それでもやっぱり、俺たちは親友だった。



フターエンド



 俺の世界からヨハンが消えて。
 ヨハンの他が何にも見えなくなってがむしゃらに探し回った。異世界へ続く扉を自ら通って命を賭し、その最中、幾度かの絶望を味わった。
「十代……貴様には怒りしか感じない」
 そう、万丈目が言った。
「アニキ! 何故俺たちを犠牲にしてまで……そうまでしてフリードの仲間を助けたかったドン?!」
 そう、剣山が言った。
「苦しい……肉体の痛みだけじゃない……共に裏切られ、魂を引き裂かれる痛みだ!」
 そう、吹雪さんが言った。
「あなたに裏切られ、葬られる……こんな悲しみを抱くことになるなんて……」
 そう、明日香が言った。
「仇なんて取ってくれなくたってよかった。アニキは太陽みたいだって思ってたけど、それは思い違いだったんだ。お前なんか、もうアニキじゃない――!!」
 そう、翔が言った。


「だったら! 俺はどうしたら良かったんだよ! 俺が今までやってきたことは全部間違いだったって言うのか?! どうして、なんで、――俺の何が悪いって言うんだ!!」
 なあ、ヨハン、こんな時、お前がいてくれたら。
 お前だけは、俺は正しいことをしたんだってそう言ってくれたかな。



◇◆◇◆◇



 振り返って考えてみると、ヨハンを失った後の俺の動揺というのは我ながら異常なものだったと思う。ヨハン、ヨハン、ヨハン! 俺のせいだ、ユベルが俺を狙っていたから、俺の為にみんなを巻き込んでしまったから、だからお前が犠牲になってしまったんだ。
 でも、その懺悔と後悔の気持ちの裏には、実はヨハンへの嫉妬と怒りも含まれていた。レインボー・ドラゴンと共に消えていくヨハンの顔は信じられないくらい清々しくって朗らかだった。夢を叶えたからって自分一人幸せになりやがって。俺たちは一緒だってそう言ったのに、ヨハン一人だけどうしてあんなに綺麗な顔で笑っているのだ。
 俺の顔は、あんなに醜くぐしゃぐしゃに歪んでいたというのに!
 けれど別に、ヨハンが一人っきりで本当に幸せだったのかと言うと答えはノーだろう。あれは多分あいつなりの精一杯の見栄で、また俺への余計な気遣いだった。少し考えればわかったことだ。異世界に取り残されてしまったらまずどうやって生きていけばいいのかもわからないだろうし(アカデミアが帰還してしまった以上当然食料はない。本当にどうしていたのだろう)、何より俺に妄執するユベルとたった一人であちらに残ったのだ。ある意味死を覚悟していてもおかしくはない状態だった。
 結論として、ヨハンはそのユベルに肉体を乗っ取られてしまっていたみたいなのだけど――二人はお互いに、どんな気持ちだったのだろうか。
 そればっかりは怖くて訊いたことがない。



