君が抱くはアヴァロンの鍵か




 《ヌメロン・コード》。世界のすべてが記されている神のカード。アストラルが探しているもの。バリアンよりも早く手に入れなきゃいけないもの。こいつは俺の想像だけど、それはきっとすごくやばくて、おっかなくて、……そして儚いものだ。
『類似の概念に付けられたこの世界の言葉もいくつか他に聞き知っている。《アカシック・レコード》や《イリアステル》と呼ばれるそれらは等しく森羅万象の真理を指し示す《ヌメロン・コード》と同じものだ。遊馬、きみにはうまくそれがわからないかもしれないな。だが仕方ないことだ、世界のたどる行く末を、現在過去未来全てを掌握出来る存在を普通は人間とは呼ばない』
 アストラルが言った小難しい言葉を全部理解することは出来なかったけど、理論じゃなくて感覚でわかったことはあった。ヌメロン・コードはありふれた人間が手に出来るものじゃない。そして触れようと願っていいものでもない。
 いや、人間に限った話じゃないのかもしれない。アストラルだってバリアンの奴らだってダメなのかもしれない。「カミサマの力」なんて胡散臭いものが、都合よく利益だけをくれるとは俺にはどうしても思えなかった。
「その神のカードには、世界の全てを変える力があって、全ての世界を、作ったんだよな」
『そうだ。私の世界も、君の世界も、バリアンの世界も』
「なんでそんなもんが存在してるのかってのがまず気になるけど、……それを手に入れてみんなは何をしたいんだ? 歴史でも書き換えようってのか」
『……そうだな。そうなるだろう。我々は互いにお互いの世界を潰してでも自らを守ろうとしているのだ』
 半分の記憶では推測にとどまるが、と補足が続く。だけどバリアンの切羽詰まりようからして両者にのっぴらきない理由と時間の不足があることは挟まれてる俺の目からも明らかなことだった。
 ふと真月の姿を思い浮かべる。バリアンズ・ガーディアン、悪のバリアンを取り締まる警察のようなものだと言って聞かせた真月はアストラルを助けるとこそ言ったが、根底のところでバリアン人なのだ。もし二つの世界を秤に掛けてどちらかを選ばなければならないとしたら彼はどうするんだろう?
 俺はどちらを選べばいいんだ?
(だけど俺に、どっちかなんて選べるのか)
 アストラルのことは勿論大事だ。ずっとアストラルのために戦ってきた。今更切って捨てたりなんか、出来っこない。
 でもだからってもう片方を捨てるだなんて。真月やアリトと結んだ気持ちはなかったことにしてゴミ箱に入れてしまえる程安いものじゃなかった。それは俺にとってとても大切なもので、父ちゃんにかっとビングを教わった今の俺であるためになくしちゃいけないものだとそう思うのだ。
『三つの世界が、今まで通りに相互不干渉を保って存続出来るのが一番良いかたちなのだろう。……しかしその選択をアストラル界やバリアン界が出来るのならば争いは起こらないと私はそう感じる』
「なら、俺が人間代表で全部まとめて救ってやる。……それでいいじゃんか」
『優しいな、きみは。どうしてもどちらかを選ぶ必要がないのなら、きみがそうしてくれるのが良いのだろうな。――やはりきみは、こういったことには向いていない』
 アストラルは俺の頭に手を置いて儚く笑った。見透かされているみたいだった。
 板挟みで優柔不断な俺の心を全部、透き通るつめたいそらのように。



