01 / Goddess


 


* * *



 ――女神のようだと思ったのだ。



* * *



「xの三乗……違う、そうじゃない……まだわからないのか? だからその解き方そのものが間違ってるんだ」
「うるせえな。俺が合ってるっていったら、それでいいんだ」
「……。それじゃ、永遠に正解には辿り着かない。零、たまにはさ、俺の言うことを聞いたっていいんじゃないのか。何も素直で従順になれとは言わないから……」
「ハァ? 保護者ヅラされんの嫌いだって、俺が何度お前に言ったと思ってるんだ? 馬鹿なのか? 顔ばっかり綺麗でもなあ、あー……その、なんだ……わ、悪かったよ……」
「…………」
「悪かったって! 知ってるよ……事実お前は俺の保護者で姉貴なんだからな……わかってるよ。それに綺麗なのが顔だけじゃないのも、周知のとこだ」
「……それで、零は、反抗期」
「べつに、そういうんじゃ、ねえけど。姉貴、ただ俺は、」
「いいよ。続きやるぞ。ほら、大問三の問二は一で出した式を使って……」
 姉貴は俺の告白を遮って視線を問題集に戻した。いつもそうだ。姉貴は俺の真剣な言葉を絶対に取り合おうとしない。俺が何を言おうとしてるのか全部わかってるから聞きたくないのに違いなかった。
 姉貴の指先に視線をやる。指ぬきの黒い長手袋。姉貴は大概いつ見てもこの手袋を填めていて、肌の白さによく合っているから決して嫌いというわけではなかったのだが、いつも勿体ないとそう思うのだ。
「ここは、yに代入して……聞いてるのか?」
「ああ、聞いてる。代入するんだろ」
「そう。そしたら、この先やってみて」
 指先。美しい白い肌。体の大部分をきっちりと布をまとい晒そうとはしない姉貴のその肌が露わになる場所は本当に限られている。昔は風呂場に連れ込まれたからいくらでも見ることが出来たけど、中学生ともなるともうそんなことをしてもらえるはずもなく、目に出来る範囲はベッドの上ぐらいまでに狭められてしまっていた。
 姉貴が着ているカーディガンの裾が当たる。柔らかい。姉貴の生肌の柔らかさを思い出して下半身が一人で勝手に高揚する。馬鹿やろう、とひとりで毒づいて俺はここでようやく意識を姉貴から問題集に集中させ、興味のない代数の問いに思念を巡らせた。


