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 本当に粗末な墓だった。ともするとみすぼらしくもある。手入れがされず荒れ放題の庭には雑草がはびこり、屋敷の壁には蔦や苔が好き放題這って思う様に繁殖をしていた。その庭の片隅に件の墓がある。奇妙な形をした双子石の、名前のない墓標。その墓に姿のない偶像として収められている概念の名前を唯一知る者として少年はそこに立っていた。
 墓前には相変わらず青い花がこんもりと供えられている。花は種類ごとに段階的な状態の差を見せていた。まるで一日に一つずつ別々の青い花を供え分けられているみたいだ。ガーベラ、リンドウ、パンジー、カンパニュラ。モスフロックス、ムーレアナ。
 そしてブルーファイアー。
 ブルーファイアーの花だけは、他の花々とは別枠で供えてあるらしく、それ一つでこんもりとした山が出来ていた。見た目の悪くなったものの上に新たな花が積み重なり、異様な空気を醸し出している。ミハエルがおぞましく思うのも無理はない。花言葉云々を抜きにしたところで、この花の供え方は、執着の仕方は、あからさまに常軌を逸している。
(……なんだこれ)
 手の中に抱えた向日葵の花束を地に降ろして青花の山に手を突っ込む。湿った感触。一番下の方の花は、どうやら腐り落ちてしまっているようだ。
(忘れられないんだ、あいつ)
 ぐしょりという感触に眉をしかめて手を抜き出す。断ち切れない未練と慕情は、彼が「真月零」という偶像を喪った時に覚えたものと何となく似ていると思った。捨てたくても捨てられないのだ。そういうふうに出来ている。
(でも、仕方ないんだ)
 九十九遊馬は天を仰いだ。


 ミハエルに話を聞いてから、実際に墓を訪れたのはあれから五日経ってのことだった。決心がつかなかったというよりは、拒まれるのではないかという懸念を捨てきれなかった。この墓は「トーマス・アークライト」の聖域なのだ。触れてはいけないものなのではないか? そうすることで、トーマスを傷つけてしまうのではないか。
 でも五日たってそうじゃない、というふうに結論付けた。彼はミハエル——神代との関わりがあった弟が墓に行ったことを叱らなかった。この墓は聖域でありながら、開かれた拠り所だった。一人で独占するのでは、どうしても形が薄れてしまうのだろう、と思った。
 墓でその死を悼む人間が多ければ多いほど、その中に埋葬された誰かの影は鮮烈に濃いものになる。死が確たる形になって焼きつく。
(アストラルの墓みたいに……)
 そうやって人は死んでいないものさえ死んだことに出来るのだ。
 遊馬は誰もいない土の上に刺さった墓石にそっと手を触れた。そこには昇華された概念として、「かつてこの世界に存在していた神代凌牙と神代璃緒」が眠っている。確かに、世界中からいなかったことにされて、親しかった人々からも記憶が消え去った時点でありふれた人間としての二人は死んでしまったのだろう。真月零がいなくなってしまったのと同じ。真月がベクターであったように凌牙と璃緒はナッシュとメラグだった。だから人間としての自分を消してしまったのだ。
 でも真月はまだ死んでいないし、同じように凌牙と璃緒も死んでなぞいないはずだ。真月の生はいみじくもベクター自身が肯定した。「もう、真月とは呼んでくれないのか、遊馬くん」。ベクターの声は嘘を吐いていなかった。
「どうすればいいんだろうな、俺。わかんないんだ。俺だけで二人のこと抱えてるんだ。シャークと妹シャークが俺の先輩で、中学二年生で、昔この家に住んでたってこと、俺しか知らない。なあ、どうして二人は人間の自分を消そうとしたんだ。忘れられたかったのか? それとも、そうしなきゃいけないって、決まりでもあるのか?」
