※ちょっとうすぐらい
※遊→十→ヨハ
※ヨハンは故人
※尊敬する方のお誕生日に捧げます









 アンドロメダ星雲をいつだったかマーサハウスの仲間達と眺めていた時があって、確かマーサがアンドロメダ座にまつわる話をしてくれていたように思う。
 残念ながら、俺達男連中はあまりそういった小難しいロマンのたぐいには興味がなかったので内容はあまり覚えていなくて、ただ、群青色で塗り潰したカンバスのような夜空に、グリッターを夢中でこぼして回ったようなきらきら光る星々がとても美しいと、幼心に素直にそう感じたのを覚えていた。
「銀河鉄道が午後三時ぐらいに着く駅は、一説によるとアンドロメダ星雲のどこかなんだってさ。ロマンってやつ? おれにはよくわからないけど」
 よくわからないと言ったその同じ口から、すらすらと言葉が流れ出していく。あの星はどれそれで、この星はどうこうで。「おれはばかだからなぁ」と頻繁に言う割には彼という人間は博学だった。俺にはよくわからない。
 彼という人間(いや、最早彼はまっとうな人間であるのかすらも疑わしいのだが)のことが、何もわからない。
「……俺にはあなたが難しすぎる。手に余る。身に余る。どうしてあなたは俺に話しかけるんです」
「さあな」
 一切の色を含まず、口調を変えず、彼は言った。
「おれだってそんなことは知らないさ。ただ、長く生きていればそれなりに小難しいことは覚えてくってことだけは言える。それが生きていくことには、あまり必用がないんだってことも」



◇◆◇◆◇



 遊城十代は不老長寿だ。化け物じみた耐性と異常なまでの修復機能も備えているから、殆ど不死と言っても相違ない。にわかには信じ難い話だが十代さん本人が言っていたので多分そうなのだろうと思う。実際、彼は俺が子供の頃からちっとも姿形が変わっていなかった。
 今年で百いくつを数えるらしい彼はある時唐突に俺の前に現れ、度々俺に話しかけて来るようになった。常に俺のそばについてまわり、何が面白いのか、けらけらとよく笑う。
 彼の声は俺にしか聞こえない。姿は鏡に映らない。影がない。ひょっとしたら俺は彼の亡霊に憑かれているんじゃないかと何度か疑ったが、しかし食べ物は倍の速度で減っていくし、物は彼に当たると跳ね返るし、なんとも奇妙なものだった。