 姉貴は、世間体の上では俺の姉ということになっている。真月聖華。世間様にはそれで、真月零の実の姉として通っている、らしい。
 実際俺達は容姿がよく似通っていて、オレンジ色のはねた髪の毛だとか、やや切れ長の目だとか、類似点は指で数え上げられる程度には備えていたので「まあよく似たご姉弟ね」と言われることこそあれど、姉弟関係を疑われたことは殆どなかった。
 だが実際には姉貴は真月聖華などというお綺麗で胡散臭い名前でもないし(彼女がこの偽名をどこから持ってきてどうして用いてるのかは知らないが)、そもそも俺の姉ではないのだ。血が繋がっていないのはもちろん、どころか女ですらない。姉貴の体は、まじまじと見つめるとどちらかといえば男性的なつくりをしていて、恐らくそれを隠すためにいつもきちきちと布を着込んでいるんだろうなと俺にはそう思われた。
 どちらかといえば男であるはずの姉貴だが、俺は役割の必要性からそれを姉として扱った。彼女は俺の母親代わりであり、父親代わりでもあり、姉であり、全てだった。俺の世界は彼女から始まった。必然的に俺は彼女を愛しており、周囲にはシスター・コンプレックスとよく言われていたが、事実としてそれがシスター・コンプレックスなのかどうかは存外疑わしくてブラザー・コンプレックスなのかもしれないしファザー・コンプレックスにも似ているしマザー・コンプレックスじみていた。
 姉貴は俺を女手一つで育ててきた。俺達は、早くに親を亡くし、幸いにも遺産が残ったのでそれで慎ましやかに暮らしている可哀想な姉弟という名目でこの世界に生きている。俺は親の顔を知らない。この世に生まれ落ちたからにはたぶん俺にも血の繋がった父母がいるのだろうが、見たことも聞いたことも興味もない。ひょっとしたら死んでいるのかもしれない。どうであったとして、姉貴さえいれば俺には何のゆかりもない話だ。
「聖華」
「俺、その名前きらい」
「じゃあなんで使ってんだよ」
「零にその名前で呼ばれるのが、嫌」
「あー、はいはい。人の見てないとこで一度ぐらい呼んでみたかっただけだよ。もうやんない。遊馬」
「……ん」
 姉貴と俺の間には肉体関係があって、ベッドの上では姉貴は自分を「遊馬」と呼ばせることを好んだ。男の名前だ。しかし外では彼女は「聖華」と呼ばれてにこやかに応対をしていたし、女として扱われるスタンスを貫いていたので、なんというか滅茶苦茶だった。だいいち俺に遊馬呼びを強いてくるのだってベッドにいる時だけなのだ。
 だから一度女らしい容姿が嫌いなのかと思って、男になりたかったのかと聞いてみたことがあるのだが返事は濁っていてそうでもないみたいだった。
 ただ、昔の名残なのだと彼女は言った。
「れーい、零、真月零……何度口にしてもさ、いい名前だなあっておれは思うんだ」
「いい名前ってさ、これ、遊馬が決めたんだろ。自画自賛じゃないか」
「んーん。その名前は俺が決めたわけじゃない。あえて言えば零が決めた名前なんだ」
「俺が? 意味、通ってないぞ。俺が物心ついたときには俺は真月聖華の弟の真月零ってことになって、幼稚園に通ってたんだから。それより昔のことなんか覚えてもない」
「だろうなあ。でもそれでいいんだ。あれは、ずっと、ずーっと昔の御伽噺に過ぎないんだよ」
「はぁ?」
「お前がいてくれればそれで、俺はいつか、全てを許すだろうから……」
 姉貴は度々理屈の通らない、狂人の詩のような言葉を口にした。それは決まって性交渉が一段落したあとで、姉貴の細い体の中に俺の精液が注ぎ込まれたあとだった。その頃には俺は姉貴の身体を貪り尽くしてくたくたで、だからいつも深く考えることなく姉貴の言葉を流してしまうのだ。考えるまでもなくそれは計算尽くの上での吐露なのだった。
 姉貴の身体はおぞましいまでに中性的な美しさを備えていた。男の身体をしていたが、胸は薄く膨らみを持ち、シルエットはなだらかだった。なよたけのような儚さ。男の器官と女の器官をきっちりと持ち合わせ、彼女は俺を招き寄せる。
 俺に出来るのは姉貴に逆らわずに彼女の望むことを成すばかりであり、それはまるで毒花に吸い寄せられて依存していく愚かな羽虫のようだったが、それが姉貴という存在だったから、もう仕方のないことなのだった。姉貴は依存性の薬物のようなおんなだ。


 俺が初めて姉貴を犯したのはまだ俺が小学生のちびだった頃で、姉貴は中学生だった。
 姉貴はその時処女だった。彼女はたぶん聖女だったのだ。だから聖なる華と名乗っている。



