※きっと何者でもなかった君達へ。
※レオいず哲学ポエム、一年時捏造。
金星杯があるていで書いてます。
夢ノ咲学院というところはまこと現代に体現された地獄みたいな場所で、どういった種別の地獄かと言われるとたぶん無間地獄の類なんだけど。
その地獄のほどは中にいる者でなければわからないため、毎年星の数ほど入学希望者が現れ、けれどその大多数は、卒業さえ出来ず、夢破れて消えて行く。ここはそういう、針のむしろみたいな国だ。
「どいつもこいつも天才ばっかり」
俺はガーデンテラスで風光明媚な中庭を見ながらがくりと肩を降ろした。
まったく、井の中の蛙大海を知らずとはよくも言ったもので。モデル業界ではそれなりの活動をしてきたと思っていた俺だけど、この学院に入学してから、そのあんまりな事実に溜め息を吐くことがぐっと増えた。この学院は天才のバーゲンセール会場だ。天才共が十把一絡げに飼育され、いかにも「モブA」とか「モブB」です、みたいな顔でぼんやりと校内を歩いている。しかしながら天才じゃないやつだって当然通ってはいるわけで、「モブ塵芥」みたいなそいつらは、「モブA」に衝突するとあっけらかんと死んでしまう。まさに地獄絵図。
――モブがモブ同士で衝突死起こしてるとかマジで何事だ。チョ〜ありえない……。
俺は出来るならば賢く生きたいと日々願っている。だからまず、厄介事とは関わらないと決めた。友達だって別に要らないし。今までもたいして作ってこなかったしさ。モブAともモブBとも不干渉で過ごそう、その方がずっといいよ。だって夢ノ咲学院の生徒達は基本やる気がないし、そんなところでいくら張り合っても無意味だし。
時間は有限、チャンスも有限。だったら一人でストイックに生きて、多少なりとも自分の人生に何か意味のある付加価値をつけて……そして音もなく卒業していこう。それがいい。それでいい。瀬名泉はモブでさえない空気となり、ここから三年を過ごすのだ。
「なあ、セナ〜? さっきから何書いてるの、あ、課題? ……んう、違うか。日記だ〜、……ありゃ? セナにしては珍しく詩的センスに欠けた言葉ばっかり並んでる。どしたの? お腹減った? パン食べる? 語彙の喪失は感性のカタストロフだ、もっとポエジーに……☆」
考えごとをしている最中に腕を引っ掴まれ、俺は紙に文字を綴ることを一時取りやめた。ちろりと横目を遣る。「モブA」が、俺に構ってきている。俺は聞こえよがしな溜め息と共に頭を横へ振る。
モブA。同学年で、同じクラスの、月永レオ。
音楽の神さまに愛された正真正銘本物の天才。
なんでそんなやつがことある事に構ってくるのかは、よくわからない。
「何しに来たわけ……」
「何か用がなきゃ来ちゃ駄目? んん……敢えて言うなら、セナの顔が見たいからかな〜」
「……あ、そう。で、あんたその紙なに? 新譜?」
「そ! クラスのみんなに〜頼まれてるっ。もう、十人ぐらいかな……一日一曲ぐらいのペースじゃないと間に合わないな〜! わはっ☆ まあおれ、天才だからなんとかなるけども!」
「あんた本当臆面もなく自分のこと天才って言い張るよねえ」
「さあ。みんながそう言うんだから、きっとそうなんじゃない? 親類縁者だけの言う『天才』と小学生の言う『天才』はさりとて信用のならない物差しだけどっ、お金の動く商売相手がそう言うってことは、そこには金を生む程度の価値はあるってことだよ」
五線紙にペンを走らせながら月永が言った。その、子供っぽくて邪気のない声音に反して妙に達観した言葉が、俺の胸をどうしようもなく引っ掻いた。天才にも事情とか苦しみとか色々あるよねなんていうお題目はフィクションで散々聞き飽きてるはずなのに、月永の口からその言葉を聞くと、どうしても、なんか、悲しい気持ちになるのだ。
……ああ、うそうそ、やめやめ。瀬名泉は賢いので「モブA」様とは関わらない。だからこんな感傷も存在しない。しちゃいけない。喉に刺さった魚の小骨みたいな痛みも、何もかも、どこにもありはしないのだ。
「……あのさ」
