02 ベツレヘムの星とメランコリ


 その日は朝からちょっとした予感があった。いつもより少し早く目を醒まし、起き上がって覗いた宿舎の窓からはうっすらと白く染まった世界が観測できる。雪だ。パリの街に雪が降った。頭をかきむしってスケジュールを思い出す。出撃の予定は無し。それに日曜だから、信心深いやつらがもう少ししたら礼拝堂に向かい、食堂が空く。いつものように、急いで席を確保する必要もない。
 加えてこの天気だ。緊急の呼び出しもそうあるまい。根拠は何一つなかったがそう決め込み、ソルは再び布団を被るとベッドへ横になった。寒い朝は二度寝に限る。講義やデートの予定もない日は尚更に。それは百五十年以上前から変わらないソルの信条なのである。
 だが、そんな平穏も長くは続かなかった。
「——ソル! ソル、起きていますか? 返事をして。……五秒以内に返事がなければ勝手に入ります。五、四、三、二、一……入りますよ!」
 ガチャガチャと鍵を開ける音の直後、ばんと勢いよく扉が開け放たれる。マスターキーでも持ち出してきたのか、寝る前にしたはずの施錠は意味を奪われ、無遠慮な足音と共に心地よい微睡みを阻む者が侵入してくる。
「ああ、やっぱりまだ寝てる……ソル、起きて。起きてください。朝です。ほら、外、こんなに綺麗に雪が積もって。絶好の休日ですね。そういうわけですから、起きて!」
 侵入者は上ずった調子の声で早口にそうまくし立て、ソルが引っ被っていた掛け布団を勢いよくはぎ取った。
 途端に部屋の寒さがソルの身体中を蝕み、怒りと凍えが喧嘩を始め、コンマ数秒で怒りに軍配が上がる。純粋な人の身をやめて長いソルだが、残念ながら人並みの温度感覚や痛覚は残っている。ギアとて生き物だ。尤も、そんなことを今目の前にいる少年に言ったら、どうなるかわかったものではないが……。
「おい、坊や。三秒だけ待ってやる。死にたくなきゃ、ソイツをすぐに俺に被せろ」
「無理な相談ですね。こんな馬鹿げた理由で死にたくはないですけど、あなたをこのまま寝台に置いておく方がもっと嫌です。ねえソル、ご存じですか? 今日は降誕祭前夜なんですよ。夜にはささやかなパーティもあります。それすらすっぽかして、一日部屋に籠もっているなんてことは私の権限で絶対に許しません」
 ドスの利いた低い声で脅しをかけたつもりが、カイの返事はにべもない。何の権利があって、と言いたいところだが実際カイにはその権利がある。書面の上では、カイはソルの直属の上司なのだ。ソルの性格や実力もあり、カイは大分融通を効かせてくれてはいるが、原則、部下は上司の言うことに従わなければならない。それが、ソルが好きになれそうにもないこの組織の掟だ。
「…………。ああ、まあ、そうだな。今日がイヴだっつうのは言われて初めて思い出した。だがパーティだなんぞ、こんな景気で……」
「こういう時代だからこそ、団では復活祭に謝肉祭、そして降誕祭のお祝いを大事にしています。心まで余裕を失えば、色々なものに響きますからね。それでは 兵器 ギア と同じです。ただここはパリなので、感謝祭はスキップです。他には?」
「……ご高説どーも」
 カイの気持ちは非常に堅く、説得に応じる隙は一ミリもない。ソルは諦めてのろのろと上体を起こした。
 心まで余裕を失えば、ギアと同じ、とは。いかにもな、大人が考えて子供に刷り込みそうな方便だ。ではなんだ、戦場のおまえは、ギアを殺すべしと刃をふるう自分は、兵器と同じだと、自覚をしていないのか? 余程言ってやろうかと思ったが押し問答になる予感がして問うのはやめた。
「まあ、な。余裕のなさが犯罪率の上昇に歯止めを効かなくする。豊かな時代より、貧しい時代の方が悲惨な話も多い……仰ることは尤もだ。だが施錠を無視して布団を剥ぐところまでくると、越権行為じゃねえのか」
「そのあたりの文句はクリフ様にお願いします。私は、頼まれごとを遂行しただけですから」
「……あのジジイ……」
「まあ、素直に乗っかったのは、私自身にも思惑があったからなんですけどね。前に言いませんでしたか? パリの街へ一緒に行きましょうって。今日明日は、街中が一年で一番賑わっている季節ですから。ね?」
 ね? という問いかけと共に小首を傾げたカイが浮かべている表情は、裏表がなく真っ直ぐに愛らしい。
 そうしていると、カイ=キスクという少年はひどく幼く見えた。あまり年相応らしい振る舞いがないから、余計にそう見えるのかもしれない。十四にして完成された殺戮機械の側面を見せる反面で、これほどあどけなく、無知無垢を体現したかのようにはにかむ。まさかとは思うが、未だにサンタクロースを信じていたりするのか? 一度訪れたカイの殺風景な自室を思い出し、首を振った。あの質素極まりない、刑務所のような四角い部屋に、サンタクロースを心待ちにしている子供が寝起きしているなんて考えたくなかった。
「しゃあねえな……一日付き合ってやる。そう言えば、満足か?」
「やった! じゃあここで待ってますから、身支度を済ませてください。朝ご飯は?」
「まだに決まってるだろ。そういう坊やこそ、朝の礼拝はいいのか」
「今日はイヴですよ。夜、パーティのあとに特別なものがありますから、朝はないんです。少なくともこの近辺では」
 カイがふるりと首を振った。それから彼は我が物顔でソルの室内を闊歩し、クローゼットに手を突っ込み、勝手に服を取り出してソルに渡して寄越す。
「制服じゃねえかよ」
 一瞥して文句を垂れるとカイは心外そうに眉根をひそめた。
「だってソルの私服、みんな寒そう。制服が一番暖かそうだもの」
「……そうかもな」
 一理あったので受け取った制服にそのまま袖を通し、ベッドから渋々離れた。袖のない服が多いのは、団に入るまで適当に諸国を放浪していたツケだ。何しろフリーランスの賞金稼ぎをやっているうちは、こんな寒い地域に長々留まる必要はない。少しでも温暖な方にしばらくの拠点を移せばいいだけだ。どうしても寒い場所へ赴かねばならない時は使い捨ての安物を適当に用立てて、大体、事が終わった頃にはぼろぼろになって捨ててしまう。
「私服は半袖ばかりだし、あなたは炎使いだから寒さに強いのかなって勝手に思ってたんだけど、あんなふうに布団にくるまる人間が寒さを感じないはずないですよね。なら、暖かくしてください。ソルは大事な戦力なんだから、私が連れ出して風邪をひかれたなんてことになったらクリフ様に顔向け出来ません」
 肩を剥き出しにしたインナーひとつしか身につけていない少年が胸を張ってそんなことを言う。ソルは息を吐き、カイが寄越した制服の中からケープをつまみ取ると大雑把にカイにかぶせた。団の中は確かに暖かいが、今のカイの姿は、人に服を着せる時にする格好としては、少々……いやかなり、説得力に欠けている。