◇◆◇◆◇



「零。珍しいな。今日はまだ予鈴に十五分も時間がある」
「たまには早起きしたっていいだろ。なんだ、その、明日は雨かみたいな声は」
「いいや。ただ、明日は雪だなと考えただけだよ」
「最悪だ」
 堅物らしい黒フレームの眼鏡に指をかけてドルベが言う。傍らに本を抱え、几帳面な性格が反映されたかっちりした制服の着こなしをしている。本は小難しい経済白書の類だった。この男は、そのうち六法全書でも小脇に抱え出すなというのが俺の見解だった。
「何々、明日雪が降るって? あー、零がもう来てる! そりゃ、霰だな、うん。でも雪はないと思うぜオレ」
「十分に失礼だと自覚してないのか単細胞」
「ぶれーこーだろぉ。オレ達、幼馴染みなんだからさぁ」
「腐れ縁の間違いだろう」
 ミザエルがやって来てアリトの首根っこをひょいと掴む。腐れ縁。腹立たしいが確かにそれが、一番的確に俺達を指し示す単語だ。俺達は七人で大体おんなじ道を辿って成長してきたし、そして誰もがしょっちゅう姉貴の世話になっていた。
「なー零ぃ、聖華さん元気?」
「あの姉貴が、風邪なんかひくと思うか」
「んん、や、そういう意味じゃなくて……」
「彼氏ならいない。かれこれ十九年」
「おお」
「そしてこの先もずっといない」
「だめだこりゃ」
 アリトが大仰に肩をすくめた。ミザエルも度し難いといったふうな表情をしている。こいつらの中で俺が強固なシスター・コンプレックス崇拝者であると結論づけられてから既に久しい。
「零、オレ聖華さん好きだけどさ、オレ他人だからぶっちゃけ年上のお姉さんに対する憧れに恋情混じっちゃってるけど、おまえのやっぱやばいよ」
「姉貴は俺さえいれば幸せだって昔からずっとそう言ってる」
「……相変わらず閉鎖的だな」
 ドルベとミザエルが互いに顔を見合わせる。姉貴が世界で一番俺を大事にしていることを皆知っているのだ。姉貴は、普段こそ態度には出さないけれどひょっとしたら俺が姉貴を愛しているのよりもよほど狂的に俺に執着をしていた。「おまえを赦してやれるのは俺だけだよ」なんて、その最たる例だ。
 しかしその閉鎖された小さな世界が俺にはどうにも心地よい。いつか二人で手を取り合って果てることをあながち冗談でもなく夢に見ている。俺には姉貴がいればいい。姉貴には俺がいればいい。巡り巡る小さな世界。
 俺達姉弟は完結している。
「そうだ。ドルベ、職員室から呼び出しだ。推薦書が仕上がったから取りに来いと」
「そうか、ありがとう。……ミザエル、君は?」
「私は既に受け取った。可能ならば一緒に持ってきたのだが、こういう書類はそういうわけにもいかないからな……」
 見切りを付けたのか、ミザエルが本件に気を回してドルベの肩を掴む。アリトも反応して、「あ〜推薦書かぁ〜」なんてそんなに深刻そうでもない声で呻き出した。
 俺達七人は今年中学三年生なので、会話の端々に受験がちらつくそういうお年頃なのだ。尤も素行正しく成績優秀なミザエルとドルベはご覧のように推薦でどこかに上がることが殆ど決まりかけていたし、アリトとギラグにしたって奴らはスポーツ推薦枠が向こうから勝手に来ているので選り取り見取りなのだ。俺は姉貴が出た高校を適当に受けるつもりだったし、多分凌牙と璃緒のやつもそうで、結局のところ七人でまた同じところに通うところになっているんだろうってことは全員が薄々感づいているところだった。
 引き寄せられるのだ。姉貴には、あの真月聖華と名乗る得体の知れない聖人には、こうして皆ずるずると引きずり寄せられていく。彼女はブラック・ホールを発生元とする重力磁場か、或いは強烈な引力を生じる地球惑星そのもののどちらかみたいな存在で、人間を引き寄せてならず、そのくせ、それに責任をもたない。
「オレあの人は女神だと思うんだよなぁ」
 仲良く並んで職員室へ向かったドルベとミザエルを見送ってアリトがぽつりと言った。それは何気ない一言だったが、奇妙に胸につっかえて、俺の心を苛んだ。

