れからの来の話をしよう




 数年ぶりに足を踏み入れた我が家、アークライトの屋敷は記憶の中にあるものよりも当たり前に古びて、うっすらと汚れていた。ずっと無人だったのだ、仕方のないことだろう。ただ幸いなことに、生活をする上で致命的になりかねない欠損はこれといって見受けられなかった。きちんと手入れをすれば程なく以前の姿を取り戻すことだろう。
 あの美しく、暖かく、優しい家族の住む家に。
 アークライト家の息子達は長兄から順にクリストファー、トーマス、ミハエルという。父バイロンが復讐鬼に成り果てて以来消しさられてきたものだが、復讐が終わり、なくなった以上もはや仮初めの名を用いる必要もない。
 父がそう判断したのか、また昔のように本当の名前を呼んでくれた時ミハエルは遠巻きにカイトとデュエルをする遊馬を見ながら、少しだけ涙ぐんだ。
「どうする、これから」
 弟が簡単に汚れを拭ったソファにどかりと座り込んでトーマスがそうぼやく。活動の目的は失われ、彼ら一家を突き動かしていたエネルギーは失われたが、だからといってあの何も知らなかった幸福な一家に一切の障害なく戻れるはずもない。空しいばかりの復讐に費やされた時は馬鹿にならない長さとなって、各々の内に蓄積していた。
「そうですね。トーマス兄様はどうします」
「俺は仕事を続ける」
「……え」
「媚を売るのは嫌いだがあの生活自体を嫌っていたわけじゃない。兄貴と違ってそう学もねぇしな。今更、あれ以外で食ってくのも難しいだろ」
「そ、そうですか」
「……そんなに俺の言葉が意外か?」
 驚きを隠すことなく見つめてくる弟にばつの悪そうな顔をしてトーマスがどこかふてくされたように問う。ナンバーズ収集のかたわらで陰惨残虐な「ファンサービス・デュエル」に明け暮れていた「W」はあまりデュエルを楽しんでいやっていたようには見えなかったからだ。その姿はどこか道化めいているようですらあって、そして憚らずに言うのであれば哀れじみていた。父に認められたくて、ただ父の優しい言葉が欲しくて、家族以外に対する優しさを捨てたWは道具として転がしてきたデュエルを憎んでいたって不思議ではないと、そうVは隣で思っていたのだ。
「はい……びっくりして。勿論兄様が続けられると言うのであれば僕も兄様のマネージャーを続けますが」
「いや、お前は、もういい。自分のやりたいことを、好きなことをやれ」
「……兄様? 今なんと?」
「もう俺の世話はやらなくていいと、そう言った」
 聞き分けのない弟をわからせようとする時特有の、重ねて畳み掛ける物言いにミハエルは蒼白な面持ちになった。彼だけは絶対に自分を見捨てないと、裏切らないと、全幅の信頼を置いていただけになんでもないはずの言葉がショッキングだった。
 家族の――とりわけ、一つ上の兄の役に立ちたいというのが長いことミハエルを、「V」を支えてきた感情だった。Wに褒められたり、撫でられたり、抱き締められたり、そういうふうな優しい情を彼から受けることがVの喜びだった。兄の温度が好きで、恋しくて、だからVはWのマネージャーとして世話を焼くことを好んでいたのだ。その役に就いていれば兄のそばに、一番近い場所にいることが無条件に許されるから。
 それを奪われることは、あまつさえ兄自身に切られて断たれることはVにとって酷く恐ろしいことだ。怖いことだ。
 受け入れ難いことだ。
「どうして、そんなことを言うんです」
「ミハエル。お前はもう『V』じゃない。人形ごっこは終わったんだ。いつまでも俺みたいなものに縛られてどうする、――お前は自由になるべきなんだ」
「でも、兄様!!」
「学校に行きたいんだろう、お前は」
