00:アイリス
差出人、遊城十代・明日香。
真っ白い封筒にその文字を見た時、万丈目準はあからさまなまでに顔を顰めた。右の名前は高校生活の三年間自分が恋い焦がれ、しかし思いを伝えることも上手くいかぬ間に結婚してしまったかつての思い人のものだ。そして左はその思い人を掻っ攫っていったにっくき男であり万丈目の高校時代の友人のものだった。馬鹿で阿呆で呑気で、根無し草で、どう考えても甲斐性のない男で、けれど明日香の夫だった。
「朝から何なんだこいつは。俺様の優雅な朝食を邪魔しおって」
『アニキぃ〜、優雅なんて言ってもいつもと変わらない純日本食メニューじゃないのぉ。しかもお値段据え置き予算の』
「ええいうるさい、貴様は黙っておけ!」
横から口出しをしてきたおジャマ・イエローを遠くへ放り投げてから万丈目は仕方なしといったふうに封を破る。おジャマ・イエローは『イヤン、アニキのいけずぅ』と叫びながらぽとりと地に落ちた。面倒なので放っておくことにする。
封筒を開封して中に入っている手紙を取り出す。便箋は二枚だ。あの十代がそんなに長々と手紙を書くような人間だったかと首を捻り開くと、その疑問の答えはすぐに理解できた。
『海馬瀬人主催小規模パーティご招待のお報せ。二〇××年十二月三十日、ホテルグランド土実野を貸し切り身内での忘年慰安パーティを開きます。つきましては、貴殿に招待状を送らせていただきますので、出席か欠席かの返信を十二月十五日までに同封しました葉書にてお知らせください。敬具 海馬コーポレーション代表取締役 海馬瀬人』
やや礼儀的には間違った部分が見受けられるような気がする文面だが、万丈目にはそんなことを気にしている余裕はなかった。なんといってもあの海馬瀬人が身内で開くという忘年会への招待状だ。これが本当だとしたら行かない手はない。
興奮した手付きで二枚目を開く。そこには乱雑な手書きの文字でこんなことが書き添えてあった。
『万丈目へ よっ、万丈目、元気にしてるか? この前遊戯さんに海馬社長の忘年会に誘われてさ、そんで好きなだけ友達呼んでいいよーって言って貰ったんだ。だからお前にも一枚送っとくな。プロは忙しいかもしれないけど出来れば来てくれよな。じゃ、会えたら当日会場で会おうぜ。 遊城十代より 追伸、おジャマ達は元気か?』
こちらの文面には礼儀の欠片もない。だが、遊城十代にそういったものが完璧に備わっている方が気持ちが悪いので万丈目は文句を言わずにその手紙を閉じた。おジャマどもは鬱陶しいぐらいに元気だ。そう、鬱陶しいぐらいに。
「早速スケジュールの調整をせねば……」
と言いつつも手紙は一先ず机の上に置き、手に箸を取る。郵便配達に邪魔をされたのでまだ朝食が終わっていないのだ。
◇◆◇◆◇
「遊戯さん! 今日はお招きいただいてありがとうございました! お言葉に甘えてちょっと友達呼びすぎちゃったかもしれないですけど……」
「いやいや、お礼はボクじゃなくて海馬君に言いなよ。呼んでいいって言ったのも海馬君だしね。後輩達の実力が見たいんだって」
「えっ、じゃあデュエルとかもしかしたら……」
「出来るかもね。でも折角だからまずはご馳走をいただいちゃおうよ」
遊戯の姿を見るなり飛んできた十代に微笑みかけつつ、遊戯は彼にそう提案した。十代の後ろでは彼の妻の明日香が苦笑してこちらを見ている。大丈夫、というふうに手を振ってやってそれから杏子に視線でサインを送る。杏子は得心したふうに頷くと明日香の方に歩いて行った。
十代はハネクリボーを渡したあの日から比べると随分と成長して大人びてしまっていたが、遊戯を前にした時のミーハーさはかなり子供っぽく、まるで大型犬とじゃれ合っているようなそんな気分にさせる。だがそれはこの後輩が純粋に自分を慕ってくれているからだということを遊戯は知っていたし嬉しく思っていた。
「それで、一番乗りの君に聞いておくけど友達は何人ぐらい呼んだんだい?」
「えーっとですね……ヨハンと、ヨハンの奥さんと、翔と、万丈目と剣山とカイザーと吹雪さん。レイとエドは仕事と個人の事情で都合が付かなかったって……だから俺と明日香含めて九人かな」
「こっちが十人だから、うん、丁度いいんじゃないかな? 変則タッグデュエルも出来そうだ」
「本当ですか?! 俺遊戯さんと組みたいなー!」
「おいおい海馬君に提案してみるよ。……ああほら、君の友達も来たみたいだよ」
行ってあげなよ、と十代の後方を指差すのと「十代!」というよく通る声が響いて十代がのけぞるのはほぼ同時だった。うわぁ、と情けない声を出して十代が急に不自由になってしまった体を動かす。
「ヨハン、いくらなんでも再会の挨拶には派手すぎるぜ」
「だってお前遊戯さんに夢中で全然俺に気付かないじゃんかー。いいだろ別に、ハグはこっちじゃそんなに珍しいことじゃないぜ」
「俺はもう慣れたけどよー、遊戯さんとかドン引きだろ」
「安心しろ。お前の尊敬する武藤遊戯がこのぐらいで後輩を見限るような器の狭い人間なはずがない」
妙に説得力のある言葉を吐かれて「それはそうだけど」と口ごもり、おずおずと遊戯の方を見上げてみると彼は何か非常に微笑ましいものを見たかのような、子犬のじゃれあいを見て微笑んでいるような表情をしている。ドン引きはされてなかったようだと内心ほっと胸を撫で下ろし、それからふと疑問に思って首を傾げた。あれ、子犬?
