「九十九遊馬の持つ能力を利用して、アストラル界を救え」。
 それが私に与えられた使命だった。ずっと均衡を保っていた三世界のバランスが崩れていよいよアストラル界の存続が危ぶまれ出した頃、私はその使命を授かったのだ。とにかく世界を救うための「能力」さえ手に入れば後はもうどうでもよかった。「九十九遊馬」という名前もその能力を保持する者を識別するための記号に過ぎない。私は九十九遊馬という名を持つらしい生き物には何の関心も持っていなかった。
 アストラル界からこちらの世界へとやって来てわりとすぐに彼は見付かった。数年前に目印として送り込まれていた皇の鍵がマーカーとしての役割を上手く果たした為だ。手っ取り早く、私は彼の体を乗っ取ることにした。能力が宿っているのは選ばれた彼の肉体であり精神は関与しない。つまり彼が死なずに、能力を保持し続けるという一点にさえ気を配れば何をやったって構わないのだ。少なくともその時の私は至って淡白にそう考えていた。極端な話、彼が廃人になってしまったとしてもそんなことは知ったことではなかったのである。
 しかし、私の目論見は失敗した。
 九十九遊馬は"特別過ぎた"。彼は私ごときが干渉出来得る存在ではなかったのだ。かくして私は記憶の大半をナンバーズとして飛び散らせ、朧な存在としてこの世界に留まることを余儀なくされた。自身はデュエリストで、どうにかして故郷の世界へ帰還し救わなければならない。それが私に残された少ない記憶の内訳だった。

 そして今、私は全てを思い出した。
 ナンバーズの持つ意味。与えられていた使命。為さなければならないこと。しかしその事実は、使命は"人間の心"を学習し理解した私には酷く難しく冷酷なものだったのだ。
「今更、私に遊馬を利用しろと、そう、言うのか」
 私の手は震えていた。遊馬を――今や私にとって何よりも大切な存在となった遊馬(記憶を取り戻しても、一番は彼で変わらない)を彼の想いも何もかも踏みにじって利用するなどということはとても出来そうにもなかった。
 彼の能力は、彼が彼のままでいては正しく行使出来ないものなのだ。
 ……少なくとも、アストラル界にその存在を確立させなければ発現すらしない。機能させるだなんてもっての他である
 そしてとりもなおさず、能力を行使させるということは彼に世界を棄てさせるということと等しく同意義であった。何故なら、アストラル界の平穏を乱している排除すべき異分子の発信源はこの世界なのだから。



