裏切りの



「残念だが……貴様のお友達はもう二度と……目を覚ますことはない」
 その時俺は時間が止まってしまったのを感じた。
 その時世界中の全てが凍り付いて、俺の視界を真っ暗に塗りつぶし、光あるものは消え失せあらゆる白と黒、赤と青、緑と橙、色という色が真っ逆様に反転した。心臓が凍てつく。嘘だ。こんなの、あの真月が、うそだ。
 「ゆうまくん」、と俺を呼ぶやわらかい声が耳の奥でこだまする。「九十九遊馬くん! あなた、WDCチャンピオンの九十九遊馬くんじゃないですか!」「僕、デュエル下手だけど、頑張るから……置いてかないでよ!」「はい! よかれと思って!」オレンジの髪と紫のまなこが頭の中で鮮明に蘇った。俺の友達は俺の記憶の中でくるくるとよく動き、笑い、泣き、生きものらしいその姿を見せている。
 だけどそうじゃない。それは記憶の中の真月零の幻に過ぎなくて、本物の真月零は無残にもそこに倒れ込んでいた。こんなにも傷だらけになって。あのきれいな目を開くことなく伏せって。だらしなく、息をしていない肉の塊のように。真月。なんで。
「真月――――――!」
「まあそう悲しむな……お前らもすぐにこいつに逢えるさ……何故ならァ! ここから生きて帰ることは出来ないからだ!!」
 涙が落ちて地面にしみを作る。俺は怒っていた。自分が泣いていることにさえ気付かないほどに。
 叫んだ。知りうる限り最も汚い言葉でベクターを罵った。何をしても足りない。どうしても満たされない。許されない。赦されない。ゆるされない。瞳から光が消える。
 俺は何を信じればいい?
 真月。真月、真月、真月、真月――俺の友達、真月零。
「ゆるさねえ……」
 俺のものとは思えないぐらいに低く冷たい声が口から零れていく。真月の人形のような体がぼろ雑巾のように転がされて、死体が打ち捨てられているかのようだった。
 吐き気がする。胃がひっくり返って怒りのまま内蔵諸共全てをぶちまけてしまいそうに。

「ぜったいにゆるさねえ」

 ベクターが狂い笑う音だけが俺の周りに渦巻いている。真月。真月、なあ、真月、俺は信じないぞ。お前が……

(おれのともだちがしんでしまったなんて)



◇◆◇◆◇



「遊馬君、泣いているんですね。どうして? 何が悲しいの?」
「しんげつ」
「どうして泣くの遊馬君。君はいつも笑っていたのに。泣き顔は似合いませんよ。ほら、笑って」
「しんげつ……生きてるよな? 死んでるなんて嘘だよな。俺の友達の真月が、真月零が、あんな卑怯なやつに殺されたなんて嘘だよな。そんなわけないよな。真月は、バリアン警察の警部だもんな。だって本当は強いし、いつも俺のこと助けてくれたし、だから……」
 いつの間にか、真月が寝転がっている俺の顔を覗き込んできていた。真月の背景に映るのは給水塔の影とそれから真っ青な空。雲がぽやぽやと浮かんではたゆたって、ゆるゆると右から左に流れて消えていく。太陽がまぶしい。日の光を後ろに背負った真月の顔は逆光で濃い影に覆われていた。
 俺はほっとして右手で目のあたりを拭い、ああ本当だ泣いてたんだって思って無理矢理口端を上げて笑い顔を作った。それに真月が苦笑いする。真月はすとんと腰を下ろし、俺の隣に収まった。プラスマイナス零の距離。この距離が俺は好きなんだ。
「僕が死んでるなんて、どうしたんですか。ほら、この通りぴんぴんしてますよ。きっと酷い夢を見たんですね。僕が死ぬ夢。助けに行ったのに、間に合わなくって無残にも踏み潰されている、そんな夢」
「……うん。だから俺、どうしていいかわかんなくなって。めちゃくちゃに怒って。ブチ切れてさ。お前が死んだって思ったら目の前が真っ暗になったんだ。涙が勝手にぼたぼた零れて止まんなかった。真月を殺した奴が憎くて仕方なかった」
 独白は止まらなかった。近頃は俺はアストラルよりも真月を随分あてにしていたんだなあとその間にぼんやりと思う。胸につっかえていたものがするするずるずるどろどろぐしゃぐしゃ、流れて滑り落ちて零れていった。泥のような俺の思いの塊に、ただ真月は黙ってうんうんと話を聞いてくれている。俺にはそういう人間が必要だったのかもしれない。小鳥も、シャークも、カイトも、アストラルも、ただ黙って是も非も言わずにはいてくれなかった。
 独白はすごく長い間続いていた、ように思う。気付けば気持ちよく晴れていた空はどんよりと日没の赤に染まり、そうして暗い夜へと変わってしまっていた。墨のような紺碧に染まった空には星がなかった。月もない。新月の夜だった。
「君にとって、僕は――真月零はとても大切な存在なんですね」
 俺がようやくのことで口を閉じると、代わりに真月がゆっくりと唇を動かした。何か反芻して確認をとる作業に似ていた。自己紹介以外で真月の口から語られる「真月零」の名前は、変な響きだった。まるで真月じゃないやつが言っているみたいだ。
「大切なんですね。他の何にも代え難いものなんだ」
「当たり前じゃんか。真月は世界でたった一人しかいないんだ。俺の友達なんだ。……ともだちなんだよ。すごく、大事な………」
「そうですか。それにはきっと、『真月零』なら『えへへ、そんなふうに思って貰えるなんて嬉しいな、僕、頑張ります!』……そう、答えるんでしょうね」
「真月?」
 口ぶりに不安になって俺は思わず振り向いた。胸がざわざわする。奇妙な予感が通り抜けていく。夢の中での、真月を失う感触が俺の中に甦った。あのすかすかして絶望的で救いようのない虚無感だ。凄絶な怒りと、コントロール出来ない憎悪だ。
「真月零、この名前の意味をばらばらにして考えてみます。真月とは即ち『新月』を表わし、月の存在しない夜を指し示すんです。日の光を浴びることを許されずその姿を失った、影です。そして『零』はそのままの通り、ないものを表わします。零とは即ち無です。真月も零も無を指しているんです。真月零は、『ゼロ』だ。プラスにもマイナスにもなれなくて、どこにもいない、そういうものです」
「……なに、言って、」
「言葉の通りですよ」
 真月の声は淡々としていた。ただ表情だけが自嘲じみていて、俺を真っ直ぐに偽りなく見つめて、射抜いていた。
 背中を悪寒が走り抜ける。俺は予感する。この唇は今から、俺に悪夢を告げる。信じたくないことを言う。だから耳を塞いだ、でも無駄だった。新月の両手が俺の両耳から俺の両腕をいとも容易く引っぺがし、耳元にやわらかい唇を近づけて囁きかけてくる。

