お前のための、悪魔の仮面 「W兄様は、僕のヒーローなんです」 いつだったか、幼さの残る顔をほころばせてVはそう言ったのだった。 「どんなに卑怯でも、汚くても、僕だけのヒーロー。W兄様、自分のこと嫌いですもんね。よくそういうふうに卑下しているでしょう? 汚いとか、ろくなもんじゃないとか。でも僕には優しいし、僕にとってはたった一人の英雄です」 恥ずかし気もなくそんなことを言う。最後に両目を細めてにこりと笑った弟の頭を撫でてやりながらWは溜め息を吐いてばか、と小さくぼやいた。離れ離れになってしまってから割合すぐにトロンに保護されたVと違ってWは汚れている。小汚い罪にまみれている。生きるために汚いことにも手を染めたし、汚泥をすするに近いどん底の日だってあった。ちんぴらの喧嘩みたいなこともして、頬に十字傷が付いて、それからは人を傷付けることを躊躇わなくなった。 一般の基準というものに照らし合わせたならばWは間違いなく狂っている。壊れている。だが、そんな自分をVは英雄だなどという。我が弟ながら酔狂な物言いだ。 自分がどんな顔をして「ファンサービス」を、相手を痛め付けるかを知っているのににこにこと天使のように微笑んでいるこの弟はもしかしたらやっぱり壊れているのかもしれないとなんとなく思った。だが、愛しいことに変わりはない。Wはこれでも家族のことは信頼している。特にVのことは大事にしている。お互いにブラザー・コンプレックスの気が強いのだ。一度Xに顔を顰められたことがあるのを覚えている。 だが、それはしょうがないことだ。Vは、Wの弟は、世界中探したって一人しかいないのだから。 「ねえ兄様。でも、僕、だからずっと兄様に守ってもらいたいとかそんなふうには思っていないんですよ。僕女の子じゃないもの。だから今までいっぱい守って貰った分、今度は僕が家族を守りたいんです」 「やめとけやめとけ。無理し過ぎてケガすんのはお前だぞ。痛い目見たくはないだろう、あまり俺のいないところで無茶するな」 「もう、すぐそうやって子供扱いする。僕だって立派に働けます。トロンの期待にも――応えてみせる」 「……V」 期待に応えてみせる、と気丈な顔を作って見せたVが急に儚い存在に思えてWは焦燥を滲ませた声音で弟の名前を呼ぶ。Vは不思議そうな顔をして「どうしたんです、兄様」と首を傾げた。その仕草がまたWの焦りを、心配を色濃くする。どうしようもなくなってWはVの手のひらを握り、そして幼子にするように華奢な体を抱き寄せた。 「……兄様? 変なの、夢見の悪い子供みたい」 「V、本当に無理だけはするなよ。俺の前からいなくなったりするな。また手の届かないところにいったりするな」 「何言ってるんですか、そんなことありませんよ。家族がばらばらになるなんてもう懲り懲りです。それにW兄様、僕がいないと駄目だもの。スケジュール管理から何から、一人じゃ上手く出来ないでしょう?」 くすくすとVが笑う。だがWの中の一抹の不安は消えない。何か、とても嫌な予感がする。 ◇◆◇◆◇ 「――トロン!」 焦りと苛立ちを隠すこともせずに大きな音を立ててWは扉を開け放った。部屋の中央には小さなベッドがあって、そばにトロンが立っている。ずかずかと歩み寄り、Wは「どういうことだ!」と怒鳴りたてた。とても平常心を保っていることなんて出来そうにもなかった。 「Vは――Vは……!」 「……落ち着いて、W。Vは生きているよ。辛うじて、死んではいない。今はただ眠っているだけだ。死んだように」 色の白い肌を布団の隙間から覗かせてVは安らかな表情で横たわっているのだった。瞼は閉じられて、ぴくりと動く気配すらもない。本当に死んでいるようだった。その姿からは生者の持つエネルギーというものが丸っ切り感じられないのだ。 兄様、と心地の良い声で呼びかけてきた唇はぴったりと閉ざされていて何も喋ってくれない。