「……ところでお前、奥さんはいいのかよ」
「お前が言えたことじゃないだろそれ。それに心配は要らない。ほら、あっち」
ヨハンが指差した方に視線を向けると、女性五人が集まって談笑をしている姿が目に入った。明日香とヨハンの妻が真崎杏子と――それからあの派手な髪形は孔雀舞だろうか?――、そしてもう一人、茶色い長髪の大人しそうな女性に囲まれてやや緊張しているのか縮こまってしまっている。だが顔は楽しそうだ。未だに十代には理解出来ていない「女の子にしかわからない話」とやらで盛り上がっているのかもしれない。
「というわけでむしろ俺達は奥さんの方に寄ると邪魔なわけ。無粋って奴だ。そのぐらいわかるだろ?」
そこまで言ってからヨハンはぱっと十代をハグしていた腕をほどき、すみません、と頭を下げてから遊戯に向かってとても爽やかな笑顔を作った。ヨハンの笑みはいつもびっくりするぐらいに綺麗で、そこには一切の邪気がなかった。少なくとも十代の目にはそう映っている。憂いや悩みはそりゃ抱えてる時もあるけど、笑う時はすっきりと澄み切った表情を浮かべられる奴なのだった。少しだけ羨ましい。
「お見苦しい姿をお見せしてしまってすみません。十代の親友のヨハン・アンデルセンと申します。お会いできて光栄です、決闘王武藤遊戯」
「君がヨハン君か、十代君から話は聞いてるよ。精霊と話が出来て、そしてとても面白い子だってね」
可愛いね、君のその精霊。いつの間にかヨハンの肩に乗っかっていたルビー・カーバンクルの頭を人差し指で撫でながら遊戯がそう言うとヨハンはいたく感動した面持ちになって「遊戯さんも見えるんですか!」と興奮を隠さない声を出した。遊戯は勿論、と頷くと腰のデッキホルダーからカードを一枚選んで取り出す。するとぽよん、という音がして遊戯の腕の中に一体のモンスターが出現した。白く柔らかく、ぬいぐるみのような外見のモンスターだ。名をマシュマロンという。
「あれ? クリボーじゃないんですか?」
「クリボーはもう君のハネクリボーのところに行ってしまったよ。後ろをごらん」
「あ、本当だ。ハネクリボー、お前も先輩に会えて嬉しいのか?」
尋ねてやるとハネクリボーは羽をはためかせてこくこくと頷くように体を揺らす。クリボーも嬉しそうだ。同族のモンスターと会う機会は少ないから、よっぽど嬉しいのだろう。十代が遊戯に会いに行くのは突発的な用事の時が多かったから、モンスター同士を必ずしも触れあわせてやることは出来ないのである。
「あの、遊戯さん、もし良ければブラック・マジシャンとブラック・マジシャン・ガールも……その、サイレント・マジシャンとかサイレント・ソードマンとか破壊竜ガンドラも捨て難いんですけど!」
「なんだよヨハン、俺のこといっつもミーハーって言う癖にお前だって同じようなもんじゃないか」
「だってしょうがないだろ、あの武藤遊戯が目の前にいるんだぞ。興奮するなって言う方が無理だ。それでもお前のは度を超してると思うけど」
ヨハンが弁解がましく言う隣で、遊戯は無言で二つ目のデッキを取り出しカードを二枚選び出した。魔術師師弟がその姿を顕す。とはいえ勿論精霊なので透けている。
『お呼びですか、マスター? ……あっ、キミは昔アカデミア島で私と戦った子だね!』
ブラック・マジシャン・ガールが十代を指差してそんなことを言った。
「やっぱりあの時のブラマジガールは遊戯さんのだったんですね?!」
「いや、ボク知らないけど。もうー、勝手にアカデミア島まで行ったのかい? ダメじゃないか。暇にさせてるのは謝るけどね」
『マスター。私は止めたのですが、力及ばず……』
『だって楽しそうな場所から困ってる匂いがしたんですもん。結果的にいいことしかなかったんだし、許してくださいませんか? ね、キミ?』
「あ、ああ、うん。翔も嬉しそうだったし……」
ブラック・マジシャン・ガールに同意を求められ十代は流れのままに頷く。遊戯はしょうがないなぁ、と溜め息を吐きながら最初のデッキに手を伸ばした。サイレント・マジシャン、サイレント・ソードマン、破壊竜ガンドラが出現する。ホテルグランド、土実野町で一番大きく高級なこのホテルのホールは相当に広くまた天上も高い造りになっているがそれでもガンドラはやや狭苦しそうだ。ヨハンはレインボー・ドラゴンを見て貰いたかったのだが諦めた。無理だ。
しばらく遊戯のモンスター(人型モンスターは全員人語を介して会話が可能だった。流石だ)と会話を楽しんでいると、大きな影が会場をゆったりと横切って行った。見間違えることがあろうか、海馬瀬人のエースモンスター「青眼の白龍」だ。世界で唯一、海馬瀬人のみが所有するレア中のレアカードである。
『来賓が全員揃ったようだな。諸君、よく来た。好きに食べ、飲み、そして闘うがいい。無礼講だ、俺が許可する!』
壇上からそんな尊大な声が聞こえてくる。十代やヨハンが「すげぇ」と感嘆の声を漏らす隣で遊戯は頭を抱え、「ああもう」と呟いた。
「まったく、後輩がいっぱい来てるからってはしゃぎすぎだよ。海馬君は」
◇◆◇◆◇
「サイレント・マジシャンの攻撃。サイレント・バーニング!!」
白服を纏った美しい《沈黙の魔術師》がその手に持った杖から波動を放つ。寡黙でお淑やかな印象を与える外見だが、その攻撃力は三五〇〇に達する最上級の中でも超高火力の域に入るモンスターだ。あのブルーアイズを凌ぐという点は特筆に値するだろう。
