【ヤマアラシのジレンマ】
 ショーペンハウアーの寓話を元にフロイトが提唱した理念。
 二匹のヤマアラシはお互いを温め合う為に近寄ろうとするが、体中を覆う鋭い針が邪魔をして抱き合うことは叶わない。
 自らとは異なる「個」である他者との距離間を示唆した寓話で、解釈は一通りではない。




マアラシのレンマ



「悪いけど、俺、好きな子いるんだ」
 そんな声が飛び込んできて、俺はつい反射的に振り向いた。少し離れた建物の陰で声の主は困惑顔で首を振り、自分に何かを差し出している女生徒に拒絶のジェスチャーを示していた。
「君の好意は嬉しいよ。でも、俺は一人しか好きになれないから」
 君のことも好きな人のことも裏切りたくない。そうやってお綺麗な言葉を並べ立ててやんわりと女生徒が持つ手紙を押し返す。告白の現場なんだ、ということをようやく俺は理解して立ち尽くした。なんだろう。なんだろう――この、焦燥感は。
「ごめん。君の気持ちに俺は応えてやれない」
 柔らかな言葉の向こうから「これ以上は時間の無駄だ」という確固たる断絶の意志が透けて見えていた。女生徒が震える体から泣きそうな声を絞り出す。そいつは、それにこれといった感慨もないふうで、彼女が最後の言葉を言ってこの場がお開きになるのを待っていた。
「……アンデルセン君は……その人と……つき合ってる、んです、か」
「いや、俺の片思い。じゃ、この話はこれで終わりだ」
 そう言って手を振り、そいつ、アークティック校からの留学生でデュエルに首ったけのデュエル馬鹿で、そして俺が親友だと思っている男、ヨハン・アンデルセンは無情にも女生徒を置き去りにしてその場を立ち去った。残された女生徒は俯いたまま顔を上げようとしない。無理もない。あんなにこっぴどく振られたんじゃ、もう暫くは立ち直れないだろう。
 それはそうだ。当たり前のことだ。
(……なんで)
 だけどこれは当たり前じゃない。自分の膝小僧が小刻みに震えているのを直視して俺はいやいやをする子供のように頭を振る。なんで、なんでなんだ?
 俺はみっともなく、子供じみた自問自答を色の抜け落ちた顔でする。
(なんで、こんなに、いやな気持ちなんだろう?)
 答える声はない。少し離れたところから女生徒のすすり泣くような泣き声が微かに聞こえた。まるで俺の代わりに彼女が泣いているんじゃないかってぐらい、俺もその女生徒と同じぐらいに、いやもしかしたらそれ以上にこっぴどく動揺をしているのだった。



◇◆◇◆◇



「なあ。ヨハンって、好きな奴、いるのか」
 いつも通りにレッド寮の狭い部屋でカードをめくっていると、徐に十代がそんなことを切り出した。さてはあれを見られていたな、と思い当たって俺は気まずい顔をする。なんとなく見られてはいけないものだったように思えた。
「国にいる恋人とかか? それとも、こっちに来てから誰か気になる女の子が……」
「参ったな、十代俺が昼間にお断りしてるの、見てたのか」
「……うん。途中から、だったけど……びっくりしたんだ。お前も俺とおんなじでそういうの、興味なさそうだと思ってたから……」
 躊躇いがちな声で尋ねてくる。十代の表情は心なしか怯え混じりで、あのいつだって太陽か向日葵のようにあっけらかんと笑っている少年にはあまり似合わないものだった。
 一体彼は何に怯えているというのだろう。俺の目には十代が彼女とかそういう存在をステータス視して手に入れることに躍起になったり一喜一憂したり、そういうくだらない価値観を持ってる人間じゃないように見えていたのだけど。
「別に付き合ってる相手とか、そういう人はいないぜ。だって手紙の一つだって書いてるところ、見たことないだろ? 最近は大体いつも十代とこうしてデュエルしてるしさ」
「それは……そうだけど。ヨハンもそういうのに興味あったのかなって、思ったんだ。それだけ。……悪ぃ。あんまり気にしないでくれ」
「? ああ。変な十代」
 それから黙り込んでしまって、デッキをじっと見つめている。歯切れの悪い彼の言葉がなんだか酷くつっかえていた。