◇◆◇◆◇



「おい、遊馬。いつまで寝ているんだ遅刻するぞ」
「うそぉ?! もうこんな時間なのか!!」
 サンキューカイト、と顔をがしがし擦りながら遊馬が言うとカイトはそんなことより早く支度をしろと素っ気なく言って屋根裏部屋のドアを閉めた。用途のわからない物がごろごろと転がっているこの部屋は相変わらず足の踏み場が少ないのだが、カイトは上手く足場を見付けてはこうして遊馬をハンモックごと揺らして叩き起こしに来るのだ。寝覚めが特別悪いわけではないのだがよく熟睡する傾向にある遊馬にとっては非常に有難い。
 多分今まで遊馬に迷惑を掛けてしまった(弟ハルトを救い出すための活動はまだ続いているから、カイトにとっては現在進行形のものかもしれない)ことと居候の自分がベッドを使っていることに負い目があるのだ。彼は非常にまめに遊馬の面倒を見た。「なんだか出来のいいお兄ちゃんが出来たみたいね」とは実の姉、明里の言だ。
(これ以上カイトを待たせるわけにはいかねーよなぁ)
 最近わかったことだが、カイトという人物は物凄く律儀で面倒身が良いのである。彼は遊馬を置いて先に動くということを、行動を共にし出してから一度もやったことがなかった。チラチラと時計を見て、遅刻確定かと呟きながらも遊馬を待っている、そういう人間だったのだ。あの時は流石の遊馬も焦った。
 そういうわけで少し急ぎ気味に着替えに取り掛かる。寝巻きを脱ぎ散らかしてから大雑把に制服を着て鞄を引っ掛け、遊馬はさっさと部屋を出ようとした。
 その時、ふと違和感に気付く。そういえば今朝はまだアストラルを見ていない。
「また考え事しにどっか行ったのかな」
 近頃のアストラルは妙にぼおっとしている事が多い。話を振っても不自然な間が空いて「すまないがもう一度言ってくれ」だとか、はたまたてんで的外れなことを言ってくるのだ。
「まあいっか……なんかあったらフラって帰ってくるよな。それよりマジで急がねーと! カイトもう食べ終わってるよなーきっと」
 朝飯は抜きかぁ、ばあちゃんのデュエル飯でなんとかなるかなぁ。至って暢気でいつも通りな台詞が遊馬の口から漏れる。危機感なんてまるでない。
 どたどたと階段を駆け降り、デュエル飯を受け取って遊馬は玄関口で待っていたカイトと合流した。時計を見ていたカイトが「まだ間に合うな」と一人ごちて顔を上げる。
「大丈夫か、ネクタイ曲がってるぞ」
「平気だってそんなの……うっし、行ってきます!」
「行って参ります」
 家を出てしばらく二人で進み、すぐに小鳥や哲夫達と合流した。この辺りで人数が膨れ上がって登校時はいつも大所帯になってしまう。でも遊馬はそれが嫌いではなかったしカイトもむず痒いが悪くはない、と言っていた。いいことだよな、みんな仲がいいって! 遊馬はいつもそう思っている。そうそう、たまにこの中にシャークも加わるのだ。シャークは気が向いた時にバイクでなく徒歩で通学していて、そういう時は必ず遊馬を探し当てて合流してきた。丁度今みたいに。
「おっすおはようシャーク!」
「ああ。……天城、何か俺に言いたいことでもあるのか」
「裾がほつれている。それから制服の第二ボタンは開けるな、第一までは見なかったことにするから。神代は相変わらずだらしがない……」
「お前は相変わらず細かいな……」
「なんかカイトって過保護なお兄さんって感じだよなー」
「かほ……?!」
「弟と再会したら少しは改めた方がいいぞ」
 いつも通りの朝、いつも通りの光景、いつも通りのやりとり。変わらない毎日。それが当たり前のようにこれからも続くのだと遊馬は信じて疑ったことがなかった。浅はかなことだ。遊馬の元にアストラルが現れて日常を変えたことだって十二分に突然のことで、同じことがいつ唐突に起こるかもわからないのに。
 永遠も普遍もありっこないのだ。転機は何の前触れもなしに訪れる。
 けれど平穏という名のぬるま湯に慣れきった遊馬には、この日自分に襲い来る運命のことなんかまるで予測出来てはいなかったのだ。



◇◆◇◆◇



『遊馬』
「アストラル。お前どこ行ってたんだよ」
『……遊馬』
「? なんだよ、どうしたんだ?」
『すまない、遊馬』
 あっ、と思う間もなく遊馬は床に倒れ込んだ。意識が重い。体が、だるい。見慣れた屋根裏部屋の床が酷く遠いように思えた。どうにか立ち上がろうと朦朧とする意識の中で考えるが指一つ動かない。そうこうしている内に視界が揺らいで来た。瞼が閉じる――
『私にはどうしても君が必要なのだ。私の世界のために。……いや違うな、私自身のためだ。私は卑怯だ。酷い臆病者だ』
「アス……ト……ラ、ル…………?」
『君が断らないと、断れないと知っていて懇願する。お願いだ、遊馬。私と――』
 世界が反転する。



