少年懐胎




 「真月零」の姿をして、酷く馬鹿らしいと思いながら、俺はそれをあやしている。それの名を九十九遊馬と言って、こいつは俺の五年越しの計画をパァにしてくださった悪意と憎悪の対象だった。何がかっとビングだ。お前が天城カイトと神代凌牙を一致団結させたお陰で俺の仕込みは水泡に帰したんだぞ。
 それにたいへん腹を立てた俺は少し手の込んだ意趣返しを次の作戦に練り込んで、面倒極まりない仕込みの末にようやく目的の一片を果たすことに成功した。即ちヌメロン・コードを手に入れるための足掛かりだ。俺はそのために憎くて愛しい九十九遊馬を手に入れることを決断しそして成功させたのであった。
 「真月零」という架空の馬鹿を演じ、子供が喜びそうなチャチな設定で騙し、上手いことアストラルとの団結を引き裂いて煽り立てた。遊馬は面白い程ころっと真月零に傾倒していって、その滑稽さたるや演技派に定評のあるこの俺が危うく抱腹絶倒を堪えきれなくなり正体を漏らしかけそうになるぐらいだった。倦怠感はあったがなかなかに面白い遊びだった。
 そうして傾倒させ、信用仕切ったところでの裏切り。そこから走った亀裂は既に遊馬の意思で消せるものではなくアストラルの疑いを知らぬ純潔を穢す。純真を汚す。そうして敗北にまで追い込み、とうとう俺は九十九遊馬を手に入れた。
 そう、つまり……ヌメロン・コードを宿す母胎をだ。
(あぁ……長かったよ。手間も掛かった……)
 九十九遊馬が特別であると俺が断じる最たる理由はそこにあった。世界の始まりから終わりまでのあらゆる全てを記した「ヌメロン・コード」、俺の悲願の成就に必要なそれを体内に宿してこの世に生まれ落ちたのが遊馬なのだ。生まれ落ち、そうして最後は俺の手に生まれ堕ちる。そう考えると幾分か悲喜劇じみている。安らかな表情で俺の膝の上で眠りこける遊馬の姿に俺は嘲笑を隠すことが出来なかった。
 このひたすらにまっすぐな少年は自らに秘めたものがモノであったからか、非常に無垢な心を持っている。アストラルと違って人間として定義されているから、感情こそ当たり前に備えているもののマイナスの情を抱くことが極端に少なく、怒りは大抵が誰か他人の為に起こされた義憤であり、憎しみや疑いを殆ど知らない。だから騙すのは簡単だった。従って裏切るのも――突き落とすのも、安易だった。
 そういう意味では、こいつもまた純潔の白百合の花をその内に抱いているのだった。遊馬は知らないのだ。言葉を交えても拳を交えても尚覆ることのない純粋な悪意というものを。なんだかんだでドクター・フェイカーもバイロン・アークライトも人の情を棄てきれない生身の人間だったから、誠意と説得が誰に対しても通用するなんぞと思っていたのだろう。その結果がこのざまだ。
 耐性も受け身をとる構えもなく突っ込んだ末路に、九十九遊馬は彼が今まで大事に大事に守ってきたものを失うことを余儀なくされたのである。
 俺はまず人間の友人達、仲間達への情を(そんなものは足かせになるだけだ)奪った。次にアストラルへの情を(そんなものは障害にしかならない)奪った。
 そうして最後に遊馬は俺に抱いた憎悪すらも奪われて(かわいそうに、純真なこいつがはじめて抱いた救いようのない怒りだったのに)、最早彼の中に残されたのは「真月零」への情のみにすぎなかったのだ。
 こうして遊馬は神を宿した人形になる。遊馬はただ真月の名を呼ぶ。俺だけを求める。薄暗い部屋の中で、俺に全てを預けて微睡み続ける。俺なんぞにこれまでもこれからも全てを捧げる。
 馬鹿な奴だ。
 信じられるものを根こそぎ奪い尽くされた九十九遊馬は無知なる愚者であった。



