失楽園-02 ぬるま湯、シャワーの雨と崩落の足音





 セカンドが籍を置く高校は良家の子女が通う由緒ある私立の学園として名高い伝統のある学園である。概ね生徒達は礼儀正しく、品行方正で上流階級のコネクションというものに熱心であったがどの世界にも例外というのはいるもので、この場合その例外であり品行方正からドロップアウトしたアウトサイダーなはぐれものこそがセカンドのいる立ち位置だった。
 とはいえそれはセカンド自身が選び取ったものであり、彼本来のステイタスは他の生徒に遜色ないどころか頭二つも三つも抜きん出ているものだ。しかしセカンドはそれを鼻にかけない、どころかどうでもいいと思っていた。完璧な兄サードがゼアルの全てを継承することが決まっている以上、次男のセカンドはその意味では兄のスペアでしかなく、また堅苦しい立場に家族が自分を押し込めなかったことに感謝していた。
 優雅に挨拶を取り交わす生徒達の中に紛れてセカンドは沈鬱な面もちで学園敷地内を歩いている。するとその不用心さに付け込んでか、不躾に、道のど真ん中だというのにそれを摘まんで制服のスカートを捲る感触があってセカンドは緩慢に振り向いた。女装癖をこじらせたセカンドは女子制服を着続けてもう数年目になる。
「……あー、ベクター。おはよ」
「あ? なんだよ浮かない顔して。生理か?」
「来ないよ」
 セカンドは首を振った。
 スカートの中身、パンツの柄や形を確認するのはこの男の趣味だ。しかも公道のど真ん中でやるくせに自分の体でぴったりガードして当人以外には悟らせない。その上自分の趣味に合わないと放課後に何故か二人でランジェリーショップに連れて行かれる。
「セカンド」
「……何」
「授業フケるか」
 ベクターは大真面目な顔をして言った。
 類は友を呼ぶ、という諺が世の中にはあるがまさにそれで、ベクターとセカンドは所謂「同類」だった。校則なんかちっとも守る気のない品行方正とは真逆のアウトサイダー同士。セカンドはそれに頷く。二人で授業をサボるのは今までにもう数え切れないほど行ってきたことだし今更罪悪感なんて何もない。
 校舎に入ると二人で真っ直ぐに校内で一番人気の少ないトイレに向かった。そのトイレの角の個室こそが、二人の馴染みのお喋り場所なのだ。セカンドとベクターは不良なのである。

「ン、もーちょっと、奥、んん……」
「わかったわかった。つーか何で今日のパンツオレンジ色なの。大好きな兄上になんかあったのか?」
「……お前ってほんっとそういうとこだけ勘がよくてやだ」
「マジで」
「マジだよ」
 個室の便座の上にベクターが腰掛けて、その上にセカンドが乗っかっている。対面座位で身体と身体を繋げたまま当たり前のように会話を交わす。
 ベクターの腕に身体を支えられながら身体を貫かせ、雄を受け入れながらセカンドは「ん」、と少し息をつめて「あのさ」と話を切り出した。
「サード兄上がレイプされたかもしんない」
「……ハァ?」
「あっちょっ動き止めんな」
「いやそんなことより……レイプってあれ? 意に添わない強姦? あの超怖そうなお前の兄貴が?」
「そうだよ。証拠はないんだけど。ただ……経験上の勘でそうだろうって思ったんだ。兄上は『そういう』顔をしてた」
「あー……なるほどね」
 ぬちぬちと水音を立てて接合部を泡立てながら真剣な顔で話が続いていく。セカンドは中学三年生の時に色々あってベクターと初めて身体を重ねた時から、色々と悪いことに足を突っ込んできたのでその手の機敏には敏い。ベクターが常にガードしてきたので幸い大事に至ったことはないが危ない橋はいくつか渡ってきている。
 しかし、とベクターは思う。セカンドの直感を疑うわけではないが、あの用心深いゼアル家の長男をその後のリスクを鑑みず犯せる男というのが、世の中に本当に存在するのだろうか。そんなに図太い神経の持ち主などそうそういないだろう。その意味ではその次男のセカンドとふしだらな関係を持っているベクターも神経が図太いということになるのだが、しかしあくまでセカンドは友人なのである。その上合意だ。
