「ハルト」
 その少年は虚ろな瞳で奔流の更に奥を見ていた。現実世界のハートランドシティ中央から、アストラル界の防壁へと流れていくダスト・シュートの奔流。彼はその持てる能力でアストラル界を攻撃しているのだ。
「ハルト」
 ハルト自身にそうすることへの理由はない。それは半ば強要された仕事であるからであり、そこに彼の自由意思は存在しないのだ。でも厄介なのはそうすることでハートランドを、ひいては地球を救えると思い込んでいることだった。一体何から救うというのだ、アストラル界はあちらを攻撃してはいないのに。――でもそれは言ってもしょうがないことだ。
「もう、いいんだハルト。そんなことはしなくていい。カイトが、お前の兄ちゃんが待ってる」
 ハルトは狂ったように笑い続けていてこちらの存在には気付かない。彼は悲鳴を楽しんでいるのだと調べている時に知った。アストラル界を攻撃するときに聞こえる音が悲鳴としてハルトの耳に届くらしい。
 そういえばいつだったかカイトが言っていた。ハルトは昔はよく笑う子供だったと。でもドクター・フェイカーに協力するようになった頃ハルトは笑顔を見せてくれなくなってしまった。
 それからは、こうして悲鳴を聞くときだけ恍惚とした表情で壊れたように笑むのだという。
「ハルト」
 遊馬は後ろからハルトを抱きすくめた。ハルトは急に彼を吊るしていた糸が切れたかのようにどさりとその場に崩れ込む。それと同時に、アストラル界への攻撃も止んだ。
「ごめんな、無理矢理止めさせてもらった。今の俺にはそう出来るだけの力があって、そうしなきゃならない義務があるから。……なあ、ハルト。こんなことはもう止めよう、いくら続けたって誰も幸せになんかなれないんだ」
「……君は誰? …………九十九遊馬?」
「あれ、知ってんの?」
「兄さんが調べていた。皇の鍵とナンバーズを持っている人間」
 そう無感情に言って、「邪魔だからどいて」とハルトは機械みたいな単調な声で続ける。ハルトの人間らしさというものはどうやら大分奥深くへ閉じ込められているみたいだった。生きている人間と話す感触がない。
「こりゃ荒業になりそうだ……」
『だがやるのだろう』
「当然。これが俺なりの誠意だからさ」
 冷たい肌を抱きすくめながら遊馬はアストラルの問いに頷いた。ハルトは先程から抵抗の姿勢を見せておらず凍り付いた無表情のまま遊馬とアストラルの方を見上げている。観察をしているような感じだ。
「なあ、ハルト。カイトがお前のことをすごく心配してるんだ。昔みたいに笑って欲しいって。何がいけなかったのかな、俺が悪いのかな、ってずっと自分を責めてる。――俺はどうしてお前が変わっちゃったのかは知らないけど、これだけは言える。カイトはすごくハルトのことを大事に思ってるんだ」
「……兄さんのことは僕にはわからない……。兄さんはみんなのことを考えない。そんな兄さんはきらいだ」
「うーん、一つ言うとさ、まずお前がアストラル界を攻撃しても別に誰も幸せにならないんだぜ。むしろアストラル界のみんなが不幸になる。三つの世界はこれまで不干渉の立場にいて出来ればこれからも不干渉のままでいたいんだ。それにな、ハルト」
 遊馬は難しいから俺にもいまいちわかんねーけどな、と気楽なふうに言いながらハルトの頭に付いた三つのコネクタをつつく。オレンジ色の丸い小さな接続端子然としたものは遊馬の望みに従ってふっと掻き消えた。なんとか成功したことに安堵して額の汗を拭う。
「カイトが一番にお前のことを考えるのは、それだけお前を失いたくないと思ってるからだよ。いい兄さんだよな、俺のことも弟みたいに思ってくれてたのかなぁ」
「……ドクター・フェイカーのところからいなくなった兄さんは遊馬と一緒にいたの?」
「うん。すげー良くしてもらったよ、楽しかったし、嬉しかった。この前だって、」