「……遊馬、明里さんが呼んでいるのが聞こえないのか? 夕飯だから早く降りてこいと……。……遊馬?」
 屋根裏部屋の扉を開き、中に踏み入ってカイトは絶句した。そこにこの部屋の主はいなかった。朝見た時のまま散乱している雑多ながらくた、中央で僅かに揺れているハンモック。開け放たれた窓。一際強い風が吹き込みカーテンが派手に揺れる。
 今日は遊馬と一緒に下校したし、彼がただいまと大きな声で告げるのもはっきり聞いている。その後この部屋に駆けていく足音も聞いた。彼はここにいる筈なのだ。
 胸騒ぎがする。嫌な予感が止まらない。
「オービタル! オービタル7!!」
『はっハイッ!』
「出掛けるぞ。九十九遊馬が失踪した」
『しかしカイト様……今ワタシはオボミに……』
「そんなことは後にしろ!」
『かかカシコマリィッ』
 明里に遊馬が消えた旨を説明し、「俺が探してきます」とそぞろに告げてカイトは九十九家のドアを勢いよく開け走り出した。後ろで明里が何か言っている気がするが耳には入らない。ざわざわする。嫌な汗が止まらない。
 走りながらカイトはポケットから連絡用の機械を引っ張り出し装着した。パネルをタップしコールする。コール先は「神代凌牙」。
「――神代!」
『どうした、何があった?』
「遊馬が消えた。誰かが連れ去ったと見て間違いない。今時間を取れるな、俺は西地区を回るからお前は東地区を頼む。今オービタルに皇の鍵の波長を利用して位置を検索させているから、解析出来次第場所は連絡する」
『了解した。すぐ出る』
 カイトとシャークの共通点、それが遊馬という存在だった。二人は遊馬に救われていてそれに恩義を感じている。だから二人は遊馬を助けるために動くことを躊躇わない。それは当然のことだからだ。
 カイトは人通りの少ない裏路地に入るとオービタルを変形させて空に向かって地を蹴った。今は時間が惜しい。移動はなるべく早く、かつ広範囲を確認しなければ。
 オービタルの解析結果が出たのはそれから十数分後のことだった。ハートランドシティ中央地区5-A-1。それが皇の鍵が示した座標だった。



◇◆◇◆◇



「貴様が、遊馬を連れ出したのか。――アストラル」
 カイトとシャークが中央地区の該当エリアで見たものは、意識を失っている遊馬を抱き抱えて空中に佇むアストラルの姿だった。カイトが彼の姿を見るのは二度目だ。皇の鍵に入ってデュエルをした時以来である。
「あいつが……遊馬に憑いていた幽霊、って奴なのか?」
「ああ。だが何故奴はこの世界で実体化しているんだ」
『答える必要はない。私と遊馬はすぐにこの世界からいなくなる』
「なんだと?!」
『私には使命がある。ナンバーズを全て集め、そして思い出した。私が何をするべきかを』
「何故それに遊馬を巻き込む」
『遊馬が必要だからだ』
「ッ……!」
 アストラルとの会話はどうも噛み合わなかった。彼はこちらの質問に答える気が恐らくない。正直、いつ問答を止めて行ってしまうかもわからない。
「――遊馬をどこへ連れていく気だ」
『アストラル界へ』
 シャークが切羽詰まった声で叫び、それに淡々とアストラルは答える。アストラル界。ハルトが干渉させられている世界。こことは違う異世界。彼はそこの生き物だ。
 カイトは自嘲気味に俯きあぁそうか、と掠れた声で呟いた。今合点がいった。つまりはそういうことだったのだ。
「一時でも、貴様を信用した俺が間違いだったということか。初めからそうだったんだな。遊馬が話していた貴様の態度、思想、遊馬への感情、どれも計算されたものだったということか。――やはり貴様もアストラル界のものに過ぎなかったんだな!!」
 カイトの激昂した声にアストラルの眉音が僅かに潜む。だがその小さな変化の意味するところはカイトとシャークには伝わりようもなかった。
 アストラルは瞼を伏せて彼らに踵を返す。
『……なんとでも言え』
 それだけ言い残してアストラルは遊馬を抱えたまま霞のようにかき消えてしまった。つい今しがたまで彼が浮かんでいた場所にはもう何もいなかった。
 ただ呆然と立ち尽くす二人だけが、その場に残された。



