失楽園-01 Rainy-Rain





 その悪夢のような日は、雨がしとどに降っていた。


「それじゃあの。気をつけろよ!」
「ありがとう、六十郎爺さん。」
 借りた傘を広げ、サードは軒下で振り向いて挨拶した。
 玄関の内側では、サードが次期当主となるゼアルの家系と先祖代々からのつき合いがある老人と、その弟子である闇川という男が立って、こちらに笑顔を向けていた。
 エリファスの使いに行った帰りだった。用事自体は早く済んだのだが、そのあとデュエルの指南を受けていてすっかり遅くなった。ちょうど夕食どきになったので食べて帰れと言われたが、タクシーに乗って帰ればちょうどゼアル家の食事に間に合う時間帯だったので断った。
 ただでさえ、大好きな六十郎爺さんのところへサードだけ行くのがずるいと言って末弟のファーストが頬を膨らませていたのに、この上食事までして帰っては明日まで口をきいてもらえないだろう。
「まっすぐ帰るのか?」
「ああ。」
「なら、電話しておこう。」
 闇川がそう言って頷き、サードはまた一礼して、外門をくぐって屋敷を出た。
 ここの一帯は広い屋敷が所狭しと建って、道が非常に狭く、タクシーでも迷うことがある。六十郎は慣れたタクシーを呼ぶと言ってくれたが、せっかく傘を貸してもらったし早く帰りたかったので表通りまで出ることにした。
 しかし、思いのほか雨の勢いは強かった。水溜りを避けて歩いたつもりだったのだが靴がどうしても濡れてしまう。闇川の貸してくれた、古めかしいが大きくしっかりした作りの傘でなければもっと濡れていただろうが。
 表通りに出たすぐのところにあるバス停に、一台の黒塗りのタクシーが停まっていた。サードが近づくとすぐに扉が開く。いつもと車種は違うものの同じタクシー会社であることを確認したサードは、傘を畳んでするりと乗り込んだ。
「○○町の一丁目まで。」
 伏し目になって傘を巻きながらサードは言った。運転手は短く「はい」とだけ答えて発進した。
 サードは窓の外を眺めながら、今日六十郎としたデュエルの内容を反芻した。運びは悪くなかったが、あと少しというところで巻き返されてしまった。運が良かったので押し切って勝つことができたが、手札が悪ければ負けていた。
 デッキの回転をもう少しよくしないと、次の大会が危ないな・・などと考えながら、雨に濡れた街灯が前から後ろへ流れていくのを眺める。
 雨の日は暗くなるのが早い。今日の夕食はなんだろう、とぼんやり考えていると、予想外なところでタクシーがぐん、と車体を左に寄せた。
 はっとして体を起こす。タクシーはそのまま路肩に止まり、運転手がサイドブレーキを引いた。
「・・・・なにか?」
 道がわからなくなったのだろうか。よく見ると馴染みの運転手ではなかった。しかし、地図を広げるでもなく、こちらに顔を向けて質問するでもなく、しばらくそのままじっと座っている。なんだか不気味な雰囲気だった。
 やがて運転手がゴソゴソと懐を探り始める。地図を探しているのかと思ったが、取り出したのは一通の手紙だった。
 なんとも古風にわざわざ封蝋がしてある。運転手は「私の主人から、あなたにです」とだけ言って、手紙を後ろによこしてきた。
 サードはあからさまに不審げな顔でその手紙をじろじろと見た。妙に達筆な筆記体で自分の名前が綴ってある。やがて慎重に受け取り、手紙を開いた。
 差出人の名前はなかった。
 出だしは次期当主であるサードと、その後見人であるエリファスの清栄を賞賛する言葉だった。それにゼアル一族の近年の権勢ぶりについての世辞が続く。妙なマニアか何かからかと思った。
しかし、読んでいくうちに、サードの顔色が変わった。
外部の人間なら知らないはずのことが書いてある。ゼアルの一族の中でも、エリファスと自分と、あと数人しか知らない、知ってはならないはずのことが。読み進めれば読み進めるほど、送り主が異常なほどに詳しく事情を知っていることがわかってきた。
「・・・・・・・・」
 手紙は、いろんな話がしたいからすぐにでも会いたい、できればお一人で、というような言葉で締めくくられていた。
「どうなさいますか?」
 低い声で言ってきた運転手を、サードは強く睨みつけた。
 タクシーに乗せて手紙を渡すなどという古典的なことを仕掛けてくるのがどんな輩なのかは大体想像がつく。よほど頭の悪い気取り屋か、何かにつけ厳格なこだわりを見せるゼアル家への当てつけだ。慇懃な文体に隠すつもりもない悪意が見て取れる。 