「そういやお前、ここんとこ毎日弁当だよな。それも聖華さんの手作り? ずっと学食だったのになんで?」
「物欲しげな目で見てもやらねえからな。姉貴が急に作り始めた理由は俺にもわからないんだ。聞いたら『ノスタルジーな気分』って一言だけ」
 授業時間は退屈で仕方なくて、ぼうっと板書を取っていればいつの間にか休み時間になっている。休み時間には、俺は性懲りなく変わり映えのしない面子でつるむ。それが一番楽だからで、面倒が避けられるからで、それ以上の理由はあまりない。
「……弁当とは、郷愁的になって作るものだったか?」
「知らねえよ。姉貴の考えてることは誰にもわかんねえんだ」
「それは……そうだな。彼女の思考は超常的だ」
 真月聖華の伝説というものが彼女が卒業したこの学園には残っていて、それらは尽く常識の範疇を超えたものだった。まず彼女は大抵の授業で寝ていたが、絵に描いたような優秀な成績を残した。彼女に間違いを作らせる方が難しく、ある時から彼女はあからさまにわざと不正解を残すようになったらしい。
 彼女は一を与えられて百を理解するような存在だった。黒手袋を常に外さず、神秘性を保ち、外見はまるでセーラー服の未亡人のようだった、のだという。
「なんであの人零にあんなに甘いんだろうな。もうぶっちゃけ仙人みたいな我関せずスタイルなのになぁ」
 地震が起きた時に彼女だけ居眠りを続け一切の避難をせず無傷だったというのも語り草である。
「世界中に興味がないんだ、彼女は」
「お? ミザエルが聖華さんのこと言うなんて珍しー」
「潔癖症だとか、そういう既存の言葉では表すことが出来ない。人間の思考回路では理解出来ない。ああいうのを、化け物か――悪魔か、神と言うのだと私はそう思う」
 ミザエルが俺の弁当箱を覗き込んでそう言った。絵に描いたような、「完璧な」弁当。彩りから栄養から何まで全てが計算し尽くされ、どの面から見ても文句のつけようがない。それはまるで真月聖華という存在を弁当に詰め直したみたいな、そんな塩梅だ。
「彼女は何も見ていないし、何にも興味がない。それが何故生きているのか……昔それを考えて、私は彼女に憧れるのを止めたんだ……。憧憬するには完全すぎたから」
「だからさぁ、女神なんだよ多分」
「さあな……すまない、変なことを言って。単に私も弁当を作ろうかと思っていただけなんだ。だが、零の弁当を見て考えが少し変わった」
「止めてしまうのか?」
 ドルベが問う。ミザエルは首を振って「まさか」とそれを否定した。
「最初から完璧を目指すべきではないと思っただけだ。出来れば不格好でも、食べてくれる誰かのために作りたいかな、と」
「……姉貴がただ漫然と弁当作ったみてえな言い方だな」
「……? だって、そうだろう。気を悪くしたのなら謝るが。ノスタルジーになったからとは、つまり、戯れだろう? ……ああ、だが安心しろ、お前があの人に愛されているというのは諸々全てと隔絶されたまるで別次元の話だ」
 ミザエルは澄まし顔でそれだけ言って黙々と学食のラーメンをすすり始める。俺は彼に指し示された姉貴の弁当が急に冷えてまずい飯の詰め合わせであるように思えて、なんともやるせない気分になった。後半の釈明なんか耳に入らない。隣でアリトが箸を動かさなくなった俺を認めて「食わないんならくれよ」などと言い出したので俺は意地でそれを平らげることにした。
 あんなに完璧に俺の好みに合わせた味付けだったのに、砂を噛んでいるみたいな味がした。



◇◆◇◆◇



 姉貴とはじめてセックスしてから結構な時が経っているけれど、俺にとって姉貴が神聖であることには変わりはなくて、彼女は何度犯してもその清潔さや潔癖さというものを失わなかったし、俺はこのかた一度も避妊の用意をしたことがなかったが、孕まなかった。不妊症などではなく神聖さゆえの弊害であることは俺にとって疑う余地のないところだった。仮にもし姉貴が孕むとしたら神の子だ。もう処女懐胎出来ないから有り得ない話なんだけど。
 姉貴は純潔を絵に描いたような聖女で、聖母だった。この女を磔にしたら薄気味悪いほど美しい宗教画になる、と俺は常々考えている。
「ん……おいで……?」
 姉貴が何故俺に抱かれようと思ったのか、俺にふしだらさや背徳を教えたのかはわからない。俺の理解の及ぶところではない。その日小学五年生の無知な子供だった俺に、彼女が一体何を考えて自らの身体を開帳し「好きにしていい」と言ったのか、俺の子供っぽい野暮な服を剥いだのか、一切は謎に包まれているままで今になっても聞き出せそうにない。
 ベッドの上にうずくまり、あの長い黒手袋を脱ぎ始めるのが姉貴からのサインだった。その手袋がフローリングの無機質など床に落とされる頃には、俺はサインを了承して姉貴のベッドの上に乗り上がっている。
 そうして厳かに彼女の身体を割り開き、気が済むまで舐めるようにあちこちへキスをして、身体と身体をひとつに重ねる悦びへとその身をひたす愉悦に埋没する。俺は姉貴と交わる時はいつも獣のようにがっついたし、子供みたいに夢中になって、あと少しで世界の真理が手に入ると信じて疑わない錬金術師のように没頭した。
 姉貴の身体は柔らかかった。女の身体には真理があるなぞという俗な話ではままある言葉が、姉貴の場合は掛け値なしにその身体に真理を持っていると俺は信じていた。両性具有の、不完全か未完成品にならざるを得ないはずなのに全てを持っている姉貴の裸体を抱くと俺はまるで宇宙を相手にしているような、そんな酷く矮小な心地になるのだ。
 姉貴はその気になれば女を孕ませることが出来るのかもしれない。彼女の身体に与えられた男性器が機能不順ということは決してなく、俺が咥えると当たり前の男のように反応して、そこだけ、なんだか俗っぽかった。
 俺が姉貴のそれを咥えると必ず姉貴は俺のものを咥え返した。「零はかわいいなぁ」なんて言って、かちんとくるのでそういう日は絶対に手加減容赦をしない。理性、知性、そういったものを全部全部かなぐり捨てて姉貴を喰らおうとする。だけど彼女はやすやすと喰われてくれない。フラストレーション。俺は姉貴をどうしたいのだろう。
「……ゆうま」
「ん? なんだ?」
「ゆうま、ぁ……」
「どうしたんだよ、零……気持ちよくない? やだ?」
「違う……そうじゃない……俺は遊馬以外を抱いたことはないしそのつもりもないけど、これより気持ちいいセックスなんかないってことは知ってる。そんなことじゃない。そんなくだらねえことじゃ、ない……」
 俺が主導権を握って姉貴を抱いているはずなのに、姉貴は絶対に翻弄されないのだ。どこかに必ず余裕が残っている。それを自覚する度、俺はどうにも惨めな気分になるのだ。
 昼のミザエルの様子が思い出される。ひょっとして完璧で完全で女神のような姉貴は、俺で遊んでるだけなんじゃないのか? 必死になってる俺を弄ぶ、そういう遊びをしているのでは?
 どんなふうに滅茶苦茶に掻き抱いても傷付けても一つも文句を言わない姉貴は、もしかして……
