高校指定の制服を型通りにきちんと着込んで、いかにも良家の子息といった風体をした少年が立っていた。彼は近付いてきたサードに気が付くと花が咲いたような笑顔をして、物腰柔らかに振り向く。
「お久しぶりですサード義兄上! 急にお呼び立てしてしまってすみません……ちょっと、二人だけで話したくて。セカンドには席を外して貰えないかってお願いしました」
「……ああ、久しいなベクター。兎に角その堪に障る話し方を止めてくれないか。今更私に対して取り繕うものなど何もないだろう」
「やだなぁ、僕、お外ではいい子で通ってるんですよぉ。お外って、本当に外ですけど。……行きましょう。あっちにセカンドが好きなカフェがあるんです。義兄上、お時間は」
「割いてある。……それから」
「はい?」
ベクターが薄ら寒いほどの作り笑顔で小首を傾げる。外ではいい子とはよく言ったものだ。セカンドとふしだらな関係を持ち、校内でもそれをはばからず(このあたりはセカンドがぺらぺらと喋ってくれた)、その上あの男の息子だというこいつが良い子の猫をかぶる「外」が一体どこだと言うのか。
薄々察しはつく。日の当たる場所ではないのだろう、ということがだ。
この男を信用していいものかどうか、サードはまだ決めかねていた。セカンドを信用していないわけではない。セカンドの見る目が曇っているとも思わないし、「悪い子」をやっている分セカンドの方が目利きな部分さえあるだろう。しかしそういった諸々とは無関係な部分で、迷いがある。
「ねえ、何ですか、義兄上」
「俺はお前を弟に持った覚えはない。俺の弟はセカンドとファースト、そしてダークの三人だけだ」
なんとなくすっきりしない気分でとりあえずその言葉を突きつけると、ベクターはやはりこてこてとした笑い顔で「まあそれはいずれ、ね?」と悪びれるふうもなく言った。
「あまり世間話をする趣味はないからな。前置きはこの程度で本題に入るぜ。あんたが今欲しがってるのは……これか」
ぴらぴらと薄っぺらいメモ書きがベクターの手の中で揺れた。サードの身体がびくりと強張るのを確かめ、ベクターがくつくつと笑う。
そして反応を確かめ終えてメモをスッと引っ込めると急に真剣な顔つきになってサードの双眸を睨んだ。
「あまり慌てなさんな。別に俺は逃げねえし代価を要求しようとも思っちゃいねえ。ただ確かめたいだけだ。……サード、あんた、本気で自分から接触を図る気なのか」
「当然だ。そのために今お前と話をしている」
「言っておくがそいつは懸命な判断じゃねえぞ。正気の沙汰でもない……自ら進んで食虫植物の花弁の中へ誘われていくような、火に入る夏の虫みてぇな、そういうほとんど自殺と変わりねえ行為に相違ない。要するに進んで食い物にされに行くに等しいわけだ。あんたがうちのクズ親父殿と関係を持ちたいっつうなら俺は止めねえがな。関係を断ちたいのであればむしろ逆効果でしかない」
「……何が言いたい?」
「あんたには覚悟が足りねえ。見たところな。それに覚悟があるからいいってもんでもない。俺はあんたを止めたい」
サードは息を呑んだ。ベクターの主張には筋が通っており、正論という名の冷や水を頭からかけられる気分に似ていた。あの男の危険性、そうだ、わかっている。
正気の沙汰ではない。薄々、勘付いてはいる。
「あんな奴関わらないのが一番なんだよ。それをましてや自分から呼び出すなんぞ、鴨が葱しょって歩いてくるようなもんだ。悔しいがあのオッサン、言葉でも体術でも相当なやり手だ。そうまでして何故あんたはこれを求めている?」
「……ファーストを人質に取られ、私は、このままでは家族皆が危機に晒されかねないと……そう感じた。手をこまねいているわけにはいかない」
「あっそう……ご立派な正義感ってわけね。吐き気がするな。言っておくがあいつ、あんたみたいなお綺麗でプライドの高い、そう……エリファスのようなヤツにしか興味はないぜ。ガキのファーストやダーク、ついでに俺とぐずぐずのセカンドには目もくれてない」
