もしも世界が数式でできているとして




 世界の構造が、1足す1は2というぐらい単純に出来ていたとして、けれど人間の感情を数式で表そうとすると、それはとたんに、フェルマーの最終定理の如き難解さを呈するのだ――と、昔兄者はそう言った。

 こまっしゃくれた餓鬼だったところの俺は「フェルマーの最終定理なる数学問題は実は一九九五年に解決されている」という表面だけを知っており、この兄も時には不適切なたとえをするのだなあとばかりその時は思った。だって複雑怪奇なもののたとえに、既に解法のあるものを並べるのは、なんだかつまらないではないか。難解な数学問題を未解決の比喩に用いるのならば、それこそゴルドバッハの予想とかウェアリングの問題とか、いくらでも適したものが存在していた。それらの内容は、複雑すぎて数学者ではない俺にはさっぱり理解が出来なかったし、説明も出来ない。こういうのこそ、なんだかうまく言語化が出来ない、「感情」の定義によく似ているのに。
 けれど背伸びをしてそんな反論を口にすると、物知りで博学で神の子のように言われている我が兄上様は、尊大な口ぶりで慈悲をもち、弟の幼稚な考えを見透かしたように……こう畳み掛けるのだ。
「解法があるからこそ、フェルマーの定理は感情に近しい。一見、答えだけがあり……筋道がないように思えても、その解決策は案外のこと簡潔だ。解法は全人類の胸の裡にある」
 兄なるものは呵々と笑った。この兄は俺にやたらと優しいけれど、残虐な優しさと愛情を履き違えているひとでもあったので、それ以上のことは、どれだけねだっても教えてくれないだろうと思った。七歳の朔間凛月はそれ以上難しい問答に向き合うことを諦めた。
 だけど、今になって時々あの日の諦念を後悔する。
「はあ〜……ほんっと、わからん…………」
 あの時、たとえ無駄でも食い下がっていれば、今この時、俺はこんな気持ちを抱かなくてもよかったのだろうか。
「ま〜くんが何考えてるのかさっぱりわからん」
 ふにゅう、とファンキーな溜め息を吐いて教室の机に突っ伏した。前の席には誰も座っていない。空白が俺の世界を空虚にする。ああ、ほんと、わからん。何もわからん。あの幼馴染みが俺に黙って何かをやっているというのが、まずもう、わからん。
「ねえ兄者……そもそも世界は、1足す1は2ってほど、単純に出来てないんだけど……?」
 俺はなんのやる気も見出せず、怠惰が命じるまま目蓋を閉じた。
 ま〜くんとは、味気ないメールを七日前に一件もらって以来話していない。


 衣更真緒が朔間凛月に対して音信不通になったのは、公式ドリフェスの開催も落ち着き、外部からの仕事も落ち着き、全体的に、Knightsが暇をもてあましている時期のことだった。
 Trickstarのほうは、【SS】優勝以来「暇という概念は死を迎えた」ばりに忙しなくしているが、それでもやはり仕事には波があるようで、ここ最近は彼らが授業を受けている姿を見ることがぐっと増えた。ショコラフェスを終えて返礼祭を間近に控えたこの時期、送る側に立たない者はかなり暇になる。メンバーが二年生だけで構成されているTricstarは、このあたり割とやることがない。
 ユニットの枠組みを飛び越えて、MaMとかに感謝の意を示したいみたいなことはぼんやり聴いていたけれど、凛月にはほぼ無関係の話なので、聞き流していた。いちおうKnightsからはふたり卒業生が出ることになるので、よその人間に構っていられるほどの余裕はない。凛月の使う暇という言葉の定義は実に曖昧でいい加減だ。自分の大切なものに割けるコストがどのくらい確保出来ているかどうかで決定される。セッちゃんと王さまの門出を祝う儀式の中核は末子がやっているので暇だが、厄介風来坊流星パープルに卒業おめでとうを言いに行くほどの義理はない。
 ――ていうか、うちは卒業旅行を兼ねたワールドツアーの話が、もう動いてたりするしなあ……。