 タクシーの鍵はあいている。だからいつでも逃げられる。妙だと思ったのだ、普通のタクシーなら事故が起こらないように発車するときに鍵をしめる。このまま傘をさしてタクシーから降り、別のタクシーを呼んで家に帰って、この手紙をすぐにエリファスに見せて指示を仰がなければならないだろう。
 だが、手紙の文面と、この古典的な渡し方がサードにそれを思いとどまらせた。
 手紙の出だしはサードとエリファスに向けて書いてあるのに、最後はサード一人にしか向けられておらず、しかもお一人で、とある。息のかかった運転手の乗った密室の車内でこれを渡すというやり方。そして、この手紙にはどこに行けば会えるのかも連絡先も書いてない。
 相手は予定が合えばすぐ、と言っているのではない。このままこのタクシーに乗って自分のところまで来い、さもなければこの手紙に書かれている極秘情報をばらまくぞ、と言っているのだ。
 サードの行動パターンを読みきった上での“脅迫”。ただの悪戯ではない。
 運転手はじっとこちらの気配を伺っている。
 こいつは、エリファスに頼らず自分一人で潰しておかなければなるまい。サードは小さく溜息をついて手紙を折りたたんで言った。
「出してくれ。」


 タクシーが止まったのは、サードも式場によく訪れたことのある高級ホテルだった。
 運転手はこのホテルとは馴染みの関係らしい。慣れた様子で車をつけ、ドアマンに一つ頷いて、サードを車から出した。ドアマンはサードに会釈したあと、丁寧な物腰でサードをホテルのラウンジまで連れて行った。
「ごゆっくり。」
 ドアマンは囁くように呟いて、その場を離れていった。
 ちょうど食事時なこともあって、ラウンジは人が多かった。サードを呼び出した人物はその中でもとりわけ、観葉植物に隠れて目立たない席を選ぶようにして座っていた。
 サードはその人物を確認したあと、すぐには座らずじっと視線を注いだ。
赤い前髪と、金色の艶やかな長髪。壮年らしい落ち着きをもちながら、視線が吸い寄せられるほど整った、どこか物憂げな美しい顔立ち。サードがここに来ることを初めから疑ってもいなかったという様子で、悠々とコーヒーを飲んでいる。
 そして何より印象的なのは、右目が青、左目が赤のオッドアイであることだった。
「・・・よく来た。座れ。」
 男は短く言った。
 サードは警戒心を剥き出しにしながら着席した。
 その男には見覚えがあった。
確か自分がようやく一通りの礼儀作法を覚え、社交場におまけとして連れて行かれるようになってからすぐのことである。幼い故によく覚えてはいないのだが、どこかの広々とした庭を抱えた料亭を貸し切っていたような気がする。
 エリファスの姿が見えなくなり、不安になって探していたときだった。広い和室に足を踏み入れると、そこでは大人たちがみんな立ち上がって一人の男と睨み合っていた。緊迫した空気が子供にも痛いほど感じられた。
 男と対峙する人々の中心にいたのはエリファスだった。いつもと変わらない厳しい表情だったが、サードやセカンドに向ける顔とはまるで違うのもわかった。すっかり空気に飲まれて硬直してしまったサードを他所に、エリファスは激しい怒りをこらえたような声で男に何か言っていた。内容は難しくてよくわからなかったが、かなり厳しいことをきつい口調で言っていることだけはわかった。
 男は無表情のまま体の向きを変え、静まり返った部屋から廊下に出て行った。廊下でサードとすれ違ったとき、ちらりとこちらの顔を見た。綺麗な目だ、と思ったが何も言えず、男も何も言わずに料亭から出て行った。
それが、目の前のこの男だ。よく覚えている。印象的な姿だったからだ。
あれから直接顔を合わせたわけではないが、他の親類の噂話を零れ聞いて情報を集めた感じでは、よろしくない男のようだった。
オッドアイからもわかるとおり、れっきとしたゼアルの一族の人間だ。しかし、昔から放蕩癖と、異常なまでの権力への執着を危険視され、ついに“許し難い行為”に―それ以上は詳しく聞くことができなかったが―手を染めて、ゼアルの本家から追放され籍も抜かれたらしい。それを断罪し執行したのがエリファスだという。
「なるほど。」
 サードは敵意のこもった低い声で呟いた。
「おまえなら、あのことを知っていたのも納得がいく。・・ドン・サウザンド。」
「やはり我のことは聞いていたか。」
 ドン・サウザンドは軽く笑って、ウェイトレスが持ってきたコーヒーをサードに勧めた。
 サードはちらりと外を見た。もうすっかり暗くなっている。今頃セカンドやダーク、ファーストが腹を空かせて不平を言っているだろう。タクシーの中でメールを送ればよかった。案外自分も動揺していたものだ。
 しかし、こいつのことが片付くまでは家には帰れまい。
「私に何の用だ。」
「君と会って話がしたかったのだ。あれ以来、一度も会っていないだろう。どれほど成長したのかと思ってな。」
「・・覚えていたのか。」
「やはりずいぶんと背が高くなったな。」
「ふざけるな。そんな話をしに来たんじゃない。」
「初めて会話するのに随分と嫌われたものだ。」
 ドン・サウザンドはクスクスと愉快そうに笑った。それから少し真顔になって言う。
「そうだな。しかし、ここで話せることではない。エリファスではなく君を呼んだ理由についても話さなければならないだろう。」
「・・・・・」
「上に一室とってある。そこで話をしよう。」
 そう言ってドン・サウザンドは、サードの返事も待たずに立ち上がった。そのままスタスタとラウンジを出て行く。サードはその後ろ姿を睨みつけながら、どうしようかと思案していた。
 ドン・サウザンドの用意した部屋に行くなど、蛇の穴に自ら身を投じるようなものだ。しかし、この男の口から、一体何がしたいのかだけでも聞き出さなければならない。エリファスのために、ゼアル家のために。
自分で首を突っ込んだのだから、これは自分で解決しなければならない。次期当主として、ゼアル家に仇なす者はこの手で片付けなければ。


通された部屋は、エリファスが好むような装飾的な部屋ではなく、どちらかというとモダンな部屋だった。
サードが用心深く部屋を見渡している間に、ドン・サウザンドはさっさと部屋の奥まで行って、無駄ひとつない動きで紅茶を淹れ始めた。どうやら盗聴器などの怪しいものは置いていないらしいと判断したサードは、それでも余計なことは何ひとつ言うまいと固く決意しながら、カップの用意された席についた。
別に甲斐甲斐しく動いているわけでもなく、どちらかというと気怠そうな動きなのに、ドン・サウザンドは魔術師か何かのような手捌きでダージリンの茶葉を入れていく。サードはそれをじっと観察した。
確かにゼアルの一族だ。こんなに美しい顔の男は今まで見たことがないが。エリファスも顔かたちが整っているがこれより厳格そうな顔だし、セカンドも美人だがそれとも種類が違う。まるで食虫花のように人を惹きつける魅力があった。自分は嫌悪しか感じないが。
透き通った色の紅茶が湯気をたてて注がれる。手の動きを見ていたが毒を入れているような様子はなかった。それでも用心深く味を確認しながら飲む。サードは自分も席について紅茶を口に運ぶドン・サウザンドに向かって言った。
「それで、何の話だ。」
「ああ。」
 ドン・サウザンドは軽い口調で答えた。
「君が知らない、ゼアルの一族にまつわる因縁について。」
「因縁・・・?」
「エリファスからは聞かされていないだろう。」
 サードはむっとして向かい合う相手を睨んだ。
「そんなもの知るか。わたしにとっては、エリファスの言うことが本当なんだ。」
「ああ、確かにあの男は本当のことしか言わない・・嘘はつかない。だが、そういう人間にとっては大抵、大切なことを教えないでいることは嘘をつくことには入らないのだ。」
「何が言いたい。」
「君は弟と体を繋げたことはあるか?」
 サードは目を見開いた。
「・・・は?なにを・・・」
「ないのか。幸せなことだな。」
 ドン・サウザンドは淡々と紅茶を口に運ぶ。
「ではエリファスとは?」
「わけのわからないことを・・」
「ゼアルとはそういう一族だったのだ。」
 ドン・サウザンドはカップを机の上に置き、初めてまともにサードの目を見据えた。サードも思わず見返した。
「ゼアルの最大の特徴は、『薄汚いものは切り離す』という方針を何代にも渡って貫き続けてきたことだ。」
「・・・・」
「ゼアルは確かに世界の覇者だ。政界財界、どこのトップの世界にいってもゼアルの名を知らない者はいない。だが表の、一般的な生活を送る人間の耳には滅多に入ってこない。そんな地位をずっと保ち続けられてきたのは一体何故だと思う。」
「・・・・」
「高い地位につくためには汚いことをしなければならない。汚いことをすれば高い地位から追われる。その二項対立を克服するためにはどうすればいい。・・・簡単なことだ。誰かに汚いことをさせて、それからその人間を弾劾し追放するのだ。」
「それが、自分だと言いたいのか。」
「ああ、そうだ。我はゼアルの一族の繁栄のためにと汚れ仕事ばかりをさせられてきたのだ、エリファスに。そして我を追放したのもエリファス。君はその男が手塩にかけて育てた子供だというわけだ・・・」
 ドン・サウザンドはさらにカップに紅茶を注ぐ。
「・・・待て。それと今の話とどう繋がるんだ。」
「しかし、その手段をとると怖いのは、捨てられた者の“恨み”だ。我のような人間の。」
「・・・・」
「それを解決するために、昔からそういうことをさせて無理矢理絆を作らせる風習があったのだ・・・もう廃れたが。エリファスも君たちにそういうことを強いるかと思ったが。」
「ふざけるな。エリファスがそんなことさせるわけがない!」
 脳裏に愛しい弟たちの笑顔が浮かんで、サードは思わずいきり立って立ち上がった。
「不愉快だ。そんな話を聞かせるためにわざわざあんな古典的な手段でわたしを呼びつけたのか。何が目的か知らないが、エリファスに何かするために利用しようと思うのならお門違いだ・・」
 ドン・サウザンドも見送りをするかのような物腰でゆっくりと立ち上がる。エレベーター内では距離を置いていただけに、こうして近くで立たれると相手の方が遥かに背が高く体格もいいので余計威圧感を感じる。
「帰らせてもらう。家で兄弟が待っているから。」
 そう言ってドン・サウザンドの顔を見上げたサードは、思わず言葉を失った。
 冷たい顔。一口に言えばそんな顔だ。だがそんな単純な言葉では言い表せないものがそこにあった。
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。いつの間にか足を動かせなくなっていた。
 サードは一瞬、蛇に睨まれた蛙のようにその殺気に呑まれかけたが、危ういところで踏みとどまった。威圧感に押されまいと強い声で言う。
「どこであの情報を手に入れたのか知らないが・・追放された理由がなんだろうが、エリファス父上もわたしも容赦はしない。ゼアルは・・」
 トン、と軽く足音がした。はっと身構えた瞬間には、そのたったの一歩であっという間に距離を詰められていた。退こうと足を動かすより、ドン・サウザンドに顎を掴まれる方が早かった。
「そう。エリファスとは、こういうことをしないだろう。」
 穏やかな表情から氷のような視線が降ってきていた。美しい赤と青の瞳に目が吸い寄せられ、動くことができなかった。
 そして次の瞬間にはもう、拒絶の言葉を紡ごうとした唇を奪われていた。
「・・・・・!!」
 間髪いれずに舌が口の中に割り込んでくる。仄かなダージリンの香りと痺れるような甘い感覚に、衝撃で真っ白になった脳が覆い尽くされそうになった。
 慌ててドン・サウザンドの手首を強い力で掴み、引き離そうとしたが、口内を犯す舌先の巧みな動きに翻弄されてうまく抵抗することができない。後ずさって体ごと引き離そうとしたが、すぐにドン・サウザンドの手が腰に回って引き寄せられた。一目でオーダーメイドとわかる皺一つないスーツに包まれた体に密着させられ、必死で振りほどこうとしても体に力が入らなかった。
「んっ・・・ふ、ゃ、あん・・・」
 くちゅり、くちゅりと唾液をかき回す音がする。口づけはどんどん深くなり、押された体が小机にぶつかってカップが床に落ちた。
「・・・!!」
 サードはなんとか体を仰け反らせてドン・サウザンドの口づけから逃れようとしながら言った。
「ん、あ・・カップ・・・貴様カップに・・・!!」
「一度警戒したなら紅茶には手をつけないべきだったな。」
 ドン・サウザンドは平坦な声で答え、少し腕の力を緩めた。
 案の定、ひどい眩暈に襲われたように力の入らない体はそのまま崩れ落ちそうになった。それをまたドン・サウザンドに抱きとめられ、彼の腕にもたれかかるようにして腕がだらりと下がる。畜生、やられた。紅茶ではなくカップに毒を盛られていた。
 否、毒など盛られなくても、この男の腕からは逃れられなかったかもしれない。
 は、と口から熱い吐息が漏れる。
