失楽園-03 エデンの果実





 朝日がカーテンの隙間から差し込んで、白い壁の一部を照らした。
 ベッドの上に身を起こしたベクターは、凄まじい寝癖もそのままに不機嫌そうな顔でぶすりと考え事をした。
 部屋は平均的な高校生のものより随分簡素で必要最低限のものしか置かれていないが、シンプルな家具類の一つ一つは高校生どころか社会人の平均だって遥かに上回る値段のものばかりだ。父親の汚れた財力を遺憾無く発揮させた結果。
 頭を掻きながら目覚まし時計を見る。朝8時。土日祝日はいつも9時から10時の間に起きてくる自分としてはかなり優等生なほうだ、今日は。
 そういえば父親が四日ぶりに帰ってきている。いつもは父親がいる日は敢えて時間をずらして下の階に降り、顔を合わせないようにしていた。広い屋敷だし、ドン・サウザンドはどれだけ忙しくとも家にいる間は規則正しい生活を送っているから簡単だ。この時間はちょうど朝食をとりつつパソコンでメールを捌いているだろう。
 しかしその日のベクターは敢えて父親と朝食の時間をかぶらせようと思った。使用人はさぞかし戸惑うだろうが。
 脳裏に浮かぶ悪友の顔。
 先週の月曜日、今の自分にとって何より大切な“セフレ”が、珍しくオレンジ色のパンツを履いていた。これはちょっとよくない傾向だった。気分が沈んでいるときほど派手な色の下着を身につけたがる。特に、初恋の相手にして敬愛する実兄のことが絡むと、大体オレンジかイエロー系の色だ。
 話を聞いてやると案の定その悩みは兄のことだったが、その内容が驚きだ。
『サード兄上がレイプされた』
 ベクターもサードになら何度か会ったことがある。会話したことはないが噂話もよく聞く。品行方正で真面目、頭も良く男らしい美貌にも恵まれた人間、ベクターが最も苦手とする類の人間だ。全くこんな兄がいて何故あんなふしだらな弟が育ったのか不思議でたまらないが、おそらくセカンドの個性を愛して育ててきたのだろう。そういう意味では、感謝している。
 しかし記憶の中にある姿をどう思い描いても、強姦などされるような隙がある人間には見えなかった。一体誰がそんなことをなどと思っているとまた驚いた。今まさにこの下の階でコーヒーを飲んでいるであろう自分の父親だったのだ。
 はっきり言って胸糞悪い。
 できることならあまり触れたくない・・そもそも肉親の性事情なんて知りたくもなかった。だが、あの愛おしい、女みたいな悪友の顔が哀しみと怒りで歪むのは面白くない。自分が理由ならまだしも、自分の恋敵ともいえる男と、自分の実の父親のことで、となると。
 ここは一つ、動いてやらなければならないか。


 裏社会では驚異的な影響力を誇る男、ドン・サウザンドは、のそりと現れた息子には目もくれず遅めの朝食をとっていた。当然、挨拶もしない。朝起きて一番最初に顔を合わせたときは「おはよう」を言う、などという習慣はハナからなかった。
 使用人が慌てて用意したエビサラダのレタスにブスリとフォークを突き刺す。肉厚のベーコンエッグは撮影して雑誌に掲載できそうなほどの出来栄えだったが大して旨そうだとは思わなかった。焼きたてのライ麦パンを引きちぎるように食べながら、ベクターはあからさまに嘲笑を含んだ声で言った。
「女の趣味が変わったらしいなァ?」
「何の話だ?」
 ベクターはふふんと鼻で笑う。
「まぁ別にいいけどよ?お前の事情なんて知りたくもねえし。」
「そうだな、我もお前に知ってほしいとは永遠に思わないだろう。」
 およそ朝食時にする会話ではないが、ドン・サウザンドは顔色一つ変えずにコーヒーを口に運んだ。しばらく沈黙が走る。
 バターをたっぷり塗ったライ麦パンが半分ほどの大きさになった頃、ベクターはまた口を開いた。
「親子の趣味って案外似ねえもんだな。」
「・・・」
「我らが本家の嫡男殿とお会いなさったそうで。」