なのになんで俺はまだこんな話をしちゃってるのかな。
「うん、なに?」
「なんでもない話なんだけど……。人間には序列があるじゃん。才能の序列、体格の序列、家柄の序列、性能の序列……他人がつける、レッテルのソート……」
「そうだな〜。自分自身がつける見限りとは別に、他人のつける順列は、過度で容赦がない。この学院にも夢破れたやつらの慰霊碑とかあるらしいしな〜?」
「だったらさあ、天才の中にも当然、カーストがあるわけじゃん。それで月永は、その頂点にいるんだよ。なのにどうしてあんたは『頼まれたから』ってホイホイ他人のために才能の浪費をしてるの? なんでみんなに奉仕してるの? あんな、何者でもないやつらに……」
辿々しくそれでも終わりまでを訊ねると、月永レオは、ペンを操る手をぴたりと止めた。彼はペンの頭についた消しゴムを顎にあてて考え込み、たっぷり十数秒も声を出して唸り、その果てに俺の方をくるりと振り返ってこう告げる。
「――それはたぶん、おれ自身、まだ何者でもないからかなあ」
嘘でしょ、と思ったけれど、言葉は唇の外へ出て行きさえしなかった。
「おれは、まだ、何者でもない。同級生の多くと一緒で。だからクラスメイトたちがさ、何者かになりたくっておれの曲を欲してるというのなら、おれはそれに感謝して手を貸すよ。そこからおれも、何者かになれるかもしれない」
「……わけわかんない」
「そうかなあ。そんな難しい理屈じゃないと思うけど。あはは、おまえ、頭いいからな〜。理論がアホすぎて、逆に難解とか? すまんすまん! そういえばセナだけは、おれに曲作ってとか、一回も言ってきたことないもんな〜?」
それから月永レオは……既に俺の世界では「何者か」である男は、洟垂れ小僧のように笑うとふたたびペンを走らせはじめ、作曲の世界に戻って行く。
ああ、お笑い草だ。俺は月永に気付かれぬようにちいさく鼻で笑った。ねえ天才様、モブA様、月永レオ様。もしもあんたでさえ何者でもないのだとしたら、俺は一体どうなってしまうのだ。「モブ塵芥」以下の空気の俺は。無惨を通り越して無ではないか。
――どうして俺があんたに「曲を作って」と言わないのか、って。
そんなのわかりきっている。自分ではない才能に縋ってしまえば、それに押し潰されてしまったら、その時点でもう二度と、きっと永遠にモブから脱却出来なくなってしまうから。
持って生まれたパラメータとそこに上積みした自助努力以外でいくら己を飾り付けようとしても、ちぐはぐで醜くて、長続きしない。モデルなんていうのは自分自身との戦いが全ての世界だから、そこから生まれたいきものだから、余計そう思うのかもしれないけど。だけどみじめではないか。虎の威を借るばかりの狐なんてごめんだ。だから俺はあんたには頼らない、月永の曲は美しいけれど、それに見合うほど俺はいいものじゃない。
俺はフンと鼻を鳴らして、顔も名前も一致しないクラスメイトたちのことを嘲笑した。――今にあいつら、分不相応な宝飾品で身動きが取れなくなって、慰霊碑入りするんだ。他人の才能で輝いた気になれるのは一瞬だけ。俺はそうはなりたくない。
だから努力する。泥臭くても研鑽を怠らない。誰も見ていなくても誇り高く。全ては俺自身が、最後に胸を張っていられるように。
いつかは輝く一番星になりたい。お星様だねって言って、俺を選んでくれる人が訪れるように。
「…………」
「…………」
そこからしばらくは、カリカリと、二人分のペンが紙を引っ掻く音だけがその場を支配した。俺の感傷的なノートと月永の芸術的な楽譜。今この場所ではゴミと宝石が同時に生産されている。そう考えるとおかしな気持ちがする。
「なあ、セナ〜……」
その途中で一度だけ、月永がうわごとのように俺の名前を呼んだ。
「あのさ、おれもさいつかは、誰かの特別になることができるのかな……」
「……知らないよ」
「ん〜。そっかあ。おれもおまえも、まだ、この世界では何者でもありはしないんだ……」
月永は当たりくじ付きのお菓子を開封してハズレを引いた子供みたいに無邪気な顔で、もう一度だけ、「そっかぁ」と繰り返した。