 その日は、結局十代はあまり気分が良くなさそうな顔をしたままでついぞデュエルをする事は叶わなかった。十代とデュエルをせずに一日を過ごしたのは思えばそれが初めてのことであったように思う。
 俺達は出会った時からとにかくデュエルで繋がっていたのだ。朝はおはようを言って、デッキの話をする。昼ご飯を早々と片付けたらデュエルする。デュエルをしたら、二人で反省会をしてまたデュエルをして……
 勝ったり負けたりを繰り返してその度一喜一憂して、何度でも手を合わせて、それがすごく楽しい。
 その関係を崩したくないと思っている。好敵手を失うのが嫌だ。十代がもし俺のそばから離れていってしまったら、と思うとぞっとした。俺は彼を失いたくないのだ。
 俺の隣から遊城十代という人間がいなくなってしまうことが怖い。



◇◆◇◆◇



「アニキ、最近どうしたのかな? なんていうか目が変だよ。いっつもヨハン君の方追いかけてるけど、なんで?」
「そう言われてみるとそんな気がしてくるドン。でもまあ、アニキが変わってるのは今に始まったことじゃないザウルス、これもアニキなりに理由のあることなのかもしれないドン?」
「む。君に知ったふうにアニキのことを語られるのはちょっと気にかかるなぁ。だけど確かにアニキは変な人だよね。僕はアニキのその、ただ者じゃなさそうなところとかちょっと抜けてるところとか、あと笑顔が眩しいところとかカードを見る時の真剣な眼差しとか意外と繊細な指とか……とにかくアニキのほとんどあらゆる全てをリスペクトしているんだけど」
「丸藤先輩、発言の端々から危険なオーラを感じるザウルス。見るドン、後ろで万丈目先輩がドン引きしてるザウルス」
「それにしたってちょっと変だよね。上の空かヨハン君のこと探してるかのどっちかに一つって感じ。元気の塊みたいなアニキがこれじゃまるで、恋する女の子みたいだよ。僕そんなことになったら……うん。きっと、我慢、出来ないなぁ……」
「そして綺麗に無視されたドン。まあそれもいつも通りザウルス。本当、アニキはどうしちゃったんだドン?」
 引きつった笑みを浮かべる翔を視界から外して剣山は首を捻った。剣山の視線の先には、ヨハンを見つけて大急ぎで駆けていく十代の姿がある。十代は手早くヨハンの隣をキープすると距離を詰めて花が咲いたみたいな笑顔をヨハンに向けた。
 別に今までがそれと全く違う光景であったわけではないし、どちらかというとあの二人がべったりとそばにくっ付いているのは最早恒例となってきたものですらある。でもなんだか腑に落ちない。それはきっと、あの十代から焦りが見えていたり、ヨハンに手が触れている時に露骨な安堵が見え隠れしているからだ。
 キョロキョロと誰かを探し回って落ち着かないでいる姿は遊城十代には似合わない。少なくとも剣山はそう思っている。