 暖かな日差しが遮断され、部屋は冷たく柔らかい戦慄に包まれた。
「・・・・・」
 ドン・サウザンドがコトリとカップをテーブルの上に置いた。
「俺の情報網なめんなよ・・・今度から、ホテルじゃなくて自分のフラットでも使うんだな。」
 セカンドの名前を出さないように少しカマをかけてみたが、ホテルを使ったのは当たっていたらしい。ドン・サウザンドは口元に笑みを浮かべた。ベクターがたまに“裏社会の権力者の息子”らしい器用な裏ワザをやってのけたときに浮かべる笑みだ。
 クロだ。
 ベクターは確信した。
 こいつ、最後までヤってやがる。セカンドの勘は大当たりだったらしい。
「何を考えているんだか・・・まだあそこの家に未練があったとはね。泣けてくるぜ。」
「借りは借りだ。」
ドン・サウザンドは淡々と答える。まだ明け方の微睡みの中にいるような表情だったが、この男が眠そうなのはいつものことだ。ベクターは余裕の姿勢を崩さないよう気をつけながらも慎重に言った。
「ご立派な執着心だな。だが手段は選んだ方がいいと思うぜ・・よりにもよって男かよ。正直、そんな趣味してるとは思わなかったぜ」
「あそこの兄弟には女はいないからな。それに、男ならば強姦罪にはならない。」
「・・・どうかしてるぜ・・」
「滑稽だな。」
 ドン・サウザンドは含みのある微笑を浮かべた。自分のことを言っているのではないだろう。むしろ、この話を持ち出してきたベクターに向かって言っているのだ。滑稽だな、お前も我の息子だから・・・。
 カマをかけて探りを入れているのがバレたな。ベクターはそう判断して、からかうような声音をさらに増長させて言った。
「借りか。俺にくだらねえ武術だのなんだの叩き込んだのはまさかその妄執のためじゃねえよな?」
「どうだったかな。お前が役に立たなくなってから、お前の使い道をどうするつもりだったかなど忘れた。」
「よほどお暇らしいな。ゼアル家の長男なら俺も知ってるが、どう首を捻ったって抱きたいと思える代物じゃなかった。」
「ああ、お前にはわからないかもしれないな。」
ドン・サウザンドは澄ました顔で言った。
「男としての矜持を奪われ、屈服させられ、誇りも自尊心も完全に損なわれた人間の絶望した表情がいかに美しいものか。」
 わからないね。ベクターは心の中で毒づいた。自分に頭を上げられない人間のどこが面白いというのだ。
まあ、その過程は楽しいかもしれない。セカンドの泣き顔を見たいという嗜虐心は確かにある。だがそれよりも、悪友として、面白いことをしよう、誰にも真似できないようなことを、と悪戯っぽい笑みを寄せてくる顔の方が好きだ。
「復讐ならなおさら、ってわけか。」
「実に愉快だな。」
「じゃあ、ゼアルの中だったら誰でもよかったのかよ」
「・・・覚えておけ。忠実で真面目な人間ほど、少し手を下しただけで簡単に堕落する。」
ドン・サウザンドはそう言うと、ガタリと椅子を引いて立ち上がった。話はこれで終わりだ。ベクターはすっかり興味を失った顔で卵の黄身をグチャグチャとかき回しながらおざなりに聞いた。
「どっか行くのかよ。」
「仕事だ。それが済んだら寄るところがあるから真っ直ぐには帰らない。家に女を連れ込むのでもなんでも好きにしていろ。」
 ベクターはくっと笑った。ドン・サウザンドはどこか愉しげな表情さえ浮かべて、憎悪と皮肉と家族愛に歪んだダイニングから出て行った。
 忠実で真面目な人間、か。そういう奴は常に満たされないものを心に抱え、それに気づくことすらできないでいる。あの悪友の兄はまさにその典型例というわけだ。
「よかった・・・あいつと正反対だわ」
 ベクターはそう独白して、もはや原型もとどめていない卵の塊を口に放り込んだ。







 その日はなんだか朝から嫌な予感がしたのだ。