「で、犯人に心当たりはあるのか」
「ん……俺は、兄上を送ってきた奴が怪しいと思ってる。エリファス父さんの古い知り合いみたいだったんだけどすごい険悪な感じでさ。父さんもあいつが何かしたんだとは思ってるみたいだけど、でもまさかレイプだとは思ってないだろうな……でも」
「根拠があるのか」
「シャワー。兄上、ひとりで浴びてた。ドアの向こうの兄上……すごく遠く感じた。まるで汚れた自分を見られたくないみたいだった」
 ずぷん、と侵入した男根がセカンドの奥を抉る。小刻みに身体を震わせてセカンドがねだるように後ろを締め上げるとベクターは仕方なしというふうに精を吐き出した。慣れた感触。腸の奥に吐き出される白濁の熱とどろりとした快感。
 セカンドにとってこの行為は快楽である。中に出されるのも気持ちいいし、望んで行っている。だけどサードは。
 サードにとっては。
「あー……きもちい……。……ベクター」
「なんだ」
「俺はさあ、お前とセックスするの好きだし中に出されたいからそうされるじゃん」
「そうだな」
 ベクターは頷いた。セカンドが何を言わんとしているのかを察したらしい。
「でも兄上は違う。そうじゃない。だから兄上がもしここまでされたのだとしたら、酷く絶望したと思うんだ。兄上はゼアルの次期当主だ。父さんを継ぐために努力して、そのために沢山の犠牲も払って、そのことに誇りを持ってる。その尊厳を傷付けた奴を俺は許せない。父さんと違って俺には権力はないけど、そういう相手だからこそ俺達の方が上手く立ち回れるんじゃないかと思う」
「俺達っていつの間に俺のこと頭数に入れて……まあいいや。そんでそいつの特徴は? 直に見たんだろ?」
「身なりは割とよかったけど一目見てすごい胡散臭い奴だなって感じた。浅黒い肌で、金髪のロン毛に前髪だけ赤くて……」
「お、おお?」
 セカンドの説明にベクターが顔をしかめる。列挙された特徴にどうも覚えがあるような気がしたのだ。つい最近間近でそういう男を見た気がする。そういえばそいつ、今朝はいやに上機嫌だった。
 いや、でも、まさか。他人の空似だろう。そうに違いない。
「で、青と赤のオッドアイ。嫌みっぽい顔だった。変なイヤリングしてたよ」
「……セカンド。ちょっとこれ見てくれないか?」
 セカンドを抱きかかえているのとは逆の方の手で携帯を取り出し操作する。一枚の写真を画面に大映しにして見せるとセカンドの表情が明らかに変わった。
「あ! こいつ!! なんでお前写真持ってんの」
「あー……話せば長くなるが、この男の名前はドン=サウザンド=バリアン、と言ってだな」
「バリアン? お前の苗字じゃん」
「うん……俺の親父なんだこいつ……」
「……は?」
 ドンピシャである。ベクターは頭を抱えたい気持ちになったが、セカンドも携帯も取り落とすわけにはいかなかったので溜め息を吐くに留めた。
 セカンドは「こいつは何を言ってるんだ?」という顔でセックス相手の顔を見ている。しかし嘘でも冗談でもなくそれが事実なのだった。
「何? つまり兄上を犯したのがお前の父親なの?」
「そういうこと。ついでに聞くが、お前の父親の名前って」
「エリファス。エリファス=アストラル=ゼアルうんたらかんたら十九世」
「あー、うん。これではっきりした。俺の父親を本家から放逐して勘当に追い込んだの、多分お前の父親。あのクソオヤジそのことすげえ根に持ってるから、多分……意趣返しの復讐だ」
 三秒ほど気まずい沈黙が訪れて、その後二人揃って大爆笑した。笑いが堪え切れなかった。男子トイレの個室、二人のほかに誰もいないその空間に笑い声がこだまする。狂ったように。ネジが十本、ないしは百本――抜けているかのように。
 抱腹絶倒しながらも下半身は交わりを続けていて、抱き寄せられたセカンドは雄を咥えたままの尻穴を収縮させ、その一方でベクターは潜り込んだ自身を大きくする。「やっべえ」セカンドが生理的な涙を目尻にたたえて言った。