 ミハエルが取り乱していやいやと頭を振るとトーマスはそう短く告げる。ミハエルは「がっこう」、とたどたどしく兄が発した言葉を繰り返した。口慣れない響きだ。それはずっと縁遠い存在だった施設の名前だった。
 アークライト兄弟は幼少の頃より家庭教師の元で教育され、また父が失踪してまだ幼かったトーマスとミハエルの二人が入れられた施設では施設自体にろくに金がなかったため、満足な学校教育を受けることは叶わなかった。そんなわけもあって、兄弟は「スクール」という類のものとは馴染みがない。
「兄貴はもうそんな年じゃねぇし、必要もないだろ。俺ももうそういう気分には今からじゃなれねぇ。だが、お前はそうじゃない。まだやり直すのに間に合う年だし、何より出来たんだろ、『友達』が」
「……遊馬……」
「そうだ。あの甘ったるいガキだ」
 兄は嘆息してミハエルの手を取った。ミハエルは、それでもまだ理解のいっていない様子で口をもごもごと動かしている。
「初めての友達だって、お前嬉しそうに言ったじゃないか。俺は相変わらずあのガキのことはそう好きになれそうもないが、まあバカだが悪い奴じゃないだろうということは凌牙と戦った時にわかったつもりだ。いけすかない偽善者で、理想主義者だが、まあ、及第点ってところか。……だからもし、お前が望むのならば」
 トーマスの指の腹がミハエルの頬と遅れ毛をしっかりと撫ぜていく。優しく、暖かい、本当は誰よりも繊細な手のひら。今までずっとたった一人の弟だけに向けられてきたその指先は、まだ二人がもっと幼いトーマスとミハエルだった頃も、WとVであった頃も、そして今も同じものだ。
 いつかミハエルだけのものではなくなったとしてもそれだけは変わらない。無性に泣きたくなってミハエルは目を瞑った。「にいさま」、と小さく嗚咽が漏れる。震える指で兄の手を掴むと兄は何も言わずに両の手でそれを包み返してくれた。
「でも、僕、……にいさまと、家族と、折角また一緒になれたのに離れたくないんです。一人になりたくないんです」
 ずっと一緒にいたい、とか細い声でわななくように言うとトーマスは無言のままミハエルをぐいと自らに引き寄せて抱き締め、あやすように背を撫でた。



◇◆◇◆◇



「でも、『ずっと』は幻だって兄様はそう言って。僕は家族の中で唯一トーマス兄様とだけは離れたことがなかったから、その言葉が本当を言うと少し怖かった」
 でもよく考えてみればそれは当たり前のことなんだよね、と制服に身を包んだピンクの髪の少年が言った。遊馬はその隣で適当に相槌を打ってアストラルに溜息を吐かれてなんかいる。彼は難しい話が苦手なのだ。
「だから僕、遊馬に会いにハートランドに戻ってくることに決めたんだ」
「ふーん。それで、スリ……えっと、じゃなくてミハエルは」
「慣れないんなら、遊馬が呼び易い方で当分は良いよ」
「じゃ、V。Vはさ、結局どうしてその選択をしたんだ? Wの言うことはなんとなくわかるけど、でもお前の言う家族と離れたくない気持ちももっともじゃん。折角面倒なこともなくなってまた一緒になれたのに、Vだけこっちなんてよく決められたな」
「うん。家族と一緒にいたい気持ちと遊馬ともう一度話をしたいって気持ちは、僕にとって同じぐらいに大切なものだったから。その分難しかったし話では省いたけど結構悩んだんだよ。でもあんまり時間かけるわけにもいかないしね、トーマス兄様は割合せっかちだから僕がのんびりし過ぎているといじわるされることもあるし……」
「Wのイジワルって、なんかそれあんま良いイメージねぇなあ……」