「詭弁だ」
「あくまで強情を貫くか。だったら俺もあんたに伝えておくことがある」
なんだ、と口を開く間もなかった。
ベクターの右手が空を切ってサードに伸び、その首筋でぴたりと止まる。よく手入れされた鋭利な爪先が頸動脈に押し当てられているのだということを理解するまでに数秒を要した。その爪が、刃物に劣らぬ切れ味を秘めている諳器の類なのだということを悟るのに更に数秒。
このまま一息でお前を殺すことが出来るという宣戦布告のような間合い。
「……私をどうするつもりだ?」
「どうもしない。今はな。だがその時が来たら俺はあんたに突き付けたこの刃で喉を掻ききる」
「それこそ正気の沙汰ではないだろう。人殺しなど……」
「殺人がなんぼのもんかね。あいつに育てられたんだぜ? 俺の倫理観なんぞとうに狂ってるんだよ。……なあサード。俺は本気だ。もしもあんたが親父の手に堕ちて……セカンドに害をなす存在に成り果てたのだとしたら、俺はあんたを始末するぜ。その結果セカンドに俺が殺されたとしてもな。この意味……わかるだろ?」
「セカンドは誰かを殺したり出来るような子じゃない」
「もののたとえって奴だよ。まァしばらくはセックスさせてくれなくなるだろうから自動的に半殺しだが。俺が言うのも何だが、親父は、あいつは割とマジでやばい男だ。頭がイッちまってる。あいつの根底にはあんたらんとこの父親……エリファスへの憎悪があり、それがために最も手に入れ甲斐のある玩具としてあんたが選ばれた。遊びじゃない。本気なんだ……あの男もな」
ベクターの左手がストローを弄ぶ。右手の人差し指はサードの首筋に突き付けられたままで、寸分もぶれたりはしなかった。
器用なのものだ。その器用さが、サードを初めて犯したドン・サウザンドの時の冷酷な姿と重なって寒気が背筋を走った。
よく似た親子だ。それは彼にとってはとても皮肉なことなのかもしれないが……。
「ベクター」
「あんだよ」
「手を下ろせ。その程度で私は止められない。私自身我慢ならないんだ。あの男にいいように弄ばれ敗北したままで終わるというのが」
「……あっそ」
ベクターの顔には呆れが浮かんでいて、「折角忠告してやったのになぁ」という失望にも似たものが読み取れた。忠告。警告。セカンドが頼んだとは思えないこの行動は、ベクターがよかれと思って行ったことで、その意味で彼はサードの身を案じてくれているということだ。セカンドの兄だからか。たとえそうであったとしても、彼ら親子は性質が似通っていても全く異なる正反対の存在なのだということをサードは感じていた。
たとえば。今ベクターが見せた技術は恐らく真っ当な日の当たる場所で手に入れたものではないだろう。しかししょっちゅうセカンドに連れ回され、こうしてサードに肩入れし、ゼアルの家にさえ時折出入りすることもある彼がそういった仕事に今現在も積極的に興じているとはやはりサードには思えない。
誰かのために手を引いたのだろう。汚れを厭うたのだ。
「もうどうなっても知らねえからな」
乱雑な字で書かれた手描きのメモを受け取ってポケットに収める。メモの隅にちょっと怒っているデフォルメ顔のセカンドのらくがきがあって、なんだかおかしかった。
「ベクター。お前の敵は一体誰なんだ?」
去り際にそれだけ尋ねた。ドン・サウザンドの敵がエリファスなのだとして、サードの敵がドン・サウザンドなのだとして。ではお前の敵は何だ、ベクター。実の父親か。それとも、或いは。
ベクターは少しだけ驚いたような顔をして、しかしすぐに躊躇なく自らの答えを口にする。
「セカンドに仇成すあらゆる全て」
言葉には強い意志が込められていた。紫の双眸が黄色とオレンジのオッドアイの眼を睨み付け、射抜き、ただの少しも笑っていないのだ。
「俺はセカンドを傷つけるものを、許さない。絶対に」
◇◆◇◆◇
