと、カイは憤慨して端正なつくりの顔を怒りに歪ませる。まさしく一触即発の状態だ。だが悲しいかな、カイの童顔めいた顔では、どれほど睨んでみせてもソルには響かない。ソルは堪えたふうもなく大きな手のひらでカイのうるさい口を塞ぎ、クリフに向かって嫌そうに溜め息を吐いた。
「契約は契約だ。その履行はする。だが、そこまでだ。あまり多くを俺に期待するなよ、クリフ」
「そう言わんでくれ。お前さんが最後の頼りなんじゃから」
「正真正銘の最終手段を行使する前に、もう少し手前でなんとか出来なかったのかよ」
ぬけぬけと言ってみせるクリフに凄むと、流石に悪いと思ったのか、「すまんな」と殊勝な返事が返ってくる。戦場や下町でぶいぶい言わせていたあのクリフがあっさりと非を認めるのだから、これは相当、事態は重症を極めているのに違いない。
「努力はした。その結果がこれじゃ。まあ、褒められた出来じゃあない。しかしなあ、困ったことにカイはちーっとばかし愛されやすい体質で、これがどうも」
「……骨抜き共の出来上がり、か。なるほどな。理解は出来た」
まだ納得はいってねえがな。そう吐き捨て、ソルは緩慢にかぶりを振ると掴んでいたカイをぽいっと部屋の隅に放り投げた。
そういうわけで、二人の出会いはまったくもって最悪の部類に入った。ソルはカイのことをあまり好きになれなかったし——言葉を恐れないのであれば、あんまりにも人間味がなくて怖かったのだ——カイはカイで、投げ捨てられたその瞬間ソルの名前が脳内ブラックリストの筆頭に並ぶ始末だった。
お互いに、互いを疎み合っていた。そのせいで誤解が横行し、ソルはカイのことをまるで人間じゃないものを見るように扱いたがったし、カイはソルのことをとにかく敵視した。野蛮で教養もない、礼節の低い男! カイがソルを憎む理由なんかそれで十分だ。
「我らが身は神に捧げられたるものならば——」
祝詞が聞こえる。ありもしない神の幻想に命を奉じる気狂いの誓文。やめろ。ソルは声にならない言葉を喉の奥ですり潰した。やめろよ。たとえテメェが機械でも、俺の寝覚めを悪くするんじゃない。
やっとのことで追いついた場所には、お菓子の家の代わりに、巨大な怪鳥の姿をした有翼ギアと対峙しているカイの姿があった。僻地もいいところで、周囲には抉り取られて倒れた木々と崖しかない。その上、ギアの大きさからして、地上戦だけで仕留めるのは難しそうだ。
まさか。ソルがその「嫌な予感」に思い当たると同時に、法術が発動し初め、まばゆいスパークが弾ける。
「——危地において恐れることなし。死地において迷うことなし。……聖騎士団奥義!」
奔流のような雷が指向性をもって一つの形を為し、術者を中心に展開される。中央に大きく「HOPE」と記された魔法陣、それから陣と術者を覆い守るように両手を広げる女神の姿をしたなにか。それらがひとまとまりになり、勢いよく突進し、切り崩された大地の向こうに浮かんでいる、怪鳥の姿をした巨大ギアに突っ込んで行く。
「チッ、そっちは崖だろうが!!」
思った通りだ。たとえ相打ちの形になったとしても、アレをここで仕留める気か。命が惜しくはないのか? カイはやはり、あの第八小隊の奴らのように、自分の命を使い捨ての消耗品だと思い込んでいるのだろうか。聖騎士団の人間は皆、自分を機械のパーツだと教えられているのか。
それとも——逆に、自分は機械だから……崖から落ちたとしても修理すれば済むとでも思っているのか?