 そして次の瞬間、ぐいっと乱暴なほど強い力で抱え上げられ、そのまますぐ傍のキングサイズのベッドの上に投げ出された。
「ッあっ・・・貴様何を・・・」
 呂律の回らない舌で罵るが、ドン・サウザンドは構わずに自分もベッドの上へのし上がってきた。そのままずいっと腕を伸ばして強引に仰向けにさせる。
「やめろっ・・・やめろ!!俺に触るな!!」
 手首を強い力で掴み上げられながら、サードは力の入らない身体で必死に抵抗した。同時に自分の危機察知能力の甘さを呪う。ここまで力ずくで干渉する人間だとは思いもよらなかったのだ。
 何をされるのかわからず、ただこれまで経験したことのない恐怖だけを感じる。ドン・サウザンドはサードの抵抗をものともせず手首を頭の上でまとめ、片手だけで器用に胸元のスカーフを取り出して縛り上げた。柔らかい布なのに信じられないほど固く結びつき、どう足掻いても解くことができない。
 蹴り飛ばそうとする足を抑えられ、靴をあっさり脱がされながらサードは叫んだ。
「なんのつもりだ!私を捕えても手に入るものなどない・・生憎と!」
「それはどうかな」
「離せ!嫌だっ・・・触るな!穢らわしい!!」
 瞬間、ヒュッと空中を何か白く光るものがきらめき、そして首筋にピタリと冷たいものが当たった。
「殺されるより屈辱的なことを知っているか・・?」
 思わず動きを止めたサードの耳元に、ドン・サウザンドが低い声で囁く。
「身体の隅々まで支配されること。意にそぐわない人間に、心の奥底から爪先まで・・」
「・・・・・ッ」
「我をなめるな。貴様とは生きてきた世界が違いすぎる。」
 甘く痺れるような声だったが、言葉の内容は鈍器のようにサードの心にくい込んだ。
 ドン・サウザンドはゆっくりとサードの唇に口づけた。
 反対の手の指先は、硬直してしまったサードの胸元を探り、ベストもシャツも、ボタンを一つ一つ外していく。そこから滑り込んだ手が柔肌をするりと撫ぜた。
 耐え難いほどの悪寒が指先まで走り抜ける。
 そこでようやく、相手の意図を思い知った。だが、それが“どこまで”いくのか予測できるはずもなかった。触るだけで体を離すのか、それとも・・・。
「あ、や、いやだ、あ・・・」
 胸元を探っていた手が下半身に伸び、ベルトをカチャリと掴まれたサードはほとんどパニックになって言った。ひぐ、と喉が鳴る。
「なに、を・・・」
「決まっているではないか。」
 いやらしい手つきで腰を撫ぜ、ドン・サウザンドはどこか笑っているような声で言った。
「これから、その“死ぬよりもひどい屈辱”を、お前に与えてやるのだ。エリファスの愛情を受けて育った、お前に。」


「ダメだ。」
 セカンドは端末から耳を離し、もう七度目くらいの電話を切った。
「出てこない・・」
「いくらなんでも遅すぎるよなぁ?」
 ファーストは唇を尖らせて時計を見た。
「闇川さんから電話きてからもう二時間は経ってるぜ。」
「六十郎爺ちゃんちからタクシー使ったらどんくらい?」
「二十分もかからない。」
 ダークが答える。
「電車は?」
「もっと早い。」
「だよなぁ。」
 ファーストは椅子の背もたれに体重を預けて伸びをした。
「どっこ行ったんだろう・・・」
「ごめんなエナ、料理冷めちゃった。」
 セカンドは仕事で外出中のエリファスにメールを打ちながら言った。
「お料理は全く構わないのですが・・」
 エナは眉をひそめる。
「やはりおかしいです。こんな時間まで・・・それが心配で・・。」
「そうだよ、サードがどっか寄って帰るのに、こんなに遅くなるのに電話もメールも一本も入れないなんておかしいよ。」
 ファーストが唸る。サードはいろいろと忙しい身だが、遅刻の連絡を欠かしたことは一度もない。
「ラインは?」
「既読ついてない」
 ダークも端末を開いて固い表情になった。
「どうしたんだろ・・。」
「俺、探しに行ってくる。」
 セカンドが立ち上がった。
「どこに?」
「とりあえず六十郎爺ちゃんちまで、道すがら。」
「私も参ります。」
「ありがと、車出して。」
「俺も〜」
「ダメだ、エリファスがあと一時間で帰ってくるから待ってろ。」
 嫌な予感がする。セカンドはジャケットを羽織りながら、靴を履いていつになく厳しい表情で玄関から出て行った。


「・・・・ふ、ぅ、やぁ・・・」
 グチュ、グチュ、と、薄暗い部屋に生々しい音が響く。
 サードは喉を反らして歯を食いしばり、目を痛いほど閉じて体を震わせた。