 卒業後も一緒に活動する予定が入っているので、寂しいは寂しいけれど、余所のユニットたちに比べれば、「永遠の別れ」という感触も少なかった。本当にさみしさを感じるのは、もしかしたら、年度が変わったあとのことなのかもしれない。いつものようにドリフェスに出ようとして、もうあのふたりが校内ライブで一緒に歌うことは二度とないのだと、実感する時は。
「……むう。ま〜くんがいないから余計なことを考えてしまう」
 ぼやき、誰も座っていない椅子を蹴飛ばす。音信不通と言っても、真緒が世間的に失踪してしまったとかそういうわけではない。Trickstarの公式インスタグラムでは昨日も真緒が当番の更新があって、どこかのテレビ局で、番組収録をしているその楽屋裏が映っていた。一緒に映っているスバルや北斗、真が今日学校に来ていることも知っている。問い詰めようと思えばすぐに出来るのだ。ま〜くんはどこ、と。
 しかし。
「なんかそれ、負けた気がするし……?」
 ま〜くんのくせに生意気〜と頬を膨らませ、凛月はぶすくれた。幼馴染みが七日いなくなっただけで、地の底まで機嫌を損ねているのだと奴らに知られるのも業腹だった。そう、あのうっかり屋のま〜くんだから、今回のことだって……単に「来週は遠方ロケで迎えに行けないごめん」という連絡を忘れていただけなのかもしれないし。そのせいで昨日も今日も普通に遅刻したし、かれこれ百時間以上もやもやしてるけど。今更、「連絡くれれば一人で起きられたのに」なんて言うのもかわいくないし。
「はあ、ま〜くんのかわいいりっちゃんでいたいと思う俺は健気……」
 溜め息ばかりが机の上に積み上がっていく。
 凛月は干涸らびたいもむしのように身体に机をのさばらせた。ああ、身体が重い。もう今日はこのまま寝ちゃおうかな。そうすれば明日登校する手間が省けるし、なかなかどうして、ナイスアイディアなのでは。
 そんなふうに思い始めた凛月の頭を、突然、何かがいきなり叩き付けてくる。
「……何喚いてんだよぅ、オメ〜は」
「あいでっ。なに、この、品のないチョップは……!」
 衝撃に驚いて振り返ると、困惑した顔の晃牙が真後ろに立ち尽くしている。その相貌はどこか飼い主を見失った野犬じみていて、凛月はぽかんと目を見開いてしまった。
「あれえ、コーギーじゃん。なに……? 兄者の居場所なら知らないけど……?」
 そういえば、UNDEADのほうも、なにやら返礼祭を控えてあれこれと情報戦が起きているとかいないとか聞いた気がする。零を中心に薫やら敬人まで巻き込んでいるとの噂だから、あの兄も昔の恥をさらしてでも一暴れする腹づもりなのだろう。まあそんなことは凛月にとってはどうでもよいのだけれど。
 ……なんてことを教える間もなく、晃牙が首を横へ振る。
「今日はそっちの用事じゃね〜よ。いや、そりゃ、知れるなら知りて〜けどよ、そこでリッチ〜の力を借りたらフェアじゃね〜だろ。俺様、日直なんだっつうの。もういい時間だしな、教室の施錠がして〜んだよ。テメ〜で最後だからよう……?」
 だから出て行ってくれね〜か? と晃牙に訊ねられ、凛月は不承不承、重たい腰を上げた。そう言われてみると、このがらんとした教室に一人居残っているのは、どうにもむなしいことのように思えて、寂しかった。
「おっ、今日は聞き分けがいいじゃね〜か。毎度そういう感じで頼むぜ、本当」
「約束はしない〜。俺は基本、気分でしか動かないから」
「ったく。テメェら吸血鬼どもの『気分』とやらに振り回される方の身になってからそういうことは言いやがれ〜……?」
 軽口を叩きつつ、ほっとした様子で晃牙がぼやく。晃牙はとかく表情がわかりやすくて、考えが読みやすい。ま〜くんもこうだったらいいのにな。凛月は密やかにそんなことを考えた。ううん、ま〜くんだって、大抵の場合は何を考えているのかわかりやすいんだけど。連絡もなしに顔を見られない時間が続いてしまうと、どうしていいのかわからなくなる……。
