トン、タタン、タッ、と軽い音を立てて"それ"はくるくると動いている。バックステップ、バック転、返しで両手をバネに体を浮かせて宙返り。器用なものだ。
 かろやかに体を動かすさまを見ているとあいつ本人の心も良い意味で軽いように思えた。重ったいしがらみもなにもなく。きっと心のままにまっすぐに生きているのだろう、それが羨ましい。
「……好き者だな、大概」
 俺は自嘲気味につぶやいて気だるく顔の向きをずらす。九十九遊馬という存在はまぶしい。あんまりにも強烈だ。目を向けずにはいられないが、しかし俺のような後ろ暗い人間には長く目を向けていられないものだった。その光に目がくらんでつぶれてしまいそうだった。ふと、右京先生の言葉を思い出す。そう、まさしくあれは太陽なのだ。
「へっへー、シャーク今のどうだ? 俺渾身のドローフェイズ!」
「ドローの度に一々それをやるのかお前は」
「いや流石にそれは……ここぞって時のとっておき。ほら初めてデュエルした時も負けギリギリの時にこれやっただろ?」
「尻もちついて崩れ落ちたけどな」
「そ、それは言わない約束だろぉー!」
 一通り動いて満足したのか、遊馬がこちらに駆け寄って来る。きらきらと輝いている瞳は驚くほど無垢なものだった。俺とは決定的に違う存在。どんなに欲しくったって、俺にその穢れ無き純真を手に入れることは出来ない。不良ぶっていた俺にその可能性はもう存在しない。
 けれど俺は、その太陽から目を離すことが出来ないのだ。目で追いかけ、ずっと飽きることなく見つめていたいとさえ思う。彼という存在を失うのは、怖い。ほんの少しの間に遊馬の存在は自分の中で随分と大きなものになってしまっていたようだった。

 本当に、物好きだと思う。


◇◆◇◆◇


「またデュエルしようぜ、今度はデッキなんて賭けないでさ」

 その言葉を聞くのを最後にもう遊馬と関わることはないと思っていた。薄汚れた俺とあいつは住む場所が違う。俺には最早帰る場所は無かった。学校に行く気などさらさら無く、うらぶれたごろつきの溜まり場に身を落とした俺とまっすぐ健全な中学生をやっているあいつの道とが交差するいわれなどない。そのはずだったのだ。
 俺のその判断は今でも間違っていなかったと思うし、常識的に考えてそうではないはずがないとも思う。だけどあいつはその垣根をやすやすと乗り越えて俺を陽の当たる場所へと引き摺り出してしまった。信じられない、なんて奴だ。
 しかもそれで終わりではなかった。引き摺り出してそしてあいつは俺を引き込んだ。陽のあたる、真っ当な世界。まともな中学生というごくありふれた枠組みに一度ドロップアウトしてしまった人間を嵌め込み直すのは到底容易なことでは無いと言うに、いとも簡単にあっさりとそれをやってのけたのだ。

「シャーク……じゃなくて……えーっと……」
「神代よ、神代凌牙。さっき見たばっかりなのになんで忘れちゃうの、もう」
「うるせー。――っと、失礼します、神代センパイいますかあ?」
 がらりとクラスの扉が開いて、そんな呑気な声が聞こえてくる。俺は思わずぎょっとしてしまって本のページを捲る手を止めてしまった。教室全体が何となくざわざわし出す。
「下級生が神代を呼んでる……?」
「あのシャークを呼び出すってどんな神経だよ……」
「命知らずだなあいつ……」
 聞こえてるぞてめぇら。
 だが、驚いているのはひそひそと喋りだしたクラスメートだけでなく俺も同じだった。あのガキっぽい疑いを知らなそうな声は考えるまでもなく遊馬のものだ。そのやや斜め後ろに控えて遊馬に小言を言っているのはあの時も一緒にいた緑色の髪の少女か。女連れで上級生の教室に突撃するというのも随分な行為だが、それにはあまり関心を払っていないらしい。
「神代せんぱーい? あれ、いねーのかな」
「でも今日は出席してるって右京先生言ってたし……もしかしてお手洗いとかかしら……」
「もしかしたら購買かもしれないなー」
「いや、いる。俺はここにいるからあまり大きな声を出すな。――一体何の用だ? 俺にあまり関わるなと言ったような気がするんだが」
 このままだんまりを決め込もうと一度は思ったがそれがどうにも叶わなそうだと悟って俺は渋々席を立って遊馬のもとへと歩いて行った。
「シャークが大人しく歩いて行った……?!」
「あの一年生、何者なんだ」
「神代君ちょっと丸くなったのかな……?」
 わかってはいたことだが俺のイメージはどういうことになっているんだ。
 そんな周囲のどよめきなどまったく意に介することなく、遊馬は現れた俺を見てごく嬉しそうににこりと笑った。風邪をひいて休んでいた親友と久しぶりに会ったみたいな笑顔だった。
 そして嬉しそうな顔のまま俺の腕をぎゅうと掴むと、次の言葉を紡ぎだす。
「なぁシャーク、……あー、いや、神代せんぱい?」
「……シャークで、いい。それで用はなんなんだ」
「あのさぁ、昼休み空いてる?」
「……? ああ、まあ。特別用事はない」
「よかったー。じゃあさ、昼ごはん一緒に食べようぜ! な! ――屋上で待ってるから!!」
 一息にそう言うと、「約束!」と勢いよく小指を突き出して同意を求めてくる。俺はその勢いに呑まれ思わず頷いてしまった。遊馬の後ろで少女が「あっ」と慌てた声を漏らし、それではっと我に返る。……まずい、特に何も考えず同意してしまった。いや別にまずくはないのだが。
 ともあれ今、俺は了承してしまったのだ。どう考えても面倒事でしかないのにあっさりと。
「大変遊馬、あと二分で本鈴鳴っちゃう! 急いで教室に帰らないと授業に遅れちゃうわ!」
「げっマジかよ?! じゃあシャーク、そういうわけだから俺帰るな。必ず来いよ、待ってるからさ!!」
 ダメ押しをしてから遊馬はくるりと向きを変え、廊下を猛ダッシュで駆けていった。まるで小さな台風だ。嵐のような少年をぽかんと見送って俺はなんとはなしに己の手のひらをじっと見つめた。遊馬の声が、頭の中でリフレインする。
「まあ……どうせやることもないしな……。屋上にぐらい行ってやるか……」
 呟いた俺の唇は、多分少し緩んでいたんじゃないかと思う。