そう、俺たちは、何者でもありはしない。
モブAとその他大勢の空気。他の何でもない、世界の端役の、助走台以下の有象無象。だけど俺たちだって特別になりたいんだ。物語の主人公になりたい。未来を信じたいし、幸せになりたい。
……その時からうっすら気付いていたけれど、俺たちには心を許せるような友達がいなかった。
だから俺は月永に作曲を頼まなかったし、月永は俺の前にしょっちゅう現れては、友達ヅラした凡人どもに頼まれた曲を書き続けていた。
俺たちは誰よりも特別になりたがっていたけれど、その実、特別を作ることに怯えていたのだ。
◇◆◇◆◇
それなりにソロの仕事を請けてちまちまと評価を上積みして、レッスンに明け暮れて。そんなことをしているうちにあっという間に時間は過ぎ去り、秋がやってきた。部活も委員会もせず、ユニットにも所属せず。当然のように友達もおらず。授業でペアを組まされるといつもあぶれて――なし崩し的にあぶれ者同士で月永に手を引かれることがめっきり増えた昨今だけれど、でもそれでよかったと思っている。
季節が半分巡るうちに、学園は殊更に悪徳の街の様相を深めた。やる気のないやつはますます増殖し、天才のおこぼれに預かってだらけるだけの粗大ゴミが蔓延している。ここは人間性の掃きだめだ、アイドルになることさえ諦めた何かたちのスラム街だ。同じ敷地内で息をしているだけで、副流煙を吸って灰が黒くなってしまいそうで、嫌気がする。
「やあやあっ、泉さん。どうした、青息吐息、ひどい顔だなあ。食あたりかなあ?」
教室の端で手帳を確認していると、突然後ろから声を投げかけられる。なんだこのばかでかい声。そう思って振り返ると、そこには底抜けに明るい顔のお祭り男が立っている。
「……ああ、あんた、三毛縞か……」
三毛縞斑。同じクラスの「モブB」。こいつも天才のたぐいだ――しかも万能の超人。噂じゃ、二年の朔間零の後継者を目指しているとか何とかって話だけれど。俺には無縁の話なので聞き流していた。
その天才様が一体俺なんかに何の用だ?
「何。いきなり失礼にも程がある」
「やや、これは失敬。ほら、今ちまたは食欲の秋とやらだからなあ、言ってみたかっただけだ。はは。しかしなんだ……泉さんはもう少し食べた方がいいんじゃないかなあ。体育でご一緒すると、線の細さにぞっとすることさえあるぞお」
「余計なお世話。自己管理は徹底してるの……食べたらその分だけ太るんだから。肥えた豚ほどみっともない生き物はないよ」
「ふむ。そいつはこの学院の、数多くの『その他大勢』を指してのことかなあ?」
かるく探りでも入れてみようかと思えば、腹の中に差し込んだ腕をことばのナイフで刺し留められる。ああ、ぬかった。俺はいよいよ不機嫌になって三毛縞を睨み付けた。
「……何が言いたいわけ? その他大勢じゃない『天才』様?」
「ん、ああ、いや! 気を悪くしたなら謝ろう! どうも俺は、思っていたより相手を踏みつけてしまうきらいがあるからいかん!」
「自覚してるなら尚悪い。……さっさと本題だけ言って帰りなよ。俺は暇じゃないの、他の蒙昧なクラスメイトどもとは違ってね……」
「ああ、そうだろうな。泉さんは賢いし勤勉だ、君は慰霊碑に入らずきちんと三年次に卒業を迎えるだろうさ。で、そんな泉さんだから、折り入って頼みがあるんだなあ」
呵々大笑。三毛縞が、俺の腕を掴み取って豪放磊落と笑った。神経が太い。どんな接続してるんだ。振り切ろうと思ったけど、抜け出せない。
「泉さん、俺の代わりに【金星杯】に出てはくれないかなあ?」
そしてきっちり全ての退路を塞いだ上で、お祭り男のモブBは、ニッコリと死の宣告を発動したのである。
【金星杯】――夢ノ咲で連綿と続く、いくつかの歴史あるライブのひとつ。毎年秋頃に、1年A組と1年B組からそれぞれ二名の代表を決め、お披露目会をする、というものだ。