 そこまで考え、はたと動きを止める。晃牙が、急に立ち止まった凛月を見て、「どうした?」フラットな声音で訊ねかける。
「……ねえコーギー、日直の仕事に協力する代わりにちょっと相談乗ってよ」
「あ? なんだよ。いいけどよ」
「世界を数式にしたら、本当に1足す1は2で出来てると思う?」
 問うと、ぽかんとして、晃牙のほうまで立ち止まってしまった。
「……なんだそりゃ?」
「昔兄者が俺に言ったの。世界の構造が1足す1は2というぐらい単純に出来ていたとして、人間の感情はそれよりもっと難解でわからないって。だけど俺には……そもそも世界が、1足す1で出来てるようには、思えない……」
「吸血鬼ヤロ〜の受け売りかよ。……ああいや、昔ってんなら、あのひとが朔間さんだった頃の言葉か。そりゃ、なんかしら意味ってもんがあるんだろ〜が……だがよう……」
「なあに?」
「そもそも世界なんてものは、数式で表そうとするもんじゃね〜よ」
 少なくとも俺様にとってはもっと簡単なものの羅列だよ、と晃牙が呟いた。
 晃牙の世界は憧れと友達と家族と親しいひとたちで出来ていて、「知ってるやつ」か、「知らないやつ」かの、究極二分が可能なのだと、彼の言葉は拙く辿々しい調子で続いた。況んや感情はもっとシンプルで、「好き」「嫌い」の二者択一でしかない。昔の朔間零は好きのカテゴリ、今の吸血鬼老人を名乗る朔間零は好きじゃない方のカテゴリ。理屈なんてものは、そのぐらい簡単で良くないか、と。
「リッチ〜、さみしいのかよ」
 俺様にそんなこと聞くぐらい弱ってるなんてよう。晃牙が呟く。声音が丸くなり、思いやりが滲み始める。う〜ん、躾けられた良い犬だ。だけど不思議と嫌味な感じはしない。
「デコ助、ずっと来てね〜もんな。でもよぅ、俺様が思うに……あいつは何か考えがあっていなくなるタイプじゃね〜よ。特にリッチ〜に何か黙ってなんてよう」
「そこ、考えなしにいなくなる、じゃないんだ?」
「おう。考えがありゃ、聞いてくるだろ、デコ助は。だから無言でいなくなるとかなら不慮の事故だよ。あんまし、考え込むなって〜……?」
 晃牙がどすどすと凛月の背を叩いた。彼の言葉は、なかなか言い得て妙な気もするし、まったくの的外れのような気もした。
 凛月はふわりとあくびをして無人の教室を見遣る。もうしばらくしたら使わなくなってしまう教室。あと一ヶ月と少しで、ここは朔間凛月の居場所ではなくなる。来年も真緒は同じクラスだろうか。そうじゃないと嫌だな。去年もそれがすごく怖かった。奇人討伐がどうとかドリフェスがどうたらで学院じゅうがバタバタしていたのも不穏な感じで、それこそユニットの事情など目も当てられないほどの惨状だったわけだが、真緒とクラスが離れてしまう可能性の方が、もっともっと鋭利で恐ろしくてセンシティブな問題だった。凛月にとっては。
(……仕事があるとすれ違うとか当たり前だし、これまでもそうだったはずなんだけど……)
 がちゃり。錠前が落ちる。「それじゃあ俺様は職員室に寄って帰るからよ」と晃牙が話し掛けてくる。
「あんま気落ちすんなよ、しょうがね〜だろ。……こっちでデコ助の話聞くようなことがあれば、教えてやるからよ。吸血鬼だろ〜がなんだろ〜が、他人に頼っちゃいけないなんてことはね〜し」
「なにそれコーギー、慰めのつもり?」
「コーギーじゃねえっつの。ただよう、おまえら兄弟、そ〜いうところの変な不器用さが似てやがるからよう? デコ助もよう、気に病むかもしれね〜だろ。律儀なやつだし……」
 クラスメートが落ち込んでたら気になるんだよ、と晃牙がばつが悪そうに吐き捨てた。
「ふうん……コーギー、いい子いい子……」
 その時凛月はなんとなく、晃牙も、来年も同じクラスだといいなと思った。真緒の次ぐらいに。一緒のクラスだときっと素敵だと思った。でもこの感情を数式に表せと言われたら、それはやっぱり、よくわからない。
「返礼祭頑張ってねえ♪」
