01 真夜中の亡霊


 それは破滅の死神だったのか救いの天使だったのか。


 元聖騎士団救護小隊所属の男、サミュエル・キュリスはその時己の生に絶望していた。サミュエルは不治の病に冒されて長い。聖戦終結から五年が経った頃、そう、ちょうどあの「第二次聖騎士団選抜武道大会」に纏わる数多の怪しい噂が世界の一部でかけずり回っていた頃にサミュエルはそれを発症した。少ない資産を投じて多くの名のある医者に掛かったが、彼らは皆一様にさじを投げた。申し訳ありませんが、誠に残念なことに、これ以上は、もう……聞き飽きた言葉の羅列にサミュエルは百人目の医者に見放されたところで診療を止めた。どうせサミュエルがどうしようもない病だということは、世界中の医者達の間で知れ渡っているのだ。最後のほうは、彼を真面目に治してやりたいという希望を持って診療してくれる医者などいなかった。
 さしあたって彼が不幸だったのは、その百人の中に紙袋を被った闇医者の姿がなかったことだろう。サミュエルの罹患した病は二十世紀の終わり頃から二十一世紀初頭の機械文明最盛期に不確かながらも治療法が確立され、しかしブラックテックの封印と共に歴史から忘れ去られてしまったものだった。大抵の医者は、大昔にその病が治療法を持たれていたことさえ知るよしもなかったのだ。サミュエルの抱えた病は癌だった。身体に寄生しとりつき、緩やかに彼の身体を破滅させていくどす黒い歪を、彼はまるでギアのようだ、と自嘲するようになった。
 サミュエルにとって更に不運だったのが、不治の病であるくせそれが彼をいつまでも死後の世界へ連れて行ってはくれないことだった。緩慢に進む時限爆弾は、発症から三年経ち、彼の敬愛した若き英雄がこの世界を率いる大国の王となった時分になっても彼を生かし続けた。その頃から彼はこの絶望的な自らの生に救いを求めはじめる。
 そしてサミュエル・キュリスはいつしか、あの若く美しく、誰よりも繊細で強靱な精神を持つ、崇拝してやまなかった団長——今やイリュリア連王国第一連王の座まで上り詰めた輝かしいひと——にここではないどこかへ連れて行かれる、という夢想に取り憑かれるようになった。
 だがそれはあくまで夢想に過ぎない。末端とはいえ治癒法術を扱える才をかつては持っていた(自らの癌を癒せないことに絶望して以来、彼はその力をすっかり失ってしまっていた)サミュエルは、彼が大成して世界の王として働いているからこそそんなことが起こりうるはずがないと理解する賢さを捨てられなかった。夢想と理性が相反し、そのかたわらで、今となっては報道でしかお目にかかれなくなった憧れの彼は年を経るごとに輝きと美しさを増していく。最早サミュエルは限界だった。
 だから自ら命を絶とうとその手に刃を取ったのだ。