「何これ運命? というより、マジで俺の大切な兄上をレイプしたのお前の父親なの? うける……絶対許さねえ」
「大マジなんだなぁこれが。おお怖い怖い」
 ベクターが茶化すように目を細めるとセカンドは口先だけにんまりと笑った。金色の両眼は、決して冗談を許す色をしていない。
「それでお前どっちにつくの」
「どっちって」
「俺のために父親を売れる?」
 蛇のような声音で囁いた。細い指先でベクターの顔を撫で、きゅ、と男根を締め付ける。痛みを感じない程度に、しかし快楽を得られるように加減してご機嫌を伺うのだ。
 まったく毒女のような男である。高潔さを良しとするあの一族の中でこいつは浮いてないんだろうか。いや、うまくやっているんだろう。そういうところにもベクターは惹かれたのだ。
 そしてうまくやりこなせるからこそこいつはゼアル一族の本家次男なのだ。
 ベクターは首を振ると「心配すんなよ」と囁き返してやった。
「そもそも俺はあの親父殿のことが血反吐が出るほど大ッ嫌いなんだよ。売るもなにものしつけてエリファス義父上に差し出してやりたいぐらいで」
「お前それ父さんの前で言ったらキレられるぞ……誰がお前の父親だー、って……」
「それは冗談として微塵も躊躇いはねえな。大体俺のセカンドの命より大事なサード義兄上が」
「誰がお前のだって?」
「ジョークだ。それはそうとしてセカンド、俺はそう遠くないうちにあのクソオヤジと自分から縁を切りたいと思ってるし、まあほっといてもそのうち勘当されるだろう。利害の一致だ。俺にとってもあのオッサン、単に煙たいだけの存在に過ぎねえんだよな。まあせいぜい肉親という近しい立場をうまく利用してくれ。お前はそういうの、得意だろう。ジョーカーばっかり手札に隠し持ってるよーな人間だ」
「お前のその物わかりのいいとこ、嫌いじゃないぜ」
 にこりと微笑み、出していいよという合図にセカンドが細い身体をしならせた。慣れた遣り取り。二度目の精を直に吐き出すとセカンドが嬉しそうに惚けた顔をする。この少年に夢中になって既に久しいが、今もなお、やはりこいつとの「わるいこと」は楽しくてたまらないという最高の高揚感を与えてくれる。
「プリクラ撮りに行こうぜ」
「記念に?」
「そう。記念に」
 密着して悪戯を思い付いた子供の声と同じトーンで提案するとそんなことを言われた。
「俺達の父親が敵同士だった記念? うわー……それ最高にキてる……」
「だから楽しいんだろうが」
「だよなぁ。わかる」
 繋がりを解く前にハグをする。恋人同士のように愛おしんで、「自称セックスフレンド」の悪友はにんまりと笑って宣言した。
「じゃあ、今日は記念日だ」



◇◆◇◆◇



 甘美な身体だ。穢れを知らず、汚れを忌み嫌う。常に美しくあろうとする。清潔な硝子の中で潔癖に育てられた真白で清廉なその身。
 故に穢したい。貶めたい。父親があらゆる手段でもって遠ざけてきた不純、悪徳、ありとあらゆる汚く醜いものたち、それらでぐちゃぐちゃに染め抜いて堕落せしめるのだ。
「エリファスが一生お前に教えてくれないことを、我がその身体に刻み付けてやろう……」
 薬物で身体の自由を奪い、首筋にナイフをあて、身動きを封じた上でその行為に及んだ。何も知らない無垢で初心な、赤子同然のその肉体にまず一つ目の恥辱を与える。無骨な男の指先に尻の穴を犯され、少年は未知の感覚に喘いだ。絶望的な屈辱をその瞳の内に灯らせ、睨みつけながら。
「愚かなサード」
 まるでそれが世界で一番の不幸かのように振る舞う。本当の屈辱を知らない特権階級のお坊ちゃまにはほとほと辟易させられる。しかしだからこそ御しやすい。コントロールしやすく穢しやすく堕としやすい。彼の「処女」を奪うなどというのはまだ始まりにすぎないのだ。第二、第三の恥辱、第四の辱め、第五の圧倒的な絶望――余興はまだまだたっぷりと用意してある。
 さあ、存分に楽しむがいい、サード=アストラル=ゼアル。