◇◆◇◆◇



 世界がきらきらと煌めいている。
 遊馬はうっすらと目を開けて、なんだか綺麗なところだなぁと朧気に思った。次いでごしごしと瞳を擦り、まだ眠たい眼を開く。視界いっぱいに青銀のだだっ広く何もない空間が広がった。星屑が所狭しと犇めいているようでもあった。遠くで眩しい光が渦を巻いている。
「……なんだここ」
『起きたのか、遊馬』
「んー? あー……アストラル?」
 何が何だかわからなくなっていたところに馴染んだ声が聞こえて遊馬は少し安心した。でもすぐに思い直す。アストラルの手のひらが遊馬の体に触れてきたからだ。今まではどんなに手を伸ばしても通り抜けてしまったアストラルがだ。
「なあ、ここ、どこだよ。皇の鍵の中か?」
 皇の鍵の中に入って(原理はよくわからない。変な門が入れてくれた)カイトと戦った時はアストラルと触れ合うどころか魂をオーバーレイして(原理はやっぱりわからない。何かやらなきゃと思ったら出来た)一つの体に合体したりしていたわけだから、もし何らかの理由でまた皇の鍵に入ったのならアストラルに触れるのにも納得がいく。
『いいや、違う。皇の鍵の中とは似て非なる場所だ。――アストラル界。ここはアストラル界だ、遊馬』
 けれどアストラルはその仮定をあっさりと否定してとんでもないことを告げた。アストラル界、それはつまりここは異世界だということだ。
『君の力が必要なんだ。説明もせずに騙すような形で連れてきてしまってすまないと思う。だが私にはもう選択肢が残されていない』
「……なんかよくわかんねーけど要するにアストラルは困ってるんだな?」
『ああ』
「そんで、俺の力が必要なんだ」
『……ああ』
「なんだー水くせえな早く言えよ!」
 軽く笑って遊馬は思い切りアストラルをど突く。アストラルはきょとんとして遊馬を見てきていた。怒るか喚くかだと思っていた遊馬が笑いながらアストラルを肯定するかのような態度を取っていることがどうも理解できないらしい。顔にそう書いてある。
「お前が困ってて、そんでそれを俺がなんとか出来るんなら喜んで協力するさ。前言ったろ、俺はお前の為ならなんだってするって」
 笑顔のまま続けられた遊馬の言葉にアストラルが硬直する。信じられないような、あってはならないものを見るような目だった。喜ぶ反面酷く動揺しているみたいだ。
 でも、なんで? だって遊馬はあの時からずっとそう思っているのだ。困っている大事なひとを助けるのに理由なんか要らないし、躊躇なんて必要ない。
 遊馬にとってアストラルという存在はすごく大事なものだった。いがみあったり喧嘩したりすることもあったけど、彼にとっては家族みたいなものだった。時には家族以上の存在であったかもしれない。とにかく彼が大切なのだ。
 これ以上、自分の知らないところで大切な誰かを喪うのは嫌だ。
 そのために少なくない犠牲を払わせられるのだとしても。
『しかし、遊馬。私は――私は、君を利用しようとしているのだぞ。君の意思を差し置いて、君が当たり前に享受して然るべき日常からこの非日常へ拉致してきた。罵られても仕方がないことをしているんだ』
「あのなぁ。お前が無茶ぶりなのは今に始まったことじゃないだろ。いきなり出てきて勝つぞ、とか言うし」
 確かにあの日常から離されてしまうのは淋しい。みんなでわいわい騒いだり走り回ったり馬鹿やってみたり、楽しかった。でもそれとこれとは話が別だ。小鳥たちは遊馬がいなくなったとしても壊滅的なダメージを負うことは恐らくない。けれどアストラルは今遊馬がいなければ取り返しがつかないことになるのだ。多分そうなのだ。
 でなければ、遊馬より遥かに気の回るアストラルがそこらへんの事情を全て蔑ろにしてまで遊馬を連れてくるはずがない。
「遠慮しなくていいよ、アストラル。お前を助けるためならなんだってする。どんな無理難題でも二人でならきっとどうにか出来るさ。……小鳥たちにはちょっと悪いけどさ」
『しかし遊馬、それでは君が彼らに……』
「だーかーらお前は気にするなって! お前は本当は悪いやつじゃないし、理由もなく無茶はしないやつだって俺は知ってる。そのお前がこうしてまでやらなきゃならないことなんだろ? そりゃ協力するさ。お前だって無理矢理俺を利用することに負い目があったんだろ」
『それは……そうだが……』
 遊馬の指摘は鋭かった。よく切れるナイフのようにアストラルの心を切り裂いてさらけ出した。そうだ、正にそうなのだ。遊馬を無理に従わせるなんてことはしたくない。でも遊馬が自分に協力するということはある一つの決定的な決別を彼に求めることを意味する。
『……だが、遊馬。そのために君は友を裏切り、世界を敵に回さなくてはならないのだと……そう、知ってもか?』
 アストラルは自嘲するように吐き捨てた。