「だめですよ、キュリス。命は、そうして扱うべきものではありません」

 はたして、囁きは蛇の教唆だったのか。
「カイ……様…………?」
 その声にサミュエルは手にしていたナイフを取りこぼしてしまった。明かりひとつ灯っておらず、月明かりばかりが白々しく彼を照らし出す室内にそれが立っていた。サミュエルは思わず喉を鳴らした。血の気が引いていくような感触とともに、冷や汗が頬を伝うのがわかった。
「私を迎えに来てくださったのですか、天使様……」
「いいえ、ただわたしは、あなたの右手からナイフを取り上げに来たのです。いいですか、キュリス。果物ナイフは林檎の皮を剥こうと思った時に使うためのものであって、決してあなたの喉を掻ききるための道具ではありませんよ。第八支援小隊に所属していたあなたは、そのことをちゃんと知っているでしょう?」
 そしてそれは床に落ちたナイフを拾って林檎を剥き始める。美しい所作で寸分の狂いもなく、一分の無駄もなく、完璧に。食べますか、と彼が林檎を差し出した。サミュエルは林檎を拒めなかった。サミュエルの思考の隅で理性はがんがんに警鐘を鳴らしていたが、それを遙かに上回り、林檎の誘惑は甘美だった。
「苦しんでいるのですね、キュリス」
 それが鳥が歌うような愛らしい声音で述べた。昨日国営の法力放送で中継されていた第一連王の声より随分と幼く高音だった。それはまるっきり少年の囁きだった。近々齢三十を迎えるはずの彼の紡ぐ声に似つかわしいものではなかった。
 だがそれも当然だ。サミュエルの目の前に立っているそれは、サミュエルが最も鮮明に記憶しているあの彼の姿をしてそこにいたのだ。
 十六歳のカイ=キスクだ。
 聖騎士団の若き団長としてあらゆる戦地を駆け、戦場の救世主として人々を救い悪たるギアを滅ぼし、サミュエルに一度だけ笑いかけてくれたあの少年だ。
「私は死ぬのですか、カイ様」
「何故です?」
「だって、……こんな、まるで、死を前にして夢を見ているようだ」
 尋ねるとそれは微笑んだ。
 瞬きをしても消えない夢でも、死の間際に見るそれならばきっと何もおかしくないとサミュエルには思えた。サミュエルにとり死は救いの一つだった。それを幻でも彼に看取られて迎えられるのであればこんな生でも救われると信じられた。彼が剥いて手渡してくれた瑞々しい林檎、その赤い果実が持つ意味だとか隠喩だとかをサミュエルは知っていたし、十二年前の彼なら訝しんだかもしれなかったが、今の彼にはそんなことはどうでもよかった。救いが目の前にある。疲れ果てた脳が生み出した幻覚としては最上位の姿をして。
 十六歳のカイ=キスクは美しい金髪を揺らし、きっちりとした聖騎士団の制服である法衣を纏った姿で困ったように愛らしい眼を細めた。手を伸ばそうとすると、ちょうど、月明かりが彼の闇に溶けていた双眸を照らし上げる。
「いいえ、これは現実ですよ、キュリス」
 彼の双眸は熟れた林檎のような赤色をしていた。或いは生々しい臓腑のような。心臓の色。生命と破滅の赤。
「カイ様……?」
「現実です、キュリス。紛れもなくね。わたしはちゃんと今ここに存在しているし、あなたの意識もちゃんと覚醒しています。わたしはただ、あなたに伝えに来たのです。自殺を志願したあなたに、正しい命の使い方というものを教えてやらねばいけないと思って」
 サミュエルはそこで初めて恐怖を覚えた。彼の記憶しているカイ=キスクの双眸は深い海のようなエメラルドブルーだったはずだ。こんな色はしていない。この色は……まるで、これは……
「命とは」

 ——ギアの、ようではないか。

「こうして使うものですよ、サミュエル・キュリス。特に……あなたのはね」
 そしてギアの瞳をした亡霊はサミュエルに祝福を与えた。
 額に落ちた口づけはサミュエルが求め続けてきた救いの体現であり、同時に、戒めの呪いだった。サミュエルの口から迸った断末魔は歓喜の産声であった。彼の病に冒されていた肉体は不自然に脈打ち、次の瞬間にあちこちが隆起した。
 僅か数秒足らずでついさっき自殺を図ろうとしていたサミュエル・キュリスは異形の化物に変貌していた。その姿を一言で述べるならば、アラブ伝承のグールが近いのではないかと思われた。肌の色は黒褐色に変色し、歯は牙のように尖って、舌が這い出て涎を垂らしていた。背にはガーゴイル像の造詣にありがちな一対の両翼が突き出ており、しかし奇妙なことに、その形は聖書に描かれる悪魔のそれよりも天使のそれにほど近かった。
「行きなさい、キュリス。そして『わたしのために』殺人をなさい。大丈夫、きっとすぐに死ねますよ。その時、あなたはようやく欲しがっていた救いを手に入れられるんです」
 亡霊はただ微笑んでいた。ギアの如く赤い瞳は月を見上げ、そしてイリュリア城のある南南西の方角を見据えている。