 ……グラハム問題とかかな。それとも、シンプルにオイラーの定数あたりからか。そんなことを考えながら頭をわしわし撫で回すと、やめろ〜っとかなんとか、晃牙が怒鳴った。


◇◆◇◆◇


 吹きさらしの屋上はひどく寒かった。
 とっくに下校時間を過ぎているためここの鍵も閉めきられていたが、合い鍵を使って無理矢理押し入った。友人としてのよしみで英智がこっそり複製してくれたものだ。「屋上とガーデンテラスの鍵だけだよ」と彼は言っていた。それ以外の鍵は、零が持っているマスターキーではもう開かないんだよ、というお言葉が最後にくっついていた。曰く、抜け道や特権階級を放置しておけば、それがまた悪徳を生む温床になるからと。
 それじゃあ凛月に合い鍵を渡すのもいけないのではないかと思ったが、英智の茶目っけ溢れる笑顔を見ていると、その先を問いただすのは野暮なように思えた。そこには凛月への、立場としがらみを全て棄て去った親愛があった。凛月なら悪用はしないだろうとか、鍵を誰かに継承することもないだろうという、当て込みが見え透いているような気がした。
「エッちゃんのあれは、友愛数かねえ……」
 夜空には星が少なく、月明かりばかりが、こうこうと瞬いていた。このさみしい星空を見ていると、やけに物思いが捗って仕方ない。凛月は手慰みに指先を折り曲げ、自らと周囲の感情を数式化しようと試みた。英智、創、晃牙、みか、弓弦、嵐、司、泉、レオ、零……自分と大なり小なり関係のある人間を次々思い浮かべては、それにあてはまる数式や定理を探し出そうとした。でもうまくいかない。特に未解決の定理は駄目だ。肥大化した問題を、よけいに、複雑化させてしまうだけだ。
「……俺とま〜くんは?」
 最後の難問を口に出してから、はあ、と首を横へ振る。
 それこそ、最もせんない質問であるのは明白だ。
「答えなんか見つからないよ……」
 解法とか筋道とかわかんないよ、ま〜くんが大好きという結果しか残らない。凛月はさもしくぼやく。この胸にわだかまるもやもやした気持ちや、心臓を埋め尽くすさみしさがその証明式になると言うのなら、やはり、兄は数学者として三流だ。別に凛月も数学者ではないのだけれど。
「今頃なにやってるんだろ」
 ごろりと床に横たわる。屋上の床は硬いし不衛生だし何より寒い。だけど布を掛けてくれる人間がいないので、凛月は吹きさらしの床へ寝そべるほかなかった。星が見える場所にいたかった。星の中には宇宙の真理があるから。そうすれば、幼い頃兄に聞かされたよくわからない話が少しでも理解出来るような気がして、その理解は、今このさみしさを埋めるために必要不可欠であるように感じていた。
「意地張らないで俺から連絡入れればよかったのかなあ……?」
 何の着信もないスマートフォンを取り出そうとポケットに手を突っ込み、だけど止める。この百数十時間ほどというもの、実のところ、凛月から真緒へ連絡を試みたことは一度もなかった。放っておけばそのうち真緒が「凛月、どうした?」って聞いてくれると思っていたのもあるし、もし仮に連絡を送れないほど忙しい何かに見舞われているのだとしたら、邪魔したくない、自分からの通知で真緒を乱してしまいたくない、という思いがある。凛月はええかっこしいだ。嘘。ま〜くんに、好きな人にだけは、いい格好をしていたいだけ。恋する少年少女の永遠の摂理。
 ――【SS】でTrickstarが優勝した日。
 彼らは名実共にトップアイドルになった。ずっと凛月が真緒の先を走っていたのに、今はもう、追い抜かれてしまった。それが悔しいわけではない。むしろ誇らしい。けれど同時にすごくわびしい。ねえ見て世界、俺のま〜くんが、本物の一番星になったんだよ。本当はずっと俺だけのお星様にしておきたかったんだからね。感謝してよ。感謝してま〜くんのまぶしさに目を灼かれてしまえ。
 我ながらぐちゃぐちゃの破綻した感情だと思う。たぶんこの気持ちを数式にしたら新しい未解決問題が生まれるはずだ。「朔間凛月の問題」とかいう題名になって、代数がやたらと登場し、それからたぶん、無理数とかが絡んでくる。