指定した時間通りに、指定した場所へ寸分違わずその男は現れた。用心してゼアルの系列のホテルへ呼び出したというのに、敵の本拠地とも言えるその場所へのこのことやってきた。余程の自信があるのか。そうなのだろう。この男はいつだって、自らが世界の君主であると自負しているかのような高慢な顔をしている。
「珍しいな。君から呼び出すとは。プライベート・アドレスなどどこから手に入れた? それは、エリファスですら知らないはずだ……」
「……さあな。なんだっていいだろう、そんなことは」
「フ……悪い子だ、サード=アストラル=ゼアル」
ドン・サウザントのしなやかな、しかし男らしい色香のある指先がサードの顎をつまみとった。ピクリと眉を寄せる。体格差。こればかりは如何ともし難い差である。
いかにも高級そうなスーツにネクタイのよれ一つなく身を固めたその男をサードは一切の遠慮なく睨みつけた。本家放蕩の成金が。内心で毒づく。身一つでエリファスにより追放されたドン・サウザントが一体どのような手段でここまで上り詰めたのか、それを考えるだけで吐き気がする。
「それで、本家から永久に籍を抹消されたこの薄汚い我に、何の用かな。本家の輝かしい次期当主殿」
「今後一切私に関わることを止めろ。さもなくばおまえを抹消する。完全に合法的に、しかし、あらゆる手を尽くして。エリファス父上は既におまえの下衆な企みに気付いておられる。いつまでもそのように不遜な面をしていられるなどと思うな」
「さあ――それは、出来ぬ相談だな。そのリスクを量りにかけても有り余るメリットがある」
「……どういう意味だ? 一体何を……」
「まず第一に君は我の目的を取り違えている。そしてそれこそが最大の誤算だ。それから、もう一つ」
トッ、という軽い音がした時には既にサードの首にドン・サウザントの鋭い爪が伸ばされていた。
音もなく、気配もなく、一切の察知をその男は許さなかった。ほんの一瞬でいともたやすく形成が逆転する。この前も。その前も。ずっとそうだった。歯噛みした。またこの男にこの屈辱を許すことになろうとは!
「常に自分が優位に立っていると驕らぬことだ。世界の覇者である故のゼアル一族の悪癖だな……」
「……貴様ッ……! では一体何を企んでいる!!」
「聞けば与えられるというのも甚だしい誤認だ。しかし……ふむ、そうだな。それぐらいならば与えてやってもいい。君がこれから受ける屈辱の対価として。安いものだ、このぐらいは」
「……ッ」
「我は君が欲しいのだ、サード。君自身が。あまねく『サード』の全てが。君の全てを我が略奪してやろう。君の身体も……心までも……」
左手で牽制を続けたまま、右手をすうとサードの肌に沿わせいやらしく撫で回す。蛇の舌で全身をくまなく味わわれているような悪寒。皮膚という皮膚が粟立った。なんて不愉快な。
だというのに視線がねっとりと絡みつき、あのオッドアイの双眸から目が離せないのだ。
「あのエリファスという憎き男から」
舌なめずりの音がした。後、間をおかず、サードの口をドン・サウザントは自らの舌で割り入り、蹂躙し、犯そうとするのだった。
このまま主導権を握るつもりか。サードは抵抗をするべく口づけを全身全霊で拒み、不愉快な遣り取りを力ずくで中断させる。「おや、色のない」ドン・サウザンドが残念そうなポーズを取ってそう言う。
「貴様、わかっていないようだな。ここは我が一族の領域だ。この前貴様が連れ込んだ場所とは勝手が違う」
「何もわかっていないのは君の方ではないのかね、サード。確かにここはゼアル一族が出資した場所だろうがな。その程度で安全に我に対する防備として機能すると考えるなど、愚もここに極まれり、だ。何故我の息が掛かっていると疑わぬ。我が何の対策も講じずに呼び出しに応じるなど有り得ぬ」
「……まさか」
「まあ、そういうことになるな。ようこそ夏の羽虫のように馬鹿で可愛いサード。精々我を楽しませて情けを請え。何でもするから弟たちには手を出さないで、お願い、とな……」