◇◆◇◆◇


 失踪事件の数がいやに多い。
 バプテスマ13終結から少しが経った頃だった。ここ数ヶ月、世界中あらゆる場所で示し合わせたかのように失踪事件が頻発している。地元警察が初めのうちは自殺志願とか家出が増加しただけだろうと思って放置していたのも相まってそれは加速度的に数を増し、ついには国際警察機構が異常事態警報を発令するに至った。特に今月の被害総数はひどいものだ。世界中で、人々の間で「もしかしたら次は自分たちの住んでいる場所が標的にされるかもしれない」という恐怖が蔓延している。
 しかしこの件に関しては、既にスレイヤー卿からほぼ確実にアサシン組織の仕業ではないだろうとの返答を得ている。アサシンは確かに汚い裏家業を生業とする組織だが——それでもよほどの「弱み」でも握られぬ限り、なりふり構わないほどに「仕事を選べない」わけではない。どうもこの一連の騒ぎにはダンディズムを感じられないしね、と髭の吸血鬼は肩を竦めてパイプをふかした。それにヴェノム君もこんな美しさの欠片もないような仕事を請け負う男ではあるまいよ。なめらかに連ねられた言葉は更にこう続く。——「君もそう思うだろう、イリュリア連王国第一連王?」
「君が私の屋敷を訪ねるなど、奇特なこともあるものだと思ったがね。いや、構わん。私も下界のことは聞き知っているよ。だからこそ君を試しもせずに迎えたのだ。掛けたまえ、カイ=キスク。ふむ、しかし、君との縁も思わず長くなってきた」
「ご厚意感謝します、スレイヤー卿。あまり奥方とのお時間を戴くわけにもいきません、手短に済ませましょう」
「気にするな。シャロンも久方ぶりの客人に上機嫌だよ。それが君のような美男子となれば尚のことね。どうやら女性にとり、美しいものを愛でるという行為に関しては境と卒業がないものらしい」
「お言葉は有り難く受け取っておきます」
「君もなかなか言うようになったね。ああそうか、あの焦点たるお嬢さんと婚姻を結んだのだったか。年を取ると物忘れが出てきてね、どうもいけない」
「何を仰る」
 カイが苦笑すると、スレイヤーはカップを手に取り笑んだ。一通りの社交辞令を交わしてから、カイは予め持ち寄っていた書類をテーブルに広げる。警察機構に残っている旧知の者達などの伝手を頼りに秘密裏に調べ上げた失踪事件の膨大なファイルを、可能な限りまとめ上げたものだ。スレイヤーはほう、と息を吐いてその一枚を手に取った。
「よく調べてある。流石は人類の長にほど近き場所まで上り詰めた君だ」
「部下達の尽力あってこそです。ご存じかとは思いますが、上からの圧力が酷いもので」
「まったく厄介なことだ。真に力ある人間を疎むのはいつも人間自身だな。君ほど世界から必要とされている人間も珍しいものだが……おっと、失敬。老人の独り言だ」
 皮肉の応酬とも取れる遣り取りを交わしつつ、スレイヤーのモノクルに覆われた眼は並々ならぬスピードで書類を読み上げていく。第一の失踪事件と目される三月の《鮮血の日曜日》、初の大規模失踪事件となり大々的にメディアに報じられた四月の《フライブルグ一族蒸発》、多くの奇怪な目撃証言が寄せられた五月の《ハーメルンの笛吹きパレード》……ずらりと並んだそれらの項目を締めくくるのは、八月、つい先日起きたばかりの《グリムグリニングゴースト》。文字列を辿るスレイヤーの指先が止まったのもその場所でだった。
「失礼、これは」
「イギリスの田園地帯で起こった最新の事件です。まだ捜査途中ですので、国営放送では報道規制が掛かっており詳細は伏せられています。ですから《グリムグリニングゴースト》というのは主に警察内部で囁かれている渾名です」