 いきなりソルの大きなケープをかぶせられたカイは、驚いたようにソルを見上げた。ソルはやれやれと肩をすくめて見せる。風邪をひかれたら合わせる顔がないのは、ソルの方だというのに。
「そりゃこっちの台詞だ。俺に着せるんなら、坊やもそれなりに着込んで行けよ」
「わかってますよ! 部屋に置いてあるだけです!」
 ソルのパッドも入っていないケープにぶかぶかに着られながら言うカイの言葉は、ちょっとむきになった調子だった。

◇◆◇◆◇

 酒と煙草を求める時ぐらいしか出ないパリ市街は、珍しく昼に訪れたソルを知らない横顔で歓迎した。普段はがらんとしている大通りを混雑していると言える程度に人々が行き交い、露天商がずらりと軒を並べている。扱っている品はまあ時勢相応のものだったが、それでも、戦時下にあってこれほど活気のある街を見るのは久々だ。
「パリの人々は昔から、クリスマスに一番お金を使う——なんて言われているところがあるんです。家族への贈り物をとても大事にしている。だからこうして、街の人達が協力して街商を出します。食料品は相変わらず貴重ですが、持ち寄ればこれぐらいのことは出来る。それにこの日は大規模な蚤の市も兼ねていて……去年私も、雑貨屋のご主人から読まなくなったという本を買い取りました」
「団の図書室にある本を殆ど読み尽くす勢いだってのに、まだ本を増やしてんのか」
「本はいくらあってもいいものです。聖戦前の古い本だと、特に。ずっと探している稀覯書があるんですけど、あれはたぶんパリにはもうありませんね……」
 カイがソルの手を引き、先導する道すがらでぽつぽつとそんなことを話して聞かせる。カイはどうも、ソルの知らないことを教えてやる瞬間を少ない楽しみの一つにしている節があった。ソルが聞かずとも、知らないであろうと判ぜられたものごとに関して、勝手に講釈をしてくれることがよくあるのだ。
 粗末なシートの上に押し入れから出してきたと思しき雑貨を並べる男、お手製のテーブルにささやかな菓子を並べる女。値は張るものの、ホットワインを出している男までいる。ややこぎれいな身なりを見るに、ここらの地主かその縁者なのだろう。そんな人間までも、こんな市井の行事に参加して、他の市民と変わらないように交流を持っている。ソルにとっては奇妙な光景だった。
 ソルはよくよく観察しようとあたりを見回した。賑わいはあるが、それでも、ソルが知っているパリに比べれば今の街はこじんまりとしている。パリは狭くなった。アメリカが広いままやせ細ったのとは異なり、人が、街が、文明が、圧縮されたように縮こまった。
 ジャスティス暴走による日本消失から間もなく大規模な戦乱に見舞われたアメリカは、ソルが住んでいた頃からは考えられないほどの痛手を負い世界の覇者たるリーダーシップを失った。人口も大幅に減少し、程なくして発足した聖騎士団の本部がパリ——欧州に設置されたことから、その恩恵を受けるのが遅れ、戦況が多少はマシになるまで多大な犠牲を払うことを強いられた。
 その間に世界は様変わりする。人間の持つ領土は変形し、人口は目減りし、国際情勢は急変した。寝物語の悪役は狼からギアに成り代わり、物価や常識そのものがソルの記憶にあるものと大きく変化した。
 ソルは聖戦前の亡霊のような男だが、カイは聖戦の最中に生まれた子供だ。いや、カイに限らず、今を生きる人間は聖戦以前のことを歴史書の中でしか知らない。だからソルと違って今の世界を戦前と比べる理由も術もない。それは、以前にカイが語ってきかせた「ふつう」の話で嫌というほど身に染みている。
(……正しい教育か)
 しかしそれにしても、だ。
 親の露天商を手伝う子供の姿もちらほらと散見されたが、彼らの中にカイと同じ目つきをしたものはいない。先日聞いた「ふつう」という概念が、ソルにはまだうまく呑み込めていなかった。カイは言う。剣を持ち、殺せと教えられるのは当たり前だと。親が子に刃を握らせ命を奪えと耳元で囁くのは生き残るための必定なのだと。
(考えないようにしていた、ツケなのかもしれねえが)
 ではあの街角の子供達も、有事には剣を振るえるというのか。本当に?
 ソルは息を吐いた。軒先で母親に笑いかけ、頭を撫でられる少年の体つきは、どう見積もっても鍬や鋤をやみくもに振り回すのがやっとに思えた。
 そりゃあ、生きるための教育はされているだろう。聖戦は中世の百年戦争とは違う、人類という種の存続を懸けた戦い。有事には若い命をどれだけ残せるかが重要視されるから、どの子供も、逃げ足は確かに速そうだ。
 けれど、それを踏まえた上で、「カイ=キスク」は、やはり歪にすぎるのではないか?
「あ、ソル、もうちょっとこちらへ。馴染みの方がカップケーキの街商を出してるみたい」
 不意にカイの、鈴が鳴るような声が耳に入ってきてソルの思考を止める。ソルは繋いだままの手を引き寄せられた方へ振り向いた。中年の女性が素朴な台の上に黄金色のケーキを並べている。
「カップケーキ? 製菓用シュガーの一般配給なんて滅多にねえだろ」
「まあ、確かに三ヶ月前のものが最後でしたが。みんなこの日のために貯蓄してるんですよ。ね、行きましょう」
 ソルに同意を求める声音は、やはり彼が平素見せるものより幼い。露天商を手伝っている少年少女たちの瞳がカイのそれにだぶって見え、ソルは首を振った。
 カイは子供だ。本人がいくら否定しようとその有り様が歪であろうと、ステータス的には子供なのだ。だから街中を走り回る子供達と同じはずで、なのにどうしてこんなに、彼らと同じに見えることへの違和感がソルの頭を苛むのだろう。
 あの雨の日に見た「機械」の面影が、瞼の裏に、こびりついて消えようとしない。
「アネットさん、こんにちは。カップケーキ、おいくらですか?」
 立ち寄った軒先には、飾り気のないカップケーキがいくつも並んでいた。ホームメイドの暖かみのあるそれらを前にして、「毒とかは平気なのか」と不安に思ったが、気安いふうに笑いかけるカイの顔を見て口に出すのはやめた。まあ毒を盛られるような間柄ではなさそうだ。
 女は名を呼ばれて顔を上げ、カイの姿を認めると人好きのする実直な笑みを浮かべ、ひらひらと手を振ってみせた。
「おや、カイ様じゃないか。いいよいいよ、ただで持っておいき。カイ様はいつも私達市民を守って戦ってくれているんだから……」
「いえ、そういうわけにはいきません。二ユーロ五十セントですか? それじゃあ、私と彼のぶんと、二つ」