◇◆◇◆◇



「おい……ドルベ。俺のもんに勝手に触ってんじゃねえよ」
「ご執心だな……いつまでごっこ遊びを続けるつもりだ? 彼が戦略上重要であることは私とて承知しているが……意外だよ。お前がそんなことをするとはな」
「どういう意味だ、あぁ? 俺は俺の目的に沿って動いてるだけだ。使える駒は最善の状態にメンテナンスしておく、当たり前のことだろうがよ」
 遊馬を飼っている部屋に戻ってきて目にしたのはドルベの姿だった。遊馬を怖がらせない為だろうか、人間界で大学生でもしていそうな面白味のない人間態で屈み込み、相変わらずどこか眠たげにぼんやりした表情をしている遊馬に向き合っている。
 所有物に手を出されることを俺は好まない。足早に歩み寄ると遊馬の体を掴んでドルベと引き離した。それから振り返って視線で訴えかける。……「遊馬に悪影響を及ぼす前にさっさと失せろ」。
「話があるなら遊馬が寝てる時にしろ。それか直接俺に通せ」
「何故そこまで拘る?」
「森羅万象の力を生ませるんだぞ。母胎への接触を極力断つのは然るべきことじゃねえのか」
「どうかな」
 ドルベはすかした気にくわない目で俺を見、そうして遊馬を見、最後にまた俺に視線を戻した。値踏みをされているようで苛立たしい。
「私にはそうは見えない。ベクター、お前が情の移ってしまった人間を手放すまいと囲い込んでいるように見える」
「――失せろ!!」
「だそうだ、私は失礼するよ遊馬。残念だ、君ともう一人とはこうなる前に一度デュエルしておきたかった……」
 扉が音もなく閉められる。遊馬は「真月?」まず俺の名を呼んで俺の表情を伺い、「怒ってるのか」そうして俺の機嫌を伺った。
「ドルベと話してちゃダメだった」
「……いや。遊馬は悪くない。ドルベと何を話した。余計なことを吹き込まれなかったか」
 かつて警部ごっこをしていた時の声音で問いかけると遊馬は少し考え込んで記憶を手繰る仕草をした。姿は真月零のもので一貫させているが、遊馬に対する声の使い分けは依然として有効な為今なお行っているのだ。安らぎを求めて他愛ない話をせがむ時やより素直さを求める時はあの間抜けの声音を、こうして情報を聞き出す時は警部ごっこの声音を用いるのが最も効率がいい。
「アリトとギラグがもうじき目を覚ましそうなんだって。それだけ」
「ああ……奴らか。思ったより早かったな」
 何かと思えば俺自ら始末してやった役立たずどもだ。特にアリト。あいつは遊馬に情を持ち、バリアン人である前に一人のデュエリストであるだなんぞ抜かしやがった腑抜けだ。ギラグを釣って芋蔓に始末するのには役立ったが、バリアン七皇の一人ともあろう男があの程度の単純熱血馬鹿だと思うと気が滅入った。
 そういえば遊馬の方もアリトには好ましい感情を覚えていたなと遅ればせに思い出す。俺が消してやったのは人間界絡みの遊馬の感情だけで、バリアン回りの感情は多少疎かになっていた。
 それでも「真月零」への情を上回ることはないだろうが、警戒はしておきたい。
「アリトに関して何か思うところはあるか、遊馬」
「ん……そりゃ、アリトは友達だし。ずっと寝てたって知ったのも今だったからちょっとショックだったけど……でも、もう起きるんだろ。それなら心配ないよな。そしたらまた会えるもんな」
「……ああ」
「真月、おれ、アリトが目が覚めたら話がしたいなぁ。アリト、きっとおれがここにいるの知らないだろ。おれが、真月のことを……」
 遊馬の言葉が淀む。愛していることを? iしていることを? あいしていることを? 或いはそのどれでもなく? 俺の望む答えがレスポンスよく返ってこない。
 遊馬は考え込んでいるようだった。俺が刷り込んだ識別コードと実際の感情の不一致に戸惑ってしまったのだろうか。
 内心舌打ちをした。もしかしてまだ足りないのか。そんなことがあってはたまらないというのに。
「……遊馬くん」
 やむなく声音を変えてやると遊馬はぱっと表情を変えて嬉しそうに俺にすり寄って来る。子犬に似た目の輝きで、ないはずの尻尾を振ってでもいるかのように機嫌よく俺にじゃれついてくる。遊馬を制御するために一番根気よく刷り込んだ条件付けの成果なのだが、ここまで従順だと多少思うところがあるのも事実だ。