尤も近年では、生徒のやる気のなさも相まってこれらの伝統行事は形骸化しつつあり……金星杯もそのご多分に漏れない部分があるのだが。それでも伝統は伝統。代表二名も基本的に成績順での教師からの指名であり、「参加自体に意義がある」「まあ一応箔はつくかもね」「何もしないよりは多少の足し」みたいな存在である、というのが俺の知るところだ。
『たまたまその日取りは、家の都合で国内にいなくてなあ。それで随分困っていたところだ。泉さんなら、実力的には申し分ない。どんなチャンスも掴んでいくのが泉さんの流儀だろう? 悪い話じゃないと思うぞお』
お祭り男の言い分は腹が立つことに正しく、泉はその場で「YES」とも「NO」とも即答出来なくて、返事を一度持ち帰った。形骸化しているとはいえ、一応は学年上位者であることを示す機会だ。出ておけば、今は先輩にいいようにかすめ取られている実のある仕事も、なんとか回してもらえるようになるかもしれない。決して悪いことばかりではない。
だけど。
瀬名泉には友達がいない=Bこんなことを何度も繰り返すのは悲しいけど事実で、友達がいない。無論モデル時代から、ビジネス上うまく合わせて見せるのは得意だったけど……この舞台は、なんだか、そういう中途半端ではいけない気がする。
いわば学舎で行われる選抜オーディション。下手をしたら、そいつとこれから卒業まで、酸いも甘いも味わう羽目になるかもしれないのだ。物事には慎重でいたい。背中を預けるはじめての相棒を、適当な奴にしたくはない……。
「【金星杯】って二人ずつでしょ……。もう一人は誰なんだろ。うちのクラスで成績が良さそうなのって言ったら、三毛縞と……斎宮と……ああでも、ユニットを組んでるやつは出られないのか。じゃあ、斎宮は出ないな……」
ぶつぶつ呟きながら、中庭を通過する。日当たりの悪いガーデンテラス片隅は、泉が放課後通い詰めている秘密の場所だ。やれ撮影スタジオだの、練習室だの、音楽室だの……立地条件の良い場所は既に不良共のたまり場として占拠されたあとなので、こんなところしかもう空いていないのである。
真面目でやる気のある俺は僻地に追いやられて、毎日無駄騒ぎだけして学院の看板に泥を塗ってる有象無象共がいい思いしてるのは、気に食わないけれど。それに反抗体勢を取ったって物事はいい方に進まない。そのぐらいのことがわからないほど瀬名泉はお子様じゃない。だから多少条件が悪くっても一人で地道に努力するのだ。その努力がいつ報われるのかは知らないけれど……。
そう思ってくさくさした気分で歩いていると、不意に、何か柔らかいものを踏んづけて、「ふみゅう!?」というあんまりにも情けない声が俺の耳を強かに打ち付けた。
「なっ、なにごと……!? 蛙? ちょっ、やだぁ!!」
「ふにゅ、痛っ、痛い痛い踏みつけないで! 地面に寝てたおれが悪かったから、痛い〜……!!」
「って。……あんた、月永か!!」
慌てて足を持ち上げると、俺が踏みつけた足跡が、べったりと青い制服に付着してしまっていた。あ〜あ、これ、落ちるのかなあ。校内アルバイトに回して穏便に済ませてもらえないだろうか……。なんて独り言を巡らしていると、「いてて……」と背中をさすりながら月永が起き上がる。
「ああ、痛い〜、この痛みで一曲書けそう。曲名は『痛いの痛いの飛んでいけのテーマ・地獄編』…………ってあれ? セナ? どしたの、こんなとこで。奇遇〜!」
「こんなとこって……こっちの台詞。俺はねえ、放課後はここで毎日練習することにしてるの……あんたこそなんで急にこんなとこ来たの」
「ん? ああおれ、放課後は弓道部とか音楽室に混ぜて貰ってたんだけど……推薦貰ってから、みんな態度がよそよそしくなっちゃってさあ。それでなんか、ヤになって逃げてきたら、道に迷ってこんなとこまで……」
「推薦?」
「ん。【金星杯】の、1年B組代表」
それ言ったらみんなして急におれのこと遠巻きにしはじめてさ! とまだ何者でもない十五歳の男の子は、この世の全てに絶望した怪人みたいに、唇をへにゃりと曲げた。
その時俺が考えてしまったのは、宇宙の端から端まで、いったい何億光年を掛ければ光が届くのだろうか、という、どうしようもないうえに益体のない謎かけについてであった。
