スタークラスター


 やっぱり広かったな、世界は。
 イズチの杜に帰ってスレイがぽつりと漏らした言葉だった。天遺見聞録にある「火を噴く山」もまだ見てない。北にあるっていう「氷で出来た大地」も。その向こうにだって、きっと世界は広がっている。
 スレイは青く晴れ渡ったはるか遠くの空を見ながら言う。ものスゴイ困難もきっとあるけど、それはなんとかすればいい。呆れてものも言えないなんて軽口を叩いてしまったけれど、それはまったく、本当に、スレイの言うとおりだった。
 僕たちが旅に出てからの時間は、それほど長くはなかったと言えるだろう。イズチを出て、聖剣祭でスレイが導師として契約をして……そこからは何もかもがめまぐるしく、あっという間だった。無数の出会いがありいくつもの別れがあった。嘆きも悲しみも楽しみも喜びもあった。僕たちは旅をした。イズチの杜とそのそばにある遺跡だけが世界の全てだった僕たちにとって、ローランドとハイランドの両国をあちこち飛び回り、穢れを払うために進んだ旅路は、世界の広さを知るための道のりだった。
 ジイジが用意し、育み、守ってくれた繭の外へ出て、僕らは世界に直面する。やがてその道行きの果て、箱庭の住人だった僕たちは嫌が応にも世界を知り、スレイは導師として一つの決断を下すことになる。
「思い出したら言うよ」
 あの時僕はそう告げ、スレイはそうか、と頷いた。また今度。僕が先にそれを口に出す必要はなく、スレイは僕の思う全てを理解していた。僕がスレイの思う全てを理解していたように。ライラと契約したばかりの頃、喧嘩して別行動を取っていた僕たちが遺跡の中でちゃんと会えたように。決戦前夜、ラストンベルの街で星空を眺めた時のように。

「すごい星空だな……」
 一人になった今、星空を見上げて僕はぽつりと呟く。
 満天の星空はまたたいている。空じゅうを埋め尽くす綺羅星のどこかに、僕とスレイの想いをきらきら浮かべながら。


◇◆◇◆◇


「危なっかしいなあ。ミクリオは意外と、おっちょこちょいだからな」
「何言ってるんだ、君の方がよっぽどだろ」
 存外強い力の手のひらにずるりと引き上げられ、僕は遺跡の床にへたりこんだまま彼を見上げた。正直言って自分が今どんな顔をしているのか全然自信がなくて、安堵と一緒に緊張が居座って頭がどうにかなりそうだったけれど、彼から目を逸らす方がずっと躊躇われて僕は彼の姿を目で追い続けた。
「ただいま、ミクリオ」
「……遅いんだよ、君は」
「うん。ちょっと時間が掛かっちゃってさ」
 いきなり床に空いた穴に落ちて、そこを彼の手に掴まれて。それからずっと跳ね回っている心臓をそっと宥めながらゆっくりと彼の輪郭をなぞる。何度瞬きをして見つめ直しても、そこに消えることなく懐かしい姿があった。出で立ちも何もかも昔と同じだ。「導師スレイ」がアルトリウスの玉座でマオテラスを浄化するための眠りに就いてから長い長い年月が過ぎ去っているというのに、彼と幾度も見上げた星空のように不変だ。
 でも世界が移り変わったのは紛れもない事実で、彼がこれっぽっちも変わっていないのと正反対に、僕は年をとって成長してしまっていた。未だに「坊や」呼ばわりしてくる連中はいるが、少なくとも生まれたての天族というわけではなくなった。髪も伸びた。この髪を伸ばし始めた頃、ライラがなんでだか褒めてくれたのを覚えている。けれどそれも数百年は昔のことで、大人になりはじめた頃からでさえ、恐ろしい年月が過ぎてしまっている。
 天族は悠久の時を生きるゆえに、時間感覚も人間のそれとは異なる、という話をいつだったかしたと思う。旅の終わり頃の時だ。数百年単位で昔のことが、ついこの間のことのように思えるなんてざらだ、と。けれど僕にとって、その言葉の全ては、真実にはならなかった。スレイと過ごした十七年間、そう、人間の一生にも満たないたったの十七年間が僕という存在を形作った全てだから、それから先、スレイのいない時間はとてもとても長かった。
「でもちゃんと浄化出来たし、またミクリオに会えた。それだけでオレは十分」
「そうか……まったく、君らしいけれど」
 彼に手を引かれてゆっくりと立ち上がる。並んで立つと、目線が昔より高くなっているのがはっきりと分かった。以前の僕たちは頭一つ分近く背丈に差があって、それがすごくコンプレックスだったんだけれど、今では同じか、僕の方が少し高いぐらいだ。
「あれ? ミクリオ、背伸びた?」
 それを見て彼が微笑む。そうだよ。そうなんだ。それぐらいずっと時が流れたんだ。人間の君と同じスピードで成長した僕が、人と同じように育ったらという思いであの背格好だった僕が、君と肩を並べられるぐらい、君はずっと眠っていたんだ。
「そうだよ。それから髪もね」
 待っていた。再び君と出会える日を。
「そっか。うん、似合ってる!」
 待っていた。こんなにも気が遠くなるほど永い一瞬を。