「答えはこんなにシンプルなのにねえ」
 なんだろ、おかしいよね。
 ゴム材の床に顔を埋めて呟き、凛月は目を閉じた。


 再び目を明けた先には、真っ白な世界が広がっていた。ランドセルを背負った男の子が、その先を二人で歩いている。一人は、まだおでこを上げていないま〜くん。もう一人が、麦わら帽子を被った俺……。
 子供の頃の夢だ。そう思った。あの頃まだ俺は、ま〜くんの血を吸ったことがなかった。ま〜くんも、尖ったものを突き立てられる恐怖を知らなかった。ふたりは純粋な友愛によって結ばれた、ただのさみしい子供たちだった。
 そう。俺もま〜くんも、あの頃からずっと、さみしかったのだ。
 ふたりはさみしいから出会った。ひとりでじっとしていた俺に手を差し伸べたクラスの人気者は、その実、心の中に満たされないものを抱えている寂寞者だった。衣更真緒は誰からも愛されたけど、誰にも平等な愛を振りまくせいで、そういうものとしてしか、見て貰えない傾向にあった。つまりま〜くんは小学生にして博愛のシステムになりかけていたのだ。
 なんていうか、言っちゃ悪いけどめちゃくちゃ不健全だ。
 そこで俺はこの子をべたべたに愛してやろうとそう誓った。さみしい吸血鬼は、空虚な人間を気に入った。ふたりは瞬く間にお互いに夢中になった。当たり前だよ、欠落を抱えたもの同士なんだから。求めても手に入らなかったものを無限に提供してくれる存在があれば、離れがたくなる。世の摂理だ。俺たちは噛み合った歯車になった。夏も秋も冬も春も一緒に過ごした。幼馴染みっていいわねと言われる度に、誇らしい気持ちになった。いつの間にか幼い俺は自分とま〜くんとの境界線がわからなくなっていて、ま〜くんが褒められたことも、なんでも、全部自分のことであるかのように錯覚し始めていた。
 だけどあの日おでこに牙を突き立てて愚かな幻想は終わりを迎えた。
 ま〜くんに拒絶されて、その時ようやく、俺は思い知ったわけだ。この衣更真緒という男の子は自分ではないと。世界は完全球体で構成されているわけではないのだと。いつの間にかすくすくと健全な太陽に育っていたま〜くんは、もはや俺が埋めるべき欠落を持っていなかった。俺は絶望的な気分になって――だけどそれでもま〜くんを世界で一番愛おしく思っている自分に気がつく。
 早熟で爛熟な恋の自覚。朔間凛月十二歳の春のことであった。
 第二次性徴の訪れと共に俺を襲うようになった吸血衝動を、幼い俺は無限にもてあました。飲みたい。血が欲しいよう。でもあの子は俺じゃないんだもの。ま〜くんに嫌われたらやだな。恋してるの……。好きな人には好きでいてもらいたい、けど、あの子の血が欲しい。
「愛しい人の身体をからからになるまで吸い上げてしまいたいってのは、吸血鬼が持つ一種の病気だよ、凛月」
 お兄ちゃんが訳知り顔で言う。なにそれ。わかんないよ。でも俺知ってるよ、お兄ちゃんは血が嫌いなんだ。鉄錆の味が苦手なんでしょ。それはねきっと、お兄ちゃんがまだ恋を知らないからだよ。本当に好きな人の血は、なにより甘いの。マカロンよりも。天使の唾液よりも。すみれの砂糖漬けより、もっとずっと、甘くて美味しいんだから――。
「ああ、可愛い凛月。何かを欲しがるのは、それが永遠に己のものになりはしないと自覚的だからさ。その証明をこの世の数学者たちは数式に求めた。愛の論理を数字で示そうとした。世界は?2?で、つまり?1足す1?だ。おまえの数式は、何で成立している?」
 お兄ちゃんの指先が俺の喉元をさすった。そんなの簡単だ。俺はお兄ちゃんに向かって叫ぶ。俺の世界は俺とま〜くんで出来てる。朔間凛月十四歳の夏。家の裏庭で蝉が死んでいる。ま〜くんは運動部のエースになり、俺は保健室の常連で、夏休みのラジオ体操は、ま〜くんが呼びに来てくれるから仕方なく通っている、そんな時分。
 ――あ、そっか。