 ある日十代さんがいつも連れている猫とハネクリボーの精霊の他に、一匹の魚を連れてきたことがあった。尾ひれの長い淡水魚に、彼は何を思ったのか「ルビー」という名を付け、金魚鉢に放り込んで遊星に世話を投げた。
 どうやらルビーは観賞用に改良されたと思しき金魚の亜種であるようだった。人に飼われるために生まれ、人に可愛がられる術を心得たアクアリウムの虜囚。美しく水中でひらめく生存競争に不必要な尾ひれを見ていると、俺は不可思議な気持ちになってくる。
 合成飼料の餌をぱくぱくと食べる金魚に十代さんはあまり見向きをしなかった。俺はそれなりに多忙な仕事の合間を縫ってまめに世話を見続けたが、結局彼が金魚に関心を示したのは持ってきたはじめの一回と、それから金魚鉢の引っ越しを手伝ってもらった二回、そしてルビーが死んで土に還してやった時のあわせてたったの三回きりに過ぎなかった。
 ルビーの死因は衰弱死だった。俺は出来る限りの手を尽くして育てていたから、恐らくネオドミノの水道水が合わなかったのだと思う。カルキ抜きをしてもだめなものはだめだ。
 うつくしいものははかない。
「綺麗なもんって、すぐ死んじゃうよな。おれが好きなものは本当にすぐにおれの前からいなくなる。金魚は元々短命だけど……それにしたって、あんまりだ」
 ざくざくと土を掘る。薄っぺらい木の板に乱雑な字で「金魚のルビーここに眠る」と書かれた墓標を突き刺して、彼はそんなことを言った。口振りからするに、彼が好ましいものを失うのはどうも初めてではないようだった。
「なんでもそうだ。生きるのも、死ぬのも、あっという間で」
「……どうして金魚に『ルビー』と名付けたんですか」
「おれの友達が一番に大切にしていた精霊の名前なんだ。ただ金魚の尾ひれが紅かったから」
 墓標は本当に簡素なもので、強風に煽られたら一息にどこか遠くへ吹き飛んでしまいそうだった。それは遊城十代のありざまによく似ていて、俺はあとでそれを飛ばないように補強しなければいけないと思った。
「おれの友達も、もうみんな、死んでしまったけど。ヨハンも死んだ。ヨハンは、とりわけすぐ、おれの前からいなくなって……おれを置いていってしまった」
(……ヨハン)
「あいつならもうちょっと長く生きたって良かったと思うのになぁ。おれが生き続けるのよりもあいつが生きる方が良かったのに。なあ遊星、おれはこうやって歳ばかり重ねてきたけど、今になってもわからないことがある。どうして世の中って、こうも不公平なんだろうな。たいていの場合、特に必要のない人間がずるずると狡賢く生き延びるのは、どうしてなんだろう」
 どうしてヨハンは死んでしまったのだろう。言外に仄めかされたその言葉にはっとする。ルビーがうずめられた土を撫でる十代の後ろに亡霊が見えた気がした。俺が一度も会ったことのない男の亡霊だ。
 亡霊は紫色のシャツを着て、蒼碧の髪をやにわにはねさせ、エメラルドグリーンの双眸を下げて十代さんの手のひらの上に自らの手を重ねていた。何も言わず、押し黙って、神に祈りを捧げるみたいに。胸元で十字架を掲げて黙祷している。何を祈っているのだろう? 金魚の死を悼んでいるのか?
 それとも遊城十代を? もしかして、俺をか?
(――たくさんだ)
 『報われないぜ、少年』。そう言われた気がして、俺は幻相手に唇を噛んだ。全て錯覚だ。亡霊などいない。脳味噌が作り出した幻影にすぎない。噛み締めた唇だけがじわじわと痛んだ。血が零れる。薄皮一枚隔てた先から人間が生きている証がゆるゆると、垂れ流しになる。
 十代さんは血を流さない。俺の知る限りでは涙を流していた記憶もない。遊城十代はそこにうっすらと存在しているのみだった。その彼が、何かを愛おしんだり悲しんだり、不思議に思ったりするのは、変な感じがした。見慣れない。
「おれより先には死なないって言ったのに」
「……十代さん?」
「どうしておれは、死んじゃいけないんだ」
 その直後に信じられないものを見て俺は思わず口を噤んだ。
 ぽつりと泣き言を漏らすと、彼は堪え切れなくなったように泣き出した。たった今まで見たことのない涙を惜しげもなくぼろぼろと零し、途切れ途切れの声で亡霊の名前を呼んでいる。「ヨハン」、愛おしそうに。「よはん」、苦しげに。「アンデルセン」、怒りを表情にのせて。「ヨハン・アンデルセン」、息も絶え絶えに。
「おれはおまえがすきだったよ」
 吐き棄てるように吐露して彼はスコップを地面に置いた。泥だらけのスコップにやはり彼の血液は付着していなかったが、涙らしきとうめいな液体が土を溶かしていた。
 胸がちりちりと痛い。ヨハンという名を彼の唇がかたちづくる度にきしきしと痛んでぎちぎちと締め付けられてちりちりと焼け焦げる。終いには蒸発して消えてしまいそうになる。その名前を聞きたくない。何故ですか、十代さん。あなたの口から、あなたの声で、何故俺はその言葉を耳にしなければならないのですか。
 青年の姿をしている亡霊はまだ俺の視界に居座って、遊城十代の背後で神への祈り(なのだろう、きっと)を続けていた。聞こえないはずの讃美歌が聞こえてくる。あわれみたまえ、主よ。
 美しいアルトの祈りは透き通って耳に心地よく、その分余計に俺を苛んだ。痛みはいっこうにひく気配を見せない。遊城十代は亡霊に縛られているし、俺は遊城十代に縛られている。