 遺跡を脱出した後はその足でイズチの杜へ戻り、里はお祭り騒ぎの熱狂に包まれた。イズチのみんなは彼が大好きだし、彼はイズチのみんなが大好きだ。お祭り騒ぎは文字通り三日三晩続いて、起き抜けとは思えないほど元気に彼もはしゃぎ続けた。
 そんな熱狂がなんとか静まり始めた頃、僕たちは里の外へ降りることを決めた。まずかつて「レディレイク」と呼ばれた街に彼を連れて行きたかった。君が守った世界が今どんな顔をしているのか、それを見せるのに、あの場所が一番いいと思ったからだ。
「なんだか高い建物が増えたな。それに服屋も増えた。あのさミクリオ、お金ってオレが持ってるやつで平気かな……」
「君が持っている小銭を質屋に出せば、服を買うには困らないだけの金額が手に入るだろうね。それほど心配はいらないよ」
「なら、大丈夫だな。じゃあ残った分でなんかいいもの食べよう。ミクリオ、オススメとかある?」
「聖堂通りの奥を三つ入ったところにあるカフェテリアがいいかな。それか宿屋に行って久しぶりのドラゴ鍋か」
「えっ、ここペンドラゴじゃないよな」
「両国の友好の証にレシピが入ってきたんだよ。今はもうすっかり根付いて、独自アレンジが流行ってる」
 ふうん、と頷いて彼が店の中に入っていく。棚一杯に並べられたメンズ服を見ながらあれこれ悩み始め、少し経ってから入り口そばでふわふわしていた僕を手招きした。そういえば彼は自分で選んで服を買ったことが殆どないのだ。イズチにいた頃は里のみんなが手伝ってくれていたし、街へ降りてすぐにアリーシャが導師の装いを仕立ててくれた。彼は二種類のトップスを手にとって僕にどちらがいいかを訊ねた。紺色のシャツと黒いカットソー。僕が「両方」と答えると、彼は「だな」と満面の笑顔で頷いた。
 彼の笑顔は狂おしいぐらい愛おしくて、僕はそれだけで身体の内側が全て満たされていくような心地になるんだけど、その一方で、彼との間にちょっとした隔たりを感じるようになっていた。イズチでどんちゃん騒ぎを見守っていた時から、うっすら感じていたことだ。僕たちは再会してすぐにハグをしたし、心から再会を喜び合い、お互いの考えてることもなんでも分かるけれど、それとは別のものが隔たりとして現れている。
 彼の笑顔には屈託がない。僕らの記憶にある思い出のように透明で澄み渡っている。だからもしかして、と思わずにいられない。僕は段々と疑いを強めていた。僕にとっての永い一瞬は、彼にとっては、もしかして本物の一瞬で……だから、こんな気持ちがしてきてしまうのだろうか?
「ミクリオ、お待たせ。ドラゴ鍋、食べに行こう!」
 その疑念は、彼が「ミクリオ」と僕の名前を呼ぶ度に深くなる。買い物を終えて意気揚々とした彼に手を引かれ、綺麗に舗装された街道を歩きながら、僕は青く晴れ渡った空を見上げた。里帰りをした時に二人で見上げた晴れ空に引けを取らない、インク瓶をひっくり返したみたいに鮮やかなブルー。
「なあ、ミクリオ」
 その青へ刻み込むように、また彼が名前を呼ぶ。僕はそれに「うん」とか「ああ」とか答える。僕の中で心臓が跳ねる音が大きくなる。彼が近い。うれしい、あたたかい、でも同時に、急に世界があたたかくなりすぎて……。
 僕はふるふるとかぶりを振り、足だけは規則的に動かしながら彼と交わした約束のことを何度も思い返した。「また今度」と頷き合った遠い日の記憶。今から何百年も昔の、でも鮮明に思い出せる、それが僕たちの最後の約束だ。
 この約束を忘れたことは一度もない。それにホントは、いつだってあの約束のことを言えたんだ。ただ、告げるべき君の目覚めを待つだけだった。それこそ彼に腕を掴まれた時に言ってもよかったし、今突然切り出したって構わないはずだ。
 でも言えない。変わらない君、僕に笑いかけてくる君、背の伸びた僕、君に手を引かれている僕。それらのはっきりとしたコントラストが僕の心臓を鷲掴みにしてだめになる。
 どうしよう。どうしたらいいんだろう。繋いだ手の平から伝わる温もりは僕らがまだ幼かった頃と全然変わっていなくて、わけもわからず泣きたい気持ちになる。どうしよう。この移り変わった世界で、僕でさえ変わってしまったものがあるというのに君だけが変わらなくて、すると何故か僕の方が取り残されているような気分になる。
 僕は小さく息を呑み込んだ。君がまぶしい。君と何度も眺めた綺羅星みたいだ。わけもわからず息が苦しくなる。君に握り締めてもらっているこの手のひらは、汗ばんでやいないだろうか。
 ああ、たぶん、だからなんだろうね、スレイ。
 君の名前を呼ぶというこんな簡単なことが、僕は今息が詰まって出来ない。