「そうだ。おれ、真月のこと大事なんだって、好きなんだってアリトに教えてないんだ」
「それで君はそのことを伝えたいと?」
「友達に親友を紹介するのは悪いことじゃないだろ? あ、でも真月とアリトは元々知り合いなんだっけ……」
「ええ。でも、良いと思いますよ僕は」
 優先順位の再確認を取って安堵した。大丈夫だ。当たり前だが、アストラルを排除した今「真月零」よりも上位に来る存在はない。分かり切っているのだがどうしても心配になる。
(は――情、ね)
 情が移っているという言い方には語弊があるな、と思う。確かに俺は遊馬に執着している。こいつさえ手に入れられればあらゆる全てを手に入れるも同じなのだ、それは当然だろう。だが必要なのは遊馬ではなくヌメロン・コードだ。俺が遊馬に優しくするのはたまたまこいつがヌメロン・コードの宿主だったから。それ以外に用はない。
 俺に疑いもせず全幅の信頼を寄せる姿はあわれを誘って俺の興を引かないでもないが、今のところその姿だけで十分嗜虐趣味は満たされている。
「ねえ遊馬くん、ここは、何か変わりありませんか」
「――ん、ぅ、たぶん……」
 ふと思い立ってやわらかく腹を撫でてやった。遊馬がびくりと小さく震えて鼻からくぐもった息を漏らす。日々のメンテナンスでヌメロン・コードを覚醒させるべく母胎として調整されている遊馬は腹部の刺激に弱い。妙な気分になって俺は眉を顰める。
「まだ何か起こる気配はない? それから、僕以外にここを触られなかった?」
「ぁ、ううん、ない、どっちもないから」
「そう。それならいいんですけど」
 つう、と臍の下から腹の中央まで内に秘した神をなぞるように触れてやると遊馬の顔が刺激に歪むのがわかった。苦痛と、それから僅かな悦楽。俺以外には決して見せない顔。
 俺の前でだけ発露される、純粋だった少年が貶められた姿の一端にゾクゾクして思わず真月の顔のまま唇を舐めた。歪められた九十九遊馬のアイデンティティにはなかなかそそるものがある。そのままもう一度腹を撫で、極至近距離で囁いてやると遊馬はとろとろした目のままあやふやに頷いた。完璧だ。先の心配は杞憂だったのだ。十全に支配しているこの優越感は本物だった。
 俺は確かに手に入れたのだ。
「遊馬くん、遊馬くん、遊馬くん……」
「真月、しんげつ、しんげつッ……」
「遊馬くん、僕のお願い、聞いてくれますか……?」
「はッ……ぅ……ん、んぅ、うん……」
「僕が……僕のために世界を、何もかもを壊して欲しいって頼んだら、遊馬くんは……」
「……あ、ぁ、叶える……叶えるから……」
 震える指が俺の皮膚を掠める。子を身ごもった女のように膨らむわけではない薄い腹でこの少年は森羅万象を処女懐胎している。笑えない。そういえばこいつはまだ子供だったのか。
 遊馬が子供だったところで、もしくは大人であったとしても俺の計画が変わることはないのだけれども、今こいつが浮かべる感情は紛うことなき白痴の愛そのものだと思った。
 どうしようもない盲目の人間がするまなこを、俺に向けている。



◇◆◇◆◇



「――遊馬」
「あっ、アリト!」
 きらきらした目で振り向いてアリトに笑いかける。アリトは遊馬に少し引きつった笑みを向け、それから俺を睨みつけた。明け透けで隠そうともしない。義憤の仕方がそういえば遊馬に似ている。
 アリトもまた人の姿を取って、遊馬や俺と揃いの制服を身に付けていた。
「アリト、あの後ずっと寝てたんだってな。体とか大丈夫なのか?」
「あ……ああ。この通り問題ないさ。俺は遊馬と正々堂々勝負をして負けた、それだけだ。卑怯な手を使って勝つよりもよっぽどいい」
「そっか。アリトはいいやつだな」
「……善良さ、か……」
 ひとりごちてまた俺を見る。もうぞろ闇討ちしてとどめを刺したのは俺だといくら馬鹿だといってもアリトも気付く頃だろう。その視線の中には明確な敵意が見て取れた。
 だが、アリトのことだ。敵意の大半は自らを陥れたことよりも遊馬を貶めたことに関するものに違いない。
「なあ……遊馬。遊馬は何か、困ったことはないