ークライトの供たち



『クリス……いや、X!』
 カイトが初め自らのことを「クリス」と呼び躊躇ったことを思い出してXは僅かに笑んだ。同室にいるWが「気色悪いな」と眉をつる。
「何気持ち悪く笑ってやがる」
「いや……。名を呼ばれるのは随分と久しいことだと思ってな。……父は……父だった人は、今はもう私達をナンバーでしか認めてはくれない」
 そういえばそういう名前であったか、と「クリス・アークライト」だった男は懐かしむように言い、そのまま小声で弟の名を囁きWの頭を撫でた。Wはただ黙ってそれを受けている。
「私自身もお前達のことも、ナンバーで識別することに慣れ過ぎて時折ふとした弾みで分からなくなってしまいそうに思う。名を奪われて見失ってしまいそうになる。……そういうふうに思う時が、ある」
「ハッ、馬鹿かよテメーは」
 Wはやってられないと言いたげに息を吐くと厭味ったらしく肩を竦めた。他人を小馬鹿にしたようなこの態度は「Wが」よくするものだったが、クリスの弟が好んでする仕草ではなかった。どことないずれを感じて僅かに眉を顰める。つい先程まで頭を撫でられていた少年は確かに「クリス・アークライトの弟」だったのだ。だが今肩を竦めている少年は紛れもなく「W」で、「Xの弟」だ。
 胸がざわつくような感触を覚える。
「……お前は。お前の名を、家族の名を、忘れるなよ」
「忘れるわけねえだろ、『クリスの糞兄貴』。忘れるかよ。そんなことがあるはずもないしあっていいはずもない。俺は家族の名前を――あいつの名前を忘れない。たった一人きりの弟の名前を絶対に忘れない。それを忘れたら俺は、名前を呼ばれて振り向いたあいつの笑顔も失ってしまうことになるんだ。ありえねぇよ」
 Wは張り詰めた声で言った。
「それを俺は許せねぇ」
「……。そうだな……」
 極東チャンピオンの外面の良さも、敵意を剥き出しにしてあけすけな憎悪をぶつける「ファンサービス」中の獰猛な表情も、弟に執着を見せる姿も、そのどれもがいびつな「Wの」仮面であるように思えた。だがそれは「X」も同じことだ。「トロン」が帰って来て復讐に囚われてしまってから兄弟にはいくつもの仮面が出来上がってしまって、もうどれが本当の自分であったのか、アークライト兄弟は一体どんな顔をしてあの幸せな家に住んでいたのか、それがわからなくなる。
 想い出が剥離していって、終いには何もかもを失ってしまいそうな、そういううすら寒さがある。
「私達三兄弟がバイロン・アークライトの息子であることは変わらない」
 だがぶすくれながらも頭を撫でられている少年の姿と、弟にこっそりと甘い顔を見せていたり心配して焦る少年の横顔、兄に嘘偽りのない笑顔を向ける一番下の弟の表情、それを少し離れた位置から見ている長兄――その光景だけは根底のところでは変わらないものであるように思えた。それだけは虚偽も欺瞞もなく、変わってはいけないものだった。