当然、十代のネオスで対応しきれるモンスターではない。ネオスは呆気なく倒れ、ピーッ、という音の後十代のライフはゼロの値を示した。
「だーっ! 負けた! やっぱ遊戯さんはつえーや。死ぬまでに一回でいいから勝ちたいなぁ」
「君なら、暇な時にいつでも相手をしてあげるからおいで。さて、モクバくんが待機してるみたいだからボクはどくよ」
「ってあーっ、忘れてた! 負けたら罰ゲームなんだった!!」
遊戯がすっと退いた位置に海馬木馬――海馬瀬人の弟で今回の忘年会の司会進行を務めている――が嬉々として現れたのを見て十代が叫ぶ。だが後輩と言えど(モクバと十代の年はそう変わらないが)モクバは見逃してやる気はさらさらないようで、にっと笑って十代の腕を掴んだ。
「敗者は罰ゲーム、のルールは覆らないんだぜ。こっちの更衣室に来いよな!」
「嫌だあああああああ誰か助けてくれえええええええ!!」
モクバにずるずると引きずられながら十代が叫ぶが、ギャラリーの反応は冷たい。唯一明日香だけが心配しているようだったが、イベント大好きの兄吹雪にウィンクされて彼女はあっさり受け入れたようだった。薄情だ。
「……誰も助けてくれねーのな」
「んー。だって俺は見てみたいもん、十代の女装。面白そうだし」
「今回ばかりはこの丸藤翔、フリルに、いや、ヨハンに同意する……! アニキの女装! 正直すごく興味あります!!」
「いやーいいんじゃないかい? 十代君。簡単な罰ゲームだと思って受け入れるんだ。ジョイン!」
反応をそこまで聞いて、十代は抵抗を諦めた。最早この空間に味方など一人もいない。
「まー、災難だったな。でも遊戯があんなに楽しそうにしてるの久しぶりに見たからさ。悪いとは思うけど着られといてくれ」
更衣室で真っ赤なドレスを十代に手渡しながらモクバがぽつりと零した。十代は勢いよくモクバの方に振り返る。
「……遊戯さん、元気ねぇの?」
「いや、そういうわけでもないんだけど。普通に元気だぜ。別に笑わないわけでもねーし……だけど本当の意味ではもう何年も笑ってないんじゃないかなって思う。兄サマも口には出さないけどあいつのこと心配してるんだ」
「……そっか」
「やっぱり、あの日、もう一人の遊戯が帰っちゃってからかな。……でもその道を選んだのは遊戯自身なんだ。あの状況で、それでももう一人の遊戯を元いた場所へ帰してやるんだって最後に決断したのは遊戯自身で、他の誰でもない。オレにとっては兄サマと離ればなれになるのと同じことなんだろうなと思うと、もう何も言えないぜ。……兄サマと永久にサヨナラなんて出来ねーもん」
十代はドレスの装飾と腰のスリットを見て半ば硬直しかけていたが、モクバの言葉は聞き逃さない。もう一人の遊戯、彼曰くのもう一人のボク。武藤遊戯の第二の人格……だったらしいもの。過去にタイムスリップした経験から二度程実際に相対したことがあるが、威圧のある、鋭い瞳をした人だった。ともすると温和な方の遊戯に過保護と思えるところも見受けられて、彼に守られるような形で遊戯は日々を過ごしていたのではないかと十代には思えた。
その、庇護者を、最愛の友であり好敵手である人物を失う。いつも一緒にいた存在がある日突然最初からいなかったかのようにいなくなる。恐ろしいことだ。
すごく、怖いことだ。
ヨハンを失うのと同じ気持ち。
あの異世界での体験が脳裏に甦る。ヨハンが一人異世界に残ったことで十代は酷く取り乱した。まるで魂の片割れを失ったかのような狂乱ぶりであったと後に吹雪に評されたことがある。その表現は、何も間違っていない。あの頃の十代にとってヨハン・アンデルセンという人間は確かに十代の魂の半分を成すものであった。世界の半分を構成するものであった。あの始業式の日に出会って以来、十代の世界にぽっかりと空いていた穴はヨハン・アンデルセンで埋め尽くされた。
ヨハンは十代の全てだった。
ヨハンを失った日々はずぶずぶと沈み込んでいくような泥沼の日々で、鬱病のような陰鬱な気持ちは日毎に増していった。異世界にもう一度乗り込んでからはヨハンのことしか考えられなくなって、十代の世界の半分を埋め尽くしていた「ヨハン・アンデルセン」はいつの間にか十代の世界のほとんど全てを覆い尽くしてしまっていた。
そして仲間達の消滅に次ぐ、十代の世界の絶対であった「ヨハン・アンデルセン」の「死」。あの時暗黒界の狂王ブロンは死に際の遺言として呪いの言葉を残した。――『ヨハンとかいう少年は、死んだよ』――。
十代の心が、破壊された瞬間だった。
その時十代の中でヨハンは死んだ。紛れもない死を迎えた。十代はヨハンを失って狂い、自我を失い、ヒーローは闇に堕ちる。覇王との出会いだった。
『……これがお前の運命だ。お前には力がなかった。力なき正義は欺瞞に過ぎない』
『力が……あれば。よはんは、帰って、くるのか……?』
『かもしれない。だが、どちらにせよ今のお前は酷く脆い。俺が代わりに動いてやる。だから望みを言え』
『のぞみ……?』
『そうだ。お前が今欲するものを』
『よはんを俺に返して。力でこの世界を蹂躙し、屈服させ、支配し、それでよはんが帰ってくるというのならば……』
『……』
