「なあ、ヨハン」
「んー? どうした十代」
「昔の話なんだけどさあ」
 ドイツにあるヨハンの自宅、そこにある彼のベッドの上をごろごろとだらしなく転がりながら十代はふとそう切り出した。十代の手には少しぼろくさい英字のゴシップ雑誌が握られているが、意識はあまりそちらには向いていないらしくさっきからちっともページが進んでいない。
「なんだよ昔の話って」
「もう時効だと思うから聞くけど、異世界でユベルに乗っ取られてた時のことっておまえ、覚えてるか?」
 完全に読む気を失ったのか、ページにかけられていた手を外して十代は雑誌をベッドの上に乱雑に放り投げてひょいとその大人びた顔を覗かせた。彼がじいっと凝視しているヨハンはそのあんまりに唐突な問いにしばし硬直して、綺麗な蒼碧の瞳をぱちぱちさせている。
「おおーい、ヨハーン?」
「……あ、ああ、ごめん。おっどろいた、今更そんなこと聞くなんて」
 うーん異世界のことかぁ、とまるで他人事のように呑気に呟いてそれからヨハンはもう何年昔のことになるっけ? と十代に訊ねる。あれから四年だ、そう答えてやるともうそんなに経ったのかと心底驚いたような声を出してくすくすと笑った。
「まあぶっちゃけあんまり詳しくは覚えてないよ」
「ああお前レインボードラゴンの中で寝てたもんなぁ」
「でも着てた服がすごかったのは忘れられないなー。クロノス先生に抱えられながら十代、お前を見送ってさ、ふと目線を下に向けて目に入ったのがベルトやらだぜ? 軽くショックだったね」
『なんだいおまえ、ボクの趣味にケチをつけるっていうのかい?!』
 ヨハンの言葉に憤慨したユベルが突っかかってくる。異世界にただ一人残ったヨハンと別れた時はまだ制服を着用していたから、なるほどあの服をヨハンに着せたのは間違いなくユベルなのだろう。
「普段フリル着てるヨハンにあの服はねーだろ……」
「いや大目に見ればそれなりに面白い格好だったとは思うけど流石に俺にあの服は嫌がらせだろ?」
『ルビィー』
『嫌がらせだなんてとんだ言いがかりだね。とても格好よかっただろう』
「とりあえずユベルのセンスがズレてるってことはわかったな」
『クリクリィ……』
 ヨハンどころか十代やルビー、羽クリボーからもそれとなく文句を言われ、ユベルは露骨に傷付いたようだった。ぐすん、ぐすんとわざとらしい涙声が彼女の口から漏れる。
『酷いよ十代、君はボクよりもヨハンの方がいいっていうんだね……あの時のように……ふふ、やっぱり気に入らないなぁ! ヨハン!!』
 感情を妙に昂らせた彼女に十代とヨハンは揃ってまたか、と溜息を吐く。その様子に更に機嫌を損ねたのかユベルは拗ねて十代の中へと戻っていってしまう。でもまあそれでどうということもないので放っておくことにする。
「変わらないなーユベルは。まあ、ユベルだから、変わらないんだとも言えるのかな?」
「四年前からヨハンには何かと突っかかってきたもんな。アレか、一番初めはマルタンとデュエルした時か? あの時のヨハンとユベルの会話はなんかゾッとしなくもなかった覚えがある」
「なんだよゾッとするって……そもそもさ、十代の親友を名乗るのに自身の許可を求めてくるユベルがおかしいんだぜ!」
 そう言った後にでも十代、と彼は前置きをして少し表情を変えた。
「ユベルの気持ちはわからないでもないんだよ、俺」
「へえ? なんでだよ」
「ユベルに取り憑かれてた時にさ……頭の中、十代のことでいっぱいだったんだ」
「……なんだと……」
 ヨハンから距離を取るように後ずさる十代に、ヨハンは顎に手を当てておいおいと困ったような声を出し、しかし言葉を続けた。