 シャツとベストははだけられ、スラックスは下着と靴下ごと剥ぎ取られてほとんどベッドから落ちかかっている。
 ドン・サウザンドは完璧な無表情で、サードの喉元に冷たいものを突きつけたまま、後孔に二本の指を突き入れひたすらにかき回していた。たっぷりとかけられた乳白色のローションが、指に絡めとられてどんどん奥まで入ってくる。
 指は時折バラバラに動いたり、腸壁を押し広げるようにくいっと曲がったりする。
 屈辱的。
 確かに屈辱的だった。
 他人とキスすらしたことがないのに、親しくもないどころか憎んですらいる男の前で性器を晒し、それを弄ばれている。
 仰向けに横たわってただ耐えることしかできないサードの体に寄り添うように、ドン・サウザンドはなだらかな、いかにもリラックスしたような体勢でサードを慰んでいた。その指が時折、コリ、と体内のしこりを引っ掻く。その度に体が魚のように跳ねる恥辱を味わった。
 ありえない、信じられない。今日十数年ぶりに出会った大人がホテルの密室で自分でも触ったことのない場所を蹂躙している。そしてそれに、まるで生物を観察する科学者のように冷徹な視線を注がれている。左手はこれだけ複雑な動きをしているのに、右手のナイフを持つ手は全く動かなかった。
 ドン・サウザンドが少し体勢を動かし、指の角度を変えて一点をぐり、と抉った。
「!!あ!!!!」
 直接性器に電流を流し込まれたかのような衝撃が一瞬にして太腿や脳髄を走り抜ける。サードは思わず閉じていた目を見開いた。一瞬、口から出た声が自分のものであると気がつけなかった。少年のあられもない嬌声を耳にしたドン・サウザンドは、侮蔑の色を隠しもしない笑い声をあげた。
「なんといやらしい体だ…。ゼアルは代々好色な一族だというが、さすがはその次期当主だな。」
「ふぅ、やぁ、もうやめぇ、ろっ・・・」
 サードは膝を立てて擦り合せ、彼の手とそれが与える刺激から逃れようと身を捩った。
 情けなさと腹立たしさで涙が出そうになる。エリファスがこんな無様な自分を見たらなんと言うだろう。由緒ある、世界に誇るゼアル一族、その次期当主として日々研鑽を積まなければならない自分が、こんな堕落した男に!
 屈辱なら十分に味わった。もう、解放してほしい。懇願など死んでもするつもりはないが。
 そんなサードの様子を眺めて心から楽しんでいる様子のドン・サウザンドは、声を出さずに笑いながらゆっくりと指を引き抜いた。体液とローションの混ざり合った粘液で太ももに線を描きながら。
「これではどちらが穢れているのかわからんな・・」
 そして穏やかな仕草で体を起こし、横たわったサードの体に向き合うようにしながら、両手をサードの太ももにかけた。ベッドが沈む。もうすっかり暗くなった部屋に窓から差し込む灯りが、ドン・サウザンドの表情を照らし出したのを見た瞬間に、この男が“どこまで”いくつもりなのかを知った。
 それは全てを超越した神のように美しく、地を這いずる蛇のようにおぞましい。
 この男には勝てない。
 抗う手段が見つからない。
 絶望の表情を浮かべるサードを慈しむように、ドン・サウザンドはサードの頬に片手を乗せ、静かに膝の間に分け入ってきた。
「感謝するんだな、サード。」
 ぐっと近づいた顔は、どんな至近距離で見つめても欠点の見つからない美しさだった。
「エリファスが一生お前に教えてくれないことを、我がその身体に教え込んでやる。」
「やめろ・・・・」
 ようやっと絞り出した抵抗の言葉は、虚しく闇に消えた。
 ずん、と下腹部に衝撃が走り、突き上げられた身体が枕を押した。
「ぅあああああああ!!!!」
 目と口を限界まで開いてサードは絶叫した。
熱い。
 熱くて固くて太いものが、どんどん自分の中へ入ってくる。
 絶対に許してはならない場所を暴きたてられた屈辱が血液と一緒に逆流した。
「ああ・・・あ・・・あああああ」
 両手でシーツをぐしゃぐしゃに握り締め、押し上げられた足で宙をめちゃめちゃに蹴った。ドン・サウザンドはサードの首筋に顔をうずめるようにしてのしかかり、奥へ奥へと身体を捩じ込んでくる。
 そして彼の動きはそれだけには留まらなかった。
「自らの穢れを自覚できないというのなら、刻みつけろ!」
「!!ゃあ!ああ!!ああ!!あああああああああ!!」