 ポケットから財布を取り出し、五ユーロ紙幣ぴったりを取り出してカイが有無を言わせず女に押しつける。アネットと呼ばれた女は呆気にとられた顔をしていたが、カイの真剣な口調に程なくして相貌を崩し、「カイ様は相変わらずだねえ」と微笑んだ。
「几帳面だねえ。うちの子達に見習わせたいぐらいさ。けどそいつは、カイ様のいいとこだが、ちょっと、融通がきかないところでもあるね」
「悪いな。この坊主は杓子定規であることが最も尊ばれることだと解釈してる節がある」
「え、ちょっと、いきなり口を挟んだと思えば……なんですか、ソル! 何かを得るなら対価は支払わなくちゃ。正当な行いをしたまでですよ、私は」
「ふふ、仲がよろしいんだねえ。それじゃ五ユーロはありがたく受け取っておこう。でもおまけぐらい付けさしといてくれ。あたしたちパリの住民は、みーんなカイ様——聖騎士団に感謝してるんだ。その気持ちを受け取ってもらえないのは、ちょっと寂しいからねえ」
 そう言いながらカップケーキ二個と一緒に何らかの包みを紙袋に入れ、女はカイにぽすりとそれを持たせた。
 今度はカイが呆気に取られた顔をする番だった。聖騎士団は確かにパリ、ひいては世界の人々を守らんとして日々活動をしている。けれど、そのために周辺住民に負担を強いている面も少なくない。食料品の配給は本部や支部に優先されるし、肉や卵などの栄養価の高い食品は特にその傾向が強い。パリはまだ一般市民にも嗜好品が行き渡っている方だが、それでも待遇の差は明確だ。
「おまけなんて、どうしてそんな」
 カイに言わせれば、普段から優遇されている聖騎士団の者は、こういう日におまけなんかされるべきではないのだ。示しが付かないというか、そういうものもあるけど……自分たちが戦うのは、人々を守らんとするのは、カイにとってはあまりにも「当たり前」で「ふつう」のことすぎた。
 命を懸けて戦場へ行くことはカイにとって何一つ特別ではない。ただ、自分と、街の人とでは、役割が違っただけ。畑を耕し、家畜の世話をする代わりに、戦うことがカイの役割になっているに過ぎない。
 だから、戦っているということだけを理由に受け取ることは出来ない。そう言おうとした言葉が、女の明朗な声によって喉の奥へ押しやられる。
「あはは。だってあたしは嬉しかったんだよ。降誕祭の日に嬉しいことがあったら、おまけの一つもしたい気分にならない方がおかしい。……カイ様がお友達を連れてきたのは、随分、久しぶりのことだろう?」
「……あ……」
「今年のカイ様は、まあ几帳面なところは変わっちゃいないが、表情が柔らかい。去年のカイ様はそりゃあもう堅っ苦しかったもんさ。街中で噂になるくらい」
 狼狽するカイに、女は慈愛深い表情で頷いてみせた。
 なんだか赤らんでしまった頬をちょっと隠すように深々と面を下げ、礼を言うと、カイはソルの手を再び引いて足早に街を駆け抜けた。通り過ぎる道々で、カイと顔馴染みらしい露天商の主人達が何人か声を掛けてくる。カイ様、時間があったらうちにも寄ってくださいや。うちにも。うちでホットワインを用意していますよ。そんな言葉たちにありがとうございますと言って走り、カイはがむしゃらに前へ前へと進んでいく。
 ようやくのことで足が止まったのは、祭の賑わいから少し遠ざかった街外れの噴水広場でのことだ。
 走り疲れたらしいカイは「すみません」と浅い呼吸を繰り返し、噴水の縁に腰を掛けた。
「俺は別に体力があるから構わねえが、どうした、あんな急に」
 尋ねると、息が上がって紅潮した頬がこちらへ向けられる。そうしているとそこら中を走り回っている街の子供とますます同じに見えてソルは密かに困惑した。
「わ、私だって別にこの程度でばてるほど体力がないわけでは……いえ、そうじゃなくて。あの。……ちょっと……びっくりしてしまって……」
「テメェが平常心じゃないのは見りゃわかる」
「……。すみません。あなたのことを、私の、その、……友達、だって。……それにすごく、驚いてしまったんです」
 深呼吸をして息を整えながら、隣に座り込んだソルを上目遣いに見上げる。
「迷惑だったら……ごめんなさい……」
 それからカイは、どこか恥じるようにきれぎれの言葉を口にした。
 ソルは、その様子に頭の中で何かがかっとなって、意識するより先に手を伸ばした。グローブをはめた指先をカイの頭上に伸ばし、文句を言われるより先にカイの頭を鷲掴みにする。
「う、うわっ?! ……ええっ?!」
 そうしてカイが素っ頓狂な声を上げている間に、頭をくしゃくしゃと撫で回した。
「な、なんですか、急に!」
 カイは頭を撫でる手のひらから逃れられないまま、ソルの表情の読めない両目を凝視する。ソルはカイの頭をよく撫でる。この前、図書室で勉強を見て貰ったときもそうだし、戦が終わったあとに死者を弔っていたら、いきなり後ろから撫でられたこともあった。もしかして、人の頭を撫でるのが趣味なのか——と最初は疑ったが、しかしカイ以外にそうしたという話は一度も聞いたことがない。
「迷惑? あんなんで迷惑になるんなら、俺はもうテメェを百ぺん見限っておかしくないぐらい迷惑被ってるよ。人を追い回すわちゃんばらごっこを執拗にせがむわ小言はうるさいわ、枚挙に暇がねえ有り様だ」
「ひゃ、ひゃっぺん」
 相変わらず表情は読めないが、言っている内容に反して声音は優しい。この男のことが、カイには本当にわからない。まずカイのことをどう思っているのかがわからない。カイの呼び出しにうんざりしているかと思えばソルの方から来ることもある。まるで手探りで距離感をはかっているかのような、定まらなさがある。
「だからこんなのは迷惑のうちに入らない。俺に迷惑掛けたくねえっつうのなら、まずそうだな……ちゃんばらごっこをやめろ、坊や」
「ちゃんばらごっこではなく真剣勝負です! あなたが手を抜いてるだけで! ……でも、それなら、良かった」
「ああ? 何がだよ」
「あの、笑わないでくださいね。本当言うと、嬉しかったんです。……ともだち……なんて、久しぶりに聞いた言葉だったから……」
 けれどカイには、その距離感が愛おしいのだ。嫌われていないのなら、こちらへ来て自分を見てくれるのなら、まず、それが一番いい。
 カイは花が咲いたように笑った。朱のさした面差しは一層あどけなく、あの雨の日にソルが見た殺戮兵器とは、まるで別人だった。
「団の皆さんは、友人……という感じではあまりなくて。私に良くしてはくださるけれど、どこか距離を置いているというか、一歩引かれてるところがあるから。一人、お互いに友人と言い合える奴もいたんだけど、オーストラリアに行ってしまって滅多に帰って来ない。あそこは激戦区ですから、手紙を多少遣り取りするぐらいが精一杯だし」
