――仔らよ 心せよ
 汝が振るうは神の愛
 汝が力は神の愛
 やがて思い知る時が来る
 神の愛は無償ではないということを……



Demise



 暗雲が立ち込め、稲妻が天を裂く。灰色に淀んだ空気の中心にそれはあった。
 ガノン城。魔王ガノンドロフの城。
 リンクは無言で城を見上げた。黒くて棘が多く、どことなく退廃的なその建造物がある場所にはかつてハイラル城が建っていたのだ。

 ハイラル城。それは思い出の場所の名前だ。
 そこで花のような姫君と出逢い。花の咲き乱れる庭に度々忍び込んでは彼女と他愛ないお喋りをして笑いあった。
 今思えば、あの頃は本当に何も知らない子供だった。愚かしいぐらいに無知だった。けれども幸せだった。悩みらしい悩みなんかほとんどなくて。毎日楽しいことばかり考えていた気がする。
 そんな、平和だった日々の象徴である白亜の城を。眼前の黒き城は踏みにじって建っているのだった。

 六賢者の力で形作られた虹の橋――色合いも性質も酷く場違いに見えた――を渡り、城内へと踏み入る。床に敷かれたビロードは血を吸ったように赤かった。
「……来いってことか」
「そう……だと思うヨ。罠には、見えない……」
 まるで誘うかのように設けられている、中央塔への螺旋階段。ビロードの道はその奥へと続いており、ナビィの言葉通り一切合切仕掛けめいたものは見当たらなかった。
 早く来いと。そう囁くガノンの声が聞こえるかのようだった。
「なんだろうな、この感触は。――"疼く"んだ。確かにガノンと戦うのは怖いんだけれども。恐怖とは違う感情があるんだ」
「リンク……?」
「心配しなくても大丈夫。あいつに負ける気はしないしゼルダを守る自信もある。ガノンは俺が来ない内にゼルダを傷付けるようなことはしないから」
「……そう、ネ」
 長い階段を登りながら、ぽつりぽつりと会話を交わす。リンクは厳しい顔をしていた。それは彼の言葉から連想されるよりもずうっと険しい表情だった。その顔に時の神殿で見た紅が重なる。
 瞬間、紅く見えた蒼の瞳。透き通った蒼に射した紅の影。
 ナビィは紅という色があまり好きではない。特にヒトの体に関連する紅が嫌いだ。血を流す人を見るのは嫌だし、紅い瞳は何処となく尋常じゃあないものを連想させる。
 紅という色はふつうじゃない。
「……この扉の先にいるんだな、二人とも」
「うん。すごく濃い魔の気配がする。今までのどの敵とも比較にならないヨ」
「これで、終わるんだな」
「……うん……きっと、ネ」
 巨大な両開きの扉はごてごてしない程度の装飾が施されていた。だが悪趣味さは拭えない。その奥から流れ出す邪悪の気配が認識に影響を及ぼしているのかもしれない。
 
 リンクは剣でカン、カンと床を鳴らすと、ナビィのきっと、という声を待って広間の扉を勢いよく開け放った。



◇◆◇◆◇



「久しいな、小僧。七年ぶりか。あの取るに足らない餓鬼が我が宿願を阻む程の敵となるとは」
 オルガンを弾く、ガノンの手が止まる。同時に城に鳴り響いていた音楽も止まった。
「妙に饒舌だなお前。どうした? そんなに俺に殺されるのが楽しみか?」
「貴様と死合うのは確かに魅力的だが。死ぬのは俺ではなく貴様だ。本望だろう、愛する女と死ねるのなら!」
 リンクの挑発に途端、振り返ったガノンの邪気が膨れ上がった。黒ずんだ濃い紫のオーラが視認出来る程になる。ナビィは思わず後退ってしまったが、リンクは顔色一つ変えずにガノンを睨んでいた。
「……鬼神の面構えだな。互い、"ぎりぎり"ということか。少しは楽しめそうだ」
「楽しみたきゃ楽しめよ。お喋りの時間はそろそろ終わりじゃないのか」
「ふむ。それもそうだ」
 パイプオルガンの腰掛け椅子から腰を上げ、ガノンは今一度リンクに向き合う。相対する青年から感じる修羅の面構え。鬼神の眼差し。――そしてありえないレベルでのトライフォースの出力。
 そのどれもがガノンを高揚させるに足るものだった。
 殺したくてたまらない。あれは食欲をそそる最高の獲物だ。
 ガノンが鞘から一振りの大剣を抜く。
「……トライフォースは。貴様らにはすぎた玩具だ。返してもらうぞ!」
 その言葉が引金となり。
 "それ"は始まった。



◇◆◇◆◇



「リンク……」
 中空高くに浮かぶ薄桃の水晶の中でゼルダは泣きながらその名を呼んだ。
「ごめんなさいリンク」
 結晶が遮断してしまうのに加えて今は魔王と勇者の決闘のただ中。彼女の声は彼女以外に認識されることなく消えていく。
 それでも彼女は赦しを請うた。愛する人の名前を呼んで、神に祈るみたいに手を合わせて。
 本当は神に祈ってなんかいないし。憎むべきは神であったのに。
「あなたが。あなたがわたくしの為に消えなければならないなんて。どうして……!!」
 後に続くのはもう、言葉にならない嗚咽だけだった。