月永レオといういっぱしの「モブA」が、【金星杯】に抜擢された。なるほどそれは言われてみれば妥当な人選だ。金星杯というのはつまり、学園側が設定した、「何者でもない誰か」が「何者かに為る」ための登竜門。そりゃ、すこしでも有望な生徒をそこに置きたいだろう。あと、放っておいたら大成しなさそうなやつ。引きこもりで、人付き合いが下手くそで、友達がいなくて……みんなとならがんばれます! みたいなことも言わなそうなやつら……。
いや、月永レオが、入学前からコンポーザー界隈では有名人だってことは、一応調べたから知ってるんだけど。中学のうちに動画サイトで大ブレイク、ミリオン再生をいくつも抱えて、じつは既にメジャーデビューも果たしている。本物の、金の為る木。なればこそ月永に無償で曲をたかるやつらが気に食わなかったんだけど……けれどこいつも、「アイドル」という括りで見れば、無名の新人以下に過ぎなかったのだ。これまでは。だから有象無象共もお気軽に友達ヅラして集まってきていた。
でも今、こいつは、学院側から掬い上げられた。きみは才能のある子供だね、いつまでも何者でもない透明なこどもでいてはいけないよ、それは才能の安売りだ機会の損失だ、だからこちらへ上っておいで――と、腕を引かれたのだ。
俺はそのことにこのうえなく怯え、同時に、そんな感情を抱いた自分を思いきり嫌悪した。
つまり俺は、この天才きわまりない「モブA」様が、俺と同じ低みで燻っていることに内心安堵していたのか。そう思うとはらわたが煮えくりかえるようだった。
「それであんたは、出るの、【金星杯】に」
ぐつぐつと煮えたぎった臓腑を手のひらで覆い隠しながら訊ねると、月永はうんと頷いた。
「出るよ。他にやることもないし〜……ルカたんにいいとこ見せたいし。お兄ちゃんがアイドルだって、ルカたん、まだ信じてないみたいなんだよな。まあ確かにおれ、アイドルらしいこと殆どしてないし? 作曲は夢ノ咲に入る前からの生き甲斐だし〜」
「……知ってる。『お姫さまは月の棺桶で眠る』とか、『花束と火葬』とか、……割と好きだし」
相づちを返してから、「なんとかP」名義で動画サイトに投稿された曲の中でも、特に有名なやつを二つほど挙げる。この学院に入学して月永レオという存在を知ってから、俺はリリースされた彼の曲を、殆ど全て聴いていた。有象無象の為に書き散らされた音楽はどうだってよかったけど、インターネットに放流された月永の音楽は、どれもこれも美しかった。
ねえあんた、音楽性とか変えたことある? どうでもいい雑談の最中に一度そうやって訊いたら、「昔のやつは全部妹のために作った曲だよ」と言われたことがある。俺はその言葉に「そう」とだけ曖昧に頷いた。然るにこの男は、身近な――特別な誰かのために作る曲が、一番きれいなのだ。だから何者でもない誰かのための曲ってちょっとくすんでるのかな。美しいものに奉じるからきれいなわけじゃない。優れたものに捧げるからでも。ただ、大切なものに捧げる歌が、一番輝いている、それだけだ。
それなら俺は、彼に曲を作って貰えるその時は、この男の一番星でなきゃ嫌だ。
そう願うのは、やはり身の程知らずの傲慢なのだろうか……。
「えっ。……セナ、そのへんまで知ってるの? なんかちょっと、恥ずかし……」
「ちょっとぉ、……なんで急に照れるの」
「いや、だってさ、あこがれの相手から認知されてるのってむずむずするじゃん?」
「は?」
そんなふうに考えた直後だったから、月永の言葉はあんまりにも衝撃的すぎて、胃袋ごと引っ繰り返ってしまいそうだった。
「……なに?」
「んん。おれもね、セナを知ってから、調べたから。セナがモデルやってた時の写真とか……ネットで見て、とびきり綺麗だなって思って、ええと、だからさ、何が言いたいかっていうと……」
しどろもどろになっていく言葉の果てで、月永が呟く。「みけじママンから聞いたんだ、金星杯で自分の代わりに出てくれる人間を捜してるって。要はおれのパートナーをしてくれる相手を」。こわごわと、生まれてはじめてのおねだりをする子供みたいな声で。「でね、おれは思ったんだ。どうせならその相手は、特別な相手がいいなって……」。