◇◆◇◆◇



「アストラル界へ行くぞ」
 カイトは極めて端的に述べた。かしゃん、と軽い音がして箸が落ちる。
「昨夜一晩考えたが、やはりそれしかない。今ここで遊馬を失うわけにはいかない。悔しいが俺一人ではハルトを取り戻すこともままならないからな」
「まあ……それについては同意見だが。簡単に言うがどうやって行くつもりだ」
 落っことした箸を拾い上げ、箸箱に突っ込みながらシャークは尋ねる。考えらる方法は一つもなかった。ただの不良であるシャークにそういう摩訶不思議ごとは手に負えないのである。
「現時点では手立てはない」
「あのなぁ」
「だがいつまでも手をこまねいているわけにも行くまい。遊馬の取り巻き――友人達も誤魔化せないし明里さんは酷く疲弊している。形式的に警察機構への通報はしてあるがそんなものが役に立つと思うか?」
「……まあ駄目だろうな」
 シャークの溜め息を聞きながらカイトは昨夜のことを思い返した。どう説明したものかとは思ったが、遊馬の失踪を隠すことは出来ない。以前に遊馬から彼の両親は冒険に出掛けたきり帰って来なかったと聞いていたから、最終的にカイトは何も飾らず騙らずありのままに全てを話すことにした。それが信用されるかどうかはさておき。

「だから、カードはやらせたくなかったのに!」

 それが黙って最後まで話を聞いてくれた明里が、一番最初に言った言葉だった。

「大変なことが起こるから、カードはやっちゃ駄目だって。あんなに言い聞かせたのにやっぱり守らなかった。それでわけのわからない所に連れ去られたなんて馬鹿みたい。馬鹿遊馬! だから――だから言ったのに!!」

 わあわあと泣く明里をどうすることもカイトには出来なかった。遊馬の祖母の春が明里を宥める。誰もカイトのことは責めなかったが、それは逆に強烈な居心地の悪さをカイトにもたらした。
 ただ拳を握り締めて泣き続ける明里を見ているのは己の無力さをこれでもかと叩きつけられているかのようだった。
「家族を失う痛みを俺は正確には理解出来ていないだろう。だが家族を失いたくないという気持ちはわかっているつもりだ。遊馬はまだ取り戻せる。手掛かりがないわけじゃないんだから」
「悪ぃな、何から何までお前任せで」
「心配は要らん。神代にもみっちり働いてもらう」
 ふん、と鼻を鳴らしにやりと笑ってみせるとシャークは「ですよねー!」と言わんばかりの渋い顔付きになる。思えば妙な関係性だ。一度は魂を奪い奪われた二人が屋上である一つの事柄を真剣に討論しながら弁当を広げているのだ。二人の初対面の末路(つまりカイトが魂を奪ったことによるシャークの異変)を知っている者が見たらぎょっとした顔をしたっておかしくないだろう。
 こうして二人が何の因縁もない友人然として空を仰いでいられるのも、やはり遊馬という存在があってこそなのである。
「……あいつ今、何やってんだろうな」
 不意にシャークがそう漏らした。
「知らん。そんなことは俺の管轄外だ。……だが、」
 カイトはそこで一度言葉を切る。脳内で遊馬の姿とハルトが重なっていた。あの時以来笑わなくなってしまったハルト。カイトはハルトの笑顔が好きだった。屈託のない顔で冗談を言ったりして、子供らしく純粋だったハルトを守りたかった。
 でもいつの間にかハルトは笑わなくなってしまった。昔の事を尋ねても覚えていないという。笑顔がよく似合うハルトはどこにもいなくなってしまったのだ。カイトはそれが酷く悲しく悔しいのだ。
 遊馬もそのようになってしまったらだなんて考えたくもない。
「……笑っていてくれればいいと思う」
「可能性は絶望的に低いけどな」
 そんなカイトの思いを知ってか知らずか、シャークの冷たい言葉がカイトを貫いた。