「坊やにダチが一人でもいたという事実に、俺は今結構驚いてるぞ」
「なんとでも言ってください、こればっかりは事実ですからね。……でも、そっか。ソルが私の、友人。……今まで考えたことがなかったけど」
 カイがソルの方へ距離を詰め、僅かに空いていた隙間を埋めてくる。それからソルの指先に小さく華奢な指を絡め、どこにでもいる少女のような顔をしてはにかむ。
「あなたさえ良ければ、それも素敵ですね」
 枯れた噴水の向こう側で駆け回る子供達のはしゃぎ声の中、その言葉は不思議なほどはっきりとソルの中に響き渡った。
 ソルはカイの手を握り返した。
 少し力を強くすればほんの一瞬で手折れてしまいそうだった。
 だから——その時、ソルが抱いていた違和感、疑問というものの正体が、ほんの少し分かったような気がした。
 カイはやはり子供なのだ。これはどれだけ本人や周りが否定しようが、ソルの中では決定的な事実である。この街で育ち走り回っている子供達と何も変わらない。だから照れたり恥ずかしがったりすることもあるし、屈託のない純真無垢な表情にも偽りはない。
 けれど、街の子供達と明確に異なる部分もある。それが、カイが持つ機械兵器としての一面だ。一人の人間ではなく、役割やシステムとして捉えるところのあるような、戦前育ちのソルからしてみれば際だった異常でしかないもの。それらが奇妙に重なり合い、一緒くたになって、少年の器のなかで無理矢理同居している。
 だから、ズレが出る。機械兵器の側面を期待している団の人間達は、どうしてもカイにそちらの役割を求める。彼らは努めてカイを大人と同列かそれ以上に扱いたがり、神童と崇めてありがたがる。第五小隊の人間達が投身自殺を憚らなかったのもそのためだ。彼らは、自分たちが命を押しつけるカイという存在を、子供だとは思っていなかったのだ。命を預けるだなんて死にたがりにばかり都合の良い言葉が、どれほど子供には酷なことなのか、考えたことさえなかったのに違いない。
 並の神経をしていれば、潰れていただろう。だが不幸なことにカイは並の神経をしていなかった。十から戦場に行き、地獄の最前線に立ち、まともな神経というのが摩耗しきってしまった。
 痛む心がなければ、それで不当に傷付くこともない。「兵力の損失」は大きな痛手だし、「人が死ぬことも教義的にとても悲しいこと」だが、決して、「歩みを止めてしまうほどの衝撃」にはなり得ない。
 カイの自我はそこまで崩壊が進んでいる。それでもまだ、彼が「機械兵器」としての自分に偏りきっていないのは、パリの街に住む人々が、彼を普通の人間として扱っているからだ。
 カイを信仰や陶酔の対象ではなく、慈しみの対象として見る者が今はまだこのパリにちゃんといる。カイに声を掛けてきた露天商の主達は、皆そうであるはずだ。彼らはカイの戦いぶりを直に見ていないし、聖騎士団もカイの活躍について市井に喧伝したりはしないから、逆に崇拝までは行き着かない。だからこそ、ただ頑張っている礼儀正しい男の子として、カイを見ることが出来る。
 細い糸のように危ういバランスで、カイは最後の一滴まで人間性を搾り尽くされる末路を免れている。
 このままではカイは、子供のまま人間性を失い、永久に大人にはなれないだろう。その模倣をした、本当の意味での感情や執着を理解出来ない、「なにか」にしかなり得ない。
「友人、なあ。まあ坊やがそう呼びたければ、そう思えばいい。俺は別段嫌だとは思わない」
「ええ? じゃあ、本当にそう言ってしまいますよ?」
「誰にだよ」
「レオに。私の友人はおまえだけじゃなくなったぞ、と、手紙にしたためなきゃ」
「好きにしろ」
 このタイミングでクリフがソルを引っ張り出したのは、それを恐れてのことなのだろう。一つぐらいカイに「大事なもの」を作らせて、後生大事に墓まで持っていくような執着を覚えさせようという魂胆だ。そしてその役には、見目麗しい女性やかよわい少女などではなく、ソルのような、殺しても死ななそうな男のほうが適しているとあの老人は理解していた。すぐになくなってしまいそうな氷細工が溶けた時より、一千年経っても同じ形を留めていそうだった鉄細工が消えてしまった時の方が、より深く人間的な悲しみを想起する。
 あの老人の策にそのまま乗ってやるのはいささか癪だが、確かにそれが一番効果的なやり方であるのには疑いようがない。問題はタイミングが非常に難しいことだが。少しでも時期を誤れば、この硝子工芸品のような少年は簡単に壊れ、二度と元には戻らないだろう。
 繋いでいるのとは逆の指先ですくうと、短い金髪が上向きに跳ねた。このやわらかな髪も、昨日は返り血に汚れ、一昨日は戦場で煤にまみれ毛羽立っている。カイという存在は歳に似つかわしくないほど完成されているが、それ故に危うい。その危うきを支える柱になるというのなら、カイは好きにソルを友人だと思えばいい。身勝手に。そのぶん、ソルも身勝手に彼を扱うだろう。聖騎士団の立ち位置で、彼を機械ではなく、人間として見なし続ける。
「二ユーロ五十セントだったか? 払うから、カップケーキ一個寄越せ。腹が減った」
「結構です。一応上司なんですから、それくらい……」
「ものには正当な対価を、だろ? 二ユーロぽっち、普段吸ってる煙草よりよほど安い」
 頭を触っていた指を離し、有無を言わせず二ユーロ五十セントぴったりをカイの懐にねじ込んだ。紙袋からカップケーキを取り出すと、はずみで、おまけに付けられたものが飛び出てくる。金色のホイル紙にくるまれたそれからは甘い香りがした。チョコレートだ。
「……星形」
「ベツレヘムの星だな」
 降誕祭の日にわざわざ入れてくるんだから、そういうことだろう。救世主誕生の奇跡を祝うというよりは、形式的に模したものの名残なのだろうが。
「……前から思ってましたけど、あなたって博学ですよね」
「坊やより長く生きてるだけだ」
 素っ気なく言い、ホイル紙をはがして露わになったチョコレートを半分囓ってから、残りをカイの口に放り込んだ。舌の上に乗せられたそれを素直に口内へ迎え入れ、味わうように口が動く。子供だな。まだ、全然。そう思ったが言わなかった。これを口に出してしまったら、なんとかして自分に言い聞かせているみたいで格好が付かない気が何故かしていた。
 チョコレートを頬張るカイの頬はまだ紅潮している。明け方の雪が溶けずに降り積もっている、街の寒さのせいだろうか。それとも、未だに、「ふたりめの友人」に浮き足立っているのか。
 或いは、何かもっと別の理由が……例えば繋がれたままのソルの指先あたりにあったりするのだろうか?