 こんな俺のために無茶してここまで来てくれたんだ。

 遊馬はそこで言葉を詰まらせて俯く。ハルトが覗き込んできた。表情の乏しい彼の顔が僅かに歪む。
「遊馬は、泣いてるの」
「んーそうかな、泣いてるのかな。駄目だなー」
「泣くのは駄目なこと? 兄さんは僕にどうして泣かないのかって何度か聞いてきた。泣かない方が正しいの?」
「泣くのは悪いことじゃないと思う。ハルトは泣いたり笑ったりした方がいいよ。……でも俺は駄目なんだ。泣かないって俺自身が決めたから」
「……遊馬の言うことはよくわからない」
「今はわかんなくったっていいよ。正直俺にもよくわかんねー。なんかこんがらがってきた」
 あはは、馬鹿だからな俺! そう言って遊馬は立ち上がる。つられるようにしてハルトも立ち上がった。
「これからお前をカイトのとこに送る。勝手だけど、アストラル界に関わる記憶は消させてもらうな。知ってていいこともないしさ。ドクター・フェイカー? とやらが探しに来るかもしれないけど捕まるなよ。俺も出来ることはしといてやるから」
「……僕はどうすればいいの?」
「好きにすればいいと思うぜ。きっとお前にもたくさんやりたいことがあったはずで、あるはずなんだ。――かっとビングだぜハルト!」
 ハルトは目を見開いて急に驚いたような表情になる。今まで緩慢だった思考が急にクリアになって働き出した。帰る? カイトのところに?
 遊馬がハルトの頭を撫でると、空っぽだったハルトの自我意識に明確な目的が生まれていった。意味を成さない文字の羅列が確かな未来を孕んでいく。兄さんのところに帰るんだ。ドクター・フェイカーのいないところに。
 また、ふたりで、

「バイバイハルト。もう二度とこんなところに帰ってくるんじゃねーぞ」

 遠くで誰かの声が聞こえたような気がしたのだけれど、ハルトにはそれが誰の声なのかを気にしているだけの余裕はもうあまりなかった。


「よっし、後はこっちの仕事だな! いやー失敗するかとドキドキしたぜ」
 ハルトを見送って一息ついた遊馬が呑気にそんなことを言う。ドキドキとはまた随分軽い発言である。遊馬が失敗したらハルトは廃人送りだったのだ。
『相変わらずだな君は……』
「なんだよその言い方は……。でもまあこれでカイトもここに来る理由はなくなっただろ。もうハルトを助ける必要もないんだから」
『それで彼が諦めるとは思えないがな』
「えぇ? なんでだよ」
『気付いていないのか、君は』
 カイトやシャークが君を取り戻そうとしている本当の動機を。
 アストラルはそう続けようとしたが、止めた。問うまでもなく遊馬はその事に全く思い当たっていなさそうだったからだ。彼を馬鹿にしているわけではないが、やっぱり遊馬は"ばか"だな、とアストラルは思う。他人からの好意に鈍すぎる。
 家族からの愛情、友人からの情愛、何人かの少女からの恋情、そういったものにふわふわと包まれているのに肝心なところで遊馬は寂しがりなのだ。そのくせ一線を引いていて他人を自身の心の領域には近付けたがらない。だから遊馬は彼らの情の深い意味にはなかなか思い至らないのだ。
 理由なんてものはなく、皆が皆遊馬を心から案じ情愛を向けているというのに。
『――君はいいのか、それで。一人で抱え込んでそれで構わないのか』
 だからアストラルは止めた言葉の代わりにそう遊馬に問うた。何度も何度も繰り返した問いだ。
「いいんだよ。それに一人じゃない。アストラルがいる」
『だが……』
「でもさ、アストラル」
 アストラルがなおも食い下がろうとすると遊馬はふるふると首を振ってその先を静止した。そして微笑む。ちょっとびっくりしてしまうぐらいに寂しい笑みだった。アストラルは口をつぐむ。