「由来は、何かね?」
「……非常に不本意なのですが。多くの証人がこう述べたためです。『誰かが消える時、必ず、子供の笑い声のようなものが聞こえたから』だと。またそれは、『熱心なファン』によると、私の……『聖騎士団所属時のカイ=キスクのそれに限りなく近い』のだと」
「なるほど、なるほど」
「姿を見たという者もいます。ですが信憑性は低いですね。たまたま居合わせた際に写真撮影を試みた者もいたそうですが、現像したフィルムには誰も映ってはいなかったのだとか」
 これがその現像結果を複製したものです、と三枚ほど写真を取り出して更に並べる。何の変哲もない夜の田舎の風景写真だ。鑑識もしつこく再三調査をして「異常なし」との判を押した。だがスレイヤーはその何の変わり映えもしないはずの写真にひどく興を引かれたらしい。まじまじと三枚の写真を見比べるとモノクルの奥の瞳を面白そうに揺らめかせた。
「これはこれは、なに、観察対象としてはなかなか、退屈しなさそうだな」
「何か見えるのですか?」
「いいや、この写真には何も写ってなどいないよ。だがレンズの向こうには確かに何かがいたのだ。そう……君たちの言葉で言うならば亡霊のような何かがね。痕跡程度だが、フィルムに焼き付くのを完全に拒むことは出来なかったようだな」
「それは一体、」
「おっと待ちたまえ。私は原則として人間の問題に解決の手は貸さんよ。君もそれがわかっていて『ヒント』を得に来たのだろう? さあ、本題を見せてみたまえよ」
 見抜かれている。カイは僅かに滲んだ動揺をすぐに押し戻すと「そうですね」と平静な声音で書類と写真を引っ込めた。この老人は異種の中の貴種、現代に生き残る数少ない吸血鬼。そんな「胡散臭いことこの上ない」存在に仮にも世界の王たるカイが「信用出来る公的機関」はもとより「信頼のおける無法者」をも飛び越えて相談事を持ちかけてきた時点である程度は見抜いていたのだろう。大人しく、懐に仕舞っていた「本題」を取り出す。
 卓上にそれを差し出すと彼はおもしろおかしげに唇を釣り上げた。
「手紙かね。しかしそれにしても、この封筒の中からはなんとも熱烈な『ラブコール』を感じるよ、君。……私が見てしまっても構わないのかね?」
 ラブコールはラブコールでも、愛情表現の類では一切ないであろうことを悟りつつ軽口めいたことを言う。しかし尤も、この手紙に、思わず不老長生の彼につまらない口を滑らせてしまうほどの圧力が籠もっているのは事実だった。一言で言えばこの手紙は悪意の固まりだった。それも、どろどろとして血なまぐさい、愛憎に近い憎悪のそれだ。
「ええ。鑑識にも回してありますし、何より既に私が改めています。法術的にも物理的にも問題はありません。あるとしたら可視化も汎用化も出来ないもっと根源的な部分での呪いでしょう。生憎私も鑑識の者達も霊媒師ではありませんので、そのあたりはご容赦願いたい」
「はっはっは! 結構結構、面白いじゃあないか。では、見せていただくとしよう」
 宛名の部分を一瞥し——親しい人間しか知らぬようなカイの私書箱へ宛てられているだけで、特に一見して面白い箇所は見つからなかった——申し訳程度に押しつけ直されていた封蝋を軽くつまみ上げる。封筒の中に治められていた紙片は二枚だった。一枚は真新しい便せんで、もう一枚は、やや時間経過を感じさせる何かの切れ端のようだ。
「『親愛なる十三年後の私へ』——」
 出だしを口にしてスレイヤーが顔を顰めた。