 墓石は何も答えない。冷たいままで、何の変化も見せない。この中には何もない。だから返事もない。知っていたけれど、誰もいないからこそ、吐露したくてたまらなくなった。
「俺にはわかんねえよ、シャーク。……俺が間違ってる時に怒ってくれたの、シャークじゃんか。俺、子供だからさ。誰かが叱ってくれなきゃ。何が正しくて何が間違ってるとか、一人じゃ難しすぎる。もうアストラルもいないのに」
 泣き言がぼろぼろと零れ落ちていく。しかし遊馬の目には涙なんかこれっぽっちも浮かんでいなくて、薄情なこどもみたいだった。泣けないし、泣いてはいけないと思った。そうすると、神代兄妹の死を肯定してしまうみたいだったから。
「カイトからも記憶を奪って、シャークまでいなくなっちまったら誰が俺のこと、わかってくれるんだ?」
「——お前自身しか、いねえだろ。そんなの。自分を理解してやれるのはいつだって自分一人だ」
 不意に遊馬の後ろから声が響く。はっとして振り返った。一人の青年が、いつの間にか、そこに立っている。
「……あ、」
「お前も来てたんだな。陰気な場所だろ、ここ。陰湿な空気の中に更に淀んだ石の塊が鎮座してる。大方ミハエルに聞いたんだろ? ミハエル、なんか言ってなかったか。この場所は気味が悪いって」
「?……」
「フォー? なんだよ、急に。確かに俺は好きだけどな、その数字。父さんも俺も誕生日に四が入ってるからさ」
 そうして、トーマスが笑った。遊馬の後ろで、苦し紛れにそうするように微笑み、そして新しい花を手向けた。ネモフィラの花とブルーファイアー。
 また、青い花々だ。


「ミハエル、文句言ってたろ。もうここに来させないで欲しいとかなんとか……花の趣味も不吉だとか。あいつ細かいんだよな。男なのに女みてえに……」
「ミハエルは兄ちゃんが好きなんだよ。だから心配なんだ。ちょっとぐらいは、弟の意見、聞いてやった方がいいと思うぜ」
「それは同じ弟としての立場からの意見か?」
「姉ちゃんは俺の意見聞くか聞かないか気分で決めるタイプだから言ってもあんま関係ない。だからこれは、ミハエルの友達としての意見」
「そうか。友達か」
 何故かトーマスの右手のひらが遊馬の頭をくしゃくしゃと撫でる。骨ばって固い指先。昔触れた凌牙の指はもっと子供っぽかった。ミハエルの指は柔らかい。トーマスは年上の兄貴なんだ、とぼんやり思った。
「そこの墓のやつさ、」
「うん」
「名前も顔も知らないんだけど。友達だった気がする」
「そっか」
「俺の一方通行だったかもしれねえけど。友達……ひょっとしたらもっと、大切な誰かだったんだろうって漠然と感じる。きっと失っていいものじゃなかったし、名前も顔もわからないなんて言ったら、あいつ、めちゃめちゃ怒るぜ。はあ? ふざけんなよ、ってさ。俺の友達なんだから、口は悪ぃんだろうなぁ。カイトがお坊ちゃん然とした奴なのはクリスの兄貴が優雅な野郎だからだろうし、ミハエルとお前が子供っぽいのもそうだ。類友って、やつなんだ。多分な」
 知らないけどな。そうぼやくトーマスの目はまっすぐに墓石を眺めていて、遊馬の方には見向きもしていなかった。独り言の相手をしている気分に似ていた。トーマスの言葉の体裁は遊馬に向けて聞かせているふうだったが、恐らく内実は墓に向けてぼそぼそと独り言を言っているのにすぎなかった。