◇◆◇◆◇


 几帳面な方だという自負のある僕だけど、それでも、数えてないからわからないことがいくつもある。たとえば、スレイと冒険に出掛けた回数。ジイジに怒られた回数。それに、それから、「スレイは僕がいないとだめだから」なんてことを、思ったり口にした回数。
 でも実際のところ、スレイは、僕がいなければいないで、一人で自分のことがちゃんと出来る人間だった。なにしろ、これだけの永い時間をかけて見事に浄化を成功させたわけだ。地上の穢れが増えないように僕も頑張っていたけれど、己が身を器としてマオテラスを宿し、世界の全てに力を委ねて行われた浄化の儀式は、スレイ一人の成果に他ならない。
「そっか、それじゃ随分色々な遺跡を巡ったんだな。手記は? 書き進んだ?」
「少しだけね。世界中全部の遺跡は、まだ巡ってないんだ。どんどん、増えるし……相手のいない勝負は張り合いがない」
「はは、だな。わかるよ、オレもライラと二人で遺跡に入った時言われたからさ。ミクリオがいないと、なんだかいつもより楽しくないんじゃないか、って」
「まあ、そういうことだね」
 すっかり平らげ終わってしまった空の鍋を挟んで向かい合う。僕たちの話題は、自然と、昔話か彼が眠っている間に僕が辿った旅路のどちらかに終始した。彼が眠りについていた間のことも少しだけ訊ねたけれど、語り口は茫洋としていた。大地に感覚を委ねてマオテラスを宿すという行為は、まどろみに似ているのかもしれない。
 彼が鍋を食べている間、喋っている間、僕はただ彼の目を見つめていた。若草色のきらきらした瞳たちも、やはり、何一つ変わってはいなかった。僕の好きなものは僕の好きなかたちを保ったままそこにある。僕は彼と過ごした日々のかたちをしていないのに。
 大きくならないほうが良かったのかな。エドナみたいに、あの姿で固定してしまえばよかったのかな。別に彼に背丈で張り合いたくて大きくなったわけじゃないし、髪を伸ばしたのだって、大人になるためじゃない。
 彼がひとつ息をついて僕の手を取ったのは、堂々巡りの考え事がそこまで回った頃だった。
「あのさ、ミクリオ」
「うん」
「起きてからずっと思ってたこと、言ってもいいかな」
「う、――うん」
 その途端、僕は氷が張り詰めたみたいな心地になった。
 急に彼が真剣な目つきになって、僕の手を強く握り締める。手のひらがまた汗ばむ。さっきまで自分で見つめていたくせに、彼の方から見つめられると、途端に動悸が激しくなる。
 僕は死刑宣告を待つ囚人のような気分でこわごわと彼の顔を見つめた。ああ、この顔を、何度も見たことがある。ラストンベルの街で星の話をした時も、君は同じ顔をしていて……。
「ミクリオ、格好良くなったな」
 だから次の瞬間、思いも寄らなかった言葉に、僕は頬をあたたかいものが流れ落ちる感触と共に固まってしまった。
「……ホントに?」
「ホントに」
「嘘じゃないのか」
「オレがそんなこと言う?」
「……言わない」
 僕の頬をはらはらとあたたかいものがつたい続ける。彼は僕から目を逸らさない。僕も彼から目が逸らせない。見つめ合う二人分の瞳の中、あの日見た星空が映り込む。
「かっこいいよ」
「僕はこの姿でいいのかな」
「いいよ」
 彼は微笑んでいた。「ミクリオの考えてることは全部わかるんだから」と言いたげな顔をして、僕を見つめ続けていた。僕は顔を拭うことも忘れ、彼のやさしい唇を目でなぞった。繋いだ手の熱さも何もかも、彼に見透かされていた。