『どんなことをしたっていい。血染めになったっていい。死骸に埋もれて汚泥に塗れたっていい。だからよはんを、ヨハンを俺のこの腕に返せよ!』
そして覇王は十代の望みを叶えた。異世界を力で蹂躙し屈服させ恐怖で支配し、その過程で精霊の大量虐殺を行った。殺された精霊達はデュエル・エナジーを残して塵にすらならず消える。覇王はデュエル・エナジーを集めた。集め、結晶させ、一枚のカードを造り上げた。
「超融合」。闇を統べる覇王の、揺るぎない絶対の力の象徴。
だがオブライエンに命がけで倒され、十代は狂気じみた悪夢から現実に引き戻される。そのきっかけもやはりヨハンだった。オブライエンは死の前に十代に祝福の言葉を残した。「ヨハンはまだ、生きている」。
そして夢から醒めた十代は世界と向き直ることを余儀なくされた。
十代程狂執的に病的に遊戯がもう一人の自身を思っていたのかどうかはわからないが、少なくとも彼にとって「もう一人の自分」という存在がとても強大なものであったことだけは確かだ。だが彼は決断し、大事な存在であった彼を光の中に還したのだ。
それはどれだけ辛い決断だっただろう。どれだけ深刻な影響を今日まで彼に与え続けているだろう。だが彼はその未来をわかってなおこの道を選んだのだ。
それがもう一人の自分にとって正しい選択だと彼は信じたのだ。
『もう一人のボクはね、三千年前のエジプトのファラオだったんだ。色々あって千年パズルにずっと閉じ込められていて、もう三千年もこの世界に留まり続けていた。でもそれっておかしいじゃないか。死者は現世に留まるべきではない。冥界へ還らなきゃ。――だから、どんなにボクが辛くても苦しくても、還してやらなきゃ駄目だったんだ。泣き言を言って彼に甘えて、ずっとそばにいてもらうことは可能だったよ。だけどそれはすごく不自然なことなんだ。その決断をボクは後悔してはいない。……だけどちょっぴり、君とその精霊が羨ましいよ』
いつだったか彼が十代とユベルを指して言った言葉だ。その後、遊戯は少し肩を震わせて泣いた。武藤遊戯が、涙を零した。
「俺も……大事な人を失う怖さは、恐ろしさは知ってる。ぽっかりと大きな穴が開いたみたいに空虚な気持ちになるんだ。絶望的になることもある。一人だと思い込むことが自分を追い詰める」
武藤遊戯は神ではない。一人の人間だ。だから弱さも当然あって、やはり、もう一人の自身との思い出というものが彼にとっての最大の弱さであるようなのだった。決断は重かった。自らの意思で血よりも濃く深く魂で繋がっていた相手との離別を迎えたのだ。
ただ、彼はその決意を経て大人になったのではないかと思う。遊城十代が大人になり、世界は二人っきりで出来上がっている蜜月ではないのだと理解したように武藤遊戯もまたもう一人の自身だけが世界ではないのだと理解していたのだ。彼の周りには仲間達がいた。十代と同じように。
「でも、遊戯さんには杏子さんがいて海馬社長がいて城之内さんがいてそれからたくさんの仲間がいたんだ。本当に一人じゃなかったから、あの人はまだ生きてる。俺が生きてるように」
「……ふーん。お前も結構辛いことあったんだな。遊戯の奴がお前のこと可愛がってる理由、少しわかった気がするぜ。……着替え、終わったのか? 案外綺麗じゃねーか。遊戯の奴が爆笑するぐらい不似合いかと思ったらそうでもなかったな」
「んな恥ずかしい恰好させる気だったのかよ?!」
十代は赤いスリットの裾を翻し、カツカツとハイヒールを鳴らして更衣室の出口に向かって歩いていく。
「あーくそっ、細身だとか馬鹿にされるけど俺はこれでも一応筋肉付けてるんだからな!」
「まあまあ、オレも童顔だから筋肉付ける気持ちはよくわかる。でもお前はあんまりムキムキじゃねー方が遊戯は喜ぶと思うぜ。なんとなくな」
えー、まじかよー、なんて狼狽える十代にモクバは考える。もう一人の自身と別れてからうっかり筋トレをしすぎてしまった遊戯は度々自分の二の腕を見ては唸っていた。目付きが未だにやや子供っぽいことを気にしているのだ。だから、中性的な顔立ちを持つ十代はせいぜい今のままぐらいのほうが遊戯にとっては好ましいんじゃないかと思う。
遊戯は可愛い後輩が筋骨隆々になった姿をあまり見たいわけではなさそうなのだ。
◇◆◇◆◇
「昨日は本当散々な目に遭った。もう二度と俺はドレスを着ないと、そう誓ったっていい」
「勿体ないな、すごく良く似合ってたぜ」
「お前も悪乗りしてエスコートの真似ごとなんかするんじゃねーよ!」
年の瀬も迫り人通りのあまり多くない土実野町の街路で十代は頭を抱えて掠れた叫び声を上げた。ヨハンは笑っているが、本当につまらない、どころかろくでもない結末を迎えたと十代は思っている。
あの後出ていった十代を待っていたのは遊戯の笑顔と――そして思い出したくもない洗礼の数々であった。まず翔が叫ぶ。もえ、だとかなんとか言葉にならない悲鳴を上げていたが意味はあまり知りたくない。そして剣山がそれを宥め、ヨハンが嬉々として近寄って来て傅き、レディにするように手の甲を取って接吻をした。格好よく決まっているのがまた腹立たしい。その様子に翔が余計に興奮する。そして万丈目はそれを見て顔を真っ赤に染め、わなわなと震えていた。あまりの醜態に言葉を失ってしまったのではなかろうか?