 親愛なる十三年後の私へ。人々におだてられ、わたしを忘れ、未だ御輿に担ぎ上げられ、権力の椅子に座らされている私へ。あなたは覚えていないでしょう、わたしのことを。あなたは忘れてしまったでしょう、彼らのことを。あなたは知らないでしょう? 彼らがそれなのに、まだ、少年の偶像を追いかけていたことを! まずは思い出してみることです。そして、十二分に気を配ることだ。自分がどんなつけを払わされるのか、ということについて。
 わたしは、私を許しません。わたしは私を憎んでいるし、疎ましく思うし、大嫌いです。ですから、失踪事件が続いて世界中から人間がいなくなってしまう前にその重い腰を動かすことです。でなければもう二度と、あの男の目は、あなたを見ないかもしれないのですから。


「して、差出人は、『カイ=キスク』か。なんと大胆。豪胆極まりないな」
 一枚目を読み終えたスレイヤーの顔は、今度はあまり冗談めかしているふうでもなく笑ってもいなかった。少年の罵倒のような稚拙な脅し文句の中に潜む並々ならぬ悪意は充分に彼を驚嘆させ得るもので、軽々しく扱うには痛ましく重たすぎる。
 続くもう一枚はさらりと目を通し終え、スレイヤーは軽く首を傾げてからその可能性に思い至りまさかと呟く。二枚目の紙片はどうやら日記の一ページのようだった。それが元の本から破り取られて重ねられていたのだ。内容は他愛のないものだった。ソル=バッドガイが今日もまた必要書類を溜め込んで提出しようとしない。追いかけると逃げる。やっと捕まえると面倒そうに耳の穴に人差し指を突っ込む。堪忍袋の緒が切れてそのまま模擬戦闘にもつれ込むが、手加減されて、一層腹が立ち——大規模な作戦が敢行された日のものでも、死者が出た日のものでもない。本当に何でもないようなそれは「カイ=キスクの日記」の一部分だった。
「これを書いたのは君かね?」
「ええ、日記のほうでしたら、恥ずかしながら……そんなものを書いたような記憶があります。聖戦中期の、あの男がまだ騎士団にいた頃のものです。しかしその頃の日記は聖戦末期のごたごたで紛失してしまっていて、長年私はそれを手元には持っていませんでした」
「ふむ、ではこれは」
「その悪趣味な手紙でしたら、勿論、まったく身に覚えはありません」
「合点が行ったよ。君が私の元へ来るわけだ」
 日記の筆跡は、素人目に見てもそうだとわかるほどはっきりと手紙の筆跡と一致している。その真贋を確かめるために、カイはトランシルバニアのこの邸宅を訪れねばならなかったのだ。
 スレイヤーは手紙を元通りに折り畳むと綺麗に封を戻し、カイに返却した。あまり長時間目にしていたい手紙ではない。普通の人間であれば込められた悪意にあてられて倒れるものがいてもおかしくないような怪文書だ。よくよく見ればカイの顔色もいつもより優れないような気がした。なんとおぞましい手紙だ。
「誰かが筆跡を真似たにしては気味が悪いほどによく似通っている。正直な所、私の目を持ってしても同一人物の筆跡だとしか思えんよ」
「卿でさえ、ですか。……では、やはりこれは……」
「うむ、九十九パーセント『カイ=キスク』と同一存在の記した文章だ。どんなからくりを使ったのかは知らんがね」
 カイの顔つきが厳しさを増す。覚えのない自身の筆跡で記された奇妙な手紙、無くしていた日記。ねずみ算式に全世界で増加している失踪者。為政者として、また正義を重んじる者として、そして何より一人のカイ=キスクという個人として、事は最早無視出来ぬ段階まで来ている。最愛の妻は封印が未だ解けず、封雷剣も無い状態だが、なりふりを構っている余裕はない。
「これから君はどうするかね?」
「ソルと合流します」
 スレイヤーの問いには間髪入れず答えが出た。幸い、ソルは数日前に無事神器「閃牙」の回収を終えて一息ついたところのはずだ。手を回せばイリュリアへ呼び出すこともそう難しくはない。
「それがよかろう。今の君に出来る最善の一手かもしれん。これは恐らく組織だった統制の取れた力が最も無力さを露呈する相手だ。幸運を祈るよ」
 外まで送ろう、とスレイヤーも腰を上げる。カイのカップの中にはまだ半分以上紅茶が残っていたが、彼もこの時ばかりは、敢えてそのことについては問おうとはしなかった。


