センチの距離と、君のいたずらなと。



 またトイレに二人だ。
 喉まで出掛かった言葉をぐっと押し返して、俺は胸の中でその台詞を繰り返す。また、トイレ。男子の個室。何度目の光景なのかは、数えていないからわからない。
 二人っきりの時は友達の真月零と九十九遊馬じゃなくて、一方はバリアン警察の警部で俺は平の巡査だ。だから口のきき方に気をつけなきゃならないし(これに関しては、ちょくちょく抜け落ちててその度口を酸っぱくして注意される)、「なんでトイレなのか」という理由を聞くことも許されない。優秀な部下は上司の命令にいちいち質問したりなんかしないんだ。……多分。
 当たり前だけど、今この場にアストラルはいない。俺がトイレに入る時は黙って入り口のそばで止まって出てくるのを待ってくれる。出会ったばかりの頃にアストラルに言った「人間はトイレの最中を見られたら死んじまう」という言葉を律儀に守って「永久コンボ」を見てしまわないように努めてくれているからだ。
 真月もそれを知っていてトイレに連れ込んでいるのかもしれないけど、流石にこう毎度だと妙な気持ちになってくるのも確かだった。女子でもないのにいつもいつも連れションって、どうなんだ。
 洋式トイレのふたを閉めた上にどかりと座り込み、真月が例の凛々しい警部の目で俺を上から下までじろじろと無遠慮に見てくる。俺は半ば個室の扉にもたれかかるように立ってそんな真月と向き合って、鏡がないから本当のところはわからないけれど恐らくは変な顔をしているに違いなかった。
「定期報告の時間だ、遊馬」
 トントン、と足を鳴らして低い声が遊馬の名を呼ぶ。この口が、ついさっきまでは同じ声帯で「遊馬くーん」「どうしたんですか?」「僕は、よかれと思って……」なんてとぼけた声を作って言っているのだ。こっちが本当の真月なんだって知ってから時々俺はわかんなくなった。真月がどんな奴なのか。何を考えているのか。すごく、遠くなった。
 友達じゃなくって、上司と部下。俺と真月の間に引かれている確かなボーダー・ライン。
「目に見える異常は、今のところ」
「はっ、なしであります、警部」
「では、今後君がとるべき行動は? 遊馬巡査」
「引き続きの警戒、場合によってはデュエルによる実力行使での確保であります」
「よろしい、結構だ。……時に、遊馬。君は何か疑問に思っているようだな? 大方報告に使うこの場所のことだろう」
「えっ、なんでバレ……違う。なんでそれが」
「君の顔に書いてある。部下の顔色を読めるのも上司なら当然のことだ」
(それって本当に当然なのか……?)
「ふむ。君の努力が見られる態度に応じて特別に答えてやってもいい」
 もったいつけて腕組みをする。これは暗に「君の態度次第で教えてやってもいい」と示すサインだな、ということをこれまでの付き合いから類推して俺は特になにも考えず、「お願いします、真月警部!」素直に頭を下げた。真月が満足そうに(あるいは、満悦して)頷きぐい、と俺との距離を詰めてくる。
「立地条件の関係だよ。ここには監視カメラが存在しない。この学園には防犯上の理由からそれなりに多くの場所にカメラが仕掛けてある。従って秘密の話が出来る場所というのも自ずと限られてきてしまう。その限られた場所の中で頻繁に生徒が出入りしても構わない場所がここだったというだけだ。深い意味はない……それとも、遊馬巡査。君は何か期待していたのか?」
「はっ? 何を?」
「……わからないか。仕方ないか、君だしな。まあいい、あまり長引くとアストラルに訝しまれる」
「なんなんだよ、教えてくれよ真月。気になるだ――むぐ?!」
「緊急事態だ遊馬、口を閉じろ!」
 意味ありげな言葉が気になって思わず敬語を忘れて追求する姿勢になったが、突然の真月の動きによってそれは遮られた。まず右手でがっちりと俺の左腕を掴み、更に左手を回して俺の体そのものを支える態勢になる。そのまま勢いよく両腕を引き寄せるものだから自然と俺の体は真月の体と密着する姿勢になってしまった。
 なんでかわからないけど、物凄い恥ずかしい。俺達は男同士だから別に見られて困るところはないけど、でも無性に恥ずかしい。
 心臓がばくばくと音を立てて鳴っている。
「し、しんげつっ、これ、どういう、」
「口を噤め、と言ったのが聞こえなかったのか」
 耳元で低い低い声を囁かれて、俺はまた「ひっ」と情けない声を上げそうになった。でもなっただけで、実際には漏れていかない。なんでだ? だって俺は別に叫ぶのを自分の意志で止められてない。
 隣とそのまた隣の個室の扉がばたん、と音を立てて閉まるのが耳から伝わってくる。俺の視界にはどアップになった真月の顔。紫色の丸い目。普段はあどけない天然キャラを演じているその目に今はなんだか大人っぽくてくらくらするような眼差しが灯っていて。
 他の生徒が用を足している音がちろちろじょぼじょぼと流れてくる間中、俺は口から変な声を垂れ流していた。でも一部は他の音にかき消されて、大部分は別の場所に吸い込まれて、外には聞こえていかない。どこに吸い込まれているのか? それはトイレから出て解放され、しばらく経つまで俺自身にもよくわかっていなかった。
 だって、考えるわけないじゃないか。