 パーティーには幼い頃からよく連れて行かれ、礼儀作法もきっちり教え込まれた。敬愛するエリファスのために精一杯背伸びして、堅苦しい社交辞令が嫌いな弟たちのために当たり障りのない返答の仕方も練習した。
 だから、この手のパーティーはさほど苦痛ではない。
 政府の高官から財閥の幹部までが顔を揃える立食パーティー。年に一回やっていて、来るのも初めてではないし顔見知りがいないわけではないが、慣れているとはいえ自分より遥か年上のお偉いさんばかり集まっている中を歩くのは息苦しい。二人仲良く寄り添って料理をがっつき、大人の問いかけにも物怖じせずに答えるファーストとダークはこういう場では人気者だったが、今日は学校の補習があるのでいない。
 エリファスはずっと公務執行委員会の会長とやらと話し込んでいた。社交辞令と情報収集のせめぎ合いだ。サードが割って入るべきではないのは明らかだったので、適当にぶらついて時間を潰すことにする。
 エリファスに口煩く言われるだけであまり自覚がなかったが、サードは社交界に引っ張り回されまくったこともあってこういう世界では顔も名前もよく知られていた。
 代々続く『ゼアル』の一族の次期当主。いずれはこの社会で大きな影響力を持つことになる。よからぬ理由で言い寄って来る連中も少なくなかったが、このパーティーの出席者の中にはそんなやつはいないはずだった。
 それなのにこの胸騒ぎはなんだろう。
 あの事件があってから二週間が経つが、衝撃が頭から抜けきらない。時折何の前触れもなく脳裏に蘇っては身体を凍らせる。
「サード。」
 後ろから声をかけられて思わず身体が跳ねた。
 振り向くと、ドレススーツに身を包んだセカンドが立っていた。
「どうしたんだよ、ぼぉっとして珍しいの。」
「・・・どうした。」
「もうすぐ始まるぜ。」
 壇上に人が集まっている。人だかりの中にはこのパーティーの主催者が立っていた。
「俺、六十郎爺ちゃんのとこ行ってくる。挨拶してきなさいって、エリファスが。」
「庭か。」
「多分ね。」
 セカンドは言ってくるりと踵を返した。
 黒いスーツの背中に、ゆるく束ねられたオレンジ色の後ろ髪が揺れる。去年はカクテルドレスで現れたのだが、今年は気に入るドレスがなかったのだそうだ。女装癖を最低限止めはしないがあまりよく思ってはいないエリファスは喜んでいた。
 サードも会場から出ることにした。この手の演説は自分のような若造がしたり顔で聞いていい顔をされるものではない。ちょうど一休憩したかったところだ。
 臙脂色のカーペットを敷かれた廊下を歩いていく。柔らかな灯りが灯っていて人気がなかった。宴会の賑わいから少し離れた静けさがサードは好きだ。
 しかし、朝から感じていた嫌な予感がまた頭をもたげてきた。ああ、二人の今日の補習は大丈夫だろうか。月曜日の振替分だというが、テストに失敗したらまた休日登校しなければならない。ファーストは結局昨晩すぐに寝てしまったし・・。
 こういうとき、一人でいても気が滅入るだけだ。やはり自分も六十郎に挨拶をしに行こう。この間デュエルの指南を受けた礼もある。
 そう思って踵を返そうと足を止めたときだった。
 コツリ、コツリ。
 後ろで靴音が響いた。
 ローファーを履いた、割としっかりした体格の男性の足音。
 ゆっくりと落ち着いた足取り。
「・・・久しぶりだな。」
 その声を聞いた瞬間に、全身からどっと汗が伝い落ちるような感覚がした。
 呼吸すら忘れ、動揺のあまり目が眩み、手が震える。
 呆然とした顔で振り向くと、そこには、三ヶ月前の事件の犯人その人が、立っていた。
「ドン・サウザンド・・・・。」
 長いさらさらとした金髪、赤い前髪。エリファスと同じ高身長の、端正な顔をした男。
 ドン・サウザンドはすっと首を傾げるような仕草をして、サードを見下ろした。
 そのままこつり、と歩を進めてくる。サードは思わず一歩後退りした。
「やはりここに来ていたか。」