◇◆◇◆◇

「いいの、あなた」
「なんのことかな、シャロン」
「あの随分と髪の伸びた彼のこと。気付いてて、教えなかったことがいくつかあるんでしょう」
 カイを送り届けて屋敷へ戻ってきたところで、妻に声を掛けられてスレイヤーは立ち止まった。シャロンがスレイヤー以外の存在をここまで気に掛けるのは珍しい。だがそれも、うつくしいものが見るも無惨な姿へ変わり果ててしまうことへのちょっとした危機感だと思えば十二分に理解の範疇にあることだった。今そこにある美を不本意に損なわせたくないのはどんな生き物でも同じだ。
「彼が相手にするもの、ただの人間ではないんでしょう?」
「そのことには彼とて気がついているよ。ただそれが、ヴァレンタインやギアのようなものではなく、我々異種に近しい、というだけだ」
「《グリムグリニングゴースト》……けたたましく笑う亡霊……」
「然り。私の見立てでは、あー、あれは《スプライト》だな」
 例えるならばだがね、と付け加えてスレイヤーはパイプを口に含んだ。
 スプライト——欧州で言う「妖精」の最もポピュラーな名。その役割には英米の「フェアリー」に近いものを含みつつ、語源に「霊魂」や「亡霊」を持つ。あの手紙の主はまさしく「カイ=キスクの亡霊」。ただそれが文字通りのただの亡霊であるならば、カイ=キスクという男は決して手こずったりはしない。
 そうではないから問題として浮かび上がってきたのだ。
 だがそれはスレイヤーを動かす理由にはなり得ない。
「君の憂いはわからんでもないが、しかし物事に向き合うべきは私ではなく彼だよ、シャロン。私はこの問題に関しては最初から最後まで、徹頭徹尾、蚊帳の外だ。無論介入の余地もない。助力という形での出番もここまでだろう。だからこそ、我々は見届けておこうではないか。高見からの——見物と洒落込もう」
「いつもは人間に肩入れしすぎるのに、今度は随分淡白なのね」
「なあに、そのほうが愉快だからだよ。私は人間のことは好きだが、彼らの庇護者ではない。そして人間というのはまた、至極強かな生き物だ。今のところは、引き際を見誤る必要もあるまいよ。さて……」
 遠く彼方を見据えてスレイヤーはモノクルを曇らせる。世界を俯瞰し傍観する人間観察という趣味においてこれはまたとない好機だ。シャロンを侍らせ、彼は彼女の首筋に牙を突き立てた。愛妻の血という甘美に加えて類い希なる物語をこれから観賞するという高揚が一体となり、スレイヤーをわきたたせる。
「出来るだけ面白い筋書きを頼むよ、君。王たる重責を知った君が、純粋な理想論者としての君とどんな『人間くさい』物語を描くのか。形こそ大仰なれど、それこそが人生の醍醐味だ。興味が尽きんよ」
 選択の時が彼に近付いて来ている。久方ぶりに顔を合わせたカイの「伸びすぎた」髪、年を経るごとに失われるどころか増していくほどの瑞々しい美しさ。彼の身に起こっている「何か」を思い、スレイヤーは届くはずのない言葉を手向けた。