「俺が思うに、降誕祭の夜に見える星は、アメリカもパリも、百年前も今日も多分変わんねえよ」
 考えても出ない答えの代わりに、口の中でチョコレートを舐めながらそんなとりとめのないことを呟く。横で聞いていたカイは、チョコレートを舌の上に転がしたまま、「なにそれ」と困ったように笑った。

◇◆◇◆◇

 帰ってきた頃にはとっぷりと日が暮れ、廊下の明かりが灯っていた。
 団に戻ったその足で、二人並んで食堂へ向かう。カイの足取りはいつもより少し頼りない。帰り道で山盛りものを持たされたのに加えて、せっかくだからと歩きながら飲んでいたホットワインが大分効いているらしい。
「下戸ならそう言え、ったく。まあフランスの飲酒法は十六歳以上だと知っていて十五になったばかりの坊やに飲ませた俺にも非はあるかもしれないが」
「へ、へいきです……今出撃の警報が鳴ったらちょっと保証は出来ませんが……スパイスも水もお砂糖も入って薄まったものですし……」
「まあとにかく、この後の席で酒が出ても一切口にするなよ。傍についていてやるから」
「怖いほど優しいですね、今日のソル」
「不安なんだよ、その千鳥足が」
 荷物の半分以上を代わりに持ち、身体を支えながら歩くソルとカイの傍を誰かが通り抜ける度、ワンテンポ遅れて振り返られる。ソルは嫌な予感を覚えた。何か、誤解をされているような気がする。具体的にはソルがカイを酔わせたとか、そういうふうな。
「冗談じゃねえ」
 どちらかといえば介抱してやっている側なのだ。頭の中で、昔の親友がひょこりと顔を出して「普段の行いが悪いからじゃないかなあフレデリック」などと口を挟んできたが即座に抹殺した。
「調子が良くないならパーティなんかすっぽかして部屋に戻って寝てろよ」
「そういうわけにもいきません」
「なんでだ」
「だって、楽しみにしてたんだもの。……一年に一度しかないんです。ノートルダム寺院には、私はこういう時でもないとなかなか寄れませんし」
「……そうか」
 楽しみ、という言葉を聞いてソルはそこで口を噤んだ。子供から楽しみを奪うほどソルも残酷ではない。ましてやこの、何を考えているのかよくわからない子供の口から「楽しみだから」という理由が出てきたのだ。義務感に駆られてのものなら引き摺ってでもベッドに戻したが、まあ、ちょっと酔っぱらっているだけだ。お目付役がいれば大事にはなるまい。
「クリフに追加料金でも要求するか……」
「え? なんですか?」
「こっちの話だ。とりあえず俺の傍から離れるなよ」
 カイから手を離し、食堂の戸に手を掛ける。カイはどこか上ずった調子で「は、はい」と応えると、ソルの制服の裾を握りしめた。


 食堂は足の踏み場もないほどごった返していた。なにしろ普段は時間をずらしてばらばらに訪れる団員達が一斉に詰めかけるのだから、こうなるのも無理はない。毎日のようにばたばた人死にがあるとはいえ、腐っても本部。抱えている団員の数は全支部じゅうで一番多い。
 大昔にワールドニュースで見たジャパンの満員電車さながらの様子に、ソルは眉を顰める。荒事を生業にしている特質上、団員には大柄な男達が多い。この調子ではカイなど簡単に埋もれてしまうのではないか? そう不安に思ったが、すぐにそれは杞憂だと分かった。
「カイ様! もう始まっていますよ。さあ、こちらへ」
「カイ様、料理はあちら、ケーキはそちらです」
「ああ、クリフ団長とベルナルド様ならあっちの方に」
「昼はどちらへ行かれていたんですか? やっぱり、蚤の市に? ああ俺も行けばよかった——」
 誰かがカイを認めるや否や、モーセの海渡りのようにさあっと周囲から人影が引いていく。そうしてカイが動くための十分なスペースを確保し、一歩引いたところからあれやこれやを勧めはじめる。よく訓練された警察犬のような動きだ。
 そんな警察犬たちの中から、一人の男が人混みを掻き分けて前に出てくる。エプロンを身につけた男は、カイの姿を認めると陽気に手を振って斜め右方向を指し示した。
「今年は、カイ様の守護神昇格も兼ねていつもより豪華なケーキを用意したんだって言ってましたよ。ブッシュ・ド・ノエル、お好きでしょう」
「ええ。それじゃ、遠慮なくいただいてきます。……ソル」
 声を掛けられたカイが、先ほどまで酔いが回っていたとは思えないほど確かな足取りで振り返る。名を呼ばれるまま、ソルは慌ててブッシュ・ド・ノエルがある方へ進んで行くカイの後を追った。カイはもう、ソルと二人で街を歩いていた時と違う顔をしていた。そこに立っているのは、町民におまけをされてびっくりする年相応の子供ではなく、人々の上に立ち旗頭となって先導するカリスマだった。
 チョコレートクリームで覆われた手つかずのブッシュ・ド・ノエルには、簡素なプレートが刺さっている。メリー・クリスマスの下に綴られた「おめでとうございますカイ様」の文字列に眩暈がした。カイの顔つきが一瞬で変わった理由と、カイ=キスクというたった十五歳の男の子が大人になりたがらない理由、そういったものが、答え合わせでもするみたいに再び詳らかにされて、ソルの前に示されたからだ。
「ソル? どうしたんですか。甘い物は、そんなに好きじゃないのかもしれませんが……クリームの乗ったケーキなんて年に一回食べられるかどうかなんだから、口に入れておいて損はないですよ」
 アメリカ人ってチョコレート好きなんじゃないですか? という偏見まみれの台詞を吐きながらケーキの載った皿を突き出してくるカイの表情は、どっちつかずで曖昧に空を漂っている。
 無言で受け取ってフォークを突き刺すと、ブッシュ・ド・ノエルは容易く崩れ、ぐちゃりとした茶色の塊になった。
(降誕祭、か)
 守護神の座を拝命し、天使から神に成り上がった少年がソルの隣でケーキを頬張っている。守護天使も守護神も全て役職の名だ。カイの他にだって何人も存在している。だが、カイだけは、その名が役職以上の意味を持たされている。薄々勘付いてはいたが、この扱いを見る限りそれにもう疑いようはない。
 彼はその名を冠している限り、団員達にとって真実、天使であり神なのだ。
 たとえ彼らの知らないところでカイがどんな表情をして何を考えていようが団員達は知ったこっちゃないし、カイは求められる限り、そのように振る舞い与えてしまう。
「カイ様、カイ様! そいつの味はどうですか?」
「テオドア。ええ、とても美味しいです」
「そいつは良かった! 厨房回してる連中で、こつこつ食材を集めましてね。バターやらチョコレートやら、ブランデーやら、ふんだんに使いましたよ。カイ様に喜んでいただければ苦労の甲斐もあったってもんです」
 カイが皿によそったケーキを食べ終わる頃になって、ケーキ作りの主導者らしき団員が駆け寄ってくる。そばかすが特徴的な赤髪の団員はカイに握手をせがみ、笑顔でカイの手を握りしめた後、ふと思い出したように首を傾げた。
「……それにしても、アランのやつ、どうしてんだ? あいつ、次の降誕祭ではカイ様にケーキの感想を間近で聞くんだって息巻いてたのに」
 テオドアの言葉を聞いたカイは、はっと目を見開き、彼を咎めるように人差し指を唇へ当てる。数度のまばたきを経たカイは、まるでダヴィンチの受胎告知に描かれたガブリエルのような目をしていて、その瞳の中に何が映り込んでいるのかソルには読めない。
「テオドア、アランは先日死にましたよ」