 ネモフィラの花の下でゆるゆると腐り落ちていくカンパニュラやリンドウに目を向ける。それに触れるトーマスの指先を浸食するように青いしみの幻が見える。こんなことを続けていたら、やがてトーマスの方が棺桶いっぱいの青い花に死化粧を施されて死んでしまうのではないかという薄暗さがそこにはあった。
 青色をしたいばらの蔦だ。根元からじわじわと這い上がり、侵していく。
「トーマス、なんで青い花ばっか供えるんだ?」
 聞くと、トーマスは首を傾げて唸り出した。
「あー、それな。俺にもわかんねえ。ミハエルにも言われたが……理由は特にない。ただ花屋に寄った時にそれが綺麗だと思うんだ。この墓に一番いいのが青い花だと、花を選んでいるといつも最後にそう思う。それだけだな。それ以上の考えとかは、ないぜ」
「ブルーファイアーだけ毎日買うのは、なんでなんだ。ミハエルが一番嫌がってたのがその花だった」
「店員に勧められるんだ」
 ぽつりと言った。嘘だな、とすぐわかった。
「そうしてやらないといけないんだ」
「……花言葉、知ってんのか?」
「知らねえ」
 半ば糾弾するような声音で問うとそんな歯切れの悪い返答が返ってくる。知らないことをまずいと思っているようなそんな風体だ。
 遊馬は右手を心臓の位置に添え、消え入るような声でその言葉を告げた。
「……『命を捧げます』、って言うんだって」
 それを聞くなりトーマスは黙り込んでしまった。
 言ってからしまったと思ったが、もう遅い。このことも神代兄妹の存在そのもののように言うべきではなかったのだ。俯き、息ひとつ漏らさぬように見えるトーマスを横目で見て冷や汗を感じる。胸元に十字架が見えた。きっと服の下に提げてあったのだ。小さいが重たそうなロザリオを手に持ち、彼はこうべを垂れ続けた。
 神に祈る仔羊のようだと思った。でもきっと遊馬の知る神様になんか祈ってはいないのだろう。仏様、なんだか難しい横文字の神様、それから、本来十字架を捧げられる対象である神の子。なんとなく、そのどれもトーマスは信じてなぞいないのだろうという予感がある。
 彼が祈る先は、きっと命を捧げてもいいと誓った相手だけだ。
(だから……)
 神代凌牙と神代璃緒が許さない限りトーマス・アークライトはきっと救われない。
「おい、遊馬」
「お、おう。なんだ……?」
「お前、この墓が誰の墓だか、知ってるのか?」
「……いや。知らない」
「そうか」
 我ながら白々しい嘘だと思ったが、トーマスの方にはもうそれ以上追及する心づもりはないらしい。彼は顔を上げると十字架をまた服の内側に仕舞い込み、軽く土を払って立ち上がった。トーマスの服装が遊馬にとって見慣れたあの三兄弟揃いの色違いの衣装ではなく、高級そうだがありふれたデザインの黒のスラックスに白いシャツだということにその時初めて気が付いた。そうだ。神代凌牙が歴史から消え去ったから三兄弟が復讐に囚われる歴史も捻じ曲がり、トーマスはあの服を仕事でしか着なくなった。
 胸元のネッカチーフだけがわずかに面影を残していた。だけど元々の世界でネッカチーフを付けていたのは、トーマスではなくミハエルとトロンだけだった。
 ずれている。何もかもが、おかしな方向へ、ずるずると。
「なら、それでいい。場所を移さねえか。ここじゃ話がしづらい」
「わかった。任せる」
 トーマスの言葉に遊馬は一も二もなく頷いた。何を話すのかは全く考えていなかったし、想像出来なかったが、付いていくのが一番いいだろうとそう思った。
 前を歩くトーマスの後姿は、遊馬が知らない男のそれだった。ファンサービスをモットーとし冷酷で残虐なデュエルを繰り広げた、遊馬の記憶にある極東チャンピオン?の姿とは、どこか趣を異にしており、酷く寂しい面影を背負っている。


◇◆◇◆◇