「どうして・・・」
 ゼアルの一族の本家から追放された男が、このパーティーに呼ばれているわけがない。怯えた顔を隠すこともできないサードに構わず、ドン・サウザンドはみるみるうちに距離を詰めてくる。まさか走って逃げるわけにもいかず、サードにはどうすることもできなかった。
 どことなく悪意を孕んだ無表情。サードの頭の中ではひっきりなしに危険を知らせるサイレンが鳴っているが、身体が言うことを聞いてくれなかった。
 エリファスは今会場で演説を聞いている。セカンドは六十郎と一緒に庭で談笑している。助けを呼べる人間は誰もいない。逃げ場もなかった。
「・・・・・」
 追い詰められた獣さながらの表情で精一杯睨むと、ドン・サウザンドは嘲笑のような表情を浮かべた。
「随分と警戒しているな。」
「・・・当たり前だ・・・」
 お前があのとき俺に何をしたと思っている、と大声で罵倒してやりたかったが、これまで感じたことのない恐怖が心臓を鷲づかんで離してくれなかった。
「可能な限り優しくしてやったつもりだが?」
 穏やかな声。サードはぞっとして青ざめた。
「お前も喜んでいただろう。」
「あ・・・・」
 サードは目を見開いた。
 この先の突き当りは休憩室だ。一度入って扉を閉められたら、演説が終わって人が入ってくるまでの間何をされるかわからない。
 また一歩距離を詰められる。サードは逃れようとして、しかしそれ以上退がることができずに壁の方に背中を向けてしまった。
 退路を自ら断ってしまったサードのすぐ目の前に立ったドン・サウザンドは、あのときのような気だるげな視線を向けてきた。サードはまともに顔を合わせることもできない。
 ねっとりと肌を伝い引きずり込むようなものではない。腕を強く引いて、あとは重力で虚空に落ちてくるのを待ち構えるだけ。そんな感じだ。
 首筋にすっと手が伸びてくる。それだけでぞくりとして体が震えた。
「ゼアルの名を冠する者なら、話す相手の目を見る礼儀くらいわきまえろ。」
 エリファスほど低くはないが、一言一言が心に沈み込む声。首筋に添えられた手の指が動き、サードの顎をぐいっと動かして前に向けた。
 観念して両目に視線を合わせる。氷のような青い右目と、ガーネットのような赤い右目。すぐに、見るんじゃなかったと後悔した。一度目を合わせると離せなくなる、吸い込まれるような美しい瞳だ。
 オッドアイはゼアルの一族の血が流れている証。セカンドとダークはオッドアイではないが、セカンドの金色の瞳はゼアルや自分の右目と同じだし、ダークの目は、この・・この男の、深い青によく似ている。
「珍しい色だな。」
 ドン・サウザンドはサードの左頬を親指でなぞって言った。
「エリファスの左目と同じだ。」
「・・・・」
 エリファスの名を聞いたサードはようやく目をそらした。
 金色に赤の混じったオレンジ、赤銅色。エリファスがこの目について言及するときいつも嬉しそうなのは・・・。
 するとドン・サウザンドの手が動いてサードの顎をつかみ、くいっと持ち上げた。またしても目を合わせてしまい、そらすことができなくなった。
 ゆっくりと顔が近づいてくるのを見て、呼吸が止まった。この手を振り払うなんて無理だ。できない。体格の差はあるがサードも男だし、物理的には不可能ではないはずなのに、腕が重くて動かないのだ。足がすくむ。
 耐え切れなくなって目を閉じると、熱い吐息が唇にかかった。顎を掴まれているだけだ、逃げ場ならいくらでも与えられているのに、それを選ぶ手段が見つからなかった。
 うるさいくらいに高鳴っていた心臓は、見た目より肉厚な唇が重なった瞬間にかえって動くのをやめてしまったようだった。
 吐息は熱いのに唇は冷たくしっとりとしていた。ドン・サウザンドが顔を傾けたことでサードの唇が少し開き、それを包み込むようにドン・サウザンドが接吻を深くする。息が苦しくなって頭を少し動かすと、するりと舌を差し入れてきた。