「遊馬君、君は夢をみているんです」

 そうして真月は言った。俺に告げてしまった。諭すような声だった。その声音が、脳味噌の中で反響する音が、俺は怖い。酷くおぞましい。
 なんで。俺は、夢なんか見てない。今ようやく怖くてたまらない夢から醒めたんだ。それでやっと、ああよかった夢だったんだって、ほっとしたところなんだ。
「夢ですよ。僕のこの姿は君の心が作り出したまやかし。偽物。鏡像。虚像。全部嘘です。君自身が君の心を守ろうとして作り出した、嘘です。――君が望む、君が求めて押し付ける『真月零』の姿をした大嘘」
 一歩一歩着実に歩を詰めて真月の言葉が俺の心臓に近づいてくる。ぱっと俺の腕を離した手はそのままごく自然に俺の首筋に伸び、首根っこを掴んで俺の首を絞めた。いや、俺がそう感じているだけだ。真月が本当に掴んでいるのは物理的な俺の首でなく、精神的な――致死に至るライフ・ラインを握る血管が幾つも通った「真月零は何者であるのか」という事実だった。
 「友達」「信頼の置ける相手」「仲間」「どこか憎めない奴」「上司」そういったキーワードがぼろぼろ剥がれ落ちて真月の足元にぽっかりと空いたブラック・ホールに呑み込まれて消えて行く。見えなくなる。代わって「存在しない」「無」「嘘」「まやかし」「幻」そういったキーワードが俺の足元に積み上がって行った。窒息してしまいそうだった。
 いやだ、いやだ、いやだ。そんなのはいやだ。
 そんなことを言わないでくれ、お願いだから。
「だって――」
 でも俺の声なき懇願になんて関わりなく真月の姿をしたものはその声を張り上げ、容赦のない言葉をとどめの一撃に叩き込む。

