『ねえ、どうしてなんだい十代。僕はこんなにも君を愛しているのに、どうして君は僕のことを見てくれないの』
『痛かったよ……苦しかったよ……寂しかったよ……! でも、それが君の愛なんだ。だから僕は君が教えてくれた愛を君自身に返そう』
『傷付け合おうよ! 痛みを分かち合う、だってそれが愛し合うってことなんだろう?!』

 頭の中で幾重にも反響する、自分の声で紡がれる他人の狂気の言葉。
 彼女は言った、痛みは愛であると。傷を抉り合って舐めまわすことこそが慈しみなのだと。狂っている。そんなおぞましいことなど認めてたまるものか。
 その狂気の元凶、精霊ユベルは今はもう自分の中にはいない。彼女は愛する遊城十代と融合し、それこそ究極的にその望みを叶えた。彼女は永遠に十代と一緒だ。まさしく、一つだ。
 だから今自分は――ヨハン・アンデルセンは至って平常であるはずだった。もうあの熱情に襲われることはない。十代、親友であるところの同性の少年にあんな狂乱した想いを抱くはずなんかないのだ。
 ああ、だというのに心の底に燻るこの感情は、劣情はなんなのだろう?
「なあ、俺を愛してくれよ、十代」
 おまえを愛して死にたいんだ、十代。



◇◆◇◆◇



「っあー、だりぃ……。なーヨハン、風呂入ろうぜ風呂。レッド寮の向こうにさ、温泉があるんだ」
 ダークネスとの戦いを終え卒業も間近となっていたある夜、ヨハンは十代にそう誘いを受けた。ヨハンにとっても不都合なことはないので二つ返事でOKする。何より温泉という単語が非常に魅力的だった。何せそれは欧米人の間で度々話題になる、東洋の島国の神秘の一つなのだ。
 今までにも十代と水浴びをしたことは何度かあったが、彼が異世界から帰ってきてからは初めてのことだった。それ以前と以後では大分彼の感じというものが変わってしまっていて(大人になってしまったのだと、彼やその取り巻きの面々は口を揃えて言ったものだ)、ヨハンはある種の興を覚えていたといって差し支えない。
「剣山や翔には声をかけなくていいのか?」
「いいよ、二人とは入ったことあるし。それにヨハンは温泉、入ったことないだろ? 国に帰る前に見てけよ!」
「そっか、ならお言葉に甘えさせてもらうぜ」
 話をトントン拍子に進めて、温泉施設へ向かう。デュエルアカデミア本校、この敷地内には本当に色々なものがあった。テーマパークやゲームセンターといったアミューズメント施設は無いものの、他は大抵のものが揃っていた。アークティックは中世ヨーロッパの空気を残す伝統的な全寮制の学校といった感じだが、ここはごたまぜの近代日本都市の縮図に似ている。
 しばらく歩くと、それなりに大きなガラス張りのドームが見えてくる。どうやらあれがそうらしい。見た目は温室に似たその建物は、まったく和風とはかけ離れているくせに何故だか実に日本らしかった。
「ここが脱衣所。服とかはこの籠に入れてくれ。で、貴重品はこのロッカーな。デッキとか財布とかはここに鍵を掛けて入れるんだ。人なんか来ないと思うけど念のためな」
「あの扉の奥が浴場?」
「そうそう。驚くと思うぜ、めちゃくちゃ広いからな」
 別に彼の所有物ではないはずなのだが、鼻高々に紹介される。がらりと曇りガラスの引戸を開くと成る程、十代の言う通り洗い場も浴槽も相当に広かった。
「な。すげーだろ?」
「ああ! ブルー寮備え付けのバスルームにも驚いたけどここにはもっと驚いたよ」
「へえ、やっぱ風呂珍しいの?」
「そもそも湯船に浸かる習慣っていうのが向こうじゃ稀なんだ」
 他愛のない受け答えをいくつかして、それから連れ立ってシャワーの方へ向かう。大浴場はみんなが入る場所だから、体を綺麗にするのがマナーなんだぜ、と言う十代の後を追いながら綺麗な背中だ、とヨハンは漠然と思った。
 かつて見た彼の背中――裸体は、もういくらか子供っぽかったように思う。本人に言ったら憤慨されるだろうが、はっきり言って寸胴で幼児体型に見えた。まだ発展途上の、少年のそれだ。
 でも今は違う。胸板周りに筋肉が付き、引き締まって、彼の体は少年のものから男性のものへと変化をしていた。ふと触りたい、と思う。彼の肉体はヨハンにとって妙に艶かしく魅惑的に映った。
(あ、やばい)
 この思考をこれ以上続けていたら十代に正面を向けられなくなる。
「とっとと体流しちまおうぜ。ゆっくりお湯に入りたいし」
「あ、ああ」
「背中やってやるから、俺の背中もよろしく」
 ぎこちない返答を返しながら、内心ばくばくの心臓を抑えてヨハンは座椅子に座った。十代の手がごわごわとしたタオル越しにヨハンの背中に触れる。一度意識してしまうともう駄目だった。十代、俺さ、多分……
「じゅうだい……」
「……どーしたヨハン、エロい声出して。発情期?」
 俺からすればエロいのはお前だ、十代……。