「なぁ、最近視線を感じることがなんか多い気がするんだけどなんでか十代、わかるか?」
「視線? さあな〜、この前ヨハンに告白した子がすげなく振られた、って噂が飛び交ってるのかもな」
「うわあ、怖いこと言うなよ。俺としては精一杯優しくお断りしたつもりなんだぜ。素直に『あなたには興味がありません』なんて言えないじゃないか」
「そうだな。興味がない奴と一緒にいたって息が詰まるだけだし」
「そうそう。今は俺は十代にデュエルで勝つか負けるか、その辺への興味関心で手一杯だよ」
 肩をすくめてそんなことを言う。ヨハンはこの仕草がわりと様になるんだよなぁ、とぼんやり思いながら俺は彼の横顔を見た。真っ直ぐでキラキラしたエメラルドの瞳が目に入る。この綺麗なものが自分だけを見てくれている瞬間が俺は好きだ。デュエルをしている時、二人っきりの部屋でカードの話をしている時。そういう時、ヨハンはいつだって「興味関心」の対象である十代を見てくれる。
 近頃、ヨハンが自分の手の届くところにいないと落ち着かない。多分あの告白を見てしまった時からだ。変なことだとは思っているけれど、そわそわするのは事実なのだからしょうがない。
 時間割の都合でどうしてもクラスが違ってしまう時などは、正直なところ気が気でないのだ。俺の知らない誰かが、もしかしたらヨハンの好きな人で、ヨハンはその人のことを見つめているのかもしれない。だけどそれを問うことは気が咎めてどうしても出来なかった。
 だって、それは友達が立ち入っていいところじゃないじゃないか。
「今日は購買寄って帰ろうぜ。新しく入荷されたパック、まだコンプしてなくてさ」
「おう。こうやって誰かとパック買って開けるのって、一人でやるよりずっと楽しいよな。トレードもすぐ出来るし」
「ワクワクを共有してる感じかな。二人分のワクワクドキドキを味わってるんだぜ。デュエリストなら、興奮しない方がどうかしてる」
『くりくり〜』
『るびー』
「ハネクリボーとルビーもわかるってさ。じゃ、購買行こうぜ!」
 ヨハンが俺の腕を急に掴んで、ぐいと軽く引っ張る仕草をする。振り返ったヨハンの純粋に楽しくって仕方ないと言わんばかりの表情が視界いっぱいに映り込んで俺はまばたきを二度三度繰り返した。
 俺だけを見据えているその瞳は、やっぱり宝石みたいで美しい。彼が家族と言って大事にしている宝玉獣達のようにだ。
(俺を見てくれる時が、きっと一番輝いてる)
「あれ? 十代、どうかしたか? 俺の顔になんか付いてる?」
「え? あ、いや何でもない。パック、何が出るかなぁ」
「そればっかりは開けてみてからのお楽しみだな。俺のデッキにシナジーのあるやつが出るといいけど」
(……閉じ込めてしまえればいいのに)
 先導するヨハンの指先から伝わってくる温もりを感じながら思った。ヨハンの俺だけを見ている輝かんばかりの表情も、皮膚越しの温度も、俺に向けられる言葉の一々をも、自分の中だけに留めておきたい。
 ふとヨハンが女生徒に断りを入れる時に口に出した「好きな子がいるから」という言葉が脳裏を過ぎった。この無邪気な信頼をその誰かは受けているのだろうか。もしかしたら、俺に向けるものよりももっと綺麗な優しいものを。
 そう考えると胸がきりきりと痛む。手放したくない。失いたくない。奪われたくない。手の届かないところへ消えて欲しくない。
(俺を置いていかないで、ヨハン)
 聖ニコラウスに祈りを捧げる童女のように俺は願い事を彼の背に掛けた。もしも俺の世界からヨハンがいなくなってしまったら。ヨハンが、世界に奪われてしまったら――