 あの時俺の叫び声は、全部、真月の唇の中に――、



◇◆◇◆◇



「何をぶすくれているんだ。そんなふうに気を散らしていてはバリアン警察の任務は務まらないぞ」
「……誰のせいだと……」
「何か意見があるのか遊馬巡査」
「……何もないです警部」
 俺は力なく答えて、うなだれた。
 夜の報告は、こうやってたまに俺の家の屋根の上で行う。ハートランドシティ中央のタワーと、それから夜空いっぱいの満点の星々。真月からD・ゲイザーに連絡が来た夜は望遠鏡を持ってそこに上がってきて、それらを眺めながら話をする。でも望遠鏡は使わない。
 以前は、屋根の上に上がる時はいつもアストラルが一緒だった。でも真月とこういう時間を持つようになってからその機会はめっきり少なくなってしまって、その代わりにアストラルは皇の鍵に閉じこもって何かを調べていることが多くなった。
「なるほどな。昼の一件を気にしているのか」
 ふと、真月が言った。
「気に病むことはない。上司にああして口を塞がせるのは部下として優れた行為だとはお世辞にも言えないが、私はそのことに関してとやかく言うつもりはない。仕置きも減点も心配しなくていいぞ」
「……そういうことじゃ、なくて……」
「ならば、なんだと言うんだ」
 まるでわからないというふうに肩をすくめる。本当の真月は警部という立派な職務についているだけあってか、めちゃくちゃに大人っぽい奴なのだ。猫をかぶっていない時の真月の喋り方はどことなくアストラルに似ていた。そういえば俺は、真月が何歳なのか知らない。前までは十三歳だと思ってたけどバリアン人が人間に化けているのだとしたら、大人びて見えるのはあたりまえのことなのかもしれなかった。
 だとするのなら、俺と価値観が違うのも当たり前なんだろうか。例えばこうして俺にキス? したことを平然と「口を塞いだこと」なんて言って流してしまうのも年の差とか、人間とバリアン人の間の認識の違いなんだろうか。
「……ああ、それとも何か、君の唇に触れたことを引きずっているのか」
「は?」
「だから、唇に触れたことでもじもじと悩んでいるのかとそう聞いたんだ」
 そんなふうに考えていた最中だったから、真月が思いついたようにぽつりと言った言葉は結構衝撃だった。
「すまない。日本人があの行為を一種神聖化して見ているということはあの後思い出してね。思わず手っ取り早い応急措置を取ってしまったんだ」
「神聖化って、」
「なんでも特別に見ている相手と取り交わす風習になっているらしいな。君の場合は――えーっともしかして、小鳥さんとか、とですか?」
「なっ、おまっ、そんなの考えたことねーよ!」
「冗談ですよ、遊馬君。僕だって君がそんなにませたこと考えてるなんて思ってませんって。君はそういった他人の好意にはとことん鈍いですもんね。こうなるともう全然小さな子供みたい」
「ほっとけよもう、なんだよ急に喋り方変えて……」
 突然外ゆきの声になって度肝を抜かれる。だけど遠慮なしに言ってくる言葉のとげは警部モードの時とあんまり変わらない鋭さを持っていて、ちょっとついていけなくて俺は思わず溜め息をついてしまった。真月がくすくすと笑う。昼間にみんなの前で笑ってる時と同じように、でもどことなく意地悪に。
 紫の目はにこにこ笑って俺を見ていた。
「君って本当に鈍感なんだもの。そういうところ、僕結構好きだな。それこそ密着してもいいと思えるぐらいにね」
「……どういうことだ?」
「まだわからない?」
 「遊馬君ってかわいいですよね」なんてのたまって真月が俺との距離を詰めてくる。屋根の上に腰掛ける俺達の距離は十五センチから十センチ、それからあっという間に五センチになり最後には零センチになって消えてなくなってしまった。プラスマイナス零の世界で洋服越しに真月の肌が触れる。そういえば真月の下の名前は零だった。そんなとんちんかんな思考が俺の頭を掠めた。
 真月の横顔が俺の顔に迫ってくる。顎をくいと捉えられて俺は成すすべなく息を呑む。人間となにも変わらない皮膚の感触。
 だけど真月は、俺とは全く違う世界の人間で、考え事の物差しも全然、違っている。
「私は君と二人きりの密室というのも、嫌いではないんだがね」
 「そういうことを言ったんだよ、遊馬」。少年らしい作り声をまた即座に引っ込めていつもの警部の声で真月は囁いた。目が白黒する。ほら、やっぱり、物差しが違うんだ。
 だからきっと、好きだって言葉も、俺が知ってる常識とはちょっと違う意味を持っているのに違いない。きっとそうだ。兄弟に言う好きとかそういう感じだ。
「君のことを信頼しているからリミテッド・バリアンズ・フォースを与えたのだし、君のことを好いているからトイレの個室を選べるのだ。つまりそういうことなんだがね、遊馬? 私だって特に理由がなければ普通に口を塞ぐ時手を使うぐらいの分別は持ち合わせている」
 息が詰まりそうになる。
 真月の声を聞きながら俺は昼間のトイレの時のように塗れてしまった唇を拭った。生温かい唾液の温度。真月零の体温。
 ヘンだ。心臓とか、どぎまぎしてすごくヘンだ。でも俺は真月に対して上司のやることだから反論はしなかった――そうじゃない。出来なかった。
(もしかして、ヘンなのは真月だけじゃなくて、)
 ぶるぶると首を振る。男で、友達で、上司なのに、なんで俺は熱っぽい頭でこんなことを考えているんだろう?
(俺もヘンなのか)
 俺の真っ赤になっているであろう顔を見て真月がご満悦といった表情を浮かべている。あんなことをされたのに俺は、本日二度目のその顔を見て嫌いじゃないとか、なんかドキッとするとか、そんなことをたらたらと考えてしまっているのだった。
 悔しいけど、ちょっと、かっこいい、とか。



(心臓の音が止まらないのは、絶対にあいつの悪戯のせい。)