◇◆◇◆◇



 キスをした。
 貪るみたいに、十代の唇を奪って口腔に侵入し舐め回した。
 すごく意外なことだったのだが、十代は抵抗しなかった上に侮蔑や嫌悪の眼差しを投げかけることもなかった。ただ昔よりも多少太くなった喉から吐息を漏らして、顔を僅かに上気させていた。
 十代が息苦しくなってきたらしいタイミングで口を離す。その瞬間どっと後悔が押し寄せてきた。なんてことをしてしまったのだろう。今この瞬間、十代から俺への信頼というものが全て消え去ってしまうのだ。早計だった。湯で濡れた体でも、冷や汗が肌を伝ったことは理解できた。
「…………欧米人があんまり性別を気にしないっていうのは本当なんだな……」
 気まずい沈黙が続き、ややあって十代が口を開く。後ろめたい気持ちはあるのに、頬に赤みをさして不思議そうに呟く姿は可愛らしくまた愛しかった。
 最低の思考だ。
「いや、性別がどうでもいいとか、そんなことはなくて……俺は十代が……」
「でもさあ、あんまりそういうのホイホイやるのはどうかと思うぜ。本当に好きな相手に取っておかないとなぁ、やっぱり」
 言い繕う間もなく、十代に信じ難い言葉を投げ掛けられる。彼の言い方ではまるでこう言っているようだ。「その場の熱に浮かされて、安い行為に走るものではない」と。
 とんでもない。その場限りの行きずりの熱情だなんてヨハンとしても御免だった。
 そもそもこの感情を熱に浮かされているというのならば、異世界で再会した時からそうなのだ。愛してよ、僕は愛しているから。世界で一番君が好きなんだ、だから君も僕を見てよ!
 ユベルの感情はヨハンの深層意識を揺さぶるほどに強烈だった。出会った時に覚えた近親感を恋慕に押し上げ、恋かなぁと錯覚させることなど容易い。
「……お前が、お前が一番好きなんだって言ったらどう、する?」
「笑えないな」
 唖然とした顔のままそう訊ね十代の真意をはかる。間髪入れず返ってきた十代の答えはまったくもって当たり前で、一般普遍的なものだった。
 ヨハンが取り入る隙などあろうはずもない。
「……だよな。わりぃ……俺、どうかしてたよ」
「だけどさ、ヨハン、」
「?」
 取り繕うように「どうかしていた」だなんて思ってもいない言葉を吐く。好きだ、好きだ十代、でも駄目なんだ。俺とお前は親友であって、それ以下でもそれ以上でもないんだ。
 そう必死に言い聞かせていたヨハンの耳に意外な響きを伴った言葉が入ってくる。だけど――逆接の言葉――?
 ぐるぐる回る十代の言葉を考えていると、濡れそぼった唇がやにわに動く。水滴が頬を伝って零れ落ち、ぴちょん、と床上の水に波紋を作った。
 十代ははにかんで、けれど泣いていた。十代の手がヨハンに向かって伸びてくる。ヨハンは反射的にそれを受け止め、しなやかな裸体をその腕の中に抱く。
「……十代?」
「多分俺も好きなんだ、ヨハンのこと」
 嫌じゃなかったんだ、嬉しかった、と囁く十代はキスしようと言ってヨハンの唇を塞いだ。