◇◆◇◆◇



『許さない……許さない、ヨハン・アンデルセン! 僕の十代への想いをどうして邪魔する?! どうして!』
「さっき言っただろ、俺たちが親友だからだ。お前が認めようが認めなかろうが俺たちは唯一無二の親友なんだ。世界でただ二人!」
『十代は……十代には僕だけがいれば十分なんだ。お前なんか絶対に、絶対に要らない。……お前、忘れてるんじゃないかい? この世界における僕の絶対優位を。十代がいないのなら僕は容赦しない。ルールなんてくそくらえだ……!』
「ああ、好きにすればいいさ。だが、そうしたら十代はお前を許しはしないぜ。十代はお前に見向きもしなくなるだろうな。怒りを向ける価値もないから」
 怒りに我を忘れて口早に、そして挑発的に言葉をぶつけてくるユベルに対してヨハンは出来る限り冷静に、しかし挑戦的に彼女に言を返した。折角彼女を十代から遠ざける事が出来たのだ。もう彼女を十代に近付けさせたくはなかったし万が一そうなってしまったとしても自分の存在で彼に余分な重荷を背負わせたくない。
(まあ、いなくなったってだけで大分焦ってるだろうけどな。それに、怒ってるだろうし。ただの偽善だもんな、これは)
 ヨハン自身が仮に十代の立場であったとしたらやはり憤っただろう。それも猛烈にだ。
 十代に嫌われる、もしくは憎悪を向けられるといったことは構わないらしいユベルもその存在そのものに見向きもされなくなるということには流石に耐えられないのだろう。今彼女はじっと腕を組んで何事か考えを巡らせているようだった。
 しばらくしてユベルが何か閃いたとばかりに指をぱちんと鳴らす。そして彼女はヨハンに向き直りとても楽しげに口端を歪めると信じられないことをのたまった。
『ねえ。お前の身体を僕に頂戴よ』
「な――は?」
『"お前が死ななければ十代は僕を見捨てない"。でも僕はね、十代にも僕と同じくらい傷付いて欲しいんだ……だって同じ傷を、痛みを分かち合う、それが愛するってことだろう? だからその身体を頂戴。そうすれば、お前も十代と愛し合うことが出来るんだ! 素晴らしい、何も不都合なことなんかない』
「馬鹿言うな――俺は十代を友として人として愛しているが、それはお前の言う愛とは違う。俺は十代を束縛したいとは思わないし、ましてや傷付けたいだなんて思ったこともない。俺たちは親友であって、同志であって、でも、」
 ただそれだけなんだ。
 ヨハンがそう言うとユベルはさっと表情を冷めさせた。先程までいい事を思い付いてはしゃいでいた子供みたいに興奮していた顔が綺麗に切り替わり、何か凄くふざけたものを見て興醒めしたような見下した表情になっている。
 事実ユベルはあくまでも否定するヨハンの主張に面白味のなさを覚えて軽蔑し酷く興を削がれていた。ただそれだけ? 有り得ない。ヨハンにとって十代がそれだけの存在であるものか。自分と張り合える程なのに、その程度の思いであるはずがないのに。
『……まあ、いいよ。心に闇があれば僕はお前の身体を好きに使える。そして心に闇がない人間なんていないのさ。僕らの愛する十代でさえ、いや十代だからかな、とっても深い心の闇を持っているんだから』
「……かつてはそうだったかもしれないけど今は、」
『はあ? 馬鹿だねお前。お前ごときが十代の、覇王の闇を拭えるとでも思ってるの?』
「はお、う?」
 あまりに馴染みのない言葉なので意味を掴むのに手間取った。覇王。随分と重たい言葉だ。十代にはあまり似合わなそうな響きだった。
『さあ。見せておくれよヨハン、お前の心の闇を。そして僕に君という存在を曝け出して明け渡して!』
 ユベルは高らかにそう宣言すると己の右腕をずぶりとヨハンの体に突き刺す。痛みはない、外傷も恐らくない。ただ胸の辺りを異物が貫く感触だけが克明にヨハンを蝕んでいた。
 ゆっくりと侵食してくるユベルの指先がてのひらがごつごつした腕が、次第に"ヨハン"という存在に馴染んでいく。高次の精霊たるユベルは物理法則だとかそういう諸々を一切無視してヨハンを成す魂に触れ、そして無造作に抜き取った。主を失った肉体に彼女が入り込む。
『これからこの体は、僕のものだ……。ねえヨハン? 君はヨハンでもありユベルでもある、そういう存在になるんだ。それってとっても――とっても、』


 十代が傷付くことだと思わないかい?


