「行くとこねーんなら、俺んち来いよ。ベッド、一つ開けられるし一緒にハルトのこと考えようぜ」
 へたりこんで動けなくなってしまった俺にそう言って手を差し伸べてきたのはついこの間まで敵対していたはずの九十九遊馬当人だった。彼は「な、そうしろよ」と促すように言葉を続けて固まったままの俺の右手を握り引っ張り上げる。その力に逆らえぬままのろのろと受動的に立ち上がる。俺の脚は情けなくがたがたと震えていた。
 それを見て遊馬がくすりと笑う。
「うちに来てくれたら歓迎するよ。俺さ、カイトともっと色々話してみたいんだ。だからさ」
 遊馬の花が咲いたかのような笑顔に俺は何も言葉を返せずにただ眩しくて二度三度瞬きをした。「兄さん」、かつてはよく見ることのできた、けれど今は目にすることの叶わぬハルトの笑顔が重なる。
 繋いだ手のひらから伝わってくる体温、どくんどくんと鳴り響く心音。ハルトが“ああ”なってしまってからは縁のなくなっていたものだった。あれ以来氷壁に閉ざされていた俺の世界に暖かなものが流れ込んでくる。
 その時、俺は気付いた。人肌の温もり、すぐそばにいる誰かとの触れ合い、そういったありふれたものに自身が飢えていたのだということに。

 俺は遊馬の申し出を受け入れた。どうせもう、今のままではハルトは俺に笑いかけてはくれない。ドクター・フェイカーと決別した今となっては話しかけてすらもらえないに違いなかった。



◇◆◇◆◇



「ここ、俺の部屋。机は今一個しかないけど、古いの持ってきて並べるから大丈夫。寝る時はあのベッド使ってくれ」
「あのベッド……って一つしかないじゃないか」
「どーせ俺屋根裏部屋のハンモックで寝てるもん。へーきへーき」
「本当に平気なのか? 俺のために……」
「無理してないし、強がってもいないよ」
 急にやって来て、あまつさえ住ませて欲しいと虫の良いお願い事をしたというのに遊馬の家族はあっさりとそれを了承してくれた。目的が達成出来るといいわね、あ、ごはんお代わりする? そう親身に声を掛けてきてくれた遊馬の姉にむず痒さを覚える。掛け値なしに文字通り歓迎されて(初めての経験だった。初めて会った人間がこんなに親切にしてくれるものだとは思ってもみなかった)戸惑ったが、一先ずは居場所を見付けられたことに安堵する。

 家中をぐるっと案内し終えると、遊馬はくるりと俺の方に向き直って「今日はもう疲れたし、風呂入って寝ようぜ」と提案してきた。
「明日は休みだけど明後日からは学校あるし。姉ちゃんがなんかやってくれてるから、カイトも一緒に学校行けると思うぜ」
「……は?」
「だからー、学校! 月曜から俺と一緒に行こうぜ!!」
 でもまずは風呂な! と言って遊馬は強引に俺の腕を掴むと風呂場まで引きずってゆく。転入手続きにはまず保護者の許可が必要なはずだし、そもそも戸籍だとかそういう役所手続きは一体どうするつもりなのだろうかと俺は一瞬考えたが、すぐに思考を止めた。どうせもう、まっとうな生活をしていなかったカイトとハルトの戸籍なんてろくに機能していないに違いない。