 ベッドが膨らむほど強く引き、腹をつぶすように強く押す。深く、強く、速く、高級なベッドのスプリングが悲鳴を上げるほど激しい上下運動がサードの思考を吹き飛ばした。
「ぅ、はあ、は、ああああ、ああああ、ら、めぁ、もう、ぅあああ!!!」
 全てを奪われる。今は自分の身一つしかないのに、それをこの男に全て持って行かれてしまう。呼吸も思考も、誇りさえも。
 踏みとどまり精一杯抵抗しようと、必死で歯を食いしばったが何の役にも立たなかった。
 いきり立ったそれが全く未知の領域を何の遠慮もなく蹂躙し、一際太い部分がしこりを抉った。いつの間にか流していた生理的な涙で視界が歪んだ。
「汚い、浅ましい、醜い、お前という人間を!思い知るがいい!!」
「ひっぐ、う、うう、く、あふ、ああ、あ・・・」
 唇に吐息がかかるほどの距離で、ドン・サウザンドは囁いた。
「愚かなサード。」
 びゅく、と体の中のものが動いた。
 反射的にサードの体に緊張が走り、膝下がぴん、と突っ張って足の指先が丸まった。
「ああ・・・・」
 ボロッ、と大粒の涙が頬を伝った瞬間、びゅるるるる、と勢いよく体内で何かが放たれた。それは腸を押し広げるほど濃く、最奥まで届くほど量が多かった。
 パタリ、と足がシーツの上に落ちた。
 ドン・サウザンドはゆっくりと体を起こした。その長い髪がサードの胸の上に落ちてとぐろを巻いた。
 このわずかな間に自尊心をズタズタに切り裂かれた少年は、虚ろな目で天井を眺めつつ、恥辱を耐え忍ぼうとするかのように唇を引き結んでいた。それを解きほぐすように、ドン・サウザンドが優しく唇を重ねた。
 そのときになってようやく、いつの間にか床に落ちていた端末が鳴らし続けていた音がサードの耳に届いた。着信を知らせるその音は何度も何度も鳴り響き、なかなか止むことはなかったが、サードにはどうすることもできなかった。
 ただドン・サウザンドの唇と舌を受け入れ、肌を重ね合わせることしかできなかった。

 暗く湿度の高い部屋の中で、絡み合う体がしっとりと汗ばんだ。


 隣でファーストがくしゃみをした。
 エリファスはジロリとそれを見て「中へ入っていなさい」と言った。
「やだよ、まだセカンドも帰ってきてないもん。」
 薄いコートの裾に両手を突っ込みながらファーストが答える。
 後ろからダークが顔を出し、ファーストが振り向いて尋ねた。
「どうだった?」
 ダークは黙って首を振る。六十郎の家にも何度も電話を入れたが、やはり戻ってきていないと言う。今闇川が周辺を探してくれているのだが、影も形もないらしい。
 雨はすっかり止んでいたが、そこから気温が一気に下がって肌寒い。サードは薄いシャツにベストという格好で出て行ったから、もし外にいるなら随分寒い思いをしているはずだった。
「電源は入ってるんだ、コール音がするもんな・・なあ、警察呼ぼうよ、エリファス。」
「今知り合いに連絡を入れている。」
「そういうんじゃなくてさぁ・・わかんだろ、サードがみんなにこんな心配かけて黙ってるはずがない、何かあったんだ。」
 すると、車庫の方で音がして、セカンドとエナが出てきた。
「どうだった?」
「こっちの台詞。」
「どっこにも見当たらねえ。五号線沿いを何度も行ったり来たりしたし、本屋もゲーセンも見たんだけど・・・」
「セカンドじゃないんだからゲーセンにいるはずがないだろう・・・」
「なんか言ったかダーク。」
「天城様のお宅まで行ったのですが、いらっしゃらなくて・・」
 エナが心底不安そうに言った。
「アークライト様のお宅にも電話を入れていただいたのですが、連絡も何もないそうです。クリス様のお仕事場にも。」
 エナはそのまま離れの方へ電話をかけに入っていった。兄弟三人はエリファスと並んで門の前に立ち、思案げに空の向こうを眺めた。
「なぁ・・・」
「電話をしてくる。」
 エリファスはそう言って門をくぐり、屋敷に入ってしまった。セカンドが空腹も忘れて忌々しげに溜息をつく。
「やばいって。なあこれやばい感じがするよ。」
「セカンドの口調がやばいぜ、頭悪い高校生だよ。」
「うるさいな。」
「・・・・あ。」
 ダークがポツリと声を漏らした。二人が同時にそちらを見ると、黒塗りの車がすぅっと屋敷の前にやって来て止まったところだった。
「・・・・?」
「あ。」
 運転手が出てきて後ろに回り、扉を開いた。そこから車内を覗き込んだファーストが驚きの声が上げた。
「サード・・・!」