「じゅう……だ、い……」
 十代の名を弱々しく呼ぶのがヨハンに許された最後の自由意思だった。最早体は思うようには動かない。他者の意思で操られる脱け殻だ。と、急激に意識が重く、暗くなった。ぼやけた視界にプリズムの光を鈍く反射する水晶壁が映る。
「しばらくそこで眠っていればいいんじゃあないかな? ずっと求めていた大事な大事な龍の中でさぁ」
 ああでももう聞こえないか、とどうでも良さそうに呟いてユベルは胸に手を当てた。意外にがっちりとしているヨハンの体が鳴らす心音、その奥から聴こえてくる彼の肉体が記憶しているヨハンの感情。
 それを確かめてユベルははぁ、と小さく息を吐いた。やっぱり思った通りだ。だったらまあ遠慮することもないかなぁ、などとも思う。
「……なんだ。ヨハン、やっぱりお前も、十代を愛してるんじゃないか」
 ヨハンの身体で、声で――ユベルはそう言った。



◇◆◇◆◇



「で、十代は何が聞きたいわけ?」
 ヨハンがにまにまと意地悪く笑いながらこちらを見ている。俺はしまった止めておけば良かったと今更のように後悔してにやにや笑いの親友の顔を仏頂面で見返した。何が楽しくてこんな顔をしているんだこいつは。
 ひょっとしたらトラウマになってたりするのかなー、どうなのかなーと気遣ってやっていた自分が馬鹿みたいである。カイザーやエドは何だかんだ言いながらも異世界でのサバイバルをエンジョイしていたらしいと何時だったか伝え聞いた覚えがあるが、もしかしてこいつもその口なのか。あんな目に遭っているのに!
「ユベルに乗っ取られた時どんな気持ちだったのかと思っただけだけど……もういい。ヨハンの顔見てたらどうでもよくなってきた」
「俺そんなに変な顔してるのか」
「無自覚なのかよ!」
 心底驚いたと言わんばかりに意外そうな顔をしてみせるヨハンに軽い目眩を覚える。と同時になんでかなぁ、とも思った。それでもヨハンは俺の一番の親友で、似た者同士の気の合う相手なのだ。ヨハンが変な奴なのだとすれば、つまり俺もまた変な奴なのだろう。
 非常に不本意だが。
 ふーんとだらしなく頬杖を付いて翡翠の双眸が自分を見つめてくる。それでそれで? と子供のような視線で先をねだってくるヨハンの頬を俺はつねった。するとお返しとばかりにヨハンの指がこちらに伸びてくる。あとはその応酬だ。
 不意にそのやり取りが馬鹿らしく感じられて二人はぱっと互いから手を離して苦笑しあった。計ったかのようにぴったり同じタイミング。いつまでもヨハンは俺とおんなじだ。お揃いで、同質。
 その距離感が愛おしい。
「で、ユベルに乗っ取られた時の話な? どう思ったか、か……とにかく必死だったもんだからあんまりろくなことは考えてる暇なかったんだけど……」
「ふうん……?」
「ただ、十代をこれ以上困らせたくないって思った。俺の身勝手な自己犠牲は結果的に十二分にお前を苦しめちゃったんだけどな」
 ごめんな、今更謝ってもしょうがないけどとヨハンは伏せ目がちに言った。別に謝ることはないのに律儀な奴。ここは俺とは違うなぁ、と思う。でもまあそれも当たり前か。どんなに似ていても全てが同一なわけではない。同質は完全同一とは異なるものだから。
 そして次の瞬間にはヨハンはあっさりと表情を元のものに戻していて、俺の頬を小突いてきた。切り替えの早さは俺と一緒。二人の相違点を見付けた後だからかなんだか安堵する。
「それで、十代? お前はどうだったんだよ。そんな俺を見て」
「へぁ?」
「いやへぁ? じゃなくてさぁ……だってなんか俺、色々言ったらしいもんな? ユベルから聞いたんだけど」
「ゆ、ユベルから?!」
「ああ。知ってるかー十代、お前が寝ちまうとたまーにユベルが出てくるんだぜ」
 知らなかった。
 というか普通に初耳だ。
「とうとうと十代に対して愛を語ったらしいな。勿論俺じゃなくてユベルの持論をだけど。"痛みこそ愛"のくだりはいまいち俺には理解出来なかったなぁ」
 まるでなんでもないことであるようにけろりとしてそうのたまう。流石の俺もびっくりしてしまって目を白黒させた。ヨハンとユベルが夜中にしゃべくっている様を想像するのは非常に困難だった。だってあいつら、滅茶苦茶仲悪かったじゃないか!
 俺が覚えている一番最初の二人の会話というのがまた酷い内容なのだ。加納マルタンの体に乗りうつったユベルがヨハンに対してお前なんか十代の親友に認めた覚えはないと無茶なことを言い出し、ヨハンはヨハンでそれにお前の許可なんかいるもんか、俺は十代の親友だこの命にかけて守る、だとか意味のわからないことを言い出す。そして俺はそんな二人の泥沼の喧嘩を呆然と見る。
 そして険悪な関係のまま、二人は異世界に居残って二人っきりになった。しかもヨハンはその後そんなユベルに体を乗っ取られているのだ。一体何があったら二人の距離が縮まると言うのか。
「聞きたい?」
 問いかけるとヨハンは俺のてのひらを握って逆に聞き返してきた。妙にあったかいヨハンの指。俺同様子供のように高い体温を握り返して俺は素直に頷いた。
 是非とも聞かせてもらいたい非常に興味深い内容だ。
「んーじゃあ、まずはそうだな……寝込んだ十代の体から出てきたユベルを初めて見た時のことでも」
 悪戯っぽく目を細め人差し指を唇に当ててヨハンは笑った。