馬鹿げている。何もかもお粗末だ。ソルはカイの救助を決め込み、グランドヴァイパーで勢いを付けて滑り出すと、己の身をカイがいる崖の向こうへ押し出した。
「第一式起動、Fに初期値ゼロを代入。加速度9.8m/s2を更に代入し、続いて第二から第十八までの詳細実行を代替演算処理で破棄。フロート展開」
ギア諸共自由落下していくカイをすくい上げるため、相殺用のフロート術式を可能な限り高速で展開する。実行させている処理が重たすぎてそれなりに値の張るハードウェアシーケンサを一つ使い潰すことにはなるが、カイの命には代えられない。
ライド・ザ・ライトニングの直撃を喰らって絶命した怪鳥ギアに半ば突き刺さっているカイを伸ばした手で強引に掴み取り、最後に手動で微調整をしてフロート術式を安定させる。崖の奥底へ落ちていくギアと正反対に浮上し、大地へ舞い戻る。
時間にすればほんの一瞬の出来事だが、細心の注意を払って実行したせいでどっと老け込んだように気怠い。カイを抱えたまま地面に座り込み、それでやっとひとごこちついたソルは、ぐったりとした様子でカイを横へ転がした。
ソルが助けなければギアごとここで死んでいたはずだった少年は、奇妙なことに、自分の扱いについて一つも文句を言わなかった。そこそこ負傷しているようだったが、呻き声一つ漏らさない。何が起こったのか、まだ、わかっていないのかもしれない。
「…………何を、しているんですか?」
そのためかカイはしばらく押し黙っていたが、周囲に敵影もなく、一先ずの危機が去ったことを確認してソルが煙草を取り出す頃になると、ようやく、しどろもどろに口を開いた。
「自殺未遂を咎めた」
煙草に火を付けようと指先に法力を集中させながら素っ気なく答えると、鉄面皮のようだった顔に何故か赤みが差す。
「そうじゃなくて。職務中ですよ。一応上官なので、処罰する権限も私は持っているんですが」
「……他に言うことねえのか?」
この期に及んで第一声が「職務中の煙草は規則違反」とは。流石に呆れはて、火を付けようとしていた手が止まる。命の危機を救われたというのに、その恩人に対してひどい言い様だ。
……となると、やはり、自分が死に瀕していたことに自覚が無いのか? それを確かめるため、嫌々ながら説明をしてやる。
「テメェは死ぬ寸前だったんだ。あの馬鹿げた突進のおかげで、仕留めたギアとへたくそなランデブー、挙げ句心中自殺だ。俺がフロートで慣性相殺してなきゃ、ニュートンの仰せの通り加重を喰らってぐちゃぐちゃの肉片だぞ」
「…………。ええ、はい。そうですね。でも止めてくれなんて言ってません」
「なら、なんだ? 死にたかったのか? テメェでフロートを用意していたようには見えねえな。自由落下の相殺をするとなると裏技でも噛まねえ限りそれなりに事前の準備を要する」
しかし状況を詳しく羅列してやってもこの答えだ。苛々しながら再び手を動かし、煙草に火を付けた。ほどなくして煙が先端からくゆり出す。頬に浅い切り傷を刻んだ少年は、今度はまるで煙草を咎めなかった。どうも煙草への注意は、今の彼にとって、本音を隠すための口実でしかなかったらしい。
カイは俯くと恥じるような声を絞り出した。
「………………ありがとうございます……」
消え入りそうにか細い声だったが、ソルの優れた聴覚はそれを聞き逃さない。煙草を食んだまま信じられないものを見るように目を丸くし、カイを見る。
「は?」
「あ、ありがとう、ございますっ。……二度も言わせないでください。認めたくなかったんです。あなたみたいな野蛮な賞金稼ぎが……私を救ったとか……そういう!」
ソルの目線に詳細を促され、逃げられないと悟ったカイは早口に吐露をしたが、最後の方はまるっきり子供の癇癪だ。自分が命を救われたという状況を理解したはいいものの、それに対して礼を述べたくなくて煙草に口を挟んだ、なんて。
