リンゴンベリーの恋の色




「アキ」
 突然後から肩に手を置かれ、わたしは反射的にびくりと肩を震わせた。それに驚いてか、乗せられた手のひらはあっさりとわたしから離れていく。「すまない」という短い言葉が耳馴れた声で発せられて、私は声の主が誰であるのかを自ずから悟った。
「遊星。どうしてここに……あ、その格好、もしかしてまた何かの修理を?」
「ああ、今日は大時計を少し。鐘が上手く鳴らないと……ついでに、時刻がズレにくいように多少手を加えておいた」
「あなたって、本当になんでも出来るのね……」
 振り向いた先に立っていたのは予想通り遊星で、いつものジャケットに赤いレンチボックスを提げていた。聞けば、以前に「教頭の頭のネジを締め直す」という仕事を受け請って以来ちょくちょく仕事を受け、校長には懇意にして貰っているらしい。
「マーサの古い友人なんだそうだ」
 遊星が言った。立ったまま話をしているわたし達はいくらか目立っているらしく、通りすがりの生徒達が興奮した面持ちで遊星を指さしたり、好奇の視線でひそひそと話をしていたりしたが彼に気にするそぶりはない。
 目を引くのはまあ仕方のないことだった。不動遊星と言えばFCの決勝でジャックを下してから何かと注目を集めているある種の有名人なのだ。それに彼の私服である青いジャケットは、この制服に身を包む生徒ばかりで統一され、規律だてられた空間の中でとりわけよく目立っていた。
「アキはこれから帰りか?」
「ええ。いつも通り、ポッポタイムに寄ろうと思っていたところ」
 わたしが提げている学生鞄を見てそう尋ねてくる。素直に頷いてそう答えると、遊星は丁度いい、と何か素晴らしいことを思いついた子供みたいに楽しそうに微笑んだ。
「そうか。それなら、一緒に乗っていくか」
「えっ?」
「どうせ目的地は同じだ。俺も今仕事が終わったところで、これからポッポタイムに戻ろうと考えていた。予備のヘルメットも積んである」
「それって、遊星号に乗せてくれるってこと」
「ここからポッポタイムは歩くと少し距離があるだろう。D・ホイールならすぐだ。勿論、アキが嫌だと言うのなら……」
 遊星が思案顔になる。確かにわたしの定期券は実のところ、ポッポタイムとは逆方向のものなのだ。龍亞と龍可も。だからわたし達三人は学校から直にポッポタイムに寄る時は徒歩二十分弱の道をいつも歩いて通っていた。遊星はそのことを知ってわたしに提案を持ち掛けてくれたのだと思う。
 嫌だなんてことは当然これっぽっちも思ってはいなかった。ただ少し気恥ずかしくて、そして嬉しかったのだ。彼の愛車である遊星号には一度乗ったことがあるが、その時は妙なプライドが邪魔をしてなんだか危ない態勢で乗ることになってしまったのである。
 だからこれはわたしにとってはチャンスだ。今度は、普通に二人乗りをしてみたい。
「待って、嫌じゃないから、お願い乗せて!」
「あ、ああ。そんなに焦らなくとも遊星号は別にどこにも行かないぞ。いつまでもここで立ち話をしているのもなんだ。駐車場に行こう」
 「行くぞ」、というふうに遊星の手がわたしに差し伸べられる。握り返すと、手袋の向こうから遊星の手の感触がした。ごつごつして骨張っている。ああ、男の子なんだなあと今更のように思った。
 不動遊星は超天才デュエリストで、天才メカニックで、そして地縛神との戦いを勝ち抜いたネオドミノのヒーローだったけど、それ以前に、彼はわたしよりも二つ年上の男の子なのだ。


 D・ホイール他一般車両専用の高速レーンは時間帯が良かったのか車両も少なく、視界はよく開けていた。少し遠くにネオダイダロスブリッジとそれから海が見える。この半年間で急速に発展したシティとサテライトを結ぶ象徴だ。遊星とジャック、クロウ達が勝ち取った光景。