◇◆◇◆◇



「十代ー、じゅうだーい……ありゃ。寝たのかこいつ」
 ほんの数ヶ月前までお馴染みになっていたレッド寮の狭苦しい十代の部屋。ヨハンは彼が卒業するというので来日し、今また当たり前のようにここに住み着いている。この場所はアカデミアのどこよりも住み良く居心地が良いのだ。ブルー寮の部屋が妙にだだっ広く居心地が悪い、というのも勿論あるが何より十代の存在がヨハンが覚える心地よさに大きな位置を占めていた。あんまりに十代の側が気持ち良いものだから、本国のアークティックに帰っても違和感を覚えてしまった程である。
 まあ、そんなことはどうでもいい。目下の問題は十代が眠り込んでしまったことだった。話し相手(しかもこの部屋の主)が寝てしまった以上自分が起きている理由はあまりない。何か布団でもかけてやるか、風邪ひくよなぁと漠然と考えてヨハンは立ち上がった。と、
『なんだい、寝るのかい、お前』
 信じられない声が耳に入ってきたものだからヨハンは驚いて振り返る。誰だ今の声。まさか、まさか――
 あのヤンデレ精霊じゃ、
『なんだいその狐に摘ままれたみたいな顔は。元々馬鹿っぽい童顔が余計に阿呆面になってるじゃないか。僕はこんなのの体を使っていたってことなのか』
「えーっと、えっと……ユベルさん?」
 ヤンデレ精霊だった。
「なんでここに……あの時十代は決着を付けたんじゃ……」
『決着は付いてるさ。超融合のカードによって今や僕と十代の魂は一つだ。――ふふ、どうだい羨ましいかい?』
「いやどうだろう……確かに俺も十代と離れてしまうのは嫌だけど魂を一つにしたいかって訊かれると正直微妙だな」
『人間らしい答えだね』
 この甲斐性なし、だとか君の愛ってその程度なの? だとか言われると思っていたのでユベルのこの切り返しは意外なものだった。彼女はどうやら十代に感化されて多少丸くなったらしい。悪いことではない。
 だが、今はその事実に感慨を覚えている場合でもない。
「で、なんでいるわけ? 十代の魂の中に引っ込んでればいいのにわざわざ俺と顔を付き合わせに来た理由がなんかあるのか」
『……別に、大したことじゃあないさ。ただ……』
「ただ?」
『悪かったね。僕に付き合わせて』
「へ?」
 一瞬頭が真っ白になって思考が停止した。
 聞き間違えでなければ、聞き間違いのような気はするが、今ユベルは自分に謝ったのではないか? あの傲岸不遜で我が侭、十代と己以外はどうでもいいものというのを信条にしているように見えるユベルが?
 にわかには信じ難い。
『なんだいその有り得ないものを見たみたいな目は』
「いや実際有り得ないものを見た気がするんだけど」
『傷付くねぇ、まったく』
 大仰に肩を竦めてみせてユベルは溜め息を吐いた。それに対してでもしょうがないよなぁとヨハンは内心一人ごちた。
 だってありえねえもん。
『でもまあ僕としては、お前に感謝してやってもいいかなと少し思っているんだよ。ほんの少しだけ』
「か、感謝ぁ?」
『お前の体は結構住み良かったんだよ。何せ十代への想いで満ちていた。それに――悔しいけど十代が今ああしていられるのはお前という存在があったから、なんだよねぇ。なんか話してたらむかついてきたなぁ……』
 嫉妬しちゃうよ、とあまり冗談には聞こえない声で(指をゴキゴキ鳴らしてばらばらと動かしているのがその本気っぽさに嫌な拍車をかけていた)ユベルは言い、ヨハンにその姿を迫らせる。ふと気が付いた時にはもう、ユベルは実体化していた。爪や翼は角張って鋭利だ。正直襲い掛かられたらひとたまりもない。