「ぅあ、あ・・・・」
 ドン・サウザンドの舌は怯えて縮こまるサードの舌をあっという間に捕まえて絡めとり、深く、より深くへ侵入してくる。サードは鉛のような右腕を必死に動かしてドン・サウザンドの胸を押し返そうとしたが、手が震えてどうにもならず、ずる、と舌を吸われた瞬間に力が抜けてかえって縋りつくような形になってしまった。
「ふ・・・」
 鼻から吐息を漏らして抜け出そうとするが、目を開くこともできない。ドン・サウザンドの手がサードの頭のすぐ右側の壁につき、完全に囲われてしまっている。
 こわい。
 言い知れない恐怖とともに、あのときの光景がフラッシュバックのように蘇ってくる。
 重なる吐息、シーツの上を無様に泳ぐ肢体、自分のものとは思えない声。
腰にかかる大きな手。鳴り止まない携帯の着信音。
こわい、こわい、やめてくれ。
この冷徹で人間の感情なんかないような男が、自分の舌を絡みつかせて唾液を吸い取ってくる。声を上げて助けを求めたい気持ちと、この有様を誰にも見られたくないという気持ちがせめぎ合い、笑う膝の間にドン・サウザンドの足が分け入ってきた。
壁についていた手がサードの腰に回る。体格差で劣るのを嘲るように軽々と抱き寄せ、角度を変えてサードの口内をひたすら犯し、蹂躙して、やっと唇は離れた。
 身体を解放されるなり、サードは荒い息を吐きながら音を立てて背中を壁に打ちつけ、目の前の男を睨みつけることもできずに膝を折った。ずるりと崩れ落ちる身体を、ドン・サウザンドが冷たい視線で見下ろす。
 会場では演説が終わったらしい。わぁっという声と拍手が鳴り響いているのが遠くに聞こえた。
「また会おう。」
 身体がびくりと震えた。顔を上げることもできないまま靴音だけが遠ざかっていき、ざわめきが大きくなってしばらく、サードは全く動けなかった。
 ようやく壁に背中を押しつけて立ち上がると、「サード?」という声が聞こえた。
「一体どうした。気分が悪いのか。」
 エリファスの声だった。
 サードはのろのろと顔を上げた。自分がどんな表情を浮かべているのかわからなかったが、エリファスの目にはおそらく『異常』と映ったのだろう。
 驚きで目を見張り、ぐっと顎を引いたエリファスの身体をぶつかるようにして押しのけ、サードはその場を離れていった。

「サード・・?あ、いた。」
 水音に紛れて、セカンドの声が響いた。
 セカンドは大理石の品の良いトイレの中を歩いてきながら言った。
「どこいってたんだよ、エリファスが青くなって探してるぜ・・六十郎爺ちゃんもさ、お前に・・」
 サードは答えなかった。
 開けっ放しにした蛇口から大量の水が流れ出ては排水口に吸い込まれていく。
 様子がおかしいことに気がついたセカンドは、「どうしたんだよ?」と慌てて腕に手をかけてきたが、サードはやはり、口を開くこともできなかった。






 やかんが湯気をたてている。それが曇り空の下にある屋敷の一室の湿度をあげ、なんとなく空気を湿っぽくしていた。セカンドは沸いたばかりのお湯で紅茶を淹れながら天井を睨んだ。
 少し遅めの朝食。八人ほどが座ることのできる食卓は半分も埋まっていなかった。セカンドと同じことを考えていたらしいファーストが、焼きたての食パンにりんごバターを塗りながら不安そうに言った。
「降りてこねーなー、サード・・・」
「うん・・・」
「やっぱり風邪かなぁ?先生呼ぼうか?」
「いや、呼ばなくていいよ。病院連れてくからさ。」
 セカンドは適当に答えながら、どんな名医に見せたところで治るものではないと思った。やはりそうなのだ。あのとき確かに、兄は自分がいない隙に誰かと会っていたのだ。