「あんまきょろきょろするなよ。値段は気にするな、その程度を中学生のガキに奢れないほど甲斐性がないわけじゃない」
「わ、わかった」
「そうか、ならいい。ははっ、子供だなぁ、お前は……」
 高級そうな喫茶店に連れ込まれ、貧乏人丸出しで落ち着かない様子を見せていた遊馬をたしなめるとトーマスは肘を付いて笑った。年の離れた弟にするような顔だった。凌牙とトーマスとの、あのクラゲ先輩とのタッグデュエルで垣間見えた友人とも兄弟ともとれるような微妙な関係性を思い出す。あの時、ミハエルは遊馬の横で「仲がいいんだか悪いんだか……」と言っていたが、遊馬にはその「仲がいいのか悪いのかわからないような関係性」が、兄弟のボーダー・ラインに似ているような気がしたのだ。
「ガキはあんま好きじゃねえが、お前みたいな素直なガキは手がかからないからその分まあマシだな」
「子供、嫌いなのか」
「面倒だ。ミハエルは、俺がガキじゃなくなった頃には背伸びをする子になってしまっていたから。あいつは、あんまり俺の前で子供でいてくれなかった」
「きっと同じこと、クリスも思ってるに違いないぜ。俺の逆だなぁ。姉ちゃん、ほとんど毎日俺に『あんたはいつまで経っても子供ね』って言うんだ」
 羨ましい、と口をとがらせるとトーマスは不思議そうな顔でいいじゃねえか、何を羨むことがあるんだ? と口にする。メニューを開いて数箇所を指先でつつきながら適当にオーダーを決めたらしい彼は、開いたままメニューを遊馬に寄越して、一言、「ぜいたくだな」と言った。呆れているとかそういうのではなくて、単純に、どちらかというと感心しているふうでもあった。
「俺もガキのままでバカばっかやってられたら、良かったのかね……」
「……なんだよ。あんま、らしくねえな。そういうこと言うの」
「たまには俺だって感傷的な気分にもなるさ。俺は人形じゃない」
「ああ……」
「俺達兄弟は、本当はもう少しぐらい子供のままで良かったんだ。クリスの野郎が生き急ぐから、俺やミハエルまでそれに引っ張られて……なんで、あいつ、あんなに急いでたんだろうな……? 上手く思い出せねえ……」
 思い出せない、と眉根を寄せて難しい顔で言いながら、しかしウェイターを呼ぶと彼の表情は一変して外ゆきの綺麗な作り笑顔に一瞬で切り替わる。一片の曇りもない笑顔でにこやかに注文を告げ、落ち着いた声音で応える様は、確かに子供とはかけ離れていた。実際には彼はまだ十七歳の青年で、日本人に直したら高校生にすぎなくて、子供の範疇にあるのだということをミハエルに教えられていたからなんだか奇妙な光景に見えた。
「それでだ」
 ウェイターが戻っていったことを確かめてトーマスが声をひそめる。
「墓の話だが。何か、思うところがあるんだろう? なんだよあの思い詰めたツラは。来て早々あんな顔をした奴が、それもあの九十九遊馬がそんな顔をして座り込んでるもんだからかなりビビらされたぜ、俺は。気になって仕方ねえ。話せよ」
「……そんな、人に言うことでもないぜ」
「何のために奢ってやってると思ってるんだ。言えるところまででいいから吐いておけ。ミハエルにもよく言うがな、そういうのは一人で胸の内に抱えておくのが一番よくねえんだ」
 兄貴ぶった言葉だった。明里が遊馬にそうするような、普通の兄姉の言葉。ミハエルがトーマスの話をする時の目を思い出す。きっと彼は身内と認めた相手にはいい兄貴分なのだろう。凌牙との間に兄弟の近さを感じた理由はそのあたりにあるのだろうと遅まきに悟った。