 カイは柔らかな唇をそそと開きアランに短く告げた。彼の口から滑り出た声は、受胎告知とは真逆の死刑宣告じみていた。
「…………あ、ああ、そう、でしたね。あいつはもう、いないんだったか……」
 あまりにも淡々とした言葉にテオドアが息を詰まらせる。事情を知らないソルでも、会話の意味を正確に把握するのにそれほど時間は掛からない。ソルはためらいなく事実を告げたカイの瞳を凝視したまま、視線を動かすことが出来なかった。エメラルドブルーの硝子玉は、何の感傷もそこに宿してはいない。事実は、事実以上でも以下でもないと言うかのように。
 アランとかいう男は、今年のクリスマスを迎えられずに死んだ。その友人だったのかもしれないテオドアという男は、まだ彼の死を認められていない。戦場でなくともよくある話だ。知人の死を認め理解することを脳が拒む。テオドアの中でアランはいつまでも生きている。
 だがカイは無感動にそれを否定し、冷徹に現実を突きつける。これも神様扱いの弊害か。カイがテオドアの心理状態に想像を働かせられなかったのか、或いは偽善を放棄したのか、そのどちらなのかは知らないが、随分と惨い真似をするものだ。
「おい、カイ」
 見ていられなくなって、ソルはカイの手を引いた。テオドアはフリーズしてしまったように動かず、何も言わなかった。握ったカイの指先は少し冷えていた。雪の降り積もるパリ市街を歩いていた時よりよほど人の温度がしなかった。
「なんですか?」
「外出るぞ。バルコニーでも庭でも街でもどこでもいいが、とにかく外だ。頭冷やせ阿呆が」
「え、ちょっと、待って!」
 抱き上げた身体は羽根のように軽い。もがくカイの身体を腕の中に押し込めながら小さく首を振る。この質量には、いつまでも慣れられる気がしない。

◇◆◇◆◇

 抱えたカイの効果か、波を割るように生まれた空間をずかずかと歩いてソルの足はひとりでに屋上へ向かっていた。植物一つ植えられておらず、別段何があるわけでもない空間だったが、その質素さが降誕祭の飾り付けがされた空間よりも今の気分に合っていた。
 地面にどさりと降ろすと、カイは尻をやや打ったようで、無言でソルを見上げてくる。無視して外周のフェンスにもたれかかると、彼は座り込んだままの抗議よりも立ち上がってソルのそばへ向かうことを選んだ。
「何故あんなことを言った」
「え?」
 手短に尋ねるとカイは不思議そうな顔でソルを見つめてくる。自覚がないとなると、これはなお、たちが悪い。
「あんなことって、何ですか」
「アランとかいう男の死についてだよ」
「……なにか、おかしなこと言いました?」
「ああ、まあ、テメェに人の心が欠如してるってのを今改めて思い知ってるところだ」
 雪が降ったあとの大気は凍えるように澄み渡り、頭上には満天の星々が瞬いている。ソルはあえて上ではなくカイの顔が見える下を向き、これみよがしに溜め息を吐いて見せた。
 カイの表情が凍る。
「そんな態度で濁さないでください。私に非があったのなら、それを教えて。至らぬ点は改善します」
「ならまず、これだけ聞かせろ。テメェはアランとかいう死人のことをどの程度覚えてる」
「アラン……アラン・へースティングスは第五小隊の所属で、先日の作戦で私に命を預けて逝きました。ケーキ作りが上手で、確かに、去年の降誕祭では来年を楽しみにしていてください、と言われた記憶があります」
「第五小隊の……」
 なるほど、あの自殺志願どものうちの一人か。それでは、テオドアはアランの死に目さえ見ていないに違いない。
 なら信じられなくても当然だ。カイの血路を開くために身を擲った第五小隊の者達は死体さえ残らなかった。四肢をギアに引きちぎられ、見るも無惨な肉片になったものを、全てが終わったあとカイが一人で弔ってドッグタグだけ持ち帰った。
「あんな死に方じゃ、テオドアがまだ納得出来てないのも当然だろ。少しは気を利かせてやるってことが出来ないのか」
「気を利かせるって、まさか嘘を吐いてアランが生きているかのように受け答えることですか?」
「そうだ」
「なんで? そんなの、かえって残酷じゃありませんか。だって去年一緒に降誕祭を過ごした人が、翌年のその日にはもういないなんてこと、あまりにもありふれすぎてますよ。私が団に来てこれで五回目の降誕祭ですけど、五年前から変わらずこの日を迎えられている人は団全体の半分ぐらいです。異動になった人もいますけど、死者のほうが、ずっと多い。テオドアもちゃんとそう認識した方がいいんです。不確かな認識は、本人の死期を早めます」
「…………」
「心の弱さは、戦場で一番の命取りです。戦場に武器を持って出てきているのに生き残るつもりのない人間を、全て救えるほど私には力がない。だから第五小隊の彼らのような犠牲を強いてしまう。……ほんとは、私だって、こんなことを言わなくて済むぐらいもっと強くなりたいです。世界じゅう全ての人をこの手一つで救うことが出来るのなら、どんなにか素晴らしいでしょう。だけど私はイエスではありませんから」
 目に見えないベツレヘムの星を頭上に掲げさせられている少年の口ぶりは単調だった。
 ソルはカイについての認識を少しだけ改めた。彼はカリスマとして崇拝されており、本人曰く、物心ついた時から大人と子供の区別なく育てられたのだという。それは半分が正しく、半分は間違いだ。ソルの考えが正しければ、恐らく彼は物心ついた瞬間から救世主として育てられたのに違いなかった。
 だから人の心がわからない。人間と違うものとして育てられたから、杓子定規に過ぎて、逆に歪んでいる。
「坊や、ソイツは、テメェがそういう思いをしたことがねえから言える正論だ。大事なものを失えば、『人間は』なんのかんの言っても正論を振りかざす余裕を失う。余地の喪失が起こる。理屈で分かっていても、感情が付いていかない」
「……そうなのかな」
「そして坊やは神の子でもなんでもない。だから救える命に限りはあるが、反面、人と同じ目線に立って相手を思いやることが出来る。テメェが本当に『大人』だってんなら、ちっとは想像力を働かせろ。着飾らない真実だけがいつも求められているわけじゃない。優しい嘘は、例え悪でも必要な時がある」
 しかしどれだけ救世主たれと求められ、それだけを教えられたところで、根本的にカイの肉体と精神は人間を超越出来るように出来ていない。そうでなければならない。どこかで人にならなければ、カイはいつか破綻する。
 そしてその果てに世界を道連れにするだろう。カイの歪な正しさが、人類最後の砦である聖騎士団に蔓延し、信仰されている限り。
「テメェは正しすぎる。正しさっていうのは、凶器だ。こういう気の狂った時代では特にな」
「……」
「もう少し大人になれよ」
 額を指先でとんとつつくと、カイは伏し目がちに唇を尖らせた。どうも落ち込んでいるようだ。
「大人になれなんて言われたの、初めてです」
 やっとの思いで絞り出したみたいな声は頼りなかった。
 本当に初めての経験だったのだろう。混乱しつつも、素直な面差しがそれを物語っている。時代のスタンダードとやらに異常なまでの求心力が合わさった結果、人間である前に救世主として扱われたことがはっきりしてきた今、心底胸くそ悪いが、救世主であればそれでよかった少年は大人になれと教えられたことが一度もないのだ。
「そうか」
「だって私、もう、大人ですよ。子供じゃないもの。……私のこと子供扱いしてくるの、本当にソルだけなんですからね?」
「テメェがそう思うんなら、そういうことにしておいてやるよ」
 カイが唇を尖らせたままむっと頬を膨らませる。そんな仕草をしておいて大人とは——などと口には出さず、カイの額から手を引いた。カイは押し黙った。ソルも黙りだ。そのあとは、二人でじっとフェンスの向こうを眺めていた。
 星明かりばかりの暗がりで、それでも呼吸の度に白い吐息がうっすらと見える。氷点下まではいかないものの、パリの夜は寒い。雪が降るような温度となれば尚のこと。
 ややあって、じっと星を眺めていたカイが肩を震わせ、くしゃみをする。ソルはケープを脱ぎ、朝と同じようにカイの肩に被せた。ぶかぶかのケープに今度はカイも文句を言わない。ただ、素直に礼も言わない。
 カイの身体をすっかりケープが覆い、くしゃみが止まったのを確かめると手慰みに懐から煙草を取り出す。指先で小さく術式を滑らせて火を灯すと、それをちらりと見たカイがしばし唸った。規則違反でも咎めるつもりか? そう思いながら煙草をふかしていると、彼が予想外の行動に出る。
 カイはポケットに手を突っ込んだかと思うと、手のひら大の硝子のケースを取り出した。それをフェンスの上に固定し、つんつんとつついて詠唱を始める。程なくして硝子の中に炎が灯る。
「……火か」
 思わず、そう口を突いて出た。雷にご心酔のうえ、火は解放的すぎて野蛮だと言って憚らないカイが火を出すところを見たことは、初めてのことだった。
「……なんですか。火ぐらい私だって出せます。ついでに言えば、風も水も使えます」
「いや、別に疑ってたわけじゃないが」
「暖を取ろうと思ったら火を使いますよ、私だって。…………ソルのケープは暖かいけど、そうすると、今度はソルが、寒くなるでしょう……」
 だってあなたハリネズミみたいに布団に丸まっていたのに、と零すカイの横顔には朱が差して見える。団員達に囲まれていた時に見せるカリスマのそれではない、子供の横顔が彼の中に返ってきていた。
「どうやら頭は冷えたみてえだな」
 ぼそりと言ってやるとカイは叱られたあとの子供と同じ顔をして「ちょっとは……」と呟く。
「アランに謝らなきゃだめかな」
「やめとけ。かえって傷口に塩を塗るだけだ。死人が帰ってきやしないのは、事実だからな。それとも坊やはテメェの部下を黒魔術に走らせる気か」
「やだ、ソルの口から黒魔術とか。あなた一切の信心深さがないのに、そんな絶対信じてもいなさそうな」
「大昔には俺だって両親に連れてかれて洗礼とか受けさせられたはずだぞ」
「でも洗礼名なんか覚えてないんでしょう?」
「まあ、ソル=バッドガイとか名乗ってる中に洗礼名が入ってるはずもねえな」
 冗談めかして言うと強張っていたカイの表情が徐々に緩んでいく。カイは大きな海色の目を見開き、ソルの方をじっと見てまばたきをした。
「ねえソル、降誕祭前夜のミサは、イエスのご生誕を祝うものでしょう。だから深夜に行うわけで」
「そうだな」
「つまり、私達が降誕祭を祝うのは、神様がいるから……なのかな、って」
「ああ……」
 カイが上目遣いに尋ねる。戦場で、指揮官としてソルに命を出すときではなく、図書室でソルにものを尋ねる時の声。
 図書室でのカイはものわかりのいい生徒で、新しい知見を得ることに貪欲で、ソルにとって好ましい種類の生徒だ。適度に理解し適切に質問をしてきて、教えればその分なんでもきちんと理解する。いつでも——せめて戦場でもそうならいいのに。そう思うのは傲慢だろうか。おまえがいつも物わかりのいい子供だったら、ソルはこれほど、彼との距離をはかりかね、付き合いに困ったりしないのに……。
「少なくとも、礼拝堂に集まる人間の半数は、そう信じて参列してるだろう。残りは連れて来られたか他の目的があるやつらだ。聖歌が好きだとか、宗教的な空気そのものに興味があるとか、そういう芸術家肌寄りの」
「えらく実感のこもった言い方ですね」
「昔連れてかれたことがあるんだよ。俺は別に信仰してなかったし、連れだった一人は雰囲気を楽しんでただけだった。三人で行ったが、本当に神の子の降誕を祝っていたのはそのうちたった一人だ」
「……じゃあ、今日のミサ、一緒には行ってくれませんか?」
「は? 別に信心深いやつばかりじゃないと今説明したばかりだろう。俺が行ったって構わないんじゃないのか」
「そうじゃなくて、あなたが嫌なら、……無理強い、しません。これは仕事じゃないですからね」
 どうやら、ものわかりの良すぎる生徒が一を教えられて十まで考えてしまったらしい。ソルは一人で勝手に結論づけて項垂れているカイの背中を叩いた。二人分のケープは分厚かったが、衝撃をしっかり受け取ったらしいカイは「うわっ?!」と素っ頓狂な声を出して大慌てでフェンスに掴まる。
 浮かび上がった腰を掴んで支えてやり、ソルは唇をカイの耳に寄せた。
「手合わせを迫る時はあんなにしつこいくせに今日はいやに殊勝じゃねえか」
「だ、だって……手合わせで食い下がるのは、ソルが本気を出してくれないから……」
「どっちがだ。テメェの本気は、あんなちゃんばらごっこじゃねえだろ」
「ソルが騎士道精神を持ち合わせていなさすぎるだけです!」
「おやさしいこって。人間には、な……」
 鼻と鼻が付きそうなほど肉薄したカイの表情は純粋無垢を絵にしたように初心でまっさらで、汚れがない。
 今日一日でカイという少年の横顔をいくつも見た気がする。頬をなぞり、「俺は人間じゃないのにな」と耳元で囁いてやりたい衝動を堪え、代わりに耳たぶを甘く噛んだ。
 カイに本気を出させる明快な方法をソルは一つだけ持ち合わせている。簡単だ。今噤んだ言葉を投げ渡すか、或いはこのヘッドギアを外し、額に刻まれているものを見せつけてやればいい。救世主たるカイは己の正義に従い、すぐさまごっこ遊びを捨ててソルを殺しにかかるだろう。忌むべき怨敵GEARとして無慈悲に処断しにかかる。例えその男が、勉学の教えを請い、共に街を歩き、ケープを借りて星を眺めた相手だったとしても、そんなことは処刑人にとって一切関係のないことだ。
(俺は多分な、テメェが怖いんだよ)
 屠殺場の機械さながらの、ギアよりよほど心ない兵器であるカイ=キスクという存在が、ソル=バッドガイは恐ろしい。ましてやこの組織におけるカイの立ち位置は更におぞましい。人間のふりをした天使が、人間の真似をしきれずに救世主として崇められているだなんて、お伽話になりきれない畜生の寓話だ。
 あの圧倒的な無慈悲と殺戮を繰り返す指先が、眼差しが、自分に向けられるかもしれないと思うと身が竦む。カイの世界は0と1だけで出来ている。本物の機械と同じように。今はまだ、ソルは にんげん で認識されている。でもそれが、ひとたび、 ギア になってしまえば……。
(俺はもうテメェのそんな顔も見られなくなる。俺か坊やかどちらかが死ぬまで、きっとテメェは止まれない)
 それがたまらなく怖い。
(なら、どちらかが牙を抜くしかない。俺か、テメェか。それが出来なきゃ……)
 ソルは目を細めて首を振った。ソルがギアだと今のカイが認識してしまった時、どういう結末を迎えるのか、想像がついてしまうのが最悪だった。どうしてその結果が出るのかのプロセスまで正確に試算出来るからなお悪い。最悪に最悪が折り重なり、思考は、地獄の袋小路に辿り着く。
(かといって、俺が手を抜いてやればいいってわけでもない。俺だって死にたくはない。俺が生きようと思えば、坊やのことは殺すしかない。生かしたまま勝つことは出来ない……)
 歯噛みをする。血まみれの未来予想図、その中央で、悪鬼と化したカイと悪魔の化身に成り下がったソルが対峙している。カイは無表情で、ソルは、嗤っていた。犬歯を見せ、舌なめずりをさえし、やっと手に入れた地獄を味わうように、嗤っている。
(で、こいつの本気とやり合えば、俺も正気じゃいられねえ。……牙を抜くならカイの方、ってわけだ。あのクソ狸ジジイめ)
 未来予想図の中央でけたたましく嗤う己の幻影を握り潰した。薄汚れた欲求を隠しもしないその幻は間違いなくソルの心に棲んでいる悪魔だった。ギアを屠殺していくカイは怖い。ビビってさえいる。だがそれと同じぐらい、相対し、望むままに貪り略奪し簒奪してやりたいと感じる気持ちが、奥底で燻っている。
 ソルは一体彼に何を求めているのだろう。彼に殺されたいのか? いいや、死にたくはない。彼を殺したいわけでもない。自分の感情が理解出来ない。どうもカイはソルのことを理解したがっているみたいだが、本当にソル=バッドガイという男を理解したいのは、ソル自身だ。
 カイの牙を抜き、大事なもの一つ持っていない殺風景な部屋の主を、ソルがギアと知っても殺せなくなるようにする方法なんか一つしかない。執着だ。そんなものを、たった十五の少年に、教え込みたいというのか。
(俺はこいつの何になりたいんだ)
 ああそうだと悪びれもせずに囁く悪魔から目を背け、ソルは自嘲するように唇を歪めた。
 気を紛らわすように、再び手のひらで触れたカイの頬は柔らかかった。なめらかな皮膚は弾力を持ってソルの指先を押し返し、急に耳を甘噛みされた衝撃にぷるぷると震えながら生娘のように目を白黒させている。
 まるで人間みたいな顔をして。
 命なんか奪ったことがないと微笑みながら子羊の肉を食む少女のように。
「そ、ソル——」
「テメェにとって俺はなんだ?」
「は?」
「友人か? 昼間、言われたように。それとも別の何かか?」
「……え? え、ええと……」
 急に問いかけられたカイは、耳たぶを噛まれた羞恥について言及することよりも疑問へ答えることに注力した。問いかけるソルが、どこか鬼気迫るものを隠し切れていないことに思うことがあったからだ。
 彼と向き合いたいとカイは思った。願いと言い換えてもいい。祈りにも似た気持ちでカイは願う。今こちらを見てくれている彼を見失いたくない。問い詰めたり、小言を言ったりするのは今でなくともいい。けれど彼のこの問いには今しかきっと答えられない。
「ううん。団の皆さんは、私にとって、家族です。すべからく全員が。クリフ様も、ベルナルドも、レオも……アランや、テオドアもね。だからまずあなたは、団員である限り、私にとっては家族の一人ですよ」
「なら、俺が団員でなくなったら」
「……団をやめたいってことですか?」
「もののたとえだ」
「……うーん。でも、そうですね、そうしたら……たとえソルが団員でなくなっても——私はもしかしたら、あなたを友人と思い続けているかもしれません。ほんとのところは、その時にならないとわかりませんけど」
 カイは一生懸命に答えた。せめてこの思いが伝わるように、心からの言葉で彼に向き合った。
 ふうん、と頷いてソルがカイの頭上を見上げる。澄み渡った空の中央で一際強い輝きを放つ星が瞬いている。
 何の理由も根拠もないけれど、それこそがベツレヘムの星だとソルは思った。
 それは今目の前で自分だけを見ている少年の上に掲げられた、彼も知らぬ救世主の星であり、世界のどこにでもある、今も昔も変わらぬただの美しい恒星であった。
「あそこにある星は、アメリカでも見えた」
「え? あ、ああ、もしかして昼の話の続きですか?」
「あの地平線あたりにあるのがシリウスだろ。まあ、アメリカじゃ、もうちょっとは高い位置に見えたが、見えることに変わりはない。俺がガキの頃と何一つ変わらずに瞬いてる」
「ええと……つまり?」
「珍しく感傷的なことを言うと——今日、坊やに連れて行かれた蚤の市な。俺の記憶にあるパリと比べると随分様変わりしちまったが、今も昔も変わらないものの方が遙かに多いと星を見て思ったわけだ。蚤の市は何百年も前からパリにあるし、人間も何千年昔から生きていて、星の命はその括りより遙かに長い」
「はい」
「変わり果てたものに嘆くのと、今目の前にある変わらないものを認めるの、どっちがマシなのか俺にはわからないが。変わるものも変わらないものも愛せよ、隣人として、といつだったか、ミサで神父が言っていたなということを思い出した」
 不意に、ぽつぽつと雪が降り始める。カイが再びくしゃみをしたので身体ごと引き寄せると、子供っぽい体温が布越しにソルに触れる。
 そのまま子供にするように情緒もなく彼を抱き上げ、話は終わりだと言わんばかりに、ソルはフェンスに背を向けて歩き出した。パーティは殆どすっぽかしてしまったが、今から移動すればノートルダム寺院で行われるというミサには間に合うだろう。
「聖戦末期に生まれた坊やが、聖戦前の子供みたいにノートルダム寺院のミサへ行きたいとか言うんだ。それに着いてってやらないほど薄情でもない。俺は『 機械 じょうし 』の命令は聞かねえが、『 人間 ぼうや 』のお願いは別だ。朝言っただろうが、一日付き合ってやるってな」
「え。あ、それじゃ……!」
 抱き抱えられているカイの頭はソルの肩から後方を見ていたが、顔なんか見なくたって、目を輝かせていることはすぐにわかった。
 カイの中にも、変わらないものはある。勝手に変わり果てたものばかりに目を向けていただけで、幼さ故の無垢は奇跡的に手つかずでここまで守られている。
 願わくば、それがずっと、永遠に、消えてなくならないものであって欲しい。
 そう願うことがどれほど傲慢で、矛盾を抱えたものだったとしても……。
「さっき、ちょっとは大人になれと言ったが」
「え? ええ」
「あんま急いで、すっかり大人になろうとはするなよ。せっかく、まだ守られるだけでもいい年なんだから」
「ええ……?」
「生き急ぐな、ってことだ。みっともなくても生き汚く足掻け。命は大事にしろ。誰だかは知らねえが、テメェの神が悲しむだろ」
「……わたしのかみさま……」
 かみさま。わたしの。カイが噛みしめるようにその言葉を反芻した。名前も顔も知らないかみさま。しかしカイが信じる限り、どこかにいるはずの、人々の願いを戴く者。
 ソルはかつて遠い顔をして言った。神は人を救わないと。でも、人は、救われた時、その対象を神だと信じる。
 だから、ソルは……。
「……。私、知ってますよ。あなたも神様なんだって。ソルに救われた団員達が、近頃口々に言うんです。あなたのことを、『軍神』、なんて」
「はあ? なんだそりゃ。柄でもねえ渾名つけやがって」
「いいじゃないですか。慕われてるってことかもしれないし」
「人が他人を神呼ばわりする時、慕ってのものは三割以下に留まる。残りは全部畏怖か恐怖だ。……あー、いや、これから教会に行こうって時にする話じゃなかったな」
「いいですよ。それがソルの考えなら、私は知ることが出来て嬉しい」
 背伸びをして顔を寄せ、頬にキスをするとソルが呆気にとられたような顔をする。それが嬉しくて、カイはまるっきり、悪戯が成功した子供みたいな顔をした。





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