だけど——それがひどく子供じみた当てつけだったにもかかわらず、ソルは心底ほっとした。多少の罵りを受けたことよりも、子供の癇癪みたいな真似が出来たのかという安堵が遙かに勝っていた。
「こいつは驚いたな。坊やにも羞恥心とかあるのか」
「失礼なことを言うな!!」
「テメェの中には偽善と自己犠牲、嫌悪と憎しみぐらいしか感情のパターンが無いのかと本気で疑ってたからな」
「なんだその……いや、確かに、こんなおかしな気持ちになったの、はじめてですけど」
ひとに助けられて素直に感謝できないなんて、とカイが呟く。カイは礼節を大事にしている。助けられたら礼を言う。助け合えれば声を掛ける。生死を賭けた極限の場で部下達の士気を保つためにも有効な戦略だ。優れた上司の自負もあるカイは、常日頃からそれを誰より実戦している。
なのにこの男に対してはそれが出来ない。礼より先に小言が飛び出て、罵倒が食道をせり上がり、悪態が舌の根を弄ぶ。
カイはますます縮こまり、首をふるふると横へ振って見せた。
「……多分、私があなたを過小評価していたせいです。あれほど高度な慣性相殺を構築出来るほど法術に長けているのなら、最初に申告してください。そうすればあなたを変に見下すこともなくて、こんなわけのわからない気持ちになって、もやもやが胸いっぱいにわだかまって、すっきりしなくて、人に素直に感謝も述べられないなんて情けないところ、見せずに済んだのに」
「坊や、顔合わせの時に人の話を聞く姿勢じゃなかったくせしてよくもまあ」
「うう。で……でも、助けてなんて言ってないのは、本当ですから。他の団員達ならきっと追いかけて来たりしないで私の好きなように——う、うわっ?!」
いきなり盛大な舌打ちが鳴り響いて、カイの視界が引っ繰り返る。むかついたソルがカイを足首から引っ掴んでぶら下げたのだ。態勢が逆さになったせいで、余計頭に血がのぼってしまう。
「何するんですか!」
今度ばかりは正当な権利を主張できるとばかりに叫ぶと、ソルの赤茶色の瞳がぎろりとカイを睨め付けた。
「坊や、いい加減にしろ。俺はあまり堪忍袋の緒が長くない。死にたがるガキは嫌いだ。俺には坊やがわからねえ。人のふりした機械かと思えば妙なところで癇に障りやがる……どっちかにしろ。どっちつかずなんて面倒は勘弁してくれ。どう接していいのか判断に困る」
「な、なにを……」
「テメェは子供か? そうじゃないのか?」
「……なんでそんな、決まり切っていることを聞くんですか?」
初めは戸惑いを見せていたカイだったが、続いて投げかけられた問いの内容に、睨まれていることも忘れてきょとんと訊ね返した。
だってあまりにも無意味な質問だったのだ。そんなこと、聞くまでもない、明白ではないか。
「私が、子供? そんな瞬間、一秒たりともありませんよ。私は物心ついた時から天才でしたから、すぐさま、ギアを殺すよう教えられました。剣を持ち、人々を救い、その旗頭となるよう育てられました。子供扱いはされたことがないし、望んだこともありません」
「なんだと?」
ソルがどすの効いた低い声で凄んでも、カイはどうしてソルがそんな反応をしているのか理解が出来ず、ますますソルを逆撫でするような事を口にしてしまう。
「ああでも、私はちょっと特殊な生い立ちなので! ……物心ついたと言っても、たかだか十歳からの話です。ふつうですよ。私だけじゃない。まあちょっとばかり法術にも優れていますが、きょうび、剣の振り方ぐらいどんな親でも真っ先に教えるものだ、とクリフ様が。……ソル。なんですか、その顔? 狐につままれたみたいな顔して。だって当たり前じゃないですか、人間は百年も戦争をしているんですよ! 子供扱いして身の振り方を教えない親の方が余程無能です。だから私が受けた教育は正しいと信じています。人類を救うための正義に他ならない」