その時、ああそっか、と分かってしまったのだ。
この子も俺と同じなんだ。
モブAとかモブBとかCとかDとかEとか全部全部関係なくて。
天才だって、カースト上位の大天才様だって、きっと誰かに必要とされたかったんだねって……思った。
家族以外の誰かに。
月永レオとして認められたかったんだ、こいつは。
「おれもさ、誰かの特別になりたいんだよ」
だからこいつは曲を作り続けた。曲を求めてくる有象無象どもにいい顔をして才能の浪費を続けていた。そうすれば相手が愛してくれるはずだと思っていて、実際、才能を切り売りすれば安っぽい感謝が返ってはくる、そのことに友愛を見出そうとしていたのだ。
なんて不健全な試みだろう。反吐が出る。
「だけどわかんないんだ、おれが曲を作ればみんな喜んでくれるけど、それが正しい特別だって、誰も肯定してくれない。嫌だ……大衆に消費される娯楽品じゃなくって、一過性の流行に巻き込まれる偶像じゃなくって、誰かひとりでいい、おれをずっと必要としてくれる人の、特別になりたい」
「……あんた、」
「だからね、ずっと、金星杯に一緒に出るやつが、そういうひとだったらいいなって思ってた。……ママは確かにおれの友達なんだけど、だけどあのひと、みんなの友達でみんなのママだからさあ。なんか、そういうのとは、ちがうんだよな。でもママは辞退するってきいて、じゃあ誰になるんだって質問したら、ママは笑った。『なら誰がいいんだ、レオさん』って」
「……」
「その時おれは、セナのことを、ずっとずっと、考えてた。おれのあこがれのセナ、絶望的に遠い場所で光る星を、そばで見ていたいなって思った。だ、だからね? セナ、できたらこれきいても、おれから遠巻きにならないで?」
月永レオが、手を伸ばす。俺の冷たい剥き出しの手に、凍えて震える指先で。月永の手のひらは荒れ放題で、爪はみんな伸び放題なのに、右手の人差し指だけ不自然に深爪になっていて……たぶん噛み千切ったんだろうなって一目で分かる。
天才肌の芸術家にありがちな不完全な肢体。この子は愛を運ぶ鳥だけど、自分が愛される方法をよく知らない。自分を保つ方法も。守ってくれる人も……あんまりいないんだろう。三毛縞だって、いみじくも月永自身が言った通り、あれはみんなのママを標榜した生き物であるからにして。
等身大の愛をくれる存在を、血の繋がった家族以外に知らないんだ。
俺と同じ生き物なんだね、あんたは。
その事実にこんなにもはっとさせられる。
「おれのパートナーになって、セナ」
特別を作るのは怖いけど、だけど特別のいない世界で生きていくことの方がもっと辛くて耐えられないって、気付いてしまったんだね。
「いいよ」
心臓がチカチカする。少しだけ覚悟をして……手のひらを握りとめて囁くと、月永レオはぱっと顔を輝かせ、お日様みたいに笑った。
その瞬間紛れもなく俺の世界の太陽は月永レオになった。この男に特別でいてほしいと望まれるならそのように振る舞ってやっていいと思った。お互いにあこがれのヴェールに包まれた姿しか知らなくて、皮の中に詰まった醜い臓腑のことなんか思いもよらないことを棚に上げて、がらでもなく運命論者になってやろうなんて、思いさえした。
「あんたがそう望むのなら、俺はあんたの特別になってあげる。『何者でもないあんた』を、『特別な月永レオ』にしてあげる。ねえ、だからさ……」
――あんたも俺の事を、『特別な瀬名泉』にしてくれるんでしょ。
耳元で囁くと、月永はほんのちょっとだけ呆気にとられたような顔をして、だけどすぐ、にやりと唇を笑みの形に歪めた。そして彼は「おまえ、きれいだけど、きれいなだけじゃないな」と嘯き、「そういうのもっと好きだ、大好き!」などと宣う。