◇◆◇◆◇



『遊馬、遊馬、いいのか……それで?』
「いっちいち心配症だなぁアストラルは! いいの! 俺がいいって言ったらいいの!!」
『む……すまない……』
 アストラルがしゅんとして俯く。遊馬は「俺が悪いやつみたいだ」とばつが悪そうに呟いて頭を掻いた。実際これから悪いやつを演らなきゃならないのだが。
 アストラル界に人間の侵入者あり、と報告があったのは遊馬が目覚めて朝食を摂り、めんどくさいけど今日も仕事するかーなどと考えていた時のことだった。人間が二人、あと疑似生命体が一つ――とのことである。恐らくカイトとシャーク、そしてオービタルのことだろう。
 遊馬がアストラルと共にこちらへやって来てから現実世界では一月しか経っていない。その短期間でアストラル界に入る方法を見付けたのだから凄まじい。やることが早いなと思ったが、彼らからしたらもどかしい時間だっただろう。
「でも門前払いしなきゃなんねーんだよなー。ほんと悪いんだけど」
『……』
「アストラルー、一応足止めになんか遣っとく?」
『その辺りはもう上が何かしらやっている』
「そっか」
 んじゃあナンバーズのチェックでもしとくかなと言いながら保管場所に向かって歩き出した遊馬を見ながらアストラルは後悔する。後悔など今更だとわかっていて尚、悔やむ。
 遊馬がこの世界に馴染むのは本当に早かった。あっという間に彼はこの世界に順応した。まるで初めから定められていたかのようにアストラル界そのものもスムーズに遊馬を受け入れた。
(遊馬が……意思を持ったままこちらに付くことが織り込み済みだったとでも言いたいのだろうか……?)
「ホープとあとどいつにしようかなぁ……リバイスドラゴンとか? カイトのギャラクシーアイズ対策しないといけないしな、90番台とか出してみようかなぁ、えっ? ブラックミスト出たいのか?」
 ナンバーズを保管してある隣の部屋から呑気な声が聞こえてくる。でも声がいくら呑気でも実際喋っている内容は殺伐としていた。彼は今友を追い払う算段をたてているの。これが嘆かわしいことでないとしたら何なのだろう。
 遊馬はいつも、非常に真っ直ぐな性格だった。彼の正義に素直なのだ。でもその基準は少しずれていた。
 少し――歪だった。
「あの二人ならどのくらいでここまで来るかな。結構早いだろうな……アストラル、大丈夫かー? ぼーっとしてるぞ」
 何枚かの黒いカードをエクストラデッキに突っ込みながら遊馬が帰ってくる。アストラルは無言で彼の側に寄った。なんと声をかけていいのかはとうとうわからないままだった。



◇◆◇◆◇



 はあ、はあ、はあ、はあ。
 少年二人分の荒い息が静寂の中に響く。はあ、はあ、はあ。呼吸が苦しそうな音だった。それでも二人は走り続ける。立ち止まっている暇も余裕もない。ただがむしゃらに足を動かし続ける。
「ギャラクシーアイズ・フォトンドラゴン! 破滅のフォトンストリーム!!」
 白銀の吐息を受けて行く手を阻もうとスクラムを組んでいたモンスター達が消し飛ぶ。カイトは額をだらだらと流れる汗を拭った。もうどれだけ走り続けているのかわからない。
「――ブラック・レイランサー!!」
 と、カイトの目の前を漆黒の槍士が横切った。油断したカイトを狙って生き残った雑魚が奇襲を企てていたらしい。
「悪い……神、代……」
「無駄口叩くな……やっと見えてきたぜ……」
 はあ、はあ、はあ、はあ。ぜえぜえと荒い息を吐きながらシャークが正面を指差す。その先には巨大な門があった。どちらかというと白を連想させやすいこの空間においてその門は異質なまでの暗い雰囲気を纏っていた。何巻きかの巨大で無骨な鉄鎖。中央に彫られた悪魔のレリーフ。悪夢を体現したみたいな意匠だ。
「ふん……趣味の悪い……」
「遊馬は……この奥か」
「恐らくな」
 門のすぐ前まで来て二人は足を止めた。ずっと定間隔で続いていた追っ手のモンスターのポップはいつの間にか止まっている。二人は顔を見合わせてそれから手を扉に翳した。