 オーダーを取ったウェイターが注文したドリンクを持ってテーブルに戻ってくる。遊馬にはアイスロイヤルミルクティー、トーマス自身にはなんだかぱっと見ではよくわからない赤いドリンク。透き通った赤色は、反射の具合で血の色にも紫がかった果物の色にも、夕焼けの色にも見える。
 遊馬はふとベクターが胸元に提げていたペンダントを思い出した。胸元の赤い石は、彼にとって何らかの意味を含んだ装飾品だった、ということをだ。
「なんだそれ」
 訊ねるとトーマスが素っ気なく答える。
「柘榴。ただのジュースだよ。昼日中からワインを飲むほど俺もやさぐれてない。この国じゃ、飲酒可能な年齢に達してねえし」
「あー、あの美容と健康に今大人気ってやつ」
「女にな。そりゃ半ばアイドル職みてえなもんだから常日頃から体調管理にはミハエルが気を遣ってるが、飲んでるのは単に俺個人の趣味だ。美肌目指してどうするって感じだしな」
「……そうだな。俺も、なんとなくわかった」
「?」
「独り言」
 トーマスの訝しげな顔を流して目を瞑る。わかっている。柘榴は璃緒とトーマスの目の色だ。遊馬の鮮血の紅よりピンクがかって、密かに、綺麗だと思っていた色だった。
 この石榴ジュースも、青い花と同じ。神代璃緒の象徴だ。トーマス・アークライトはこうして彼の生活のあちこちを消えてしまった幽霊に蝕まれている。
 磔の聖人みたいだった。どちらにも自覚のない自縄自縛である分、救い難くてもっとたちが悪い。
「お墓、っていうかさ。最近、大切な友達が……仲間が、どっかに行っていなくなっちゃったんだ。急に帰ってこなくなった。挨拶も何もなしで、でも、その原因の少しは俺にあるから、どうしていいかわかんなくて。あの墓に供えられた青い花を見たらどうしてもそいつのこと、思い出しちゃうんだよな。色々あったけど……何も言わないでさよならするような奴じゃ、ないと思ってたんだけどな……」
「随分と薄情な奴だな」
「ん。やむにやまれぬ事情ってやつがあったんだろうって思うけど、俺はやっぱ納得できてないし。——だけどきっと、仕方ないんだよ。仕方ない。どうしようもない。そうするのが一番良かったんだ……」
「そうか?」
「そう思わないと、無理」
 ストローで赤い水を啜っているトーマスがきょとんとした顔になる。それから彼はすっと右手を遊馬の方に差し出し、額に当てると何を思ったのかばっちん、と親指と人差し指を思い切りそこで弾いた。デコピンの衝撃で遊馬は体ごと後ろにのけぞりそうになる。「いきなり何すんだよ!」とむきになって涙目で抗議するとトーマスは人を小馬鹿にするあの表情で、しかしその中に慮りと嘆息を含ませては、はン、と遊馬のことを笑った。
「ばーか。ガキがいっちょ前に背伸びしてんじゃねーよ。要領のいい、汚い大人みたいな顔してんじゃねえっての。自分を騙して納得したつもり、なんつう器用な真似、しなくたっていいんだ。子供なんだから。ガキはガキらしく甘ったれた理想でも垂れ流しとけよ。そういう、小賢しい真似をするのは俺一人で十分だぜ。二人も三人も要らないだろ」
「あ、甘ったれた理想って……」
「あ? お前アレだろ? 誰も傷つけたくない、みんなで楽しくやりたい、一人も不幸にしたくない。そういう反吐が出るような理想論を平気で吐けるような偽善博愛主義者だろ。少なくとも俺の知ってるお前はそうだった。何がお前をそう変えたのかは知らないが……知ったところでろくなことじゃないだろうしな……妙な心変わりをしたところで甘ったれの気質を棄てられないのなら、捻くれた成長なんてしない方がマシだ。退化と何も変わらない」
「それ、経験則か何かか?」
「悪いかよ。そんなことばっか続けてると今に俺みたいになるぜ。ま、お前には絶望的に高貴さとデュエルタクティクスが足りてねえけど」