◇◆◇◆◇



『にいさま、返してくださいっ。僕のカードを取らないで……』
『ほらほら、悔しけりゃ俺から取り返してみろよ!』
『うぅ、たすけてクリスにいさま……』
 思い出の中で父に貰ったお気に入りのカードである「先史遺産アステカ・マスク・ゴーレム」のカードを兄に奪われ、自分が弱り顔で長兄の方を見ていた。二つ上の兄にこのカードを冗談半分で取られてしまうのは今日が初めてのことではない。ぱっと手の中からすくい取られて取っ組み合いになり、窓際で本を読んでいた長兄にたしなめられる――何度かあったことだ。兄にカードを見せたら取られて喧嘩になる。いつものお約束だった。
 どうして取られるとわかっているのに懲りずにカードを見せるのか、とやや呆れたように長兄にそう問われたことがある。自分でもその理由はなんだかよくわからない。ただ、兄に自慢したいという気持ちが強いわけではないのだろうということを何となくずっと感じていた。もしかしたら自分は二つ上の兄と取っ組み合いをしたり喧嘩のまねごとをするのが好きなのかもしれない。
 やんちゃ坊主であった兄はしかし自分にはいつも優しかった。言葉に特別出すことはしなかったけれど兄はいつも自分を庇護してくれていた。その兄が自分を対等に扱ってくれる時間が嬉しかったのだろうか。
 子供っぽくて距離が近い兄は無遠慮だが自由で、自分は密かに憧れを抱いていた。意地張りでともするとわがままな兄が自分を気遣ってくれてかわいがって頭を撫でてくれる手のひらが好きだった。けれどもあんなふうに自由になりたいと思っていたから、それが嬉しい半面でいつまでも庇護対象として扱われるのが悔しくてしゃくだった。だけど喧嘩みたいなことをしている時はその兄が自分を同じ目線で見てくれるのだ。
 名前を棄てて感情を露にした時に時折醜い顔をするようになってもそれでも兄は自分の頭を撫でることは止めなかったし変わることもなかった。どんな時でも自分を撫でる指先は柔らかく温かく優しく、繊細で紛うことなく人間の持つそれであった。本質のところでとてもやさしい人であるのだということを知っている。だから兄が酷い顔をしていてもそれを咎めることが出来ない。
 だってそうだろう。自分は、家族のこととなると自分も同じぐらい酷い顔をすることを知っているのだ。
「……×××にいさま……」
 幼く無知だった子供の頃と同じように舌ったらずな声で、今はもうない名前を呼んだ。幸せだったあの家のことを考えるといつも苦しくなる。思い出と、それから変わってしまった家族、そしてその中に残っている僅かな残り香のような昔のままの部分が胸を締め付ける。九十九家で見た恵まれた家族の光景とずっと昔に家族五人で過ごしたクリスマスの思い出を重ねて、泣きそうになって伸ばした手で虚空を掴んだ。すかすかして、空虚で、惨めだった。
 父も母も二人の兄も、そして自分も、誰もが幸福そうに笑っていた思い出の残滓はどうしようもなく儚く、あれ以来この腕の中に返ってきたためしがない。
 ただいつも、たまらなく苦しく切ない気持ちだけを残して幻に溶けていく。
「……にいさま……」
 それでも幸せな家族を夢見て、もう一度名前を呼んだ。意識が段々と薄らぎ、曖昧になってまた微睡みに埋もれて見えなくなった。



◇◆◇◆◇



「……泣いてやがる。夢でも見てんのか、V」
 ベッドの中の弟に声を掛け、Wは柔らかく笑った。眠り姫のように昏睡を続けている弟の肌をそっと撫でる。あれ以来弟は、目を覚まさない。言葉も喋らない。食事を取れないから点滴のチューブを繋がれて、ただでさえ細い体を更に痩せ細らせている。その姿は病的ですらあった。元々白かった肌はいっそ不健康なまでに青白くなってしまっていた。
 壁際でXが読んでいた本から顔を上げ、ちらりとWとVの方を見遣る。Wは気付くそぶりもなくただVの寝顔を眺めている。兄弟愛は、そこはかとなくねじ曲がっているように思えた。Wは家族には、弟にはああいう顔をするくせ、相手をいたぶる時は心底楽しくてたまらないというふうに顔を歪める。醜い顔付きをする。家族を傷付けられると烈火の如く怒るのに拘わらず他人を傷付けることをいとわない。
 ナチス・ドイツの将校達は、職場では極めて冷徹に、陰惨な虐殺を指示したが家庭ではクラシックを嗜み穏やかな良き父で良き夫であったのだという話をそれとなく思い出した。二面性の仮面はどこまでがアークライト少年のものでどこからがWのものであるのだろう、と益体ないことを考えて首を振る。
 相反するようにも思える反対側に振り切れた仮面は自己を護るための防衛策だったのだろう、と先のナチス将校の話は続いていた。気が狂いきってしまわないようにするための手段だったのだと。どんなにかけ離れていても個人は個人でしかない。だからクリスの弟はクリスの弟だし、WはWなのだ。
「V、せめて良い夢を」
 ごくありきたりな優しい兄の顔でWは囁いた。誰よりも大切な末の弟がこれ以上、夢の中でも傷付かずに済むように。