 紅い色に染まった床が一直線に続いている。
 その最奥に玉座が鎮座していた。玉座の背もたれは皇の鍵の形によく似ている。誰かが座っていて側にもう一人、侍らせていた。
 誰が座っているのか? わかりきっている。でも頭がそれを受け入れようとはしなかった。理性が囁きかけてくる。現実を、受け止めろ――
「……二人とも、こんなとこまで本当に来てくれたんだな」
 玉座に座っていた"誰か"が立ち上がり口を開いた。聞き慣れた声。嫌だ、認めたくない。
「でも……ごめんな。二人の気持ちは嬉しいけど……」
 "誰か"はこちらへと歩み寄ってくる。"誰か"が歩を進める度に粒子が舞い"誰か"の纏う衣服が姿を変えていった。見慣れた赤いジャケットが白い服に成り変わる。彼が「デュエルのDなんだ」と教えてくれたシャツも金糸の刺繍が控え目に施された白服の一部に変わった。三つの月が連なっていたズボンも真っ白になる。最後にマントが現れて、翻った。子供らしい彼には似合わない服装だった。
「俺は、二人をこの世界から排除しなきゃならない。それがアストラルとの約束だから」
 "誰か"はそう言うと歩みを止めてにこりと笑った。
 酷く冷たい微笑みだった。
「……遊馬」
「あー……そういう目で見るなよー……。何て言っても無駄だからな! 決めたんだよ、アストラルを助けるって。世界を敵に回してでもって、約束したんだ。だから俺はもう意思を曲げない」
 顔をしかめて弁解するように遊馬が言う。真剣な眼差しだ。少なくとも彼が意思を剥奪されてはいなさそうだということはわかったが、状況は絶望的だ。
「本気なんだな、遊馬」
「ああ。……なあ、だからさ、二人ともデュエルディスクを構えてくれよ。タッグデュエルで決着を付けよう、そうすれば俺が半端な気持ちじゃないんだってこと、きっとわかってくれるから」
 遊馬がDパッドを展開してデュエルディスクを構える。でもカイトもシャークも動くことが出来ない。否、動きたくないのだ。
 この場でデュエルディスクを構えて遊馬に相対するということは即ち彼を明確に敵であると認識するということである。二人は彼を助けにここまで来たのだ。どうしてそんなことをしなければならないのだ。
 しばらく居心地の悪い沈黙が続く。一番初めにしびれをきらしたのは遊馬だった。彼は「なあ、早くしてくれよ」と無情にも促してくる。
「じゃなきゃ無抵抗のままダイレクトアタックで強制送還されることになるぞ。……俺、二人のことは友達だと思ってるし大好きだけどさ。でも、手加減は出来ないんだ」
「……それもアストラルとの約束だからか?」
 シャークが厳しい顔で問う。遊馬は一瞬だけきょとんとした顔をしてすぐに表情を改めた。
 真っ直ぐな眼差しがシャークとカイトを射抜く。
「ううん、これは――これは、俺自身の決別の意志だ」
「……そう、か」
 頭を何か大きく堅いものでがぁんと思いっきり殴られたような衝撃だった。


 その後のことはあんまりよく覚えていない。やっとの思いでギャラクシーアイズを召喚したけれど、遊馬とアストラルが速攻で何体も何体もナンバーズを召喚してくるものだからまるで歯が立たず、こちらの戦術を悉くボロボロにされたのは確かだ。
 返し手に伏せたトラップも全力で潰された。ムラがなく流麗すぎる戦術はとても遊馬のものだとは思えない。
 残りライフが500を割る。段々と朦朧としていく意識の中で遊馬が口を開くのがスローモーションで見えた。

「ごめんな」

 囁かれた言葉にカイトははっ、と虚しい息を漏らす。
 何が、ごめんだ。何が決別の意志だ。無茶しやがって。アストラルと二人きりで世界を敵に回す? ちゃんちゃらおかしい。お前はいつも詰めが甘い。
 そんな、ぐしゃぐしゃに泣きながら無理に笑っているみたいな顔をされても説得力なんかないのだ。
「馬鹿、野郎……ッ! 絶対に、俺はお前を、諦めないから、な――!!」
 カイトは絶叫した。遊馬が瞬間息を詰まらせる。でも彼はすぐに指をカードにかけ、エクストラデッキから彼の心の象徴たるモンスターを呼び出した。
「ナンバーズ39、希望皇ホープを召喚」
 ホープが量腰の剣を抜刀し、そのまま流れるように斬りかかってくる。
 ……それが、最後に記憶している光景だった。