「俺一人の決意で皆が幸せになれるのならそれくらいは安い代償だろ?」

 あぁ、遊馬。
 やっぱり君は、誰よりも寂しがりで――けれど強がりなんだ。



◇◆◇◆◇



 月が綺麗な夜だった。
 天城カイトが横たわる天城ハルトを見付けたのは九十九家の庭だった。遊馬のいないこの家で暮らし続けるのはあまり居心地のいいものではなかったが(春も明里も本心からカイトを慈しみ案じてくれていたが、逆にそれが罪悪感をもたらすのだ)他に行くあてもないし何より二人の好意を無下にすることは出来ない。その複雑な思いを抱えて窓からぼうっと外を眺めていた折に異変に気付いたのだ。
「ハル……ト?」
 庭に飛び降り(二階の窓からだが問題はない)、慌てて駆け寄って顔を確かめる。さらさらした髪を撫で頬に触れる。生きた人間の温もりがそこにあった。良かった、でも、何故?
「ん……ぅ……」
 他者が触れたことに反応してだろう、ぴくりとハルトの瞼が動く。息を呑んで見つめているとややあってゆっくりとハルトの目が開いた。そこにはここ何ヶ月か見せられていたものとは違い、光彩の入った瞳がある。そういえば頭に付いていたオレンジ色の異物もいつの間にか消え去っていた。
「兄……さん……?」
「ハルト!」
「ほんとだ……帰ってきた……兄さんの、とこに……」
「ハルト……どうしてここに?」
 ハルトを抱き締めながらカイトは問う。ハルトは寝ぼけ眼で眠たそうにしていた。このまま寝かし付けてやりたいのはやまやまだがこれだけは聞いておきたい。
「眩しい場所で誰かが送ってくれた。兄さんのところに帰るんだって……誰だっけ。確か……」
 遊馬。九十九遊馬。
「それは、本当か」
「うん。遊馬が言ってた。もうこんなことはしなくていいから、ドクター・フェイカーのいないところに行けって」
 ハルトが告げた名前にカイトは仰天して息を詰まらせた。遊馬がわざわざ、アストラル界から干渉してハルトを送って寄越したという事実は割と複雑な意味を孕んでいるのだ。
 一つ。遊馬はやはり敵にはなりきれない甘さを残しているということ。アストラル界を攻撃しているハルトは遅かれ早かれ除外されただろうが、その際生かしたままにしてしかもドクター・フェイカー側の追っ手を撒いてからカイトの元に届けるだなんて馬鹿丁寧なことをやってやる必要はないのだ。
 二つ。恐らく遊馬は、これでカイトが自身に干渉してくる理由はもうないだろうと思っているだろうこと。これに関してはあいつはあほだとしか言いようがないが、でもきっとそう思っているのだ。
 自分が愛されているということを知らない。誰も損得勘定なんかじゃあ動いちゃいないってことを理解していない。
「兄さん……僕……眠いな……」
「ああ、今はゆっくり休め。これからのことはそれから考えればいい」
 子供らしい眠たげな顔で自分を見上げてきた弟を抱き抱えて、何事かと庭の窓を開けて様子を見に来てくれた明里の方へ歩いてゆく。ハルトの体は嘘みたいに軽かった。でも実体はそこにある。――もう二度と、手放さない。
 安らかな寝顔に、そういえばこういう優しい笑顔はもう大分長いこと見ていなかったのだなあと思う。満開の向日葵みたいな遊馬の笑顔とは違う、慎ましい花のような笑顔。
(向日葵の方も、取り戻す。絶対に)

『馬鹿、野郎……ッ! 絶対に、俺はお前を、諦めないから、な――!!』

 あの時最後に叫んだ言葉が、脳裏で鳴り響いた。



◇◆◇◆◇



「……相変わらず唐突だな!」
 しかもやっぱり重度のブラコンか駄目な奴だなお前は。そう全力でカイトを罵倒してからシャークはハルトの頭を撫でた。頼りなげでやや儚げだが素直そうな少年である。遊馬とはベクトルの違う感じのイメージだ。
 カイトが急に欠席していたので(遊馬とその他数人で昼飯を食べていた名残で今でも昼になるとどちらともなく誘い合わせて屋上へ向かうのだ)Dゲイザーにショートメッセージを送ったら「ハルトが帰ってきて忙しい」という素っ気ない返信がさもなんでもないかのように送り返されてきた。
 シャークが驚いてしまってコーヒーを吹き出しかけたのはまあどうでもいい話なのだが、驚いたままその足でシャークは九十九家のそばまで慌てて出てきたのである。
 天城ハルト少年は線の細い少年だった。兄のカイトが気の強いところのある人間だから、並んで立つと余計にか弱く見える。でもカイトは昔はそうでもなかったと言うから、それはある種の代償なのかもしれなかった。
 心を閉じ込められて張りぼての人形となったままかの世界を攻撃し続けていた代償。
「アストラル界のことは覚えていないのか、ハルトは」
「綺麗さっぱりとまではいかないが相当曖昧でろくに思い出せない状態だ。遊馬が何かやったかドクター・フェイカーが予め仕込んでおいた予備策が働いたかのどちらかだろう」
「……そういやその、ドクター・フェイカーとかいう奴は何もしてこないんだな」
「今のところはない。気味が悪いぐらいに。……単に居場所の特定に手間取っているだけかもしれないが」
 反乱分子のカイトに関してはこちらがハルトの為に動いた時を利用した方が効率がいいから、放置しているのだろうという見解だった。でもハルトがいなくなった今となってはその方策は意味を持たない筈だし、何よりハルトは彼らにとってすごく大事な意味を持ったパーツのはずなのだ。
 替えのきいてしまうカイトとは違ってハルトただ一人にしか担えない仕事であるはずなのである。
「きなくさいな」
『カイト様、調べマスカ』
「さっさとやれ」
『カシコマリ〜』
 溜め息混じりに命じるとオービタルはネットワークを確立してハッキングを開始する。この、ともすると間の抜けているところのあるロボットは言動に反して性能的にはとても優秀だった。何せ異世界科学の結晶である。この世界の技術法則を無視して搭載された機能は伊達ではないのだ。
 そこが、カイトがオービタル7をそばに置き続けている理由の一つだった。ちなみにもう一つはその奇妙な人間臭さである。遊馬と出会うまではオービタル以外には気を休めることの出来る相手というのがろくにいなかったのだ。
『カイト様、システム侵入完了シマシタ。ローカルに記録されている映像データ再生シマス』
 オービタルの言葉に従ってスクリーンが出現する。二人は画面に目をやって映る映像を待った。