 多分僕はずっと、彼のその言葉だけを待っていたのだ。このかたちになったのは、いつか会う君に恥ずかしくない姿で待っていようと思ったから。この姿は君のためのもの。君がために得た形質。けれどそれは所詮僕の独り善がりに過ぎないんじゃないかっていう、漠然とした不安もあった。その思いは、目覚めた君の変わらない姿を見た瞬間、いびつな鏡を見せられているように克明になっていった。
「ホントに、なんでも分かっちゃうんだから……」
「当たり前だろ?」
「僕が自分でもよくわかってなかったことも言い当てるし」
「そりゃあね。けどミクリオだって、オレの考えてること、いつだって全部わかってるだろ。今も」
 彼が目覚めてはじめて、その手を自分の方から握り返した。よくよく触れてみると、汗ばんで熱いと思っていたのは僕の手だけじゃなくて、彼の手のひらもそうだった。ああ。僕は呻く。そうか。そうだな。思えば僕たちはいつもそうだった。数え切れない僕たちの思い出、その全てが、今ここに繋がっている。
「仕方ないだろ、僕が旅してる間君はずっと寝てたんだから。身体が大きくならないなんて些細なことだ」
「寝てる間に大きくなってる可能性に賭けてたんだけど」
「それか、もうそれ以上は成長しないのかも」
「それは困る。ミクリオが格好良くなったぶん、オレも格好良くなるんだから」
 彼が笑う。ばかだなあ、君は昔からずっと格好いいのに。これ以上格好良くなってどうするつもりなんだろう。でも多分、何も考えていないんだろうな。僕がそう思うんだから、きっとそうだ。
 繋いだ手のひらから、僕たちの心が再び通じ合う。僕がひとりでに感じていた隔たりはもうすっかりと消えていた。僕が変わらない君をまぶしく思っていた分、君は大人になった僕をまぶしく思っていて、僕が君を待ち続けた永い一瞬は、君にとって再び僕に会うための短い永遠だった。なんだかおかしくて、ぐしゃぐしゃの泣き笑いで僕は彼に抱きつく。イズチの杜で騒いでた間どんどん不安になっていったんだと告白したら、彼はオレもだよ、と言う。
 星空はいつ見上げても美しい。けれどそれに不変の美を見出すか、うつろいゆく美を見出すかは、人それぞれなんだと思う、と彼が囁いた。自分からは見えていない星があるのに、見えないから輝いていないって思われることがある、とあの夜君は言っていたな。イズチから見上げるだけじゃ見えなかった無数の輝ける星々のことも。みんな同じ空を見ているのに……見えているものが、こんなにも違う。
 僕が大人になったのも、君が変わっていないのも、同じ時の流れに映る一つの側面でしかないのだ。
「スレイ」
 それがわかると急に呼吸が楽になって、するりと愛おしい名前が口を滑り出す。僕は箍が外れたみたいにスレイの名前を呼んだ。スレイ、スレイ、大好きなスレイ。僕はスレイが起きてから呼べなかった分、ずっと彼の名前を呼び続けた。君が目覚めて僕の名前を呼んでくれた分、口ずさんだ。
「おかえり、スレイ」
 やっと告げられた言葉に、スレイがぱちぱちと瞬きをする。僕はそれ以上何も言わず、スレイをじっと見つめ続ける。
 僕の目に映る世界の真ん中でスレイの唇が開く。僕の手をもう一度握り締め、今までで一番すてきな顔をする。
「ただいま、ミクリオ!」
 そうやってスレイは、とびっきりの答えを僕にくれるのだ。
 いつだって。