「真月零はベクターなんだから」



◇◆◇◆◇



 意識が現実に回帰する。こっちが夢なんだ、そういうふうに思えたら良かったけれど間違いなくこちらが現実で優しい真月は夢で幻で願望でベクターの演技でまやかしだった。どうしようもなく絶望的に真月零は偽物で贋作で作り物だった。
 真月零はいない。どこにも。最初っから。俺との出会いからして全てが仕組まれたことだった。ベクターの灰色の肉体にはまる狂気の紫の瞳が、先程からぎょろぎょろと動き回って俺をねめつけ、痛めつけ、これでもかと挑発をしてくる。
 アストラルの疑惑の視線が横から俺に突き刺さっていた。俺は真月がバリアンだと知っていてなお誰にも話せなかった。それは真月零との約束だったからだ。俺が信じた、優しくてまっすぐで正義感があっていいやつで裏切るはずなんかないやつとの約束だったからだ。そのはずだったんだ。
 言葉が詰まるのと一緒に息も詰まる。俺はどうしたらいいかわからなくて、何も信じたくなくて、でも頭の隅では本当はそれを信じるしか方法がないことも理解していて、……あと一歩で過呼吸に陥り、そのまま心不全にでもなってしまいそうなぐらいに動転していた。
 厭らしい狂声があたりに響き渡って俺の脳味噌をじくじくと苛みがんがんと揺らし、そうして俺とアストラルの間にさえも亀裂を生んでいく。僅かに、アストラルから失望も向けられていることを俺は感じ取っていた。でも当たり前だ。
 結果的に俺はアストラルを裏切って関係のない皆を巻き添えにした。
 それは確かに、俺の犯した過ちなのだろう。
 でも今の俺はそれどころじゃなくて、ベクターから向けられる悪意とアストラルの疑念、それから真月零という存在でもういっぱいいっぱいだった。結局真月は死んでいなかったってことになるのか? だって真月の死体だと思っていたものがベクターの本体で、つまりそれは死んでなんかいなかったってことで、そもそも死ぬべき真月はいなくって……わからない。でも、一つだけ俺にとっては確かなことがある。
 俺の友達の真月零は確かに死んだ。ベクターの嘲り声がこだまする。「真月零なんて最初っからいもしない人間だった――」違う。そうじゃない。
 真月零という人格の姿は確かに俺の中にあった。俺の中で、真月零は紛れもなく生きている人間だった。それを言ったらきっとベクターはただでさえ醜くなった表情を更に歪ませて、その上真月のあの声まで使って俺を煽り、罵り、責めたてるのだろう。でもそうなんだ。真月零は、俺の中でだけは、生きていた。

『ねえ遊馬君、僕は君のこと、信じていますから』
『僕、君の役に立てたかな』
『よかれと思って……駄目でしたか?』

 ベクターの言う通りだ。真月零は、俺の信じた真月零はもう二度と目を醒ますことはないのだった。俺の友達はいなくなった。残されたのは俺の心の中にある残滓とそして現実。
 ベクターが真月零であり、だから真月は死んでいなくて、でも生きてもいないという現実だ。
 真月零の屍を俺は心の中に飼っているのだった。残り香に似て、でもただの思い出にすぎなかった。
 知っている。
「『Vain‐裏切りの嘲笑』を発動ォ!」
 デッキから五枚のカードが選び取られて浮き上がる。五枚のVのカードだ。真月が俺にくれた証のはずだった。
 それをトリガーに、更に二十五枚のカードがデッキから選び取られて墓地に吸い込まれていく。合計三十枚のカードがあっという間に墓地送りになって俺のデッキにはもう三枚のカードしか残されてはいない。隣でアストラルが『デッキ破壊か』と言うのが聞こえた。わかってるよ。これも俺が招いた結末だって言うんだろ。
(ゆるさない)
 噛み殺すようにその言葉を繰り返した。ゆるさない許さない赦さない。……だけど俺は一体誰をゆるさないって言っているんだろう?
 真月零を演じて俺達を騙し果ては引き裂いたベクターのことだろうか。もしくは全てわかっていて俺を騙していた真月零だろうか。それとも、死んでしまった真月零だろうか。
 俺は首を振った。白昼夢の中で締めつけられた首が酷く痛む。薄っぺらい三枚のカードだけが残されたデッキ格納スペースを見ると胸がずきずき痛んだ。託されたカードは全部墓地。ない。どこにも見えない。
(死んだんだ、真月は)
 裏切られたことよりもそれが苦しかった。俺は、ただ、機械的に事務的に目の前の敵は倒さなきゃいけないと思う。ベクターを倒さなければ。ライフが少なくなってアストラルの体も薄くなってるし、それになんだか様子も変だ。シャークやカイトも巻き込んでしまった。小鳥たちもこんな危ないところにいる。勝たなきゃ。勝たなきゃいけないんだ。
(でも、おれは、)
 カードのように薄っぺらい屍の亡霊が俺の肩に乗っていた。亡霊はいつも感情豊かに笑ったり泣いたりしていて、俺のことを想ってくれていた。それが俺の盲信した真月零の姿だった。
 ベクターは相変わらず狂い笑っている。声音を変えて、俺の弱さを突き、糾弾してきている。また勝たなきゃと思った。
 でも、だけど。

(一体おれは誰のために勝とうとしているんだ)

 それがまだ俺にはわからない。