 ロールシャッハテストのようにしっちゃかめっちゃかの夢の中、俺は唐突に自覚した。飛び飛びでつぎはぎの記憶は一枚のキネマフィルムに繋がっていく。
 中学一年生の春。ま〜くんは俺の牙を怖がり、俺は一時的に大好きなあの子から身を引こうとした。でも無理だった。さみしい吸血鬼をさみしい人間は離さなかった。俺は自分自身に、ま〜くんの血を吸うことを、というか血を飲むことを禁じた。吸血鬼なのに吸血しなかったので、もう、見る間にやせ細った。
 中学三年生の夏。俺は再びま〜くんに牙を立てた。こめかみは怖がるから、今度は、首筋にした。ま〜くんのうなじは白くて綺麗だった。あの子は怖がったけど、これ以上俺が痩せていくのは我慢出来ないからと言って、己の身を差し出した。蝉が泣き喚いている夏の日のことだった。薄暗い俺の自室、そのベッドの上で、まるで破瓜の血を散らす処女のようにま〜くんが横たわっていた。
 神様の目を盗んでいけないことをしているんだ、と思った。だって吸血鬼は背信者だから。
 ま〜くんが堕落するんだと思うとたまらなく興奮した。それから時々血を飲ませてもらえるようになった。俺はみるみる元気になって、夢ノ咲学院にも合格した。
「…………フェルマーの最終定理…………」
 そこで再び、俺の目に映るものは、真っ白な世界と二人の子供だけに立ち戻った。麦わら帽子に被られている俺が、ランドセルに背負われているま〜くんと手を繋いで並んでいる。あの頃俺たちはまだ恋を知らなかった。ふたりの間に数式は必要なかった。
 本当のことを言うと、あの時お兄ちゃんが本当にまだ恋を知らなかったのかなんて、俺には知る術がない。
 わかっているのは、俺の世界が、ま〜くんと俺との、ふたりだけできっぱり完成してしまえる、その事実だけだ。
 それを証明するように、数学における未解決問題の仮説たちが、転がり散らしてあたりを汚染している。
「そっか〜……」
 つまり、世界はやっぱり、「1足す1は2」で出来てるのか。
 だって俺とま〜くんを足して世界になるわけだし。
 ううん……兄者の言うことを認めるのはむかつくけど、じゃあ、やっぱり、あの考え自体は正しかったんだ……。
『――つ、りつ!』
 ああ、なんだろ、急に、声がする。誰だろ。ま〜くんかな。だけど遠いよ。
 どこにいるの? ここは俺の夢の中なんだけど。解決出来ない数式のかけらがばらばらに転がっている、さみしいところだよ。おひさまが来るような場所じゃないし。ねえ、本当、何してるの?
『り、凛月〜!? ほんとにいた。どうしたこんなとこで、おおい、りっちゃん!』
 んん……駄目だ。これ以上のこと、考えられない。
 ま〜くんの声が、遠い。
 意識が……また、薄れてく…………。



「――凛月!!」
 ぱちり。凛月が目を見開くと、ちょうど、横たえた身体が上からがくがくと揺さぶられているところだった。凛月の真上には必死の形相をした真緒がいて、幼馴染みが目を醒ましたことに気がつくと、ほっと口元を緩ませる。
「ま〜くん? うるさい、耳元でガンガンさわがないで……脳に響く……」
「凛月! 良かった、起きたのか。びっくりしたよもう、晃牙から鬼のように電話とメッセージが入ってるし。しかもおまえが思い詰めてるなんて言われたから、本当に焦ったんだぞ」
「なあに、コーギーが? ……え? なに? ま〜くん? 本物? なんでいるの?」
「なんでって、やっと帰って来られたから……とにかくりっちゃんがまだ無事で良かった」
 真緒があははと笑って凛月の隣に腰を下ろす。月がきれい。とっぷりと暮れた夜闇の中、無数の星々が瞬いている。だけどま〜くんが一番きれい。
 凛月はゆっくりと上体を起こし、ぴとりと真緒に身を寄せた。
「……一週間も何してたの?」
 飛び出した声は、凛月自身「ないわ〜」と思うぐらい、とげとげしていた。めちゃくちゃ不機嫌な日の泉が、性懲りもなく壁に楽譜を書き始めたレオを叱る時の声ぐらい攻撃的で、うにの殻みたいだった。
「ごめん」
「謝る前に何とか言ってよ」