ドン・サウザンドの高らかな嘲りの声がサードの全身に降り注いだ。
この時サードはベクターの忠告を思い出し、しかし首を振る。今更後の祭りだ。時を止めてしまうかのようなこの二つの眼からはもう逃れられない。サードに今出来るのは、ただ、心までこの男に屈服してしまわぬように強く高潔であれと歯を食いしばることだけなのだ。
「おまえは……このだらしない突起を苛められるのが随分と気に入ったようだな。……何故そのような顔をする? 盛りのついた雌の顔をしておきながらまさか我の言葉を否定はしまい……」
「ぐ……ぅ、ひ、きょ、う、な……アッ、あぁ……」
「卑怯? 何故だ? お前が手ずから招いたことだろうに。ククク……我がお前のために手配したワインは美味だったろう。ロマネ・コンティの七十八年ものだ。不味いのだとしたら悪いのはエリファスの躾だな」
「父上の悪口を言うな……! どんなに高価なものだろうが……あんな……ものを混ぜれば味がどうなるかは……」
「元気がいいなサード。分量が足りなかったか。そうか、ゼアルのご子息様は強い薬で一息にその誇り高く気高い意志を貶められるのがお好みか」
サードのすっかり勃起してその存在を主張している両乳首を弄び、耳元でドン・サウザンドが囁く。弟達、家を人質に取られたサードがまず第一に要求されたのはドン・サウザンドが用意したワインをグラスに一杯飲み干すことだった。
しかしサードは未成年だ。悪いことが大好きなセカンドはどうだか知らないが、エリファスが配慮してくれてきたから、サードはまだ形式として必要な場以外で酒を嗜んだことはない。
それを理由に拒否すると、ドン・サウザンドはねっとりと厭らしく唇を歪ませるとただ一言「そうか」と言って一息に自らそれを煽った。
何をしているんだ、と問う余裕は残念ながらなかった。すかさず、ドン・サウザンドがサードの唇を奪い口移しで赤色の液体をサードの口内へと流し込んだからだ。
吐き出すことも許されず、鼻を摘ままれてそのアルコールを嚥下させられる。飲み込んだ先から、身体の隅々に小さくぽつぽつと火が灯っていくような錯覚を覚えはじめ、すぐにそれは燃えさかる業火のようになってサードの全身を呑み込んだ。
媚薬だ。この男はあろうことか、ワインに混ぜた媚薬を口移しで自分ごとサードに服用させたのだ。
「確かにその方が、一息に自我を忘れられてプライドを守るのには好都合だろう。だがそれではつまらない。ゆっくり、少しずつ、我がお前に快楽を刻み込んでいってやる。快楽をその身体で覚えろ。悦楽を享受しろ。あまり私を……失望させてくれるな」
ああ、今すぐこの場で舌を噛んでしまえたら! サードの意識は怒りを感じていたが、肉体の方はじわじわと熱に苛まれていく。下半身の疼きを自覚してサードは酷く惨めな心地になっていた。男としての象徴は元より……以前に強引にねじ開けられた、後腔がじく、と何かを欲しているような「錯覚」を覚えたからだ。
ドン・サウザンドの指先が、既に一糸纏わぬ姿となっていたサードの「穴」に、肢体を伝い向かってゆく。「我に抱かれるということを、身体の方は思い出し始めているようだな」。わざとらしく耳に吹きかけてやるとびくりと肩が跳ねた。
「本当に……何と、いやらしい身体だ。我のことが忘れられないか。浅ましくひくついて、このように求めているとは。我に抱かれる悦びを覚えるのに多少は時間がかかるかと思ったのだが、どうやら待つ必要はないようだな」
「それは……貴様が薬などを盛るから……!」
「いつまでその威勢が保つか見物だな。言っておくが……お前が自ら我に頭を垂れ、その唇でみっともなく請うまで我は決定打は与えぬ」
「……私は……!」
「屈さぬ、か。我の本職を忘れてくれるな。そういう強情な目をした者共に自白させるのなど朝飯前だ。尤も……奴らには我手ずからの快楽なぞ当然与えはしなかったがな。拷問には自信がある。そうして貰いたいのか? サード?」