◇◆◇◆◇



 地面に小鳥やシャーク、璃緒……仲間達が紙切れみたいに力なく転がされている。アストラルと、それを守るためにすっ飛んで来たブラック・ミストも空中で固められて身動きが取れずにいた。今この場で立ち上がっているのは俺ともう一人だけ。そいつは、猫みたいに鋭い目を俺にぴったりと向けてオレンジ色の髪を揺らしている。
 真月零は俺の前に厳然と立ちはだかっていた。
「……どういうつもりだ」
「時間稼ぎは終わりだ。私の中で結論が出た」
 みんなの前だっていうのに怜悧で低い「本当の声」を隠そうともしない。ついさっきまで被っていた猫の化けの皮が剥がれて、真月は一切の躊躇いを見せることなくみんなを叩き伏せた。
 きっかけは何だったんだろう。確かそうだ、アストラルが道すがら俺に言ったのだ。『思えば君に弾かれて記憶を失うことがなければ、こうして彼らと話すこともなかったのだな』と、柔らかくはにかんで。
 そこからの真月の行動は迅速だった。アメジスト色だった目玉が薄い赤に発光して、あっという間に、みんながこうやって人形みたいにばらまかれる。その光の色を俺は知っていた。カイトが超銀河眼の光子龍を召喚する時と同じ、それはバリアンの色だった。
 それからアストラルを縛り付けて、ブラック・ミストも同じ様に光の鎖に縛られる。そうしてようやく真月は俺の方を向いて唇を歪めたのだ。
「これでもう誰にも邪魔されませんね、遊馬くん?」
 演技だとわかっていたからその声音は尚のこと薄ら寒かった。ぞわぞわした気持ちの悪いものが背筋を駆け上がっていく。
「ごっこ遊びは、もうおしまいですよ」
 にこりと笑った。
 俺と初めて出会った時みたいに、プラスチックで出来たラインストーンのようなすごく綺麗な作り物のわらいがおをしている。


「先のアストラルの言葉で確証が取れたのでね。もういくらかで私は任務達成と相成るわけだ」
 君のおかげでたいそうはかどったよ、なんていけしゃあしゃあとのたまう。薄っぺらいイミテーションの笑顔はすぐに剥がれ落ちて、その下の本性が露わになっていた。心ない温度。つめたい。とてもとても――つめたい。
「君は考えなかったのか? 何故アストラルが君の元に現れたのか。君を狙ったからだ。君の肉体を手に入れんとしたがためだ。――では、その理由は」
「何言って……」
「君を狙っていた頃アストラルは当然すべてのナンバーズを所持していた。つまり彼はヌメロン・コードの在り方がどこであるのかわかっていたというわけだ。そう、君の中にあるのだと」
 真月の手のひらが無遠慮に俺の左胸部に触れる。心臓のすぐ真上を撫でられて、鷲掴みにされているかのような恐怖を覚えた。
 そう、恐怖、だ。
「畏れているのは何だ? 私か。それとも真実か」
「――わかんねえよ!」
「だが事実は揺るがない。君はもう少し不思議に思うべきだったんだ、たとえばどうして自分だけがナンバーズを完璧に御することを許されているのか、とかな。確かに皇の鍵はナンバーズに対する一時的な耐性を与えてはくれるが、それとて万能ではない。人間であれば必ずナンバーズの刻印が体のどこかに浮き出る」
 ナンバーズの持つ凶暴性に人間の力で打ち勝つのは難しい。シャークは自力でなんとか使えてたけど、それでもリスクなしってわけにはいかなかった。カイトやトロン、V達兄弟は異世界科学か紋章の力、つまりバリアンの力を借りてアストラル界の力を相殺していたのだと思う。
 そしてそれでもナンバーズは完全に安全にはならなかったのだ。現にVの「先史遺産アトランタル」は紋章の力があっても使用者の体にダメージを与えていた。
 でも、俺は、そんなことは殆どないのだ。
 唯一ドレイクバイスをコントロール奪取した時は肉体に多少ダメージが出たけど、意識に問題はなかったし共通リスクというよりあれは突然変異に近かった。