「仕事してたんだ」
「なんの」
「収録と引き継ぎと挨拶回り」
「どこ行ってたの」
「おまえんち」
「……は?」
 うにの殻のキャッチボール。短い言葉達がぽこぽこ遣り取りされて、でもその途中で、凛月の方が、眉を潜めて言葉を失ってしまう。
「……うちなんか、来てないでしょ?」
 凛月が用心深く訊ねると、真緒はさらにばつがわるそうな顔になり、う〜ん、と頭を抱えて唸った。でもやっぱり最後は観念したような表情をして、「できたら怒らないで」とか言いながら手を差し出してくる。
「ん。いや……その。トランシルヴァニアに連れてかれてたから……正確には、朔間の……本家? なんか、そういうとこ……」
 真緒の手を反射で握り返しながら、凛月はこの世の終わりみたいな顔をしてひきつった声を喉から漏らした。
「正気で言ってる?」
「言ってる。嘘だと思うなら朔間先輩に聞いてみて」
「あの兄者もどき、とうとうやりやがったな」
「おいおい、もどきはかわいそうだろ〜、おまえにとってもたったひとりの兄弟なんだし……。いやまあ、いきなり拉致されたから俺も正直驚いたけどな! 不自然に俺だけ何日もスケジュール空いてたから、変だな〜転校生がこんな仕事の組み方する? とは思ってたんだけど、まさか朔間先輩とグルだったとは……」
「はあ……? だから、どういうこと……」
「うん。俺、正式に朔間の家から認められたから」
 凛月の眷属かぞくとして。
 真緒がくすぐったそうに笑う。これでもう大丈夫だよ、と繋いだ手のひらに力が込められる。夜風は冷たいのに手のひらがあつい。凛月は瞬きをした。月明かりに照らされる幼馴染みの横顔は綺麗だった。食べちゃいたいぐらいかわいい。俺の大好きなま〜くん。
 心臓の音が、どっどっどって、少しずつBPMを上げて鳴り響いている。
「せっかく実家にお邪魔したので、凛月とずっと一緒にいてもいいかって質問に、無理矢理うんと頷いてもらってきた」
 凛月の心臓が、空想の中で、ざくろみたいに弾け飛んだ。
 絡まった指先は溶岩並みに熱かった。
「……。ほんとに事故じゃん。しかも巻き込み事故。コーギーの鼻、馬鹿にならないなあ……」
「? ああ、そういや晃牙、妙に心配そうな声だったな」
「インスタが昨日付で更新されてたから油断してた……セッちゃんにゆうくんの収録スケジュール聞けばよかったんだ。そしたらこんなうっかりに引っ掛かったりしなかったのに」
「うん? インスタ? あ、乗り継ぎの空港で更新したやつか。インスタに上げるやつは、予め内容と当番決まってるから。収録自体は結構前の現場だよ。……ていうかそっか、りっちゃん、もしかして俺に気を使って連絡入れて来なかったのか?」
「そう。てっきり避けられてるか、連絡忘れるほど仕事してるかのどっちかだと思って……まさか国外に拉致されてるなんて思わないから、一人でやきもきしてた。そのせいで余計なことばっかり考えちゃった……」
「なんだよ、昔のこととか?」
「そう。?1足す1は2?と、フェルマーの最終定理について」
 なんだそれ全然わかんない。真緒が楽しそうに笑う。ああ、かわいいなあ。ほんとに食べちゃいたい。繋いだ手が孕む熱の意味を、真緒はちゃんと気がついているだろうか。凛月に血をくれる優しい真緒。朔間の老人たちの首を無理矢理縦に振らせてきたとかいう真緒。本当に訳がわからないんだけれど(朔間の老人たちはものすごい頑固で偏屈な狂人どもの集合だ――今年の新年会で久しぶりに会って凛月はそう再認識した)、そんな訳のわからないことをいきなり拉致られた先でやってのけたという真緒が、凛月はたまらなく愛おしい。 
「昔ねえ、兄者が言ってたの。世界の構造を数字で表そうとしたら、1足す1は2になるんだって。で、それと同じように感情を数式でたとえるなら、フェルマーの最終定理みたいなものだって」
「相変わらず難しい話してるなあ、おまえら兄弟は。俺、数学はそんなに得意じゃないんだけどな〜?」