首を振りかけた。しかし、それがドン・サウザンドの「言葉遊び」の戯れでしかないことを悟ってぐっと堪える。この男の言う「拷問」は、サードに対しては肉体への苦痛や責め苦などではないのだ。精神への苦痛。理性への責め苦。今こうして行われていることこそがサードにとっては最大の屈辱的な拷問。
「答える言葉もなしか。よかろう。ならば我は……」
一切の前触れは存在しなかった。冷たい液体に浸された太く逞しい指が突然サードの後腔に侵入を果たす。一本でもきついところに、一度に三本。サードは悲鳴を上げた。叫ぶ他なかった。激痛が全身を襲い、だというのに、身体は何かを思い出そうとする。いやだ。必死で頭を振った。いやだ、いやだ、いやだ。思い出したくない。あんな記憶……あんな、惨めで、みっともない、あんな感覚は。
サードのその感情を敏感に嗅ぎ取ってか、ドン・サウザンドはにたりと笑んだ。全てこの男の思うがままなのか。どうして上手く抵抗出来ないのだろう。ずぼ、と音を立てて指が引き抜かれると力が抜けてへなへなと身体が倒れ込むのを自覚した。その投げ出された肢体にまた指先が纏わり付く。蛇が絡みつくように、ねっとりと撫で回す。
「ならば我は好きなようにする。それだけだ」
「最初から好きなようにしていたではないか……あ、あァッ?!」
「さてな……」
サードは自分が今どんな表情をしているのか、予測も付かないで困惑していた。
破滅の足音が近付いてくる。
密やかに。しかし、確かに。
◇◆◇◆◇
サードの絹のような肌は既に男の太い指で弄ばれ、啄んだ痕が惨めにあちらこちらに刻み込まれている。震える肢体。サードは息を呑み、唇を噛む。眼前の厚顔無恥な男の顔がぼやけて歪んで映るようだった。
「どうした? 言えぬのか? 待ち侘びて仕方ないのだろう。余計な自尊心など棄ててしまえ。快楽の前に跪け。裸の人間の欲求など一つしかない」
ドン・サウザンドは確かに「好きなように」した。自らの浅薄な欲求のままにサードを翻弄した。薬を盛られて遠のいていく理性にそれでも必死でしがみつこうとするサードをまるで嘲笑うかのようにドン・サウザンドは容赦なくサードを苛む。秘所はあの逞しい指先で解かれ、ひくりと蠢いているのが嫌でも自覚出来た。
認めたくない、という一縷の、か細い感情だけがサードを今唯一支える牙城だった。砂の城のように脆かったが、それだけしか残されてはいないのだ。ドン・サウザンドはサードの肉体をサード自信よりも熟知しており、巧みにサードを追い詰める。最早どこにも逃げ場がないというところまで。
「さあ、我に願うがいい。懇願するがいい。サード、さすれば我は、お前の望む全てを与えてやれる」
ドン・サウザンドが囁く。
「お前が父親に望んでいたことを」
「あ……」
「サード」
そしてその囁き声はどうしようもなく――エリファスの声に、似ていた。
焦がれて止まない父が自分を呼ぶときの優しい声によく似ていて、それを自覚した瞬間今までで一番強い感情がゾクゾクと背を走り抜けていった。電撃を流し込まれたようなショックだった。エリファス。愛おしく狂おしい我が父エリファス、あなたによく似た声に、俺は。
サードは胸中で浅ましい自分を恥じ、詫び、しかし最早目先の欲求に抗うための力などどこにも残されてはいなくて、彼はとうとうドン・サウザンドの両眼を自ら望んで見た。
その瞬間世界が切り替わったようなショックを受けて、サードは、
(ああ、この目だ)
そう自覚する。
スカイブルーとマゼンタの互い違いの両眼。この男の性質を表しているかのような蛇の眼。それなのにやはりエリファスによく似た形をしていて、一度覗き込むと目を逸らせないのだ。
それを見つめていると欲求がこみ上げてくることをも、今度は確かにサードは認めた。
(この目が……俺は……)
残酷なほど確かに強烈に「穴」は疼き、脈打つ。ドクドクと熱い血が全身を駆け巡り、そこらじゅうが麻痺していく。「ほしい」というたったそれだけの簡単な欲求。欲望がサードの理性を溶かし、快楽に従順であれと囁いてくる。