◇◆◇◆◇



「虫の知らせかなぁ、翔と剣山を呼ばなかったのは」
 二人っきりじゃないと流石になぁ、と呟き十代は湯船の中で伸びをする。滑らかな肢体、美しい肌、綺麗な瞳、その他数多の事柄……それらの要素一つ一つが調和して十代という人間を象っているのだろうなとヨハンは思った。ヨハンとは比べ物にならない程、彼という存在は一種の完成形に近く臨んでいた。
 彼は往々にして「太陽のようだ」と評価されてきた。まわりを照らして、凝り固まった雪を溶かす。皆の希望なのだと重たい評価をされるのも聞いた。でもだ、本当に太陽なのだとしたら、眩しすぎて誰も十代には近付けないだろう。誰も、彼の心の奥には触れられない。
 でもヨハンは彼の心に触れられた。手を伸ばし、灼熱に灼かれ、けれどヨハンはまだ十代の隣に居続けている。
 彼の純真を穢して。
 もしかしてヨハンは、天に浮かんでいた十代を地に引き摺り堕としてしまったのかもしれない。そう考えるとえらいことだ。
 でももう後戻りは出来ないし、するつもりもなかった。
「にしても誤算だったぜ……ヨハン体力ありすぎ」
「アークティックにいた頃鍛えたからな。ほら俺童顔だからさ、向こうじゃ大変だったんだ。なよなよしてたら何されるかわかったもんじゃない」
「怖! 貞操の危機レベルなのかよ?!」
「そういうお前自身ついさっき同じような状況に立たされてたわけなんだけどな!」
 からかいながら十代の頬をつつくと十代はいいんだよ合意だからともにょもにょ呟いてそのままぶくぶくと湯の中に沈んでいってしまった。後追いせずに規則正しく浮かんでくる気泡を眺める。しばらくすると息が続かなくなったのか十代は湯船から勢いよく飛び出した。
「なぁ」
「ん?」
「ヨハンは俺以外にキスしたいと思った相手っている?」
「ルビーとかアメジストとか、サファイアとか……」
「家族だろ、宝玉獣は」
 そういうんじゃないんだよ、と唇を尖らせ十代はヨハンに榛色の瞳を向けた。あんなことの後だと言うのに彼の目は濁り一つない。自分のはどうだろう、もう濁り切ってしまっているかな、と内心苦笑する。己の欲望のように、不透明な色をしているのだろうか。
「迫られたことはあるけど、十代が初めてかな」
「うぉ、かわせたのかよそれ……っつか、本当に?」
「当たり前だろ。なんでそんなに疑うんだ」
「いや……その……」
 気恥ずかしくなったのか口ごもると十代は俯いてしまい、それからもごもごと「だってきもちよかったから」と漏らした。耳聡くそれを聞き付けるとヨハンはうんうんと満足気に頷く。
「そりゃ、愛してるから」
「そういうもんかぁ?」
「そういうもんだよ」
 そうか、と一言だけ言って十代は話題を変えるべくまじまじとヨハンの顔を凝視する。そして彼はヨハンの顔に指を添えると破顔してこう言った。
「綺麗だな、ヨハンの目。サファイアみたいだ。サファイアペガサスの色」
 思いがけない言葉に、ヨハンは湯船に浸かったまま十代を思いっきり抱き締めた。


(一歩踏み出して、きみを抱く)