吹雪は大爆笑でカイザーの肩を叩いていたし、叩かれているカイザーは額に手を当てて汗を垂らしていたのが遠目にも確認出来た。海馬は割と好感触らしいリアクションを見せていたのがある意味救いであったが、城之内など相当衝撃を受けたような顔をしていて、その隣で獏良了が目をきらきらさせていた。やがて杏子と孔雀舞が示し合わせるように顔を見合わせて頷き合い、十代の方へ寄って来る。手には化粧道具が握られていた。嫌な予感を覚えて明日香の方に助けを求める視線を送ると彼女は唇をこんなふうに動かした。――『杏子さんと舞さんのメイクを生で見られる機会なんてそうないのよ!』
そういえばダンサーである杏子と女性プロとして多方面で活躍する舞はメイクアップアーティストとしても活動しているのだと先程遊戯が言っていた気がするが、だからなんだというのだ。十代は正真正銘の男性であり化粧とは無縁のはずなのである。
だが助け舟が来ないまま十代はずるずると化粧室へ引きずり込まれて行き――
その後のことは本当によく覚えていない。人間は都合の悪い記憶を忘却することで生きているのだというあの説の正しさをまざまざと実感させられたのであった。
「化粧して着飾った十代とか度肝を抜かれる程綺麗だったぜ。抵抗しないから静かなもんで、深窓の令嬢って言っても通るぐらいだったかな。隣で奥さんが『あれは男よ』って囁かなきゃ押し倒してたかもわからない」
「さらりと何ろくでもないことを言ってるんだお前は」
「半分は冗談さ」
だから半分は本気だったんだけど。そう言ってくる瞳はけれどそれでも真っ直ぐで、十代は何を言い返す気にもならずその話題をやめて観光案内に努めることにした。そもそもヨハンと十代は土実野町に住居を構えてはいるのだが、昨日は海馬社長の好意に有難く甘えて貸し切られていたホテルに一泊したのだ。その後、女性陣が連れだってどこかへ出掛けて行ってしまいパートナーを失ったヨハンと十代は暇潰しがてら二人で土実野町を散策することにしたのである。
一応地元に当たるとはいえ、一度修学旅行で駆けずり回った経験から十代の方がヨハンよりもここらの地理には明るい。それにヨハンは極度の方向音痴だった。奥さんとルビーがいなければホテルまでの道のりもままならなかったのだという。
「もうすぐ着くぜ、時計広場。いやー、あそこでは色々あった。パラドックスと戦ったのもそこだし、遊戯さんに卒業デュエルをして貰ったのもそこなんだよな」
「随分思い出深い場所なんだな」
「そもそも広く場所が開けてるから、イベントごとが多くある場所なんだって前遊戯さんに聞いた。そういうエネルギーが溜まってるのかもしれないな」
着いてみると、いつもなら通行人でそこそこ賑わっている広場も時節柄なのかがらんとしていた。高く聳えるビル群に囲まれた円形のロータリーの中央に立つ時計が酷くぽつんと物寂しげに見える。
「いつもはもうちょっと人がいるもんなんだけどな。ま、しょうがないか。年末だもんな」
「俺達以外にこの時期にここに寄るような物好きはそうそういないってことか。……あれ? おい十代、時計塔の向かい、人影が見えないか?」
「え? そうかなぁ……あ、確かに。一人で人を待ってるみたいな人影が……」
「ちょっと顔見てみようぜ。な、十代!」
「あ、おい待てよヨハン!!」
興味を持ったらしく、興奮した声のまま十代の腕をがっちりと掴みヨハンは足早に駆け出す。止める以前にその腕を振り解くことも出来ず、十代は引きずられるままの恰好で時計塔の謎の人影らしきものの方へ近付いていく。十秒もしないうちにあっさりと時計塔の元に辿り着き、その人物の顔を見ることに二人は成功した。十代の顔が驚愕に歪みヨハンはぽかんと間の抜けた表情で口を開ける。
「…………嘘だろ、おい」
その人は時計塔にもたれかかり、腕組みをして瞳を閉じ転寝をしているようだった。そのせいでやや頭が下がっており、顔は確認し辛い。だが顔を確認するまでもなかった。こんな特徴的な髪形の人物がそうそう何人もいてはたまったものではない。
「遊戯さん」
十代が小声でその名を漏らすと、ぴくりとその人の目蓋が反応しややあってからのっそりと開いた。きつい睫毛に、切れ長の鋭い瞳。だが今は眠そうに細められており、何とも迫力に欠ける……というか、可愛らしいと思える程だ。
「……あー……その顔は……十代、か?」
表情を裏切らずに非常に眠たげな声で遊戯がぼそぼそと尋ねた。その様子に十代は確信する。間違いない、この人は武藤遊戯――の体の中に数年間宿っていたというもう一つの魂だ。遊戯曰くのエジプトのファラオ。だが、おかしい。この人はもう何年も前に冥界に、光の中に還ったはずではなかったのか?