 モーメント・エンジンの高速駆動音が耳に心地良い。風が前から後ろに吹き抜けていって、運転をする遊星にしがみつく態勢のままわたしは軽く首を振った。ヘルメットからはみ出した髪の毛が遊星の背中に当たって擦れると、彼がくすりと笑う。
「走ってる、って感じがするだろ」
 声には普段より少年めいた興奮の色が混じっていた。純粋にワクワクして、楽しくって仕方がないという時に彼がする声音だ。「実際走ってるんだがな、D・ホイールが」と前置いて遊星は言葉を続ける。
「風になるんだ。風と一つになる。最高に調子がいい時なんかは、空を飛ぶ鳥がこういうふうに感じてるんじゃないかってぐらいハイになるぞ。これだから走るのは止められないんだ」
「やっぱり遊星はこうして走るの、好き?」
「そりゃあな。結局俺達みたいなD・ホイーラーっていうのは根っからの走り屋なんだ。走っているのが好きなんだな。特にデュエルをするでもなく俺やジャックが走りに出るのは単純にこうしている時間が好きだからで……まあ、移動手段として便利だというのも大きいが」
「そうね。クロウにとっては商売道具でもあるわけだし」
「そして俺にとっては、こいつは相棒みたいなものでもある」
 彼は真っ赤なボディを示して前を向いたままそう言った。
「皆そうなんじゃないの?」
「D・ホイール乗りの皆が皆そう思っているわけじゃないさ。ジャックやクロウはそうだろうが、世の中には多分移動の足、もしくはライディングデュエルの道具ぐらいにしか思っていない人達だっていっぱいいるはずだ。そういえば、昔聞いたことがあるな。ナンパの道具にどうのと」
「な、ナンパって、あなたの口から聞く日がくるとは思ってなかったわ」
「知識としては知っている。実行に移そうとは思ったためしがないが……曰く、伝え聞いた話だと有効らしいぞ。なんでかは俺にはいまひとつわからないんだが」
「なんでって、そりゃ……」
「アキには理由がわかるのか?」
「え、」
 疑問をぶつけられて僅かに言い淀む。今こうして彼と相乗りをしている状態でそれを言うのが少し躊躇われたのだ。だが遊星に先を急かすように「アキ」、と名前を呼ばれては駄目だった。彼の声には弱い。
 仕方がない。わたしは深呼吸を一度して、躊躇いをかなぐり捨てた。どうせ彼にはわたしが何をどう思い悩んでいるかなんて伝わらないだろう。
「あのね……やっぱりD・ホイールってかっこいいじゃない。それを持っているってだけで一種のステータスなのよ。まあ勿論デザインとかそれがある程度高価なものかどうかとか、選考基準があるんでしょうけど。あなたの遊星号なら、多分文句なしよ。それから……」
「それから、まだ何かあるのか?」
「それから……えっと、一台のD・ホイールに一緒に乗るってことになったら、その、こういうふうに運転する人にしがみつくことになるでしょう? 密着、してるっていうか……」
「確かに密着することになるな。安全上のことを考えると、この前のアキのように離れて立っている方がよほど危険だ。だが、それがどうして――」
「だって、好きな人とかかっこいい人とか……異性と密着すると、どきどきするでしょう?!」
 たまりかねて半ば叫ぶようにそう言ってやると、しばらくの間遊星は気圧されたように押し黙って、それから、
「なるほど」
 後ろで赤くなってわたしが俯いていることに気付いてか気付かずにか、得心したように頷く。そしてすぐにいつもの鈍感な声でこんなことを言った。
「それじゃあ、俺達がこうしているのも、事情を知らない奴らから見たらナンパの結果のように思われてしまうかもしれないのか。それは参ったな。アキは学生服だし……俺はそんなつもりはなかったんだが」