 今日の朝食は本当ならファーストとダークだけのはずだった。エリファスとセカンドとサードは、昨日パーティーが開催されたホテルでそのまま一泊してから昼過ぎの会合に参加して帰ってくる予定だったのだ。しかし、パーティーが終わったあとにサードの具合が悪くなり、エリファスだけが宿泊してセカンドはサードに連れ添って家に帰ってきたのである。
「珍しいよな。俺たち風邪引かない兄弟なのに。」
「食べ物が悪かったのか?」
「セカンドはピンピンしてるじゃん。」
「セカンドだからな・・」
「喧嘩売ってんのかダーク」
 セカンドは軽口を叩きながらカップを持って席に着き、浮かない顔で角砂糖を放り込んだ。茶色と白色を一個ずつ。明らかにカップ一杯分の量ではなかったが最早誰も何も言わない。
 昨日パーティーが終わり、六十郎爺さんが会いたがるのでサードを探しに行っていたところでエリファスが巌しい表情で歩き回っているのを見つけた。聞くとサードの姿が見えないので探してこいと言う。まさか迷子になるわけがないし、どうせどこかで休んでいるのだろうと大して心配もせずに捜索を続けていた。
 そのとき、ふと階段を見下ろして、男が一人、目につかないような場所へ歩いて行っているのがちらりと目に入った。艶やかな金色の長髪で体格のいい男性。どこかで見たことがあるような気がして思わず二度見したが、すぐに姿が見えなくなってしまった。
 トイレの洗面台に向かってひどい顔色で呆然としてるサードを見つけたのはその直後だ。
 まさか、とは思ったが、毎年恒例とはいえ一般人は顔を出すことすら許されないパーティー。あの男があいつだったとして、潜り込むにはあまりにも大胆すぎる。見咎める人物によっては危険であるとすら言えるのに、わざわざそこまでするか?
 しかしサードはこのあとの食事会にとても出席できる状態ではないくらいに弱っていた。いつもの覇気の欠片もないような声でなんでもないとは言いつつも、少し気を緩めれば腰が砕けてしまいそうに見えたし、いつもはめている白い手袋で口を覆ってばかりだった。エリファスは一目見て即座に、予約した部屋に帰っていろと言ったが、サードが一刻も早くこのホテルから出たいと思っていることを察したセカンドがそのまま連れて帰ったのである。
 帰り道のタクシーの中でもサードは何も言わず、流石にセカンドも名前を出すような野暮な真似はしなかったが、そのときにはほぼ確信していた。
 悪夢の再来。
 あの男が会いに来たのだ。サードが一人でいる隙をついて。
(そりゃ、周りに誰もいないときに自分を手篭めにした男が目の前に現れりゃ、いくら兄上でも・・)
 セカンドは怒りをこらえきれずに歯を食いしばりながら、籠からロールパンを取って厚切りハムを丸めて突っ込んだ。ダークが鬼のような形相でパンを頬張るセカンドを横目で見ていた。



『いやだーーーーーーー!!』
 ひたすらに泣き喚いた。声を枯らして。
『いやだーーーいやだーー!!』
『聞きなさいセカンド!』
『い〜〜や〜〜だーー!!』
 あんなに泣いたのは初めてだったかもしれない。
『あにうえとけっこんするの〜〜!おれはあにうえとけっこんするの〜〜!!』
 世界で一番兄が好きだった。優しくて強くてかっこよくて、周りの人間が壁のシミに見えるくらいには好きだった。
 だから兄弟とは結婚できないと聞かされたとき随分とショックを受けたし、自分は一生幸せになれないんだなんて大袈裟に考えて絶望したりもしたものだ。
『そんなことで泣いてどうする。いいから泣き止みなさい。』
 エリファスは厳しい声で言う。
『よくないもん!よくないー!いやだー!おれはあにうえがいちばん好きなのになんであにうえとけっこんしちゃいけないのぉ??』
『結婚とはそういうものではない。服がベタベタに・・・』
『でも絵本にはかいてあったもん!すきなひととけっこんしたらしあわせなんだよ!!あにうえもしあわせになるんだよ!!エリファスのばかーー!!』
『私が馬鹿だと??いい加減にしなさいセカンド!』