その唇はたった一人の英雄だと言ってはくれない。絶対にいなくならないとも言ってはくれない。クソが、と噛み殺すように言ってWは握り拳でベッドの柱を叩いた。固い木の感触が酷く不愉快だった。 「また、守ってやれなかった。こんな肝心な時にどうでもいい奴らに愛想振り撒いてたとは笑えるぜ。冗談じゃねえ。何故Vが、よりによってVがこんな目に遭わなきゃならなかった? 俺じゃなくVが傷付かなきゃならなかった。俺が傷付く分にも兄貴が傷付く分にも一向に構いやしねえよ。だがVだけは許さねえ。あいつは強がりなだけで、傷付きやすくて、脆いんだ。俺や兄貴みたいに頑丈に出来てない。あいつは優しすぎるし、無茶をし過ぎる。わかってたのに。どうして一人にしてしまったんだ」 自責の念がWを酷く苛む。昨日の九十九遊馬との戦い以降Vが何かに揺れていることはわかっていた。そしてVの中でひっかかっているそれが何であるのか知ろうとしていたこともわかっていた。疑問を解き明かすために無茶をやらかす可能性がゼロではないことをWは知っていたはずなのだ。気付けて然るべきだったのだ。ハートピースは揃い切っているから、今日一日をオフにしてVに付いていてやることも出来た。Vは嫌がっただろうが、それなら尾行するまでだ。 「……W。君は悪くないよ。ただ予想外だったんだ。僕がVに渡したのは確かに諸刃の剣となり得るもの――バリアン界への扉を開く『アンゴルモア』のカードだったけれど、それが上手く発動していればここまでの事態になるはずではなかった。アンゴルモアが扉を開くことに失敗してそのフィードバックがVに返ってきてしまったことが良くなかったんだ。決して君のせいではない」 「……なら、誰が。誰がアンゴルモアとやらを不発にしてVを苦しめた」 「九十九遊馬」 激昂を抑えることが出来ずに顔を陰らせてWが問うとトロンが簡潔に一人の名を告げる。あいつが、とWは脳裏に少年の姿を蘇らせた。彼の行動理念に疑問を持ったVは直接本人に問い、そしてデュエルをすることを選んだのに違いない。 「九十九遊馬……あいつが」 「W。だけど今動くのは、駄目だよ。まだ前夜祭も控えているし、そんな顔をして一体何をしにいくつもりだい? ここを出ることは許可出来ない。いいかいW、許さないって僕は言ってるんだ。どのみち本戦で会うことになるんだから」 動き出そうとしていた体を遮るように強く咎められぐっと息を呑む。トロンの言っていることは正論だ。極東チャンピオンという体のいいかくれみのをくだらないゴシップ記事で使いものにならなくしてしまうのは本意ではない。 動きを止めたことを確認してトロンは「そう、いい子だね」とやや固くしていた声を柔らげさせた。 「だから今は、Vのそばにいてやってあげてよ。約束したから僕もこの子の手を握っていてあげるけど、きっと君が握ってやるともっと落ち着く」 「……ああ。わかった……」 言われるままに握り込んだ手のひらは、死者の冷たさこそ持っていなかったがいつもの、Wの良く知る子供っぽい熱は孕んでいなかった。熱くも冷たくもない生温い感触が伝わってくる。一際強く握り込むが、やはり反応はなくて情けなくて辛かった。もっと昔だったら泣き出してしまったかもしれない。だがWはもう泣いてしまえる程子供ではない。 (……許さねえ) 九十九遊馬。能天気そうな糞餓鬼。Wの嫌いなタイプだ。幸福があたりに溢れ返っていて本当の辛さも絶望も知らないような恵まれた子供だ。 Vの手を握っているのとは別の手を強く強く握り込んだ。爪が皮膚に喰い込む。赤い血が、生きた人である証が零れ落ちる。 いつだったか悪魔のヒーロー、とファンサービスをした相手に称されたことを思い出した。上等だ。 「お前のためなら、悪魔にだってなってやる」 Wはぞっとするような声で囁いた。Vは、こんこんと眠り続けている。 |