「いいの、この話で肝心なのは、数学の知識じゃないし。それでね、俺はま〜くんがいない間、そのことを考えてた……俺とま〜くんの関係を表す数式は何? って」
 だけど答えは出なかったんだよ。その代わりに懐かしいことをいっぱい思い出したし、夢に見た。恋を自覚した日のことを見た。はじめて愛を分かちあった日のことを見た。それからまだ恋を知らなかった日のことも。そのどれもが愛おしくて、当たり前の日々だった。
「俺ねえ、ま〜くんがいない間、ま〜くんの考えてることがわからないってごねてたの」
「そうなのか」
「うん。けど、分からないから、俺はま〜くんが大好きなんだよね。それをやっと思い出したので、ま〜くんがいない七日間には、たぶんそういう意味があったんだろうね」
 本当にめちゃくちゃ腹立つけど、それも真緒を攫った零の思惑のうちだったのかもしれない。
 そう話すと、真緒は「なんだそれ」と笑った。凛月もつられて笑った。トランシルヴァニアに連れて行かれても、真緒は凛月の知っている真緒のままだった。だから今日も世界は1足す1は2で出来ている。
 それからふたりは、この一週間のあいだ、真緒の身に降りかかったあらゆる災難について話し込んだ。トランシルヴァニアの城での出来事は特に面白かった。どう見ても日本人ではない、スター*ォーズに出てくるヨーダみたいなおじいちゃんが、いきなり日本語で「吸血鬼の伴侶になる意味がわかるか」と問いかけてきたくだりなんか、特に傑作だった。でもそのあと真緒が答えたという言葉を聞いたらちょっとこっぱずかしくなってしまって、凛月はか〜っと顔を赤らめた。
「ま〜くん、よく真顔でそんなこと言ったねえ?」
「だって俺、凛月のこと好きだもん」
「だもんって。幼女? かわいい。そういうの俺以外の前で絶対やらないで……」
「言われなくともやらないよ、アイドル衣更真緒は、幼女キャラで売ってないからな?」
 おまえにしか見せない俺がいっぱいあるんだよ、と真緒が言った。世界中が見ているキラキラの一番星にはうらっかわがあって、それは凛月しか知らないものなのだ。
 凛月は自分の情緒を顧みた。ま〜くんを世界中にひけらかしたい気持ちと、ま〜くんを独り占めにした気持ちがぐちゃぐちゃに破綻した、「朔間凛月の問題」という未解決の問題を思い出した。今ならこの数式が解けるような気がする。フェルマーの最終定理が最後には無事解かれたように、今ここで、ふたりの手で。
「ねえま〜くん、さみしいよ」
「俺もさみしいな」
「さみしい人間とさみしい吸血鬼がふたりいたら、どうなると思う?」
「惹かれ合って、抱きしめて、キスする」
「うん、正解」
 真緒の身体を抱きすくめ、肩口に顔を埋める。真緒の身体を覆うコートをゆっくりと脱がし、上着をはぎ取り、寒空にその柔肌をさらけ出させた。さむい、と真緒が息を吐く。二月の下旬、真夜中の学校、月夜の素肌。それを見て舌なめずりする吸血鬼。
「いけないことしてるみたいだね……」
 真緒のうなじに牙を立てて、凛月が囁く。
「昔からずっといけないことしてたんだよ、俺たちは」
 凛月の頬に身をすり寄せ、真緒が呟く。
 互いに息づかいが荒い。真緒の頬が紅潮しているのは、寒さからか、羞恥からか。かわいいからどっちでもいいんだけど、後者だとちょっと嬉しい。
「あのねま〜くん、俺、来年もま〜くんと一緒のクラスがいいなあ」
 かぷり、と牙を突き立てて血を吸い立てると、真緒は唇を押さえてちょっとだけ喘ぎ、鼻から熱っぽい息を漏らす。
 そうして彼は、息を潜めると凛月の耳元でとろとろと囁くのだ。
「じゃ……生徒会長の権限でクラス分けにズルするか。だって俺たち、さみしくて悪い子の集まりだもんな……」
 凛月は息を呑み、にやりと目を細めて極悪に笑った。
 そんなわけで、最終未解決問題――「朔間凛月の問題」は、その一言で魔法みたいに全部解けてしまったのだ。
 世界は数式で出来ているし、感情はフェルマーの定理に近しい。
 これはそういう、春先の話。