そのまくしたてるような口ぶりは、決壊した廃棄ダムが汚泥を垂れ流す様に酷似していて。
ソルは言葉を失い、己の認識の甘さにまた苛立つ。ふつう。それがふつう。今の時代のスタンダード。
ではあの第八小隊の奴らや、このカイのような自殺志願も、ふつうなのか? ソルは歯ぎしりをした。みんな馬鹿野郎だ。時代が何もかもを愚かにする。
咥えた煙草が潰れて中身が漏れた。ひたすらに不味い苦さが口腔内に広がり、ほとほと嫌気が差してカイの足首から手を放す。頭から落っこちる形になったはずのカイは綺麗に受け身を取り、どこも地面に打ちつけることなく立ち上がる。
「ひどいな! 本当に何のつもりですか——」
「〝Fiat justitia, ruat caelum〟」
カイが抗議をしようと口を開いたところで、ソルの乾いた言葉がそれを遮った。
「……何を言いたいんです?」
カイは耳を疑う。とてもじゃないが、こんなところで聞くことになる言葉だとは思ったことがなかったのだ。
「だって、その言葉は……」
「ああ、そうだ。ヘヴンズ・フォールだよ、坊や。テメェの正義は自己犠牲的に過ぎる。今日死ななかったところで、そのままじゃテメェ、いつか本当に身を滅ぼすぞ」
男の言葉は、言いたいことを山ほど我慢して綴られた手紙に似ている。けれどそれは煙草を食む唇の奥へ吸い込まれ、すぐに消えてしまう。
(〝
Fiat justitia, ruat caelum
〟——だって?)
黙りこくってしまった彼に問うつもりにもなれず、カイは堅苦しい言葉をひとり胸中で反芻する。古い、古い言葉だ。古代ローマの、法の考えについての一つの格言。教養ぐらい身につけておこうと思ってベルナルドに借りたラテン語の教本に載っていた。だけど、何故。
あれだけ法術に長けているのだ、粗野な見た目に反して教養があったというのは認めるにしても、今この瞬間にそんな言葉を告げる意味がわからない。
「あなたは……」
煙を吐く男の横顔は苦々しかった。煙草が苦いのか、或いは、カイという存在を苦く思っているのか。なんとなく、そのどちらもだろうとその時カイには思われた。彼は好きで煙草を吸っているが、そこに、痛ましい現実を忘れるための苦さを求めているような気がした。
「あなたは、何者なんです?」
「……賞金稼ぎだ。ただの、『粗雑で野蛮で教養の欠片もない』な」
「で、でも。わたし……わたしは、あなたに何か酷い勘違いをしているのかもしれない。あの、以前に言った言葉を撤回します。いえ、なかったことに出来るなんて思ってはいません。けれど……」
「懺悔はガリラヤの塔へ向かってしろ。俺は別に坊やにそんなことを言われたいわけじゃない」
煙と共に言葉を吐き捨て、ソルが踵を返す。背中は汚れ、白い制服には死臭がこびりついている。
(——この人を知りたい)
去っていく背中を見送りながらカイは漠然と願いを抱いた。それはカイ=キスクという人間が生まれて初めて抱いた個人的な願望だった。
(私は、この男を理解しなければいけない気がする)
知りたい。識りたい。解りたい。生来の知識欲とも違う、似て非なる欲望がカイの全身をかけずり回る。ソルのことを知りたい。いや、彼の過去とか、そういうのはどうだっていいのだ。ただ、強烈に貪欲に凄烈に、「ソル=バッドガイという男」の生き様を理解したい。
「待って、ソル!」
カイを置いてどんどん前へ進む彼を大慌てで追いかけた。ついさっきまで死も可能性に入れて崖の向こうへ身を投げ出したことなど、カイの頭の中にはもう残っていない。代わりに、彼という存在が大きく広がって脳裏を支配する。
十四歳のカイ少年の考えごとは、そうして一瞬で赤い制服に袖を通した無骨者のことでいっぱいになった。