「なんで……ゆうまぁ……俺ばっかり見てろよぉ……なんで、俺に夢中になんねえんだよぉ……」
 情けない嗚咽を堪えることが出来ず、たまらず、口をついてそれが漏れて出た。姉貴は俺を見てくれていると思っていたけど、それは妄信で、なんも見ちゃいないのではないか、そればかりが頭をぐるぐる渦巻いていやになる。
 下半身の欲情と自立意識が切り離されて、俺は姉貴の胎内に包まれたままだというのに性欲を吹き飛ばしてしまっていた。代わりに母胎回帰への願望が起こって、性的興奮がどんどんどうでもよくなっていく。
 そうだ。俺は別に姉貴を翻弄したいわけではないのだ。目に見える形で独占して、俺のものにして、俺にだけ笑いかけて欲しいのだ。
 それだけだった。
「姉貴が。遊馬でも聖華でも父親でも母親でも悪魔でも仙人でも天使でも神でも俺はいいんだけど。姉貴が必死になって俺を愛してくれないのだけは……やだ、から……」
「零」
「姉貴とセックスしても満たされない。なんで? なんで……なんでこんなこと、思うんだろう、なぁ……?」
「……そっか」
 ぎゅう、と姉貴の手が、箸より重いものを持ったら折れてしまいそうに華奢で、そのくせ俺一人ぐらいなら軽々と持ち上げてしまう手のひらが、普段は黒布に隔てられて触れることを許されない皮膚が、汗ばんだ俺の背中を掻き抱いた。しっかりと強い力をもって俺に触れている。姉貴の手からも姉貴の汗が発汗されているのを感じて、あ、もしかしてこの人は生き物だったのだろうかとそんな感慨が訪れる。
 それにふと安堵して、その瞬間に俺を締め付ける姉貴の膣肉の律動を感じ、急速に性欲が俺の意識に返り埋め尽くした。きゅうきゅう物欲しげに俺の精液をねだって温かい肉が艶めかしく纏わりつく。
「あ、姉貴……」
「『真月』」
「……?」
「真月。真月、俺はな……」
 知らない名前を呼ばれた。
 いいや、真月というのは確かに俺の名字で、姉貴の名字でもあり、俺達を繋ぐものの一つであるファミリーネームのはずなのだが、それは俺にとって「知らない名前」だったのだ。姉貴に下の名前以外で呼ばれたのは記憶している限りでは初めてのことで酷く大きな戸惑いがあった。
 俺の向こうに知らない誰かの幻を見られているかのような錯覚を覚える。
「俺は、おまえのために、おまえを愛するためだけにこの世界をつくったんだ」
 姉貴が耳元で囁いた。それはいつもの狂人の詩の一説だったが、何故かこの時ばかりは笑い飛ばす気になれなくてぞっとした。姉貴ならその馬鹿げたことが実現可能な気がしたからだ。
 姉貴なら。完璧を体現し完全をその身に宿し左手に全知を右手に全能を掲げる女神のような真月聖華ならば。
 世界一つ作ることなんて、朝飯前なんじゃないかって――
「世界中の全部が裏切っても俺だけは真月を愛してあげる」
 淫らに蠢き、快感に増長した俺の性器を包んだ肉が射精を促すようにまた強く締め付けてくる。姉貴は子宮に精液を叩き込まれる瞬間がどうしようもなく好きみたいで、いつもたまらなく、扇情的で、いじらしく、しかし妙に興醒めする気高い表情をして俺の白濁した欲望の波を迎え入れるのだった。
 雌の欲求に逆らわず、逆らうことが出来ず俺の雄が射精をする。姉貴の雄の部分も快感を連動して絶頂を迎えたらしく、二人で身体を支え合ってぶるぶると打ち震えた。昔は姉貴の方が身体が大きくて、この瞬間は脱力する寸前の俺を一方的に姉貴に抱えられていたんだということを思い出す。
 今はもう俺の方が背が高かったし、体格も良く、筋肉も付いている。吐精して柔らかくなった性器を引き抜くと、交わりの事実を示すどろどろした体液が零れ落ちてシーツにしみを作った。