そのぐらぐらと揺れ動く思考をドン・サウザンドの眼は針がおかしな位置で振り切れているところで、固定しようとしてくるのだ。
「サード」
低いテノールの、艶のある声音。エリファスより熱く、一方で冷たく、情熱的で冷酷で甘く苦い毒薬のような囁き声。「あぁ」サードはもう一度呻いた。薬物に溶かされた理性は、最早まともな倫理を持ち合わせてはいない。
「もう、我慢、出来ない。おれは」
「言いなさい」
「……ほしい。……あなたが……ほしい……」
「――よかろう、ならば、くれてやる」
その言葉を確かめた瞬間の、ドン・サウザンドの笑みの凄絶さは、この先一生かけてもサードには言葉で表し尽くすことは出来ないだろう。
「あぁっ!!!」
今まで指だけしか宛がわれていなかった場所に、待ち望んだ熱く力強く脈打つ男根が押し込まれる。サードの身体に空いた穴に比べて極端に太く、男性としておぞましいとすら言えるその性器で一切の気遣いなくアナルを刺し貫かれながらサードは快楽に喘いだ。悦楽という悦楽が結合部を起点に身体じゅうをかけずり回り、サードの隅々までを精神から犯し尽くしていく。頭が沸騰して破裂し、おかしくなってしまいそうだ、と思う。しかし次の瞬間にはそんな思いすらセックスのもたらす奔流に押し潰されて消えていく。
セックスをしている、とこれほど強く感じたことはサードには今までなかった。今までその認識を拒んでいた嫌悪感が流し飛ばされた今となっては、その現実を認めて肉という肉で男の存在と圧迫を感じるほかないのだ。サードの幾数倍の大きさなのではないかとさえ思われる凶器を強引に抜き差しされ、皮膚が引きちぎられる感触を覚えるが、感覚を狂わされた肉体はそれさえも性感の助長としてしか受容しない。
「あ、あァ、ン、ふあぁ、だめ、おっき、きもちいい……」
「望んで我を受け入れる感覚はどうだ? 待ち望んだ我が雄を雌同然に突き刺されて蹂躙される心地は。甘美であろう。サード、お前はそうやって拒むよりも従順である方が美しい。お前の身体は既に我が手によって侵されているのだから」
「ひぅ、うぅ、わから、ない、なかで……暴れて……きもちよくて……なにも……」
「フ……だらしなく……首輪で繋がれた雌犬のようだぞ……ああ、そうだな。お前はもう、我に首輪で繋がれて囚われ……逃れられないのだ……」
この憎いはずの男の一挙手一投足が今やサードを高みへと追い詰める全てだった。ぐずぐずに蕩けた肢体と表情で、ただ貪欲に快楽を貪ることを望みドン・サウザンドの暴力的なセックスに甘んじる。憎しみが快感で上塗りされていくような錯覚、それに伴う背徳と恐怖。ぞくぞくとした感覚が背筋を駆け上り、サードは身体を震わせてドライオーガズムを迎える。
達したのだという、気怠さとびりびりと痺れるような感触がサードの全身を苛んだ。ドン・サウザンドの大きく暖かい掌が気遣うようにサードの身体を撫でる。自らを犯す男の掌だというのにも関わらず、その時サードにはそれが父親の手のように思えていた。あの無条件で慈愛と赦しを与えてくれる、サードが求めてやまなかった……。
「ちちうえ……」
だからそれは、うわごとだった。
ただの、熱に浮かされてうなされた果ての一言で、深い意味も他意もなく、その時サードにとって自分の胎内を蹂躙する男がそうであったというだけの話だ。ドン・サウザンドはその声を聞いてとても哀しそうにしかしこの上ない快感を覚えたような笑みを湛える。父親に愛されなかったと思い込んでいる哀れな子供。それが、こうして歪な形で父性を求めて屈服している。
「我に『それ』を求めるか、サードよ」
「……?」
「ああ、そうだな、お前がそれを望むのならば……」
「ッ?! あ、やだ、それは……!!」
「我はそうであろうと努めてやってもいい……」