 まだよちよち歩きもできないファーストとダークがポカンと口を開けてこちらを見ていたのを覚えている。エナが必死で笑いをこらえていたのも。なんだかみんなに寄ってたかって馬鹿にされているように感じたものだ。
 そんなとき、サードがきちんと自分の前に膝をついて、綺麗な目で覗き込んで言ったのだ。
『兄弟でよかったじゃないか。そうおもえよ。』
 あのときの笑顔が忘れられない。ずっと心に残っている。
『結婚しなくても家族でいられる。それってすごい、幸せだろ?』





 物心ついた頃から常に優秀な兄と比べられ続け、いつしか自分の立場を見失っていた。
 父親であるエリファスはいつも、真面目で聞き分けのいい兄や、素直で純粋な弟のことしか見てくれなかった。
 一番安心できるはずの家庭にあってすら、常に疎外感を感じ、孤独に・・・云々。
 『不真面目な次男』という立ち位置ならば当然ありえるようなこれらの状況は、しかしセカンドにはあり得ないものだった。特別だった、と言えるかもしれない。
 エリファスはサードとセカンドを比較してああしろこうしろと言ったことなど一度もなかった。兄は優秀なのにお前ときたら、というような内容の言葉は誰にも言われたことはない。確かに自分は真面目で聞き分けがよくもないし、素直で純粋とは言い難いが、そのことで引け目を感じなければならないことなんてなかった。
 エリファスは四兄弟の扱いをその個性豊かな性格によって分けてはいたが、誰かを依怙贔屓することはなかった。父の期待に応え一家を支えようとするサードは厳しく教育し、自由奔放で自己主張のしっかりしたセカンドは最低限のマナーだけを教え、双子の片割れ以外の人間を遠ざけたがるダークはそっとしておいてやり、天真爛漫で素直で単純なファーストは適度に甘やかす。形は違えど確かに家族愛に溢れていた。
 それを差し引いても尚且つセカンドがここまで、少々非行少年とも言えるような立ち振る舞いをしても自分なりの道を進むことができるのはサードのお陰でもあった。サードが家を継ぐ、その安心感と、サードの立ち位置をほんの少しだって揺るがしたくはないという気持ちから、サードの自分たち家族を守ろうとする姿勢に甘えてきたのだ。
 だからこそ許し難い。その優しさを利用して最愛の兄を苦しめるあの男が。

 セカンドはドライフルーツの混ざったシリアルと冷ました紅茶を乗せた盆を抱え、サードの部屋の前で立ち止まった。
 サードは昨日帰宅して以来、夕食もとらずに真っ直ぐ部屋に上がってそれきり出て来ない。エナが一度夕食を持っていったが、手つかずのそれを抱えて戻ってきた。熱はないもののどうやら吐き気がするらしく、ずっとベッドに入っているという。
 コンコン、と優しく扉を叩き、「サード」と声をかけた。
 返事はなかったが、セカンドはそのままドアノブを回して入っていった。
 サードの部屋は意外にごちゃごちゃしている。整理ができないのではなく、ファーストが自分の部屋に置ききれず捨てることもできないものを置かせてやっているのだ。エリファスの仕事を手伝うための資料と機器類を除くと、サード自身の私物はとても少ない。
 今までは気にならなかったが、こうして見るとこの部屋の模様がこれまでのサードの生き方そのものを表してるように見えて気が重くなった。
 サードはベッドの中へ埋まるようにして横たわっていた。やはり目を覚ましていたらしい。疲れたような視線をこちらに向けた。
「飯。ちょっとくらい食べないと。昨日何も食べてないんだろ?」
「・・・・・」
 サードはいかにも食べたくなさそうな顔をしたが、セカンドが椅子を引っ張りだして座ると観念したように体を起こした。弟が強情なのは兄が一番よくわかっている。
 盆を受け取って膝に置き、スプーンでシリアルを掬いとって口に運ぶ。機械的な仕草をセカンドはじっと見守りながら、「サード」と呟いた。