 ギミックパペット・シリーズのモンスター、特にジャイアント・キラーを思い浮かべて遊馬は渋い顔をする。あのモンスター達に現れているわかりやすい性格の悪さ、シャークを挑発した時の口汚なさ、それらを連想してしまってどうにも複雑な心地になってしまうのだ。しかしミハエルはそんな遊馬のしかめっ面にくすくすと可愛らしく笑ってその想像を否定するように手を振った。
「大丈夫。兄様、僕には優しいから。兄様は家族が何より大切だから、僕のこともからかったりするけどいつも危ない時は守ってくれるんだよ。だから僕が一番に倒れてしまった予選最終日からしばらくはすごい荒れて大変だったってクリス兄様が言ってた」
「あー、うん。パーティーの時、女の子にちやほやされてんのすっげー嫌そうだった」
「それは多分いつも通りだと思うけど」
「あとシャークと戦う時変なテンションだった。トロンに煽られてたってのもあるけど」
「それも多分いつも通りだと思うよ」
「あ、そうなんだ……」
 ミハエルはにこにこしているが、遊馬としては妙な気分だ。でも本人がいいと思っているのならいいかなと思うことにして遊馬はこの話題を取り敢えず下げることにした。Wの性格の悪さが知りたかったわけではない。
「で、今Vはどこでどういうふうに生活してるんだ? もし自活とかが大変ならまた俺ん家に来て飯食ってけよ」
「ありがとう、今度そうさせて貰えると嬉しいな。実はね、今僕――」
「――テメェW!  金輪際璃緒に近付くんじゃねぇ――!!」
 突如としてミハエルの台詞を遮り、怒号のようなシャークの叫び声が辺りに轟いた。シャークはモーターサイクルのエンジン音と共に校門前を走り抜け、遊馬とミハエルの耳に耳鳴りを引き起こして去ってゆく。二人はきんきんと鳴る耳を押さえて顔を見合わせた。そのままどちらからともなく笑い出すのは、時間の問題だった。
「今の、シャークの声だった」
「うん、多分」
「そんでフォー! とか叫んでたよな?」
「間違いなく」
「Wのやつ、何やったんだ?」
 笑い声でつっかえながら会話をする。しばらくして二人でむせ込んで、やっと普通に会話が出来るようになった頃には、もうシャークもシャークに追い掛けられているらしいWも随分と遠くに行ってしまっているんじゃないかという時間になっていた。
「……兄様、神代璃緒さんに謝罪に行きたいって言ってたんだ。ほら、火事で大火傷を負わせてしまったことを兄様実はすごく後悔してて。似合わないのに花屋で真剣に何を持って行くか選んでたよ。……あの調子じゃ、何か失敗したみたいだけど」
「シャークと病室で鉢合わせかなんかしたのかな。……てことは、結局VはWと一緒に来たのか」
「うん、しばらくはね。兄様は忙しいからいつも一緒にいられるわけじゃないけど」
「へー、良かったな! ……シャークとWも、もうちょっと仲良く……は無理でも歩み寄れるといいよな……」
 どうだろうな、とひとしきり唸ってから遊馬はぱっと顔を上げてミハエルに屈託のない顔を向ける。ミハエルがきょとんとして見返すと、彼はあのさ、と右手を差し出してきた。
「遊馬?」
「V、手貸してくれ」
「あ、うん」
 ミハエルが触り慣れていた兄の指先よりも幾分か幼く、健康的な遊馬の手のひらがしっかりとミハエルの手を握り込む。もぞもぞと躊躇いがちに握り返すと遊馬は殊更に強く力を込めてくる。こそばゆくなって「なんだか、照れるね」と小声で言ってやると「友達なんだから遠慮とか要らないぜ」と当たり前に返された。それもなんだかむず痒い。
「何はともあれ、これからもよろしくな、ミハエル!」
 遊馬が掛け値なしに綺麗な笑顔でミハエルに笑いかける。
「――うん。こちらこそ、遊馬」
 自然と、ミハエルも子供らしい純粋な笑顔になって、遊馬に応えた。