一際強く、深くサードの胎内を抉るとサードは舌を突き出して喘ぎ、みっともなく涎を垂らしてドン・サウザンドの肉棒によがった。胎内で欲を吐き出す男根をせがむようにきつく締め付けて放精を歓迎している。そのまま前立腺への刺激で限界を迎えたのか、サード自身も勃起した雄の象徴から精を放った。そのままくたりとベッドに倒れ込んでしまう。意識が飛んでしまったのだろう。
「く……クク……やはりこうでなくては、面白みがないというものだ……」
気絶した端正な横顔をいやらしくなぞりながらドン・サウザンドは嗤った。
「特別だ。記念に今日の後始末は我が手ずからしてやろう。お前が一生この日のことを忘れられなくなるようにな」
あられもない姿を晒し、理性を失ってドン・サウザンドを求めておいてない、サードは行為中にその名を呼ばなかった。頑なに、敬虔なクリスチャンが宗教上信仰する神はただ一人であるからと言外に証明しようとするかのように。サードがドン・サウザンドに見ているのはしかしエリファスの面影でドン・サウザンド自身ではないのだ。滑稽な。ドン・サウザンドは笑いを抑えきることが出来ず、哄笑する。
薬を使っても、まだ、サードはこの手に完全に堕ちてこない。振り向かない。ドン・サウザンドのものになろうとはしない。
だからこそ面白い。
横たわるサードの肢体は、ドン・サウザンドとサード自身の二人分の体液に塗れ、まるでサードの身体の上で二人が混じり合って消せない染みになろうとしているかのようだった。
◇◆◇◆◇
おかしな気分だった。
ドン・サウザンドが一枚も二枚も上手で、サードは完全にはめられてあの男に滅茶苦茶に抱かれた。だがどうしてだか、それに酷く絶望する気分にもなれなかったし泣きわめきたいとも感じられなかったのだ。自分一人が残されたスイートルームの中でベッドに腰掛けながらサードは自問自答する。やはり、おかしな気分だ。
目が覚めた時には既にドン・サウザンドの姿は室内にはなく、サードの身体も綺麗なものだった。ただ行為の後の倦怠感が身体中につきまとっていて、情事をこなした後特有の性の臭いが消しきれずにまだ部屋の中に立ちこめているようだった。
きっちりと畳んでベッドサイドに置かれていたシャツを手に取り、ぷちぷちと律儀にボタンを留めていく。その清潔な服に身を包んでいくうちにまるで綺麗な真綿で汚れた身体をくるみ、世界中に小さな嘘を少しずつ吐き出しているみたいな気分になった。
(シャワーの匂い……)
部屋の空気はセックスの香を残していたが、サードの身体からはそれを上塗りするような石鹸の香りがした。服を着替え終え、窓際へ寄っていって窓を開け放つ。高層ビルの上層階ということもあって、急に強い風の音がごうごうと耳に届き始める。
「入るぞ」
形ばかりの忙しないノックに続いて、サードの返事を待たずに96が入ってきて96はサードの顔を見るなり酷く不機嫌そうな顔をした。
「おい、サード」
「……なんだ、おまえか」
幽鬼のように振り向くとサードは表情の乗らない声音でそう言う。96とは知らない仲ではない。後始末を、一度こいつにやられたことがある。
「俺も仕事が捗らないと困るんでね。主の言うことは遂行しねえとな。外にリムジンを待たせてある。降りる場所はどこでもいい。大事な家族に嘘を吐きやすいように、家から少し離れたところでも」
「ああ」
「あいつはもうこのホテルから出て行ったよ。いない」
「ああ」
「……サード=アストラル=ゼアル、貴様俺の話聞いてんのか?」
「ああ……」
サードの声音は虚ろだったが、同時に、どうしようもなくおぞましいものだった。96はぞくりとするものを感じ息を呑む。サードという男が、蝶番とねじを失って壊れていくのを見守らされている気分だった。
「セカンドに言わなければと思って」
「はあ……?」
「『もう全部終わったんだ』と」
サードは両腕で自らを掻き抱いて目を閉じてそれだけを呟いた。
サードの身体にはまだ、ドン・サウザンドが壊れ物を触るように撫でた、あの指先の感覚が残されている。