 サードは何も言わない。ただ、小さな咀嚼音だけが響く。
「サード。」
「・・・・」
「サード。」
「・・・・」
「兄上!」
 サードは初めてセカンドの目を見た。決してうろんげなものではなく、優しく慈愛に溢れた眼差しだった。かえってこちらが泣きそうになってしまった。
「昨日・・・誰かと、会ったんだろ?」
「・・・ああ。」
 掠れた声だった。サードは本当に疲れているようだった。セカンドは唇を噛み、サードが食べ終わるまでじっと待った。
 ひどくゆっくりではあったが、サードはちゃんと全部食べ終わった。セカンドは盆を脇にどかして言った。
「それで。」
「・・・・」
「昨日一晩寝て、何考えた?」
 じっと兄の横顔を見据える。自分が言いたいことはあのときに全部言った。それで十分なのだ、何度もくどくど繰り返す必要はない。あとはサード本人がどう考えているかである。
 サードは何もあの男に再会したということだけで寝込んでしまっているわけではないのだ。そんな軟弱な男ではない。言わずもがな、重要なのはわざわざ呼ばれてもいないパーティー会場に潜入してまで会いに来たその意味だ。
『・・また会おう。』
 十数年ぶりに出会った。薬を飲まされナイフで脅されて無理矢理抱かれた。男としての尊厳をズタズタに引き裂き、ゼアルの一族としての誇りを踏みにじられた。それだけでは済まなかったのだ。この再会は死刑宣告。自分はこれからもお前につきまとい貶める、そのためにはどんな手段も厭わない。あの男が伝えに来たのはそれだ。
 エリファスに言おう。サードが背負うことじゃないんだ、そんな義理はどこにもないんだ。父上だって責めはしない。なあサード、言ってくれよ。俺に助けてほしいと言ってくれ、今回ばかりはサード一人の手に負えるものじゃない、放っておいたら大変なことになる・・言いたいことを喉の奥に詰めたままセカンドはひたすらサードを見つめた。
 サードはしばらく黙っていた。
 そして言った。
「・・教えてくれ。」
「・・・うん。」
「あの男の。」
「うん。」
 セカンドは頷いた。何度も何度も。涙を何粒だってこぼしたかったがこらえた。
 先日セカンドが『もし兄上がそれを必要としているのなら、武器にしようとするのであれば教える』と言った、あの男のアドレス。
 セカンドはおもむろにズボンのポケットを探り、一枚の紙切れを差し出した。受け取ったサードはそれを一瞥し、即座に突き返してきた。もう覚えたのだろう。これは万が一にでもエリファスの目に留まらないように燃やしてしまわなければならない。あとでコンロで燃やそう、と思いながらセカンドはそれを再びポケットに戻し、サードを見た。
 戦うんだな。一人で。
 エリファスには言わない。言えないんだ。言えないまま、自分一人で決着をつけるつもりだ。これ以上長引かせれば長引かせるほど地獄になり、そのぶんだけ他の家族にも危険が及ぶことくらい、ドン・サウザンドと会話したことのないセカンドでもわかる。
 それで、俺にもやっぱり、助けてほしいとは、言ってくれないんだな。
 セカンドはサードの肩に手をかけ、そっと押し倒してベッドの上に寝かしてやりながら目を閉じ、また開いて言った。
「サード・・兄上。」
「ああ。」
「そのうちベクターが兄上に会いに来ると思う。」
「・・・ああ。」
「あいつは喜んで兄上に手を貸すと言っただろ?でも、実際に会ってからじゃないと情報提供なんてしないやつだ。」
「懸命だな。」
「大丈夫?」
「ああ。」
 サードは枕の上でふっと微笑んでセカンドを見た。
「お前のスカートを毎朝めくる習慣をやめるように言ってやる。」
「それは大丈夫なんだって言ったじゃん。」
 セカンドも笑った。なんだか寂しそうな笑顔になってしまった。



我が天は長し
地は久し
人のすがる夢は一場の幻にすぎず

それは寄り添い抗う愚神を嘲笑うように