◇◆◇◆◇
放っておくとそのまま寝込んでしまいそうだった遊戯を広場から徒歩で七分程の位置にある自宅に連れ帰って、十代はまず彼の目を覚まさせることを試みた。コーヒーを並々マグに注いで座った彼の目の前にどかりと置く。初めの内はコーヒーの匂いをぼうっと嗅いでいた遊戯だったが、二、三分程で意識が覚醒に近づいてきたらしくマグを手に取って温度を確かめながら飲み始めた。
十代とヨハンは黙ってそれを眺めている。マグが空っぽになるまでそう時間はかからず、その頃には彼は見慣れた威圧を取り戻していた。
「十代、手間を掛けさせてすまない。どうにも眠くなってしまってな」
「いえ、構いません。聞きたいことが山のようにありますから、そのことを差し引けばまだ奉仕し足りないぐらいですよ」
「質問ぐらいタダで答えるさ。俺はそんなにケチな男じゃない」
大方君が聞きたいのは何故俺がここにいるのかという言葉から始まる一連の質問群だろう、と見透かしたように言って遊戯はマグをトン、とテーブルに置いた。
「大体そんなところだろう」
「え、ええ、まあ。だって変じゃないですか。遊戯さんが遊戯さんのことは……ああ、ややこしいなこれ」
「俺のことはアテムでいいぜ」
「あ、はい。……アテム、さんのことは冥界に還したってそう俺に教えてくれました。もういないって」
武藤遊戯は涙を滲ませて十代にそう語った。なのにそのもう一人の自身、アテムは今確たる存在をもってそこに座っている。十代にもヨハンにも理屈が理解できない。
そこまで思考してからふと思いついて十代は飼い猫のファラオを探しに席を立った。程なくして家中好きなところを我が物顔で闊歩しているでぶの猫を抱えて戻ってくる。十代はファラオの口をぐいと広げ、ふわふわと光る黄色い玉のような何かを取り出した。魂だ。
かつて錬金術を専門としホムンクルスの精製に成功する程の腕を持つ錬金術師だった恩師の大徳寺、その現在の姿である。
「なあ、大徳寺先生。あんた錬金術師なんだから、こういう怪しい事情には詳しいだろ。何か上手く説明出来る原理とかないのか?」
『恩師に対する扱いが酷すぎるですにゃぁ、十代君は。まったく今度は何の用で酷使する気です……にゃ……?!』
アテムの方を見た途端文句を言うふうであった大徳寺の声が驚きの色に変わる。無理もない。アカデミアの教師をやっている人物があの決闘王武藤遊戯の顔を知らないはずもないからだ。しかも一時期を境に忽然と姿を消してしまった「目付きの鋭い方の」武藤遊戯。
「へえ、面白いものを飼ってるじゃないか十代。幽霊か」
「はい。高校時代の先生なんですけどうっかりこういう体になっちゃって。今は先生が元々飼ってた猫……ファラオっていうあのでぶい猫なんですけど……の中で人生? を謳歌してるみたいですよ」
『君の説明の酷さには今は目を瞑ってあげますにゃ。ふむふむ、武藤遊戯のもう一つの人格、名もなきファラオの魂の現実干渉。実に興味深い話ですにゃあ』
「今アテムって名乗ってたじゃん」
「いいさ。俺はずっと名なしだった。相棒の体に入り込んでいた異分子だったんだ」
相棒、と口にする一瞬、アテムの目が優しくなる。とても愛おしく大事なものの名を呼んでいるようだった。十代は今改めて理解する。アテム、彼にとっての武藤遊戯という存在の大きさを。
きっと別れを辛がったのは遊戯ではなくアテムの方なのだ。だが遊戯はそれを突き放す。死者と生者の理を守るために。
あるべき形に還すために。
『先生の知識を総動員しても、今彼がここにいる理由はわかりませんにゃ。実体化している原理も。ただ、この町は土実野町です。この町が溜め込んでいるエネルギーがあれば、正直何が起こってもあまり不思議ではないですにゃ』
「先生、それどういうことだよ?」
しばらく考え込んでいた大徳寺が唸りながらもそんな結論を述べる。十代が理解し損ねて尋ねると大徳寺は人差し指を立てて物分かりの悪い教え子に易しく噛み砕いて説明を加えた。
『この町には彼――アテムという異質なものが長期間存在していましたにゃ。加えて神のカードの顕現、種々様々なカード絡みのオカルト現象、十代君が体験したものだとダークネスの事変やパラドックスの歴史改変などがありましたにゃ? そして今も十代君や海馬瀬人、武藤遊戯等この世界そのものに影響力を持つ人間が滞在しています。これらの積み重ねによってこの町には特殊な磁場が出来ているのにゃ。デュエル・アカデミアで不思議な現象が多いのと同じ理屈ですにゃ。アテムにより作られた違和が温床となりより多くの怪異を引き寄せた結果、この町そのものが不可思議なエネルギーを持つようになってしまったのにゃ。加えて彼はこの町のオカルトとはとても関わりの強い人物。強い思いがこの町のエネルギーに干渉して彼に仮の体を提供したという仮説は十分に有り得ますにゃ』