 お前の全てを、その身から心まで略奪してやる。
 あの雪辱の代償として。


「――ッ兄上! これは如何なるお心故のことか……説明願えるでしょうな……!!」
「単純なことだ。お前は汚れすぎた。最早ゼアルには相応しくないほどに」
「?! 私は兄上の御心に従い、影で役割を全うしたまで。私自身の意志で何かを穢したことなど」
「『それそのものが』歪みなのだよ。お前にはわからないか。可哀想な私の弟」
 エリファス――本家長兄、その時までは敬愛する兄であったその人は極めて端的に、無情に、冷たく侮蔑の眼差しと言葉を寄越した。恵まれたエリファス。何をやらせても完璧で、一分の隙もなく、傷のない珠のような人生をこれまでもこれからも約束されている男。まるで完全を絵に描いたかのような、敷き詰められたレールの上を悠々と歩いて行くそんな彼。
 私はあの瞬間まではその男のことをこの上なく愛し、執着していた。たった一人の血の繋がった兄弟。エリファスのためならどんな汚れ仕事に手を染めても構わなかった。殺人ですら彼の前には些細な問題にすぎなかった。
 エリファスも私を愛してくれていると信じていた。私とエリファスの間には密やかな取り交わしがあり、それが私達をより強固に繋いでいるのだと信じて疑わなかった。ああ愚かな弟。私はエリファスを、兄を、ちっとも理解してなどいなかったのだ。
「絆すために必要だからとお前と繋がりを持ち続けたが、やはりこの古い慣習は間違いだ。父上に提言し、私の代からは撤廃しよう。我が子達にこのような醜い真似はさせたくない……」
「……では。それでは私は、どうだというのです、兄上ッ!!」
「お前はもう要らぬ。確かに必要な犠牲ではあったし、役には立ったが、それまでだ。出来損ないの本家の面汚しめ。×××××という名は、お前にはもう相応しくない。ゼアルという家名も二度と名乗るな。お前は最早我らが栄誉ある一族の一人ではない」
「兄上……あなたという人は……」
「最早私はお前の兄ではない。去れ」
「……兄上ッ……この恨み、いつか必ず……!!」
 こうして可哀想な×××××、ゼアル一族最後の忌まわしき因習の犠牲者はこの世界から存在を抹消された。兄とよく似た誇りでもあった名は忌むべき楔としてのみ残る。一族から放逐された私はやがて裏社会で実権を握り、のし上がり、「ドン・サウザンド」と名乗るようになった。千の顔を持つ邪神「ニャルラトホテップ」のように、おぞましい男としてその筋では絶大な権勢を誇るまでになった。
 心に残り続けているのは、純粋であったが故に裏返って強固な憎悪となったエリファスへの復讐。どのように彼に意趣返しをしてやるかがドン・サウザンドにとって一つの大きな課題だった。味わった絶望を何十倍にも膨れあがらせてエリファスに寄贈してやらねばならない。心臓を抉るような、甘美な毒を盛るにはどうすればいいのか。
 そこで目に留まったのがエリファスと同じ次期頭首の立ち位置に置かれている嫡男のサードだったのだ。サードは正にドン・サウザンドの目的にぴたりと適う存在だったのだ。品行方正で、父親に強い愛情と服従心を持ち、全てに置いて優れていた。まるでエリファスの生き写しだった。
 サードは実に彼の父によく似ていたのだ。


「お前は本当に理想的だ……エリファスによく似たその姿……思想……それらが我の心を容易に乱す。お前を使ってあの憎き男に復讐を果たせと」
 抱き潰され、気絶してしまったサードは乱れた肢体をドン・サウザンドの隣に晒していた。はじめは、昔寝台で見たエリファスの身体によく似た潔癖症のにおいがしていたその肢体は今となっては見る影もないぐらい無残にドン・サウザンドに弄ばれ汚されてしまった後だった。
 しかし一度交わっただけでこれとは、脆弱なものだ。彼にはまださわり程の屈辱しか与えていないというのに。ここから先に進んだ時、サードは一体どういうふうに乱れて、また壊れていってくれるのだろうか? それを思うと自然と胸が高鳴った。そうだ。これからこの少年を、一つずつ紐解くように壊すのだ。
「愚かで可愛いサード」
 返事はない。屍のように倒れて、雄の、ドン・サウザンドの、優等種のにおいを染み込ませている。
「いずれ自らの意思で我に頭を下げるその時を、我は心待ちにしているぞ……」
 少年の身体を撫でていると、携帯のバイブレーションが響いて思考に干渉する。プライベート・アドレスへの着信だ。ディスプレイに表示されるのは「愚息」の文字。
「……何だ」
『親父、帰りいつになる。明日か? もっと後か?』
「くだらない用で掛けるな。三日後だ。お前がどうしようと我の知ったことではないが、我の邪魔をするような真似はしないことだな。息子だからと言って容赦はせん。それ以外なら我は一切干渉はしない」
『知ってる。じゃあなクソ親父』
 電話は一方的に切れた。息子のベクターからだ。実の息子ではあったが、愛着はさほどなかった。幼い頃はその素質を期待に応えて正しい方向に使い、齢十を数える頃には裏社会で真っ当に通用する程に育った逸材だったが、何を思ったのか中学にあがっていくらかした頃にその一切から足を洗ってしまったため今はただの不良債権に過ぎない。
 いずれ息子とは縁を切ることになるだろう。しかしエリファスの勘当よりは随分と良いもののはずだ。エリファスは弟を騙していた。しかしドン・サウザンドは別にベクターを騙しはしない。ただ必要のないことは何も教えないだけで。
 そしてサードには、必要のないことこそを教え込む腹づもりだ。彼が自ら父の期待を裏切るように……
「次はパーティで誘いをかけよう。楽しみにしていろ……まあ、聞こえてなどいないだろうがな……」
 携帯を持ったついでに車を呼ぶ手配をする。サードをゼアルの家まで運んでやるためだ。まずはエリファスにそうして顔見せをし、そうして静かに、しかし確かに始まりを教えてやるのだ。
 まなじりが僅かに下がるのを感じた。これから始まることに対して、ドン・サウザンドは言い様のない感情を抱き始めているのだった。



◇◆◇◆◇



「兄上」
 呼ぶ声がした。間違えることなどしない。愛おしい弟の、セカンドのものだ。セカンドは常に兄のことを「兄上」と呼ぶ。呼び捨てでもなく、兄貴とぶっきらぼうにするでもなく、お兄ちゃんと女装癖と同じ女の感覚で呼ぶでもなく女と男のくびきで縛られない「兄上」という呼称を好む。
 いつもならこの声は彼に安らぎを、時には苦笑をももたらすのだが今度ばかりはそういうふうにはことが運ばなかった。振り向いた先のセカンドの眼差しは鋭い。セカンドは気がついている。聡い子だ。そしてそれ以上に、野生の獣のような、そういう感覚がセカンドにはあった。気高さとそれに兼ね備えられた嗅覚。
 だが悟られたくない。火遊びに興じていたセカンドが勘で当ててきたのだとしてもうんと言って縋ることなど許されるはずもないのだ。
「兄上。シャワー。俺の背中流して」
「……ああ」
「ちゃんと処理した?」
「……何をだ?」
 処理。多分、男が犯された後の事後処理、のことだろう。気持ち悪さと倦怠感を引き摺ったまま不安になってインターネットで調べたらそのことはすぐに出てきた。そうしなければ腹を下す、と。
 無論そんなことになって証拠を作るわけにはいかない。あの男の汚らしい体液は随分と惨めな気分になりながらも、必死でこの肉体から掻き出した。だからセカンドの問いに対する答えはイエスだ。しかし当たり前だが、イエスともノーとも答えられない。
 「男に抱かれた後の処理の仕方」などというものをこの家で知っているのは、男――悪友と肉体関係を持っているセカンドぐらいのものだからだ。
「……兄上はうそつきだ」
 セカンドが言った。なじっているというふうではなく、ただ、泣きそうな声だった。
「俺のことを頼ってくれない……」
「そんなことはない。俺はお前のことを頼りにしている」