「お、俺だってちょっとずつ強くなってるし!」
「知ってるよ」
 遊馬がむきになって反論すると子犬にそうするように、トーマスは遊馬の頭を撫でた。凌牙が、ふとした瞬間に遊馬を愛おしんで眺め、頭を撫でる仕草にそれはよく似ていた。幻がかぶりそうなぐらいに。
 はっとする。トーマスの横顔に、神代凌牙のそれが重なって、頭が変になりそうだ。
 元々、そうだったのだろうか? 二人は並外れて弟・妹への愛情が強く、デュエルに秀で、そして、口が悪かった。だけど本当にそれだけなのだろうか。そうじゃない気がする。世界から神代凌牙が消えて、それからもっと、「近く」なってしまったみたいな。
 いつかベクターが遊馬に執着を見せ始めたように、トーマスの行く当てのない執着がそういう形に姿を変えているのだとしたら。
「なあ、トーマスはさ、最近夢って見るか?」
 恐る恐るそう切り出した。唐突に振られた話題にトーマスはほんの少しだけきょとんとした間抜け顔をして、なんだそれ、というふうに眉をひそめた。「夢。夜寝てる時に見るやつ」と繰り返すと「そんなことはわかってる」とむっすり返される。
「夢? それが、どうかしたのか」
「そう。俺はもうずっとたまにしか見ない。怖い夢で、たいてい跳ね起きちゃうんだけど……昔、一時期だけよく夢を見る時期があったんだ。アストラルが来る直前で、俺はいつもその夢で変な扉に選択を迫られてた。大分経ってから、夢は時として現実の予兆や願望の表れを示すのだ——って、カイトが俺に教えてくれた。だから、トーマスももしかしたらそういうの、ないのかなって……」
「……見ねえな。ちっともだ。元々滅多に見る性質じゃあないが、ここしばらくは輪をかけてさっぱりこれっぽっちも覚えがない。だが、まあ、目覚めた時に妙な倦怠感が残る日があるっちゃある。だから見てるのかもしれないが、目が覚めた時には全部忘れちまってる。多分そうなんだろう」
「夢、忘れちゃうのか……」
「ああ。そんなに落胆するほどのことか? それにさして珍しいことでもない。人間の大半は、寝ている間に見る夢のことなんかはそんなに事細かには覚えていられず、多少記憶に残っていたとしたってふわふわ浮ついて風化していっちまう。そんなもんだ。だから、あれは『夢』と呼ばれる」
 学者の高説のような論調でトーマスが言う。いかにもな学者肌のクリストファーと違って粗暴で強引な節もあるトーマスがその言葉を紡ぐのは変な感じだった。
「まあ、父さんの受け売りだけどな。夢なんか、見なくったって別に生きていける」
「そう言われると、確かにそうなんだけどな。夢は夢で、面白いと俺は思うよ」
「悪いが俺はリアリストでな。そういうロマンチストは、クリスとミハエルだけで十分だ」
「悪かったな。どーせ俺とカイトはロマンチストだよ」
「……なんでそこでカイトの名前が出てくるんだ?」
「え、だって、俺とミハエル、カイトとクリストファー、それから……あ」
「それから?」
 そこで失言に気が付いて口を噤むとトーマスは容赦のない催促の姿勢で遊馬の下顎をつついた。くすぐったくて変な顔をすると、意地の悪い声で「ほお。随分と余裕そうじゃねえか、なあ、遊馬?」そのまま何故かくすぐられてしまった。でも本気じゃないんだということもすぐに伝わってきた。結局のところ、トーマスは一度「知らない」と断った遊馬からあの墓に纏わる情報を引き出せるとは全然思っていないし、半ば、諦めているのだった。
「それから……トーマスが。もし夢を見るのだとしたら、きっとその中で会ってるだろう、やつだよ。俺には、それしか言えない。ごめん」