 それが、俺と遊馬の本格的な友人関係の始まりだった。
 以来俺は時折ふらりと遊馬の元を訪れ(昼は向こうが誘ってくるので強制誘発効果だ。だからまあ、顔自体は毎日突き合わせている)、放課後に彼と無為な時間を過ごしてみたりしている。あのシャークがまあ丸くなったものだと自嘲気味に思わなかったわけではないが、今はもうあまり気にはならなくなっていた。
 陽だまりを居心地悪く感じるほど、まだ俺もくたびれてはいなかったということなのだろう。


◇◆◇◆◇


「なあシャーク、右京先生から聞いたんだけどさー。お前運動神経凄いんだってな! 俺も運動神経だけは良いってよく言われるんだけど、シャークはなんか特技とかあるのか?」
「お前、実は軽く馬鹿にされてないか……? まあ俺には関係ないからいいけどな。別に特技とかそういうのはない。普通だ、普通」
「へぇ? ふーん……つまんねー。バックフリップぐらい本当は出来るんだろ? そんなこと言っちゃってさぁ」
 疑いの目でこちらを見ながら「なあ、だからやって見せてくれよ。俺もさっきやったし」遊馬はそう催促してきた。お前のバック転は別に頼んだわけじゃないだろうと言いたかったが呑み込む。肘でつんつんと脇腹を突かれるのが思いの他くすぐったいのだ。
 そんな目で見てもやらないものはやらないぞ、と思うがいかんせん視線が痛い。まあバックフリップぐらいならなんとか出来なくもないレベルだ。だがそれにしたって無傷でできる保証はないわけだし(マットがないことを考えると危険度は跳ね上がる)、進んで怪我をしたいと思うほど俺は酔狂でもない。
 何より、もし成功したりなんかしてしまった暁には「なあ、次は?」とこいつがせがんでくるであろうことが容易に予想出来るのだ。明白だった。さすがにそこまで面倒なことはしたくない。
「なぁ、早く早く」
 しかしこうも熱心な視線で見つめ続けられると流石にくるものがある。たっぷり五分間遊馬のゴネに抗ってみてから俺はとうとう耐えきれなくなって腰を上げた。遊馬の目の色が変わる。正直期待されすぎている気がして怖い。
「一度で、終わりにするからな。後は無しだ」
「おっしゃー! 流石シャーク!」
 何が流石なのかわからない、と内心一人ごちて俺は軽く柔軟をした。腕をぐっと伸ばし、足をならす。それから初動のモーションを軽くシミュレーションして態勢を整え、思い切り地面を蹴った。
 足をバネに飛び上がり、サービスで後ろ向きに宙返りをする。そのまま地面に両手を付けてもう一押しし、バックフリップ。タン、と軽い音が響く。なんとか大怪我をせずに成功させられたことに安堵して俺は額を拭った。
「……?」
 その時ちくりと痛みが走って、俺は手のひらを開くと異変の元を目で探す。正体はすぐに見つかった。人差し指が切れて血が出ている。恐らく勢いよく手を付いたものだから衝撃で砂利か何かが食い込み切れてしまったのだろう。大した痛みではない。
「シャーク、どうしたんだ?」
 怪訝に思ったのか遊馬がこちらに寄って来る。手のひらを掴んで寄せ、覗き込んだ彼はあ、と申し訳なさそうな声を漏らした。今のバックフリップで怪我をしてしまったのだとわかったからだろう。
「心配するな、適当に処理しておく」
「いやでも、やっぱそのままはまずいって。あー、この辺水ないのかぁ……うーん、とりあえずツバつけとこう。ツバ付ければ大抵の傷は治るってばあちゃん言ってたし」
「は?」
 何をする気だ、と言う暇も無かった。あっと思う間もなく遊馬が俺の腕を持って口の方へ運んでいき、そのまま人差し指をぺろりと舐め上げる。舌先の温度はやはり、高かった。きっと体温も相当高いに違いない、と逃避気味の思考に走る。
「ほら、これで多分なんとかなるよ。ごめんな、無理言って」
「無理を言っているという自覚があるのなら今度からはさせるな。……そんな顔もするな。別に怒ってないしこの傷も大したことはない。……舐めて、もらったし、な。ほっときゃ治るだろ」
 妙に昂ぶった感情を誤魔化すために溜息を吐くと遊馬がどきりとしたような顔をする。いじめてやるつもりはさらさらないので落ち着けと言うと遊馬はほっとしたような顔になった。この調子なら俺の鼓動の変化に、こいつは気付いていないだろう。内心で胸を撫で下ろした。舐められた瞬間に感じた動揺その他のことは自分でもよくわからない。だが、それを遊馬に気付かれるのは何か困る気がした。
 何が、とは言わないが。

「え? シャークが変? アストラル、それほんとか? ……指舐めた後の様子がおかしいって?」
(よ、余計なことを! まだ姿も知らないが覚えていろよアストラル!)