 ヨハンがホールドアップし、「お手上げ、降参」の意を全身で示す。殆ど駄目元のつもりだったのだがユベルの指はあっさりと引っ込んだ。しかもくすくすと素直そうな声で笑っている。
『……冗談だよ。お前を傷付けたら十代はしばらく僕と口を聞いてくれないだろうし。それに言っただろう、感謝してるって。その体で"色々と"させて貰ったしね』
 またしても気味が悪い笑顔で宣う。しかし俺はそれよりも気になる言葉をその台詞の中に捉えた。――色々と、した? 何をだ。
 頬を汗が伝う。
「そのー……色々って、何を?」
『別に? 大好き、愛してる、愛しい僕の十代、傷付け合おう、痛みを分かち合おう、僕の大事な人……そんなことを、僕の代わりに言って貰っただけさ。なんだいその真っ赤な顔は? 君が期待していたようなことはなぁんにも、しちゃあいないよ?』
 「ねぇ童貞」。ユベルはにやにやと意地の悪い顔をしてヨハンの赤く染まった頬をつつく。ヨハンはその刺激にはっとして意識を引き戻した。ユベルの言葉がぐるぐると頭の中を巡っている。
「ひっどいなユベル……何も俺の体でやることねえじゃん……だって、それじゃあ、まるっきり、」
 俺が十代のことを愛しているみたいじゃないか。
 たどたどしくヨハンがそう言うとユベルはへぇ? と口端を歪めた。悪魔然としたその表情。いやこいつは本当に悪魔族なんだけど、十代はよくこんな奴と魂を分かちたものだと思う。あいつの懐は広すぎる。
『なんだい、お前は十代を愛していないのかい?』
「体を乗っ取られた時も言ったと思うけど、親友としては愛している。誰よりも。でもそれは親愛であってお前の言う愛とは違うものなんだ。恋愛感情じゃあ、ない」
『ふぅん……』
「な、なんだよ……」
 じっと己を見つめてくる瞳にたじろぐ。覗き込んで見透かそうとするかのような眼。怖い、とヨハンは思った。大分フレンドリーになったとはいえユベルはユベルなのだ。
『本当に、ただの一度も親愛以上のものを感じたことがないってお前は言い切れるのかい? 手を繋いで抱き締め合ったあの時覚えた感情は安堵だけだった? あどけない顔に何を感じた。親友という言葉でもまだ物足りなくて、それ以上の関係になりたいと思ったことは? ――家族になりたいと思わなかったってお前は言える?』
「な、え、う、それは……」
『少なくとも十代はヨハン、お前が家族であったらばと幾度か考えていた。誰よりも信頼出来る人間が何故赤の他人なのだろうと思考していた。僕から見てもね、お前と十代はよく似ている。そんなお前が全くそう感じたことがないなんて僕には思えない』
 ユベルはそう言い切るとさあ肯定しなよ、と威圧するような体勢で腕を組んだ。酷い誘導尋問だ、とヨハンは思う。何を否定しろというのか。何も否定できる気がしない。
 そこまで考えてからヨハンはもう駄目だ、と悟って笑い出した。箍が外れたかのようにげらげらと笑う。ユベルが流石に怪訝な顔をする。俺は笑いすぎて滲んだ涙を手で拭うと「もうダメ」と小さくぼやいた。
「そんなふうに言われたらさぁ、ダメだ。卑怯だぜユベル、あぁ十代も俺のこと家族だと思っててくれたんだなぁって安心して嬉しくなっちゃうだろ。もういいや、難しく考えるのは。なあ、だからユベル、」
 俺が眠くなるまで十代の話しようぜ。