 少し広い浴槽に先に入れてもらって、息をつく。真っ白でたくさんの水滴がついた見知らぬ天井。なんだか随分と場違いなところに自分がいるような気がした。しばらくの間、ずうっと日陰で生きていたのだ。清廉で潔白な白という色は俺には不釣り合いだと思った。
「誰かと風呂入んの、久しぶり」
 あまりもう余裕の残っていない湯船にどぼんと無理矢理押し入るようにダイブしてきて、遊馬がしみじみと言う。
「父ちゃんに頭洗ってもらったの、七歳の時が最後だったかなぁ。その後行方不明になっちっちまったし……そもそも父親と入るのも七歳ぐらいが限界ぎりぎりだよな。風呂場って静かだからさ、時々寂しいの。アストラルもここには入れられないし」
「アストラル」
 その単語に反応して俺はぴくりと肩を揺らした。
「アストラルが、ここにいるのか?」
「うん。そこの脱衣所で聞き耳立ててふよふよ浮いてるよ。そっかぁ、カイトもここだとアストラルは見えねーんだな」
 その後は遊馬が他愛のない話をぺちゃくちゃとしゃべくっていて、俺はふうんだとかそうか、だとか相槌を打って話に耳を傾けていた。ちゃぷ、ばしゃ、と遊馬がオーバーに身振り手振りをする度に水音がして、風呂場を満たす静寂という名のバック・グラウンド・ミュージックが乱される。
 心なしか遊馬ははしゃいでいるようだった。目をきらきら輝かせて口を忙しそうに動かすさまは、兄の気を引こうとしていたハルトの姿に良く似ている。思わず手を動かして遊馬の頭をくしゃくしゃと撫でると遊馬はにへらと笑った。
 水に濡れてしめっぽくなった髪の毛は光を反射しててらてら光っていた。とんがって固そうに見えたピンク色の触覚(?)も触ってみると案外柔らかい。
 風呂から上がって、受け取ったタオルで体を拭いていると遊馬がTシャツを手渡してきた。自分の持っている服のなかでも特に大きい方だと言われたが、袖を通してみると心もちきついような気がする。
「あちゃー、やっぱちっちゃいかぁ」
「でもまあ着れなくはない。贅沢は言わない」
「カイトが良くても姉ちゃんが気にするんだよな。こりゃ明日は買い出し決定だなー」
「……そこまでしてもらうわけにも……」
「ばあちゃんは世話焼くの好きだし、姉ちゃんは面白いこと好きなんだよ。やらせといた方がいいって」
「……俺は面白いこと扱いなのか……」
 着替え終わった遊馬の頭にタオルをばっとかけて、そのままわしゃわしゃと拭いてやる。遊馬は小さく「わっ」と声を上げたが大人しく拭かれるままにされていた。
「なんかカイト、兄ちゃんみたい」
 遊馬が言う。
「そういう遊馬は、弟みたいだ」
「そりゃ俺は姉ちゃんの弟だもん。……あ、もしかしてハルトって俺みたいな奴なのか?」
「いや全然。よく笑ってよく冗談を言う子だったが、遊馬ほど軽率じゃない」
「おいおい、なんだよその言い方!」
 遊馬がどっと笑いだす。つられて俺もくすりと微笑んだ。
 こんなに自然に笑えたのはいつぶりだろう、とわしわしとタオルを擦っている手の動きを緩めて考える。やっぱりハルトが“ああ”なってしまって以来だろうか。
「なんか、カイトの弟になるってのもそう悪くない気がするなー。お前って優しいし、いい兄ちゃんなんだな」
「弟は一人で手いっぱいだな。手のかかるのが二人になったりしたらたまらない」
「ほんと酷いなさっきから」
「事実を言ったまでだ。手のかからない大人しいタイプの人間ではないだろう、遊馬は」
「反論出来ねぇ……。――でも、そしたらしばらくは俺が『カイト兄さん』を独り占めできるわけか。なんかむずむずするな。……早くハルトとまた一緒に暮らせるといいな」
「そうだな。……それまではまあ、お前が弟でも面白いかもしれない」
 タオルを取っ払ってぱんぱんと水を払ってやると遊馬はぶるりと身震いした。犬みたいだと思ったが口にはしないでおく。
(だが、しょせんこれは遊馬にハルトの姿を重ねて、温もりを求めている俺の独り善がりに過ぎない)
 意識の奥底の方でそんなことをうっすらと自覚する。だが俺はそのことを深く追及することを放棄した。今はまだ考えたくない。それが現実逃避に過ぎないとわかっていても。



 “弟みたいな他人”との共同生活は、まだまだ始まったばかりだった。