 俺はきっと信じてもいない神を呪う。



◇◆◇◆◇



「昔話だよ。世界が俺とヨハンとで出来てるって思ってたんだ。ヨハンがいなくなって俺の視界の半分が真っ暗になって、あとは一直線だ。周りが見えなくなった俺は一人で突っ走って、その結果当たり前に見限られて……最後は、傲慢にも神を呪った。世界を憎んだ。俺からヨハンを奪った全てを憎悪した。『俺のせいだ』という自己嫌悪はいつしか『だから俺がなんとかしなきゃ』っていう盲目的な自己陶酔に姿を変えて、『俺に力があれば』という自己欺瞞に成り果てた。力さえあればなんだって思い通りにいくって……俺が望むものは返ってくるって、信じてた。愚かにも」
 手のひらの中で一枚のカードを弄ぶ。「超融合」。覇王十代の力の象徴にしてその罪の証。ヨハンを渇望した遊城十代が最後に縋ったもの。
 覇王は精霊を殺した。人間も殺した。「ヨハン・アンデルセン」と「ヨハンを取り戻すのに使えるもの」以外は絶対の力への供物に過ぎなかった。覇王は絶対悪だ。だが、その陰惨残虐な数々の行為は、ヨハン・アンデルセンを手に入れる為の悪魔の絶対正義だった。
「ヨハンが誰かのことを『好き』なんだって知ってから俺はおかしくなった。姿も知らない誰かに嫉妬して、ヨハンをどうにかして振り向かせてやりたくて、ヨハンが俺以外の誰かと仲良くしてるのがすごく嫌だったんだ。やっとのことで見つけた理解者を失うのが怖かった。また一人ぼっちのヒーローに戻ってしまうことが、孤独に還ることが……恐ろしくてたまらなかったんだ」
 手をぐしゃりと握り潰す。超融合のカードは、形を損ねることなく手品のようにもう片方の手のひらに移行してその存在を主張していた。消えない罪の形。遊城十代はあの時ジム・クロコダイル・クックとオースチン・オブライエンの命懸けの救出によって悪夢から引っ張り出されたが、果たしてそれが真の意味での救済であったのかどうか、それは定かではない。
 暗黒界の狂王ブロンは言った。『ヨハンとかいう少年は、死んだよ』。
 オブライエンは言った。『ヨハンはまだ、生きている』。
 結局はそれだけのことだ。覇王という厳めつい鎧に身を包んでも、『ヨハン』だけはいとも容易くそれを突き抜けてきて十代の心臓を鷲掴みにする。揺さぶって離さない。
 十代はヨハンにある種の傾倒を覚えていた。自分によく似た眩しく輝いていて、そして対等な人間として扱ってくれる彼のことを欲してやまないようになってしまっていたのだ。
「俺、ヨハンが好きだったんだ。みっともなく依存してた。あの焦燥は友達を失った痛みだけじゃ説明が付かない。あれは、片割れを剥奪された、……恐怖だよ」
 俺のこと、軽蔑するか? 十代が躊躇いがちに尋ねてくる。気持ちが悪い、俺に縋るんじゃない、そう言って拒絶するか、ヨハン。十代は怯えて毛布をひっかぶり、縮こまって震えている幼子だ。ヨハンは首を振った。そんなことは、一度だって考えたことがなかった。
「どうして軽蔑なんか出来るもんか。俺だって十代と同じなんだ。異世界大虐殺をお前はやったかもしれないが、その裏で俺は人間を唆して回っていた。アモンとカイザーをあの時消し去ったのは、俺だよ」
「……それは、ユベルのやったことだ。ヨハンは関係ない。ヨハンは、綺麗、だから……」
「大方はな。だけど、俺の責任がゼロってわけでも、多分ない。……うっすらと覚えてるんだ。異世界から帰還して、自分の格好見てぎょっとした後、その理由を思い出してはしばらく自己嫌悪になって……自己嫌悪ってのもちょっと違うのかなぁ……まあ、ともかく、『十代を望んでいた』という点で俺はユベルとそんなに変わらなかった。隣にいて当たり前の存在が欠け落ちてしまったことはやっぱり苦痛だった。精霊と人間の架け橋になりたいって一人でかっこつけてはみたけど、自己満足に過ぎなかった」
「ヨハン、でも俺はその選択をしたお前のことを恨んだわけじゃない。ただ自分の無力さに反吐が出るくらい腹が立って、許せなかったんだ」
「力なきものに正義はなし、か?」
「……聞いてたのか」
「こっそりね。ユベルは聞き耳そばだてるのが上手かった」
 ヨハンの手が十代の頬に触れる。大昔に返り血に染まっていた柔らかな頬は、少女のように瑞々しい桃の色をしている。十代の目がぱちくり見開かれて焦げ茶色の瞳がヨハンの目を見返してきていた。出会った頃は少年らしく丸かったそれは、今はもうすっかり「大人に」なって、鋭い猫みたいだった。
 そのまま手を腰にやって抱き寄せると、「ひゃあ」となんだか変な間抜け声が漏れ出る。