◇◆◇◆◇



「星だぜ、遊星。そういえば星はきみの名前にも入ってるんだな。綺麗な名前だ。親御さんに感謝しろよ」
 カシオペア座を指差して十代さんが言った。彼に「綺麗だ」と言われることにほんの僅かな抵抗を感じる。それは他のものごとと一緒くたに自らを「儚い」と宣告されている気持ちだった。彼は口にも顔にも一切出さなかったが、そうやって俺に「きみも今にすぐにしんでしまうんだろうね」と言っているのだ。
 カシオペア座の隣に、アンドロメダ座が見える。十代さんは嘆息して一心に星を見ていた。隣の俺には目もくれないでいる。
「星が眩しいのは今を一所懸命に生きているからだ。俺の友達もみんな眩しかった。眩しく眩しく輝いてやがて燃え尽きて死んでいった。俺一人だけ、輝くこともなく燃え尽きることも許されずぼんやりと生き続けている」
「……だけど」
 俺は彼のその言い方が我慢ならず思わず反論を起こした。大抵のことには大人しく頷いている俺が珍しく口答えをしたものだから腑に落ちないのだろう。そういうふうに顔に出ていた。
 俺は彼に構わず唇を動かした。もたついて、舌が唾液でぬめった。
「俺にとってあなたはヒーローなんです。あなたが自分をいくら卑下しようと、輝くことのない石くれだと言おうと、俺にとってのあなたは太陽なんです。星よりも眩しい、焼け付いてしまいそうな、俺があの日憧れを抱いた、遊城十代なんだ」
 ヴェネチアの広場でカードを繰っていた遊城十代は確かに輝いていた。懸命に生きていた。あの日抱いた鮮烈な感情を俺は生涯忘れないだろう。何にでも立ち向かっていける、そう断ずる英雄の後ろ姿を俺は永遠に胸に刻まれ、忘却を赦されない。
しかし十代さんは首を振った。
「だけどおれはもう月にすらなれないんだよ、遊星」
 優しいうそを吐く大人の横顔だった。奇しくも先日彼自身が口にした「狡賢い」方法だ。戦争で父親が死んだことをまだ知らない幼子に、母親が出来るだけ傷付けまいとしてするような下手くそな嘘に似ていた。その嘘が後々に母親自身や、子供をそれ以上に苦しめることを知らないでその場しのぎをしようとしているみたいな。
今の彼はそうではないのかもしれない。幽霊みたいにすかすかして、彼が得意だった前へ向かって走ることすらも止めてしまったのかもしれない。
何が彼を変えてしまったのだろう。何が彼から輝きを奪ってしまったのだろう。彼自身だろうか。人間を止める決断をした後ろめたさか、或いは人間社会からの排斥感か、彼自身が造り上げて閉じこもった孤独感か。
それともヨハン・アンデルセンの死なのか。
彼を永遠に縛り続けるのだろう亡霊のせいなのだろうか。
「アンドロメダのくもは、さかなのくちのかたち……」
 一節だけ口ずさみ、その後にハミングが続く。星めぐりの歌。目玉が赤い蠍だとか、反対に青い目玉の子犬だとか。彼はとてもじゃないが文学少年だとかいう柄じゃないはずだからこれを教えた人間が誰かいるはずだ。飽きっぽい赤い蠍に星々の歌を根気よく聞かせた青眼の子犬が。
 その時になってようやく俺は、赤に世界を教えた青に、ヨハンの亡霊に敵わないのだということをゆっくりと悟った。金魚が死んだ時よりも強烈にはっきりと宣告を受けた。俺はまたあの亡霊を見ていたのだ。今度は彼の背にではない。彼の隣にそれはいた。
 十代さんのハミングに合わせて亡霊が歌を唄う。アルトの歌声。俺は立ち尽くしてその光景を見ている。
 遊城十代の時を止めた未練を見せつけられている。
(……まぶしい)
 その時遊城十代は、俺の視界に映る中で最も眩い星だった。カシオペア座よりも、ペルセウス、こぐま、白鳥、ペガサス、名のある星々、アンドロメダ大星雲、それらのどれよりも美しく光り輝いていた。今なら彼は血を流すだろうし、涙も流すだろうと思われた。鏡にだって映るに違いない。それは決定的な敗北だった。
 結局俺は生きているのに亡霊に勝つことが出来ないのだ。





/アンドロメダの魚


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