 なんとはなしに、まだこの抜き後から漏れる液に赤が混ざっていた頃に思いを馳せる。小学生の俺は性教育の授業をまともに受けた記憶もなくて、おしべとめしべが受粉するようにヒトの雄と雌が受精を求めて交合するなんてことを知らなかった。どこかで欠片ぐらいは知っていても良さそうなものだが、恐らく姉貴がそれを阻んでいたのに違いない。
 中学生だった姉貴はそれで処女を棄てた。やけくそになって処女を弟を犠牲にして棄てたとかではなくて、純粋に弟とセックスしたかったんだということは言われなくてもなんとなくわかった。俺も、方法を知らなかっただけで漠然とそれを望んでいた。或いは姉貴は俺のその内なる欲望に敏感に気がついて望みを叶えてくれただけだったのかもしれない。
 それが異常なのだということには中学に上がるまでついぞ気がつけないままだった。人恋しくなると姉貴を抱き、姉弟で関係性を持つ頭のおかしさに気がつくまでに軽薄にそれを吹聴しなかったことが救いだった。
「零の、せーえき、どろっどろ……」
「……そりゃ最近姉貴がいいって言わなかったから……」
「ひとりで抜かねえの?」
「自分もドロドロの精液俺の腹にぶちまけたくせに」
「それもそうだな。俺が言えたことじゃないな」
 笑うと少年みたいだった。女の戸籍で大学に通う彼女が、子供のようにへらっと顔を崩すのだ。
「さっき……世界中全部が俺を裏切っても愛してくれるって言ってたけど……」
「うん?」
「もしも世界中の何か一つ些細なことでも姉貴を裏切ったり傷付けたりしたら、俺が姉貴に仇なす全てを、遊馬を苛む全てを呪い壊して殺してやるよ」
「……そうか」
 姉貴は俺を咎めない。俺が必要とあれば幼馴染みの腐れ縁どもでも躊躇なく殺し、鬼気迫れば世界全てを敵に回すとわかっていて俺を抱擁する。
 だからこそ彼女は世界中の全部が裏切っても俺を愛すると言霊にして誓い、ただ一人俺を赦すことが出来ると傲慢にのたまうのだ。
「シャワー浴びて寝ようか」
「腰抜けてねえの」
「んー。シャワーのとこまで肩貸して」
「仕方ねえなぁ……」
 腰から抱きかかえて持ち上げてやると、いつものことなのに目を輝かせて喜ぶ。一回理由を聞くと、「だって特別みたいじゃん?」とにこにこして言った。姉貴が俺の特別じゃなかったことなんかないのに。
 二人で一緒にシャワーを浴びた。性交渉を持つようになってから姉貴は俺と風呂に入ってくれなくなったけどセックスの後のシャワーだけは別だった。その時俺は大抵腰が抜けてしまっている姉貴の身体を隅々まで洗い流すことを許された。
 姉貴は膣の中の精液を処理されることを嫌った。腹を圧迫して気持ち悪いだけじゃないかと訊ねたが、そう悪いもんでもないって言うからそうなんだろう。
 床に座り込んだ彼女にシャワーのぬるま湯を浴びせ、オレンジの長い髪を掻き分けて背中のある一点に触れる。青緑色のスティグマータ。聖イエスのいばらの冠と同じ、原罪の証だとそう俺は信じている。
「おまえのいない世界に意味なんてあるもんか」
 しるしをなぞると溜息が聞こえてくる。嘆息すら美しいのだから参る。
「ぜったいにこの手を離さないから」
「そりゃ、俺の台詞だぜ」
「姉貴の?」
「もう二度と目の前で死なせたりするもんか」
 静かに、力強く、俺の腕の中で反芻する。



 姉貴は相変わらず男だか女だかわからない姿をしていたが、そんなことは何の妨げにもならず、今この瞬間も彼女は明確に俺のたった一つの真実で永遠だった。