「ヤマアラシのジレンマさ。俺達は似たもの同士二人で、くっ付いたり離れたり、ひとつに憧れたりふたつになりたがったり……理由なんてものはすごく単純で、『ああ、こいつは俺と同じなんだな』と気付いてしまったから多分二人で暖め合おうとそう思っただけなんだ。近付き過ぎて長く伸びた針が刺さっても」
「ぶっすぶすに刺し合って抜けたら大出血か。酷いもんだな。…………こういうの、なんて言えばいいんだろう。こんなの友達って言っていいのかな。でも、上手く言葉が見付からない。俺の方恋慕? 俺ばっかり、一人で盛り上がって……一方通行の方依存だ」
「ああもう、言っただろ。俺も十代に、太陽を独占することに心奪われてたって。十代が俺達の関係を友の一言で括ることを良しとしないのなら、しばらくはそれでいいさ。――『われわれの思考が言葉を見出すや否や、それは既にその最も深い根底において真実を失う』。名前を付けた瞬間にそれはその形から抜け出せなくなる。だったら曖昧なままでいい。俺達は名前なんかなくたって二人でよく似た、同類なのさ。そうだろ?」
 遊城十代は完全無欠のヒーローなんかじゃなかった。皆に望まれた完璧超人じゃなくて、誰かの期待に応えようとする当たり前の少年だったのだ。ヨハン・アンデルセンもそう。彼は別に好んで群れのリーダーやボスになりたがったわけじゃない。ただ粛々と周囲の期待に応えていただけだった。
 抱き締めてキスをすると二人して顔を赤くする。十代が、熟れたリンゴのような顔をしたままぷっと笑った。ヨハンもつられて笑い出す。十代の少し速まった心音と、ヨハンの心音がぴったり重なる。
 ヨハンは照れ隠しに口を開いて、「だからさ」と話を切りだした。
「そうしたら、この名前のない何かがいつか恋に変わったって、愛に姿を変えたって、素敵だと俺は思うよ」
「お前は恥ずかしい奴だな。でも、うん、そうだ。きっと、それでいいんだ、俺達は。……ところで、ヨハン。一つ聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「結局あの時言ってた『好きな子』っていうのは、誰のことだったわけ? 俺には付き合ってる子はいない、としか言わなかったよな」
「え。あー、それは……」
 十代の突然の問い掛けに抱き合ったまま言い淀む。目を白々しく泳がせて必死に言葉を探しているようだった。してやったりだ。ヨハンがいいとこばっかりじゃ、十代としてはつまらない。
「……十代。怒らないで聞いてくれよ。あのな、日本語には、『嘘も方便』という言葉があるだろう……?」
「げっ、まさかお前口から出任せであんなにもっともらしく断ったのかよ! ひっでえな!」
「だから怒らないで聞けって言ったじゃないか! だって仕方ないだろ、あの時は十代といるのが楽しかったから女の子に付き合ってあげる時間なんてなかったんだよ。だから強いていうならそうだな、俺は十代に夢中で脇目も振らずに――」
「な、なんだよ、そんな顔近付けて……」
「デュエルがしたかったのさ。だって俺達デュエリストじゃないか。なあ?」
 ウィンクなんかしてくる。脱力しかかって「この肩透かし!」と叫びかけたところを突然サファイアブルーに視界を覆い尽くされて、次の瞬間十代は呼吸を求めて喘いでいた。真正面に満足そうなエメラルドの瞳が見える。今度はヨハンがしたり顔で十代より優位に立っていた。なんなのだもう。
 ようやくのことで自由になり、荒い呼吸を繰り返しているとヨハンの手が十代の首筋を撫ぜていく。たまらず、歯を食いしばった。これ以上の失態はごめんだ。
「ふふん。俺から一本取ろうったって、そう簡単にはいかないぜ。恥ずかしい思いをしたお返しだ」
 勝ち誇ったような顔で言う。なるほど似たもの同士の二人はどんな局面においても互いに負けず嫌いだったようだ。どこかで変なスイッチが入ってしまったような気がする。十代は精一杯、威嚇するように舌なめずりをして見せた。ヨハンがおののいて遠ざかろうとする。
「……ヤマアラシって、草食動物だったと思うんだけど」
「うるせー。仕掛けてきたのはヨハンだろ。やられっぱなしってのは、性に合わねえの!」
 じゅうだいぃ、とヨハンの抜けた声が響く。それに構うものかと思いながらヨハンを見ると、声は情けないくせに目はしっかり、敗北を許さないけもののそれだった。どうやらスイッチが入ってしまったのはヨハンも同じらしい。


 結局勝負は一勝一敗一分けで終わった。部屋中にばらばらに散らばったカード達が、二匹のヤマアラシを溜め息混じりに、見ていた。



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