 防犯カメラの映像だろうか、画質はあまりよくない。ザザ、ザと時折入るノイズが画面を乱している。手前の方でゴーシュとドロワが白服で映っていた。どうやら彼らはナンバーズと戦っているようだった。
「オービタル、これはいつの映像だ」
『昨晩でアリマス』
「馬鹿な。この世界にもうナンバーズはないはずなのに」
 映像が別カメのものに切り替わる。ゴーシュとドロワの向かいをズームした位置のものだ。ナンバーズが大量展開して場を圧迫していた。その中央に見慣れた戦士族モンスター――ナンバーズ39希望皇ホープがいて、その隣には当然のように遊馬が立っている。制服姿だ。もう二ヶ月近く見ていない姿だった。
 遊馬のそばにはアストラルもいたが、二人の姿はゆらゆらと揺らいでいる。どうも実体ではないようだった。アストラル界から投射されている幻影か何かなのだろうか。
『あん時の小僧がアストラル界の使者を抱えてたとはなぁ! 俺としたことが微塵も気付かなかったぜ』
『抱えている、どころか継承者だったとはな。見事に化けたものだ。ただのトマト嫌いの少年にしか見えなかったのに』
『おー、あん時は変なルールを許可されてトマト食うの大変だったぜー……ってそんなことはいいんだ。二人ともデュエル強いから楽しいんだけど、あんまり長居したくもないし一番偉い人出してくれないかなぁ。ドクター・フェイカー? って言うんだっけ?』
 画面の奥で遊馬が気安いふうに腕を上げる。そこから閃光と衝撃が走った。爆音と砂煙が上がって画面の乱れが激しくなる。
「くっ?!」
『やっべ、やりすぎちゃった』
『だから制御出来ないものを無闇に使うなと言っただろう』
『や、なんかやってみたくて……』
 だってそこにあるんだもん、気になるじゃん! 頬を膨らませて遊馬がアストラルに不満気に言う。アストラルは呆れたような顔でお喋りしている場合ではないぞ、と遊馬に正面を向くように促した。
『……どうやらあの二人を本気にさせてしまったようだな。無傷で黙らせるのは厳しいぞ』
『あー……ほんとだ。意地でも通してくれなそう。しょーがねえなー、だったらこのままデュエルで決着つけようぜ?!』
 ノイズがざあっと画面を走り抜けて、そこでぶつりと映像が途切れた。アストラル界からの干渉が強すぎて機器類が止まった、らしい。固唾を飲んで見ていたカイトは「やっぱり馬鹿だ」と小さく漏らした。
「何をやってるんだあいつは。そこまで一人で片を付ける気なのか」
「天城……あれは、つまりどういうことなんだ?」
「俺が動かないように、これ以上動かなくて済むようにハルトの後始末まで一人でやる気だ。どれだけ俺を馬鹿にすれば気が済むんだあの阿呆は」
 カイトはオービタルのボディに手を押し付けて呻いた。有無を言わせぬ低い声に、オービタルが『スクラップ!』と小さく悲鳴を上げる。
「オービタル――シグナルを割り出せ。今すぐに、どんな手段を使っても! 痕跡が残らなければどこのバンクを覗いても構わないからさっさと遊馬の居場所を特定しろ!!」
 カイトは叫んだ。隣でハルトが、ぼおっとしていた瞳をぱちくりと見開いた。