「また嘘。俺にはわかるよ。兄上、サード兄上はあの男に陵辱されたんだ。それも最後まで。エリファス父上はあいつがサード兄上に何かしたことには感づいてるけど、犯されたとは思ってない。そういうこと、考えられない人なんだ。だけどドン・サウザンドは……」
「奴を知っているのか?!」
「そういうこと、平気でする奴だ。――その息子のベクターがそう言ってたんだから間違いない」
 セカンドの肢体が脱衣場で露わになる。見慣れた弟の身体。自分で選んだ答えとして悪友にのみ捧げられてきた身体は、純潔とは言えないかもしれないが美しいままなのだ、とサードには思えた。そこには感情がある。愛情と信頼があり、セカンドはベクターにその身を委ねた。
 だけどサードは違う。シャツとパンツに覆われたままの我が身を省みる。望まぬ男に意に反して犯された肉体は、汚泥にまみれているかのようにぬかるんでどろどろとしたものを引きずっているようだった。汚い。穢らわしい。
 それは最早セカンドの前に晒せるようなものでは有り得ない。
「兄上、脱がないの」
 セカンドの視線が射抜くようだった。「腕まくりをするから」と言い訳じみた言葉を絞り出す。それでもうセカンドは何も言ってこなくなって、情けない話だがほっとした。
 浴場に入り、腰掛けたセカンドがシャワーをサードに差し出す。コックを捻る音、続いて、ぬるま湯の生温かい蒸気。ゆるい雨の音。何かを示唆するような人工雨に濡れながらセカンドがぽつぽつと口を動かす。
「……俺はさ、ベクターに抱かれるの、好きなんだ。ふしだらだっていうのはこの際置いといてさ、素直に気持ちいいし嬉しい。……もし兄上が自分の心で同じことを考えるんなら、実のところ俺は兄上を止める気はない。だけどそうじゃないはずだと思ったから。ドン・サウザンドは自分を本家から追放した父上を憎んでる。その復讐に兄上を選んだ。……だから」
「……ああ」
「兄上は嫌だったはずだ。心底嫌だったはずだ。だけどきっと家族を盾に取られたんだろうなって、それも思った。兄上は優しい。やさしい、うそつきだ……」
 セカンドの流れるようなオレンジ色の毛髪がをすすぎながらその言葉を聞いた。ひとり言みたいな独白。きっとセカンドは相当考えて、それでもやはり言わなければと思ってその言葉達をサードに突き付けることに決めたのだ。一つ一つに重みがあって、それらはサードの心に滑り落ちていく。セカンドの声は暗に「そのためにあなたが穢されるべきではない」「その他のために自らを犠牲にするべきではない」という警告と哀切を孕んでいた。
 心臓を締め付けられるような気分だった。
 けれど、弟のその願いに応えることは、サードにはきっと出来ない。自分がどういう選択を取るかを一番よく熟知しているのはやはりサード自身でその本能のような物が告げている。不可能なのだ。自らを守るために愛する家族達に危険が及ぶ可能性を野放しにするなどということはサード自身が絶対に許さない。
「ドン・サウザンドのプライベート用のアドレス、ベクターが知ってる。あいつは親父さんのこと大嫌いだから兄上に協力してくれるって言ってた。俺も教えてもらってる。ただ、俺自身は使うつもりはないよ。……だけど、もし兄上がそれを必要としているのなら、武器にしようとするのであれば教える。――その時になったら俺の部屋に来て」
 そして恐らくは、セカンドもそれを理屈では理解していた。だから譲歩を差し出す。手に取るのは自分で決めろ、という進退の余地。
「わかった。ありがとう、セカンド。愛しているよ」
「……そう。俺も……俺も兄上のこと…………ううん。野暮、かな。ねえ兄上、そうしたら、俺の髪を結ってね」
「ああ。彼は下ろしている方がきっと好みだと思うがな。お前がそう望むのならば」
 シャワーの音が止まる。ぬるま湯の雨が止んで、セカンドの水に濡れた肢体がサードの眼前につまびらかに示された。タオルで拭って、それを拭き取っていく。丁寧に、しかし事務的に。
「彼はきっとお前を裏切らないよ」
 小さな声でそう呟いた。それはまるで某かの暗示のようだったなと、サードは後になって思った。