「じゃあ、決まり! さあ特別になろう、何者かになろう! 未だ何者でもないおれたちでっ♪ 決めたらファンファーレ、全力疾走、全身全霊で! あぁっ、うまく言葉が尽くせない、おれはやっぱり詩人向きじゃないなあ? こんなに嬉しいのに、こんなに素敵なのに、陳腐で普遍的な言葉しか出て来ない……!」
「いいじゃん、別にそれで。月永は作曲家でアイドルなんでしょ、別に詩が書けないからって死んじゃったりはしないよ」
「うんうんっ、そうだな、そうなんだけど。――って、ああ! パートナーになるにあたって、セナに一個だけ、おれからお願い!」
「なに?」
「おれのこと名前で呼んで?」
なんでもいいよ、と月永が無邪気に笑ったので、その日から俺はあいつを「れおくん」と呼ぶようになった。
◇◆◇◆◇
「俺たちさあ、友達になるのが遅すぎたよねえ」
それから二年。
夜、人気のない校内。あのくまくんでさえ帰ったあとの、灯りの少ないスタジオ。
マットレスへ転がった俺の身体の上に、れおくんが乗っかっている。乗っかっているっていってもなんかそういういやらしいことではなく……俺たちはただ純粋に純然に、じゃれついているだけだ。だってここは聖域だしね。やらしいことは禁止。
「よく考えたら友達を飛ばしてひとっ飛びでパートナーっておかしくない? もうそれはなんかさ、ビジネスの関係じゃん。求めているものと手段がまるでちぐはぐ……」
「それ言ったらセナも同罪じゃん」
「ぐ……ま、まあ、そうだけど……」
言葉を交わすまでもなく分かりきっていることとして、あの頃俺たちは愛情の手段をはかり間違えていて交友の段取りを履き違えていた。何故って俺たちには友達がいなかったので。それはもう、生娘がふたり向き合って「手を繋いでいたら赤ちゃんが出来ちゃうのかな」なんて恥じらって俯き合うぐらい滑稽な調子だったわけだ。
だけど仕方ないじゃん、友達の作り方なんて教科書に載ってないし。つい最近、やっとのことで「友達ってこういうことかあ」ってお互いに納得出来ただけでも上出来だ。
「友達になったと思ったらもう卒業かあ……」
俺の胸に顔を埋め、れおくんが呟く。二月も半ば、ショコラフェスも終わって、卒業までのカウントダウンは秒読み。卒業式の日取りも決まっていて、卒業生代表挨拶の台本はもう出来てるんだよと天祥院が笑ってて、在校生代表挨拶も決まってて。なんなら、卒業後の予定もビッシリとスケジュールに書き込んである。ソロの仕事も複数人の仕事も。ギチギチのスケジュールは、世界中のお姫さまが俺たちを待ちわびている証拠だ。
「ねえ、れおくん」
「ん」
「俺たち、ちゃんと何者かになれたのかなあ?」
れおくんの俺より少しだけ小さな身体を、腕いっぱいに抱きしめた。一日じゅうこの格好で過ごしたあとだからか、れおくんの身体からは、冬服に染み付いたクロゼットの匂いに混じって、汗の匂いがする。ベッドの上で何度か嗅いだ匂い。
……ああ、ほら、こういうところだ。何気なく思案して、すぐさまかあっとして、溜め息を吐いた。こういう細々したところで段階飛び越えちゃってるんだよねえ。なんでだかもう知らないけど……。
そう独りごちると、れおくんが子猫みたいに笑う。
「友達になる前にキスして、壊れて、旅に出てすれ違って? まあ確かに、すっごい遠回りだったけど。でもいいじゃん、それでセナは何者でもないおれのセナになったし、おれはおまえだけの王さまになったよ。Knightsはいつの間にか家族になって、おれたちの帰る場所になって……。おれたちはもう誰からも、『何者でもない』なんて言われない。ちゃんとなったよ、『何か』にさ」
抱きしめた身体をきつく寄せて、こっそり匂いを嗅ぐ。れおくんの体臭からはお日さまの香りがする。あこがれのヴェールが全部はげて、醜い剥き出しの臓物を分け合った今でも、やっぱりれおくんは俺にとっての太陽でそれに変わりはない。
「セナもずっとおれの一番星だぞ〜☆」
いい匂いがする〜なんていいながら、れおくんもそんなことを言う。そして歌う。きらきらひかる、おそらのほしよ、みんなのうたが、とどくといいな……。
耳朶をくすぐる歌声が鳴り止むと、あの大好きな声を、今度は耳元に流しこまれる。