「サード。」
「エリファスーー!サードが帰ってきたーー!」
 ファーストが叫びながら母屋に駆け込んでいく。ダークも追いかけて行った。
 サードは疲れたような顔でなかなか車から降りてこなかった。セカンドの呼びかけでようやく反応し、顔を上げる。
 何かあったな。
 しかもひどいことが。セカンドはそう察した。
 サードはふらり、と出てきて背筋を伸ばして立とうとしたが、よろめいてセカンドの方へ数歩歩いてきた。慌てて抱きとめると、顔を伏せたまま小さく体を震わせた。
「サード・・・?」
 ダークがコートを抱えて飛び出してくる。エナが玄関先まで持ってきていたらしく、セカンドのコートだった。サードは「すまない」と聞き取れるか取れないかくらいの小さな声で言い、セカンドから体を離した。
 サードの体をダークに渡し、セカンドは車の方を見た。タクシーではない。しかももう一人乗っている。誰だ。
 少なくとも、サードが何かあって一人でタクシーを捕まえてきたわけではないようだった。運転手はサードを気遣うような素振りは少しも見せず、セカンドに目礼もしないまま車内に戻ろうとしている。
「どうした。」
 門の下で、肩にセカンドのコートをかけられダークに体を支えられるように歩くサードとすれ違ったエリファスが言った。サードは答えないまま中へ入っていく。顔を上げたエリファスは、セカンドの向こう側にある車を見つけて凍りついた。
 バタリ、と音を立てて車が開き、一人の男性が降りてきた。
(こいつは・・・!)
 セカンドも目を見開いた。
 エリファスと似たような身長と体躯。少し細い方か。何度か見た覚えがあった。
「久しぶりだな。エリファス。」
 妙に耳に残るような声が響いた。
「・・・・どうしてお前がここに。」
「決まっている。貴様のご子息が道端で苦しんでいたのを、休ませた後に送り届けてやったのだ。」
 感謝しろ、と言わんばかりの台詞の裏に、相手の怒りを楽しむような声色が潜んでいる。
「え、サード!?大丈夫か!?」
 後ろでファーストの能天気な声が響いた。
「送ってもらったの・・?あ、ありがとうおじさん!ありがとうございます!」
 セカンドの隣まで出てきてにこにこと笑う。男はそれに目もくれず、エリファスをじっと見ていた。見下ろしていた、という表現の方が正しいかもしれない。
「・・・・・?どうしたんだ?」
 いつもなら、こんなことがあったら客人をすぐに中に通してお茶を出してお礼をするのに。まるで宿敵のように睨み合っている三人を、ファーストが不思議そうにキョロキョロと見比べた。
「セカンド?」
「お前中に入ってろ。」
 セカンドは男を見据えたまま厳しい声で言った。その口調にただならぬ雰囲気を察したのか、ファーストはぐっと黙り込んで不安そうに振り向きながら中へ入っていった。
 中からはエナが、闇川に電話をかけてサードが帰ってきたことを伝えている声が聞こえる。次に口を開いたのはエリファスだった。
「・・・サードに何をした。」
「人聞きの悪いことを言う。さっきお前に伝えたとおりだ。サードに聞いてみるがよい。きっと我の言った通りに答える。」
「ならば何故私に連絡を入れなかった。」
「サード本人が嫌だと言ったのだ。」
 嘘だ。セカンドは口の中で呟いた。
「それでは私はこれで失礼する・・・。ご子息に養生しろと伝えろ。」
 男は最後に見下したように顎をしゃくって言うと、さっさと車に乗り込んだ。走り去っていく車を睨むように見送ったセカンドは、エリファスの顔を見てぎょっとした。
 一見誰にもわからない変化かもしれないが、これまで滅多に浮かべないような表情だったからだ。

 中に入ると、ダークが困惑したようにこちらを見た。
「サードは?」
「風呂に。手伝うと言ったのだが。」
 セカンドは、風呂場に隣接する脱衣所まで静かに歩いて行った。
 シャワーの音が聞こえる。
 しかしずっとシャワーが流れてばかりで、体を洗っているような気配はしなかった。
「・・・・サード?」
「・・・・・」
「サード、何が・・・・」
「・・・・・・傘・・・」
「え?」
「闇川の傘、忘れてきてしまった。」
 掠れた声だった。
 きゅっと蛇口を捻る音がして水音が止んだ。
 ポツリ。
 ポツリ。
 水の滴り落ちる音。

 セカンドは、サードと自分を隔てる一枚の扉がとんでもなく分厚いもののように思えて、絶句した。