 レインボードラゴン、そしてユベルと共に異世界へと消えた時のこと。怒りを顕にしたユベルに魂をレインボードラゴンの奥へと閉じ込められ、体は乗っ取られた。
「レインボードラゴンの中にいたのは確かだけどさ、でも俺の体と完全に切り離されてたわけじゃないんだよな。だってさ、やっぱり体と魂が離れ切ったら死んじゃうだろ。本当に少しだけどまだ繋がってたんだと思う。覚束ない意識の中で時々伝わってきたんだ、十代、十代って呼ぶ声が。愛してる、大好きだよ十代、そう言う暗くて冷たい声が」
「……ヨハン、その台詞を事情を理解してない人間に聞かれたら俺達絶対に誤解される」
「馬鹿言うな、ここは俺の家の中だぜ? 聞かれたりなんかしないさ。それに俺は聞かれても構わないし」
「は?」
 事も無げにそう言い放ってヨハンはおもむろに椅子から立ち上がった。ポカンと間の抜けた顔で止まっている十代を尻目に、彼はキッチンへ向かいややあってコーヒーマグを持って帰ってくる。呆然としている十代に「気をつけろよ」とその一つを渡すと、ヨハンは十代の隣に腰を降ろしてコーヒーを飲み始めた。
「コーヒー、冷める前に飲めよ」
「あ、ああ」
 言われるままにその真っ黒な液体に口を付ける。十代の好みに合わせて大量に砂糖を入れられたそれは熱くて、甘ったるくて、けれどやはり少しだけ苦かった。苦いキスの味って、こんな味のことを言うのだろうか。
 ヨハンの飲んでいるコーヒーには砂糖は入っていない。あっちはきっともっと苦い。甘ったるさがない、あれもでもキスの味なのだろうか?
「ヨハン、もう一個聞くけど」
「どうした? 今日は知りたがりだな十代」
「ヨハンはさ、俺のこと、好きか?」
 今度は十代の代わりにヨハンが目をぱちくりさせる番だった。でも十代と違ってヨハンはすぐに意味深な笑顔に表情を切り替える。
 十代は「そりゃそうだろ、俺たちは親友なんだから」というありふれた答えを予想してそれからどうしてこんな質問が口をついて出たのか考えた。つい今しがたの事であるはずなのに自分でも理由がわからない。
 そして思考はコーヒーがいけなかったんだ、と的外れな結論に帰着する。甘ったるくてほろ苦い、ヨハンのコーヒー。あれが良くなかったのだ。キスの味なんて連想させるから。
「好きか、だなんて随分思い切ったことを聞くんだな! もし俺がそんなでもないとか言ったらどうするつもりだったんだ」
「……考えてなかった」
「ハハ、信用されてるんだな俺」
『フン、十代にはボクがいる。ヨハンなんていなくたって気にする事なんかないさ』
「そんなことしてるといつか十代に愛想尽かされるぜ?」
 どこか忌々しげに言ったユベルに苦笑いをしてヨハンは「そうだなぁ」となんだか気安いふうに呟く。次いで彼は十代の両頬に一つずつ手を添えた。
「え?」
 ぐい、と二人の距離が縮まる。極至近距離で二人の目が合った。息が近い。唇に何か熱いものが触れる。柔らかい感触。唇を伝って耳に、頭に響く音。
 ああ、これってもしかして本当に、
「なあ十代、俺は少なくともこのぐらいはお前のこと好きだぜ」
「なっ、おま、これキス……!!」
『ボクの十代になんてことするんだい?! 信じられない、油断も隙もない、忌々しいったら……!!』
「ハハ、大っ好きだぜ十代!」
 事も無げに平然とそう宣うヨハンに十代は信じられない、という意味を暗に孕んだ視線を送る。ヨハンとのキスは飲んでいたコーヒーの味がして、やっぱり苦かった。だけど甘ったるくて、熱い。
 なあヨハン、俺だってお前のことは大好きだよ。でも覚えてるだろ?
 俺たち、親友なんだぜ。


(その先に踏み出すことを、躊躇する)