そこまで一気に言い切ってから『わかりましたかにゃ?』と大徳寺が首を傾げて確認を取る。十代はわかった、と頷いてから一言感想を漏らした。
「その仕草、やめた方がいいと思うぜ先生」
「十代、そういうのは黙っておいてやるもんだろ」
「言わない方が酷だと思うんだけどなぁ……」
「いいんだ、どうせ大徳寺先生は俺や十代みたいな一部の人間にしか見えてないんだから」
十代とヨハンが好き勝手なことを言い始め、大徳寺が切なそうに肩を落とす。それを見かねてアテムが二人の肩を叩くと、脱線した話を元に戻した。
「この町に一度冥界へ行ったはずの俺がもう一度訪れることが出来た理由には、実は心当たりがあるんだ」
「え、本当ですか」
「ああ。……恐らく、俺はもう間もなく生まれ変わって新しい命になるんだ。本来なら死んで三千年経っているわけだしな。海馬だって神官セトの生まれ変わりだ。じーちゃんもそう。相棒は違うが」
アテムが真摯な眼差しで十代を見据えてくる。穏やかだが、譲るところのないそれは支配者の絶対的威圧だった。
「生まれ変わって行く先は、俺には知りようもない。だが、その前にこの町は俺に猶予をくれた。ならば俺には、やりたいことがある。十代に会ったのも何かの縁だろう。後生だと思って俺に力を貸して欲しい」
だがそんなことは十代には関係ない。十代はその後に続くであろう彼の願いを予期してこくりと頷いた。尊敬する人物の頼みだ。元より断るなどという選択肢が十代の中に存在しているはずもない。
「俺を相棒に引き会わせてくれ。相棒を抱き締めて、礼を述べ、それから俺は新しい生を迎えたいんだ」
◇◆◇◆◇
ふっと気配を感じて、ブラック・マジシャン・ガールが背後に振り向く。だが彼女の後ろにはただ壁があるだけで何もいない。
『マナ。どうした』
師匠であるブラック・マジシャンが心配そうに声を掛けてくる。ブラック・マジシャン・ガールはそれに何でもないんです、と言って首を振ってから師匠の手を取った。ブラック・マジシャンも彼女が何に振り向いたのかわかっているのだろう、ただ小さく頷いて幼子を落ち着かせるように彼女の手を握り返す。
『気のせい……です、よね。わかってます』
『ああ。王子はマスターに見送られするべきことをなされた。三千の呪縛に終止符を打たれた。だからもうこの世界にはいない』
『……はい。わかってます。わかって……います。精霊の私達と、王子は違う。王子は、あの人は、行ってしまった』
ブラック・マジシャン・ガールが泣きそうな顔で
まなじりを下げる。ブラック・マジシャンは弟子の少女を抱いて背を擦ってやった。昔もよくこうしてやったものだ、と思いを馳せる。マナは気丈で明るいが、よく失敗をやらかしてはマハードに失敗してしまいました、と申し訳無さそうに泣きつくことがあった。王子であるアテムの幼馴染で、ずっとアテムの背を追い掛けていた。
しばらくしてブラック・マジシャン・ガールが泣きやんできた頃にプルルル、と短調なコール音が室内に響く。マスターである遊戯の携帯電話だ。遊戯は寝入ったまま起きる気配がない。まあ杏子あたりだろうと適当にあたりをつけてブラック・マジシャン・ガールは実体化して携帯電話を受けた。最初こそ驚かれたものだが、今では杏子も慣れてしまって時たまガールズトークに発展してしまうこともある程の気安い仲だ。この前などサイレント・マジシャンが電話に出る時は事務的で面白味がないなんて言っていたぐらいである。
「はあい、ブラック・マジシャン・ガールです。マスターは今お休み中ですが、どなたかご用でしょうか?」
『え、ブラマジガール? マジで? ブラマジガールだけに?』
『十代、それ面白くないぜ』
電話口の向こうから聞こえてきたのは杏子の声ではなかった。昨日のパーティで聞いた声だ。最初のやたら驚いていた方が遊城十代で、それに冷めた返しを入れたのがヨハン・アンデルセン。
「どうしたの? 君達。マスターに何の用?」
『えーっと、あの、遊戯さんが寝てるんならその方が都合がいいんで起こさないでくださいね。あのですね、今からちょっとそちらに伺いたいんで部屋番号を教えてくれませんか? あと、鍵も開けてて欲しいんですけど……』
「んー、番号ぐらい教えてもいいけどなんで? 防犯的に鍵はちょっと問題あるし」
『そこをなんとか! どうしても遊戯さんを驚かせたくて――』
『マナ』
十代の声を割って飛び込んできた声にブラック・マジシャン・ガールは目を丸くして、一瞬思考を停止させてしまった。
懐かしい声だった。ずっと聞きたくて聞けなかった声だった。でも聞こえるはずのないものだ。どうして? ――どうして電話の向こうから?