「そして君には、ナンバーズの刻印は出ない」

 真月はやっぱり、酷く冷たい瞳で俺を見ていた。
「当然だろう。記憶の欠片如きで万物の理に危害など及ぼせるものか。あらゆる全ては世界の真理を内包する君にひれ伏し服従する。君の心から生まれたホープが他のナンバーズ達と単独で張り合えるのもそれを考えればむべなるかな、というところか」
「誰も俺にひれ伏したり服従したりなんかしてねえ!」
「今はまだな。いずれそうなる。――遊馬、君こそが私が探していた皇なのだから」
 真月の指が緩慢に腕に伸ばされてけれど力強く俺を締め付ける。食い込む爪の先がきりきりと痛んで俺は方目を瞑った。身をよじろうとしても逃すまいともう片方の手が飛んでくる。その時俺は食い入るような強烈な視線を感じて息をのむ。
 真月の眼差しは冷静なラベンダーの奥底に僅かな興奮を孕み、声音は心なしかうわずっていた。
 こんな眼差しを俺は知らない。
「私が探していたのは《ヌメロン・コード》そのものではない。それを意のままにすることを許されている皇だ。遊馬、バリアン界にはね、玉座が一つ空っぽで残されている。恐らくアストラル界にも、それが唯一の指針だった」
「友達って、みんなのこと、仲間だって言ったのは」
「私には君の信用を早急に勝ち取る必要があった」
 とうとう俺は肩がわなないて震えるのを感じた。皇だとか玉座だとか、そんなわけのわからないものよりもそれがショックだった。
「嘘ついて騙してたんだな」
「いいや、嘘はついていない。私は確かにバリアンズ・ガーディアンに所属していてそれは警察機構のように組織だった集団だ。ギラグやアリトら七皇は急進過激派で、問題視する向きが出ていた。アストラルを倒す意図もなく、結論が出るまでは守る必要もあった。騙したが、それは真実を隠したにすぎない」
「嘘だ! だってアリトにとどめを刺したのも結局、お前なんだろ!」
「……まあそれも真実の一端ではある。言っておくが遊馬、私は一度も君にアリトの件を否定した覚えはないね」
 肩をすくめる。俺は固唾を飲んで、
「なんで」
 そう弱々しく繰り返した。なんで。俺は真月のこと、信じてたのに。全部裏切って。踏みにじって。友達だって、二度目のあの言葉すらも塗り固められた虚実で。俺に掛けてくれた言葉のひとつひとつがでまかせで。なにもかもがまやかしで。
 欲しかったのは《ヌメロン・コード》。ただそれのみだなんて、そんなのってないじゃんか。
「……まあ、今はそう思っても仕方ない。いずれわかるさ、いずれ――おやすみ遊馬」
 真月の手のひらが首に回され、トン、と軽い音を立てて俺の意識を奪い取る。力なくあ、と声を漏らして膝からがくりとくずおれた。だからこの先のことを俺は知らない。真月が俺に何を囁いていたのかも知る術はない。



◇◆◇◆◇



 遊馬はまぶたをぴたりと閉じてあどけない表情を晒している。まだ絶望を知らない、孤独を知らない、終わりを、行き止まりを、汚いものを知らない子供の姿。
 一度目の世界では間に合わなかった。手遅れになってしまっていた。
 あの時私が見た少年は全ての犠牲と引き換えに空の玉座を手に入れて痛ましい叫び声を上げ、そして恐らくは自らと世界に向けてとめどない呪いの言葉を吐き連ねていた。
「……今度はうまくいっているんだ。失敗はしない。もう二度と」
『待て……遊馬を、どうするつもりだ……!』
「ああ、なんだ、喋れたのか。甘かったのかな」
 アストラルが視線だけで私に訴えかけてくる。だがそれに耳を傾けてやる気はない。ぐったりとした遊馬の体を抱きかかえるようにして挑発的な視線で返してやる。
 アストラルは表情を険しく変え、今度は私を睨むように見た。
『ヌメロン・コード欲しさに遊馬の優しさを利用したのか。清々しいほどに屑な手段を講じたものだな』
「はは、屑とは心外だな。だが何を言われようと私のやることは変わらないし、君に遊馬を返すつもりもない。それに本当にそれは君が言えたことなのか、アストラル? 君だって遊馬を利用するためにこの世界に来たんじゃないか」
『ッ――?!』
「遊馬に破滅はもう二度と必要ない。……君では役不足だ」
 遊馬の華奢な体をかき抱く。脳裏に甦るのは失敗した世界での失意の表情。遊馬のその顔が私は嫌いだった。おぞましくて、恐れてすらいた。
「遊馬。君の痛みも悲しみも苦しみも後悔も君を傷つける全てを私が請け負おう。……見ていられなかったんだ、君のあんな姿は……」
 真実を本当に畏れているのは私だった。そんなものが真実なのならば、悪役になって憎まれてでも真実をねじ曲げてやりたい。そのためなら《ヌメロン・コード》にでも縋ろう。
 森羅万象を記した世界を揺るがす神の力などという胡散臭いものにだって私は躊躇わずに手を伸ばせる。
「私は、君はやはり笑っていた方がいいとそう思うよ」
 太陽が咲いたようなあの笑顔を、もう私には向けてくれないかもしれないけれど。
 君の笑顔を守れるのならばそれでもいい。

(真月零の仮面は、君への憧れの裏返し)