「俺の歌は今も届いてる?」
「耳元で鳴り響いてる、ずっと」
「ならそれが全部の答えだな!」
こたつの上に投げ出された旧式のiPod nanoも、れおくんと出会ってからの日々も。灰色に割れたはずの青春は斯くも色鮮やかに俺の胸へ返ってきて、次の未来へ引っ張る一助となり、俺たちが何者かになった世界へ繋がっている。
「ねえ、もうじき、返礼祭でしょ」
呟くと「楽しみだな〜」なんて脳天気な声。俺たちも出るんだよ、バカ。そりゃ、主体はかさくんたちになるけどさ……。有終の美を飾る場所で、格好悪いとこ見せられないでしょ。だから今日だってこの時間までスタジオに残ってたのに。
「ああ、そういやそうだったっけ……。でもなんかさ、おれたち二人でこうやって……あんまし殺伐としてないライブの練習してると、金星杯とかの頃思い出して昔懐かしくなっちゃうんだよな。あの頃セナさ〜、おれのこと、名字で呼んでたよな! あははっ」
「ちょっとぉ、そんな古い話持ち出さなくたって……もう。だってしょうがないじゃん、あんたと俺とを比べたらどうしてもね、劣等感みたいなのがあったの、俺は凡人だから」
「今は?」
「あんたが天才だってことに変わりはないけど、それ以上に俺がいないとなにやらかすかわからないポンコツだってよく知ってるよ」
だからもう大丈夫だよ、と言ってやるとれおくんは満足そうに俺の首筋にキスをした。
――季節が三度巡って、何者でもない「モブA」と「モブ以下」が、いつか「王さま」と「騎士」になり。そして最後には見送られる「Knightsの先輩」になり。その禊ぎの儀式が済めば、「れおくん」と「セナ」に立ち戻る。俺たち人間は生まれた瞬間に名前を与えられて何者かになり、同時に、何者でもない自分を抱えて不安定に生きている。
「何者かになるっていうのは、要は愛を知るかどうかなんだなあ」
俺の腕に抱かれながら、れおくんがしみじみと言った。着衣がすこし乱れて、息がほんのり上がっている。それなのにまだ足りないとばかり、身をすり寄せてくる。
自称「愛されるより愛したい側」の男は、でも実は俺の前では、ひどく愛されたがりの甘えん坊である。まったくKnightsとかいうユニットは甘えん坊ばかりなのだ。家長も長子も次男も末子も甘えたで、困ってしまう。
「ん、大丈夫だよ、セナもおれたちに甘えていいんだから」
なんて、耳たぶを甘噛みしながら言われてもなんの説得力もない。
だけど俺たちが「何者か」になった日の言葉は未来永劫信じてたいな。あの日俺たちが同じさみしい生き物だって分かった時のように、運命論者ごっこをしてみた時のように。
それから、あの時は恥ずかしがって出来なかったことを――たとえば、「愛するから愛して」と唇の先でおねだりするようなことを、してみようかな。
アイドルは大衆に消費される娯楽品だ。
一過性の流行に巻き込まれる偶像だ。
トイレットペーパーのように呆気なく使い潰される、脆い生き物。
けれど誰かひとりでいい、ずっと必要としてくれる人さえいれば、生き長らえることが出来る。
その答えに、三年の月日を掛け俺たちはようやく辿り着いたのだ。そこまでにいっぱいすれ違ってボロボロに傷付いて、お互いに死ぬ間際まで痛めつけあってしまったけれど。血まみれの瀕死の状態になっても、それでも俺たちはもう唯一無二で『何者でもあった』から、今こうして卒業の節目を迎えようとしている。
「さよなら何者でもない誰かさんたち――」
天に指先を伸ばし、俺は小さな声で箱庭世界の終わりを歌った。
あの日この学院で蹲っていた何者でもない過去の俺たち。夢ノ咲の慰霊碑に吸い込まれていった最早顔も名前も思い出せないクラスメイト。その他ありふれた有象無象。誰にも選んで貰えなかった誰かさんたち……。
何者かになった俺たちは、きっとあんたたちの分まで、生き延びた罰を背負って未来へ進んで行くのだ。
それが愛を知ることなんだよと嘯けば、月永レオは、繋げた唇でなにがしかの即興曲を紡ぐ。
その歌が名もなき群衆たちへの鎮魂歌だと理解するのに、そう時間は要らなかった。