「もう、馬鹿ーっ!」
「あ、アキ?!」
 態勢は変えずにぽかぽかと右手だけで背中を叩くとさしもの遊星も焦ったような声を出した。振り向いた彼の、ヘルメットに覆われた瞳には「何故」が浮かび上がっている。自分の言動の何が失態だったのか必死に考えている目だ。
 多分彼はわたしの言葉を正確に理解してはいるが、わたしの気持ちまではまるで汲みとれていないのだ。わたしの心音が跳ね上がってばくばく言っているのも。だって布越しに伝わってくる遊星の温度や心音はいたって平常で、冷たくはないが熱くもない。
 不公平だ。わたしはこんなにどきどきしているのに。だから少しぐらいそうして焦り顔を見せてくれた方が安心する。遊星をどきどきさせることが出来なくっても、せめて。



◇◆◇◆◇



「あれー、アキ姉ちゃん、遊星の後ろに乗っけて貰ってきたの? いいなぁ、俺も遊星号に乗ってみたいなぁ」
「無理よ、龍亞じゃ。体格が足りなさすぎるもの。そういうのは自分で免許が取れるようになってから言いなさいよね」
「なんだよぉ。アキ姉ちゃんはいいのに俺は駄目なの?」
「アキさんはアキさんだもの。その意味がわからないようじゃ、まだまだよ」
 双子とクロウ、ジャックが皆してテーブルを囲んで何かを見ている。ヘルメットを取って遊星号をガレージの所定置に仕舞うと遊星は彼らに歩み寄ってテーブル上の紙を覗き込んだ。わたしもそれに倣って彼の隣に立つ。
「何をやっているんだ?」
「うん。せっかくチームで出るんだからさ、チーム・カラーとか決めて皆でお揃いのジャケットか何か作りたいなって」
「デュエルに出られるのは三人だけだけど、ピットクルーとしてクルー席に入れるでしょう? その時、お揃いにしていた方が連帯感とかあって良くないかなって話してたの」
「なるほどな、一理ある。それで今、どういう話になっているんだ」
「まだ始めたばっかり。ジャケットのデザインもそうだけど色も決まんなくてさ……」
 見ると、紙には箇条書で「黒」「青」「緑」「黄」「オレンジ」「白」などととりどりの色の名前が羅列されている。遊星が顔を顰めて「足りないな」と首を捻った。
「赤がない。わざわざ外したのか」
「ほら見ろ。遊星の奴なら、まず赤を選ぶだろうって俺あんなに言ったじゃねえか」
「だから外したのだ。俺に赤は合わん」
「それで白にしたってお前いつもと大して変わらないじゃねーかよ。第一赤に異存があるのだってジャック、お前一人だけだ」
「ああ……そういうことか」
 「仕方ないな、ジャックは」と苦笑混じりに言って遊星の指がペンを掴み、さらさらと「赤」を書き足す。横から龍亞が「じゃあ、もうさ、やっぱり赤で良くない?」とその文字を丸で囲んだ。ジャックが「ふん、好きにしろ」と鼻息を鳴らす。
「俺達赤き龍の痣がきっかけで集まったんだし、うん、やっぱ赤がいいって。遊星の好きな色だし、ジャックのレッドデーモンズ・ドラゴンだって赤いじゃん。俺も赤ってかっこいいから好きだし! それから……アキ姉ちゃんも赤、好きでしょ?」
「え、わたし?」
「うん。いつも赤い服着てるし、それにアキ姉ちゃんの――」
「龍亞!」
 嫌な予感がして、龍亞の口を勢い任せに塞いだ。もごもごとした動きと、わたしの手のひらに大方吸い取られていった声の残滓から、やはり龍亞は「アキ姉ちゃんの好きな遊星の、遊星号の色だもんね」と言おうとしていたのだということがわかる。こんなところでそんな形でばらされてはたまらない。
 手を離してやると龍亞は慌てて深呼吸を始めて、それを見た隣の龍可がじっとりとした目で、「だから龍亞はお子様なのよ。駄目すぎ」と詰った。龍亞の顔が目に見えてしょんぼりと落ち込んでいく。