 真面目な顔でそう言うとユベルは一瞬だけ目をぱちくりさせて、それから「バカだねぇ、十代自慢で僕に勝てると思ってるの?」と鼻で笑う。ヨハンも負けじと「それはどうかな、俺はお前の知らない十代をたくさん知ってるぜ……?」と挑発する。
 この間十代は寝息を立てるばかりで全く起きるそぶりを見せなかった。なんというか豪胆なやつだと思う。



◇◆◇◆◇



「何それ」
 十代は変な顔をして一言だけ口に出した。あとは思考が堂々巡りになっていてうまい具合に言葉が見つからないらしい。顔にそう書いてある。
「だからこれが、俺とユベルが和解した時の話」
「わけわかんねぇ」
「簡単だろ、十代のこと語り合ってたら仲良くなっちゃったってだけ。良かったなぁ十代、それだけ愛されてるってことだ」
「ていうかさあ、え、何? そんなんで打ち解けちゃうわけ? 体乗っ取られたのに? すげーなヨハン。ある意味尊敬する」
「つれないな十代は。十代が大事だって点においては俺とユベルの意見が一致したってことだよ。なあ、素直に喜べよ」
 「俺もユベルも、十代の家族みたいな存在でありたいんだ」。そう畳み掛けるように言って背中を撫でると十代はうー、だとかあー、だとか呻いて上目遣いにヨハンを見上げてきた。随分気恥ずかしそうだ。何だか子供っぽくてかわいい。十代が大人になってしまってからこういう表情を拝むことが出来たのは自分とユベルぐらいじゃないかとヨハンは思う。
 家族の特権だ。
「くっそ……不覚にも嬉しい……。こんなんでもまだ、ヨハンは俺のこと家族だと思っててくれるんだな。――ああ、そうだよ。それが嬉しいことじゃなかったら何が嬉しいって言うんだよ」
 ぐちゃぐちゃと思考が纏まらないまま喋っていた十代だが、「だーもう!」と叫ぶとばっと両手を開いてヨハンをその腕で抱え込んだ。勢いのあまり体勢を崩しかけていた彼を支えるようにヨハンも十代を抱き締め返す。
 とくんとくんと穏やかな心音がふたつ分、重なっていた。布越しの体温、かつて嘆きと疼きの共有に思えたそれだが、今は全く違う意味合いに感じられる。
「あったかい。生きて、互いに触れ合えるって実はすごい幸せなことなんだって俺思うんだよ、最近」
「そりゃそうだ。生きてるってだけでも有り難いのに心を許せる誰かがすぐそばにいるってことだからな。なんか随分長い間俺にはそういうの縁がなかったから、余計に幸せに感じる」
「んー、俺も。そういう安らぎと幸福が"家族"ってものに求められるものなんだよなぁ多分」
 本当の家族との距離は、こんなに近くない。むしろ遠い。血が繋がっている、言ってしまえばヨハンにとっても十代にとってもそれぞれの両親というのはそれだけの存在だった。冷えきった家族関係、それはもう何か違うと思う。
 でも血の繋がりなんてまるでない二人は今すごく近くて、同質で、一つの喜びと安堵と幸福を分かち合っていた。その距離感。
 これが愛おしくないわけがない。
「改めて言うけどさ、十代。これからも俺は、お前とこの近さでいたいな」
「今更だな、心配しなくても変わらないさ。だって俺とお前はこんなにそっくりでよく似てるんだから」
 似た者同士の俺たちは、きっとこれからもずっと――この距離に包まれて生きていくのだ。