「それで『夢を見ないか』、か。謝んなくていいぜ。特に意味もなくくすぐり攻撃仕掛けちまったし。ミハエルがすげー嫌がるんだ、それ。どうせお前も同じだろ? クリスの野郎は無反応でつまんねーんだけどな。不感症なんじゃないか、あいつ」
「し、知らねえよぉ……」
 不感症、という言葉に顔を赤らめるとトーマスは意外そうな顔になって「お前、意味知ってんのか?」とまじまじと遊馬を見つめてきた。別に知りたくなかったけど、あのはた迷惑でどうしても憎めないオレンジ色の少年に教えられたのだ、とは流石に答えられず目をそらす。
 その様子にそこまで追求する気にもなれなかったらしいトーマスはだらしなく頬杖をついたままの恰好で一息吐くと、視線を元に戻した。
「まあ、どうでもいいな、そんなことは。飲むものもお互いないみたいだし、ぼちぼち頃合いだろう。帰るか。道は大丈夫か」
「そんなに子供扱いすんなよ。別に一人で帰れる。いっつもミハエルにそんなふうに過保護なのか? あんまりしつこいといつか反抗期とかが来て、そのうち『トーマス兄様は部屋に入ってこないでください!』とか、言われちゃうかもしれないぜ」
「ご忠告痛み入る。だが、ミハエルは絶対にそんなことは俺には言わないな。クリスにも、言わないだろうが。あいつは甘えん坊なんだ。甘やかされてしまったから、一人に慣れていない。……ああ、そうだったな……」
「?」
「近頃墓にかまかけてあいつのことがおざなりだったかもしれない。それで不機嫌だったのかもな」


 そう独り言を言う彼は、どこか遠くを見る目をしていた。


 一人で納得してしまったトーマスにそれ以上の言葉をかけるのは躊躇われて、遊馬はそれから彼に話を振ることが出来なかった。断ったものの最終的にトーマスは遊馬を最寄駅まで案内してくれて、店からの道中で三度ほど今自分がどこにいるのかわからなくなってしまった遊馬は、妙に意地を張らないで連れて行って貰えてよかったなあと漠然と思考を逸らす。
 駅への道を迷いなく歩くトーマスの背中に、また青い花束を思い出した。ブルーファイアーとネモフィラ。今日彼が供えた新しい花達。ネモフィラの花言葉はなんだっただろう。命を捧げるという言葉を持つ花と、彼が一緒に持ってきた花の意味は。
(真月が教えてくれなかったから、だから、知らないんだ。俺はなんていうか、無知、だな)
 真月零が持ってこなかったということは、きっと彼にとって都合がよかったり、遊馬に伝えたいような言葉ではなかったのだろう。ベクターは当然遊馬には花など持って来たことはないが、ベクターがもし花を持って来たとしてもネモフィラは選ばないだろうなという根拠のない予測が脳裏を過る。ベクターはあんな綺麗で儚い花を贈るようなやつじゃない。すごい満面の笑顔で、クロユリとかクワ、それからイトスギあたりの花を彩り悪く詰めてくるのに違いない。
 かつて真月が遊馬に語って聞かせたおぞましい意味合いを持つ花達の名前がすらすらと浮かんできて、辟易した。クロユリ、呪いと愛。クワ、ともに死のう。イトスギ、死と絶望。
 トーマスのことを、あまり責められない。いなくなった誰かを忘れられないという意味では、遊馬も同じだった。
 だからこそ彼の気持ちはわかる気がする。
 遊馬には、アストラルと真月零を忘れることなんて出来ない。もし仮に記憶の中から彼らとの日々を奪い消されたとしても、何らかの形で彼らへの弔いをするだろう。


 トーマス・アークライトが名前のない墓に花を供え続けることと同じように。
 



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