「アキ、龍亞は何を言おうとしていたんだ? そこまで必死になることなのか」
「察してやれよ遊星。これはまあ、一目瞭然で龍亞の失態だ」
「クロウ、考えてもみろ。遊星にそんな機微があったら十六夜もあそこで打ち震えていな……待て十六夜。何故俺を睨む」
「別に」
 不機嫌に返答してやると、心臓に悪いものを見たような顔で若干怯えられる。その光景にさしもの遊星も何か思うところがあったのか、おもむろにぽんと手を叩いていいアイディアを思い付いた時のあのジェスチャーをする。遊星がくるりとわたしの方へ向き直って手を取り、「そうだ、アキ」、わたしの名前を呼んだ。
 どきりとする。
「さっき、一緒に遊星号に乗ってる時に思ったんだ。この前からD・ホイールに興味を持っていただろう。どうせだからアキ用のD・ホイールを造るというのはどうだ」
「きゅ、急ね」
「だがもう免許が取れる年だし、良い機会なんじゃないか。乗り方は俺が教えてやる。俺じゃなくっても、クロウもジャックもそのぐらいのインストラクチャーは出来る」
 悪い話じゃないだろう? と聞いてくる遊星の顔はご機嫌取りや慰めのようにわざとらしいものじゃなくて、一人のD・ホイーラーとして純粋にD・ホイール乗りが増えたらいいとそう考えているらしい表情だった。だからきっと話の流れを変える為に切り出した話題なのだとしても、「さっき乗っている時に」というのは偽りではないのだろう。
 そんな簡単なことでも、わたしといる時にわたしのことを考えていてくれたのだと思うとそれだけで嬉しくなってしまって、わたしは赤らんでしまいそうな頬を宥めながら遊星の顔を見る。彼の瞳は、透き通った海のように青かった。
「どうだ」
「それは有り難いけど、でも造ろうって言ったってそんなに簡単に出来るものなの?」
「任せておけ。多少馬力は劣るが、女性向けモデルを参考にして軽量化と……運転性が…………ああ、そうだ。色はどうする」
 ぶつぶつと難しそうなことを一人ごちてからそんなふうに尋ねてくる。わたしは少しだけ考えるそぶりを見せて、すぐに首を振った。遊星が不思議そうな顔をする。
「勿論、赤色にしてね。あなたの遊星号より、少し濃い真紅」
「了解した。少し濃い赤、か。確かに俺の遊星号とまったく同じ色じゃ面白味がないからな。それじゃ、リンゴンベリーの色はどうだ。あれならアキも気に入ると思うぞ。昔マーサが育てていたんだが、見事なものだった」
「リンゴンベリー? 聞いたことのない植物ね」
「こけももの一種だよ。アキの髪の色だ」
 こともなげにそう言って、「綺麗な色だよ」とこけももだか私の髪の色だかを褒める。遊星の後ろでクロウやジャックが半ば呆れ顔で溜め息を吐いているのが見えた。二人は遊星とは長い付き合いだから、彼の今の言葉に特に他意がないことをわかっているのだろう。そしてわたしの顔がとうとう抑え切れずに赤く染まってしまっている様子も丸見えになってしまっているから、彼らが一体何を思って溜め息を吐いているのかは明白だった。
「アキ、どうしたんだ? 急に顔が赤くなって、……熱でも出たか?」
 わたしが押し黙ってしまったものだから本当に心配そうな顔をして尋ねてくる。自然とわたしの口からも溜め息が漏れた。この人は純粋すぎて何もわかってくれない。
 なんて無自覚な人だろう。わたしはいつだってこの人の無自覚な天然さに翻弄されていて、それを悪くないかなと思ってしまうのだ。惚れた弱味とはこういうことを言うのだろうとぼんやり考えた。
 遊星はわたしの顔に手を添えて、「アキの顔がリンゴンベリーみたいだ」、と言った。