『――時の勇者を"清算された世界"へ』
 それが神の第一声だった。
『――彼の者を喪った世界へ』
「どういう……こと、でしょう」
『――彼の者はフロルに愛されすぎた。力には代償が必要』
 薄桃の水晶の中で微睡みに落ちていた意識を引き戻し、ゼルダは思考する。「フロルに愛されすぎた」。それは如何な意味なのか。
「神よ。それは彼をこの世界から抹消するということですか」
『――左様。力には相応の代償を。彼の者はあまりにも強大な力を得てしまった』
 従って代償もそれ相応のものを求める。それが神の言葉だった。
「何故わたくしに言うのです? 貴方がお手を下せば済む話ではありませんか」
『――女神の仔らに干渉できるのは女神の仔のみ。賢者の長よ、喪った世界を創造せよ。そこへ彼の者を送る』
「…………」
『――始まる前の世界を。それが彼の者に課せられた代償なのだから』
 それを最後に、以降神の言葉は聞こえてこなかった。


「清算された。わたくしとあなたが出会う前の世界。……そんな、モノ。どうして必要なのですか」
 フロルに愛されすぎた。
 しばらくの思考で理解に至った。それはつまるところ女神フロルの愛たる勇気のトライフォースの力を使いすぎた、ということだ。
 何故使ったのか。単純だ。ゼルダが彼に「ハイラルを救う」ことを頼んだから。彼がいなくなったゼルダを探してしまったから。
 原因はゼルダ自身なのだ。
「わたくしが罰されればよかった。いっそそうあればよかったのに!」
 けれどそれじゃあ駄目なのだ。神が望むのは力を使ったリンクの清算であって力を使うように仕向けたゼルダの清算ではないのだから。
 代金は使った者持ちだ。
 彼を喪ってしまうというのはゼルダにとって酷いかなしみだった。張り裂けてしまいそうなぐらいに。
 これからだったのだ。これから、二人で国を建て直してゆくのだと。そうだとばかり思っていたのだ。
 こんなのはあんまりだ。
「リンク……あなたもきっと……かなしむのでしょうね……」
 リンクを、彼をそんな世界に送るなんてことはしたくない。だが神の仔であるばっかりにゼルダはそれを拒否出来ないのだ。それは魂が知っていることだ。
「けれどわたくしがこの命を棄てたとき、代償に取られるのは恐らくハイラルの大地。……君主たるもの民々の命と己の望みを天秤にかけることは許されざること……拒否権はないということですか。小賢しい神様」
 最後は恨むように吐き捨てて。彼女は涙を拭った。愛する人を手にかけるよう迫られている気分だった。
 いや、"よう"ではない。実際迫られているのか。
「わたくしたちが愛し合ってしまった、それそのものが過ちだったのでしょうか? ――ううん、きっとそうではないわ。何も悪くないの。ただ不運だっただけ」
 瞑っていた目をゆっくりと開き、眼下の戦いを見やる。二人の実力は拮抗してほぼ互角だった。けれどゼルダには確信出来た。

 だから。

「リンク……。あなたを好きになったことを誇りに思うわ。わたくしがただ一人愛した人」
 彼女は決断した。



◇◆◇◆◇



「この俺が……死ぬのか……こんな、小僧の手で……」
 マスターソードがガノンドロフの胸を貫き、紅の鮮血が飛び散る。
 ガノンが倒れるとともに薄桃の水晶も消え、ゼルダは拘束から解かれた。リンクは急ぎ駆け寄ろうとしたがそれを異常な気配に阻まれる。
「ウソッ……! ガノンが……!!」
「なんだよ、アレは!!」

 魔王ガノンドロフは人の姿を捨て、咆哮していた。

 それはまさしく魔獣の名が相応しい、尋常ならざる執着の塊。
 リンクとゼルダへの、凝り固まった怨みで形作られた異形。
「なんなんだまったく! どう対処すればいい!!」
「――リンク、わたくしに光の弓矢を。わたくしが射ちますから、あなたはマスターソードでガノンを誘導してください」
 ふっと、突然後ろに現れたゼルダにリンクは振り向く。魔法によるテレポーテーションか、と理解するまでに少し時間がかかった。
「ゼルダ」
「今、ガノンに効果のある武器は退魔の力を宿すマスターソードと神から賜りし光の弓矢だけ。お願いできますね」
「ええ。勿論」
 ゼルダが口にした「神」という言葉が酷く皮肉めいているように聞こえたが、リンクにはその理由がわからなかった。
 

 聖剣で斬り付ける度、分厚い獣の皮膚に剣が食い込んでゆくのを感じる。そして皮膚の下に剣が入り込んだ。抜き出した刃に紅い血は付いていなかった。
「……そっか。もう駄目なんだな、お前」
 哀し気に、リンクは呟く。ゼルダが解放されたことによって幾分か安定したのか、今はもう修羅のような鬼神のような、そんな表情ではなかった。
 その瞳の色は箍が外れた紅が差すことのない代わりに、憂いを帯びたような――深い海の蒼。
「もう人間じゃないのか」
 言葉と共にマスターソードを深くその額に突き刺す。同時にゼルダの放った光の矢がガノンの背中を射抜いた。

「グォ……ォォォォォォ!!」
 断末魔を響かせる魔獣が撒き散らした血液は気味の悪い緑色だった。