『十代に無理を言ったのは俺だ。俺からも頼む。どうしてももう一度だけ、相棒に会いたいんだ。頼む』
ブラック・マジシャン・ガールにはただ頷くことしか出来なかった。呑み込めないたくさんの事柄より、またあの人の声を聞けたという喜びの方が遥かに勝っていた。
◇◆◇◆◇
優しい手のひらが、額を撫でている。心地良い感触に薄く瞳を開けると、あるはずのない顔がそこにあった。だが酷く馴染むものだ。
「……昔も、君はよくそうやってボクの寝顔を覗き込んでいたね。ボクも、君にそうして見つめられながら迎える朝は好きだったなぁ。窓から入ってくる朝日、木漏れ日がいつもより綺麗で美しく思えた。……他愛のない、話だけどね」
「……ああ。死人である俺には基本的に睡眠時間は必要ないからな。パズルから抜け出てはお前の寝顔を覗き込むのが好きだった。半分趣味だったのかもしれないな。にやにやしていれば杏子の夢でも見ているのかと思ったし、笑っていればいい夢を見ているのだろうと俺まで幸福な気持ちになった。苦しんでいる時は辛い夢なのだろうと、俺の胸も締めつけられるようで咄嗟に手を伸ばした。当たり前のように透けてしまったが……」
「でも今、君の手はボクに触れているんだ。まったく、どうして君はそういつも突然ボクを驚かそうとするんだい? 事前に一言言っておいてくれなきゃ、ボク、心の準備がとても間に合わないよ。君の前なのに、こんなふうに、」
「ああ」
「情けない顔を見せちゃうじゃないか……!」
「……ああ」
アテムの手を握り込んで遊戯は涙顔になった。アテムはその様を静かに見ている。「どうして」も「なぜ」もなく、全てを受け入れて遊戯は泣いていた。ただ言葉に出来ない喜びがそこにあって、彼はどうしようもなく泣きたくなってしまっているのだった。
「君は、ずるいよ。いつもそうだ。いつもとんでもないことをやらかしてボクを驚かせる。スターチップが足りないから命を賭けるとか言い出した時は本当にびっくりしたよ。ぼんやりしてたらそんなことが聞こえてきて、ボク死んじゃったらどうしようかって思った。結局君が勝ったけどね」
「う、その話はなしだぜ相棒……」
「ふふ、別に根に持ってるなんてことはないよ。……君にそう呼ばれるのは、何年振りだろうね。随分懐かしくて、また目頭に込み上げてきてしまいそうだ。ねえ、『もう一人のボク』」
遊戯が含みを持たせてそう呼んでやるとアテムも「懐かしいな」と言って「相棒」、嬉しそうにまた呼んだ。昔はアテムの方が体格が良く、背恰好も上だったのだがこの数年の間に遊戯は成長しすっかりアテムを追い抜いてしまっていた。遅まきな成長期をあの後少しだけ迎えた遊戯と違ってアテムはもう成長しない。年を取って老けていく遊戯と違ってアテムは若いまま変わることがない。アテムは死者だった。その事実が決して揺るがないことを、確かに触れ合って体温をわかち合っている今でも不変の摂理なのだということを遊戯は直感で理解していた。
「君は旅の途中なんだね」
「そうだな。だが、旅はもう間もなく終わりを告げる。この町が、相棒の元が最後に残された俺の心残りだった。俺はもう間もなく生まれ変わる。新しい生命を授かり、新しい人間として育つ。だから、最後に相棒に会いたかった」
「うん」
遊戯はアテムの言葉に静かに聞き入り、嗚咽を漏らした。そして濡れた瞳をすっとアテムの方に向け、目を細めて彼に二度目の「別れの言葉」を言う。
「ありがとう。ボクを愛してくれて。ボクを大事にしてくれて。ボクも、君に会えて嬉しかった。君と過ごせた日々はボクにとっての宝だ」
「勿論、俺にとってもだ。かけがえのないものだった。お前と言う存在があったから俺は光の中へ還ることが出来た。理をあるべき形に正すことが出来た」
「また会えるかな」
「会えるさ。随分年の差は開いてしまうが、そんなことは関係ない。俺達は魂で繋がっている。――また会おう、我が魂の友、武藤遊戯」
「うん。また」
その言葉を皮切りに、アテムの体がすっと透明味を帯びてだんだんと透き通り空虚になっていく。一時の奇跡が終わりを告げ彼は元通りの薄っぺらい死人の体になる。
ふっと浮かび上がり、遊戯の前を後にしたアテムは部屋の入口で突っ立っていた十代の姿を認めるとやにわに十代の方へ寄って来て、ひっそりと耳元に口を寄せた。はっとする間もなく、十代にしか聞こえないように小声でアテムが喋り出す。
『君は、その友と随分複雑な縁を持っているな。だが彼が君にとっての魂の友、魂で繋がれた相手であるという一点は決して変わらない。幾何か危機があるだろう。乗り超えなければならないものが多くあるだろう。だが、忘れるな十代。君達は魂で繋がっている』
「アテム……さん……?」
『グッドラック、君の行く道に希望と幸運があるように祈ってるぜ。じゃあな。縁があったらまた会おう、十代』
それっきりアテムの声はもう聞こえなかった。姿も忽然と掻き消えてしまって、もうどこにもいない。冥界の歯車に乗ってしまったのだろう。輪廻の輪に。巡り巡る魂の旅へ。
生まれ変わる、ということがどういうことなのか十代は朧気に知っている。それまでの人格と生を断ち切って新しい人間になるということなのだ。十代が前世とは丸っきり違って王子でもなんでもないただの十代であるのと同じように、アテムもファラオだとかそういうものとは一切関係ないただの魂になる。
だが十代には予感があった。彼は必ず魂で繋がった相手である遊戯の元に帰って来る。遊戯の方を見ると、彼も穏やかに何か悟ったような表情を浮かべてアテムが消えた場所を眺めていた。
「……十代君、君にはお礼を言っておくよ。彼のわがままに付きあってくれて、ありがとう」
「……いえ、好きでやったことですから。遊戯さんが心から笑う顔、見たくて。モクバ……さんが、言ってた。アテムさんがいなくなってからあなたは本当の意味で笑わなくなった気がするって」
「そっか。モクバ君がそんなことを」
駄目だなぁ、ボク。そう小さく独りごちて遊戯は困ったように笑った。だけどどこか嬉しそうだ。それから、折角だからお昼でも奢ろうかと提案してくる。
「ボク寝坊したから今日まだご飯食べてないんだ。杏子が君達のパートナーを連れ出しちゃったんだろう? お詫びも兼ねてね。好きなもの、言ってくれていいよ」
「お、お詫びだなんて。明日香も好きで付いていったんだろうし……」
「けじめと君達と出掛ける口実さ。ボクもパートナーに置いてかれちゃってねぇ。暇なんだ」
ね? 遊戯が茶化してウインクする。十代はああそういうことかと思い当たってその申し出に甘えることにした。
遊戯のパートナーは今女だけの楽しみに興じていて、明日香がしばらく帰って来ないのと同じだけ確かに帰って来る兆しがないのだ。
真崎杏子、改め武藤杏子が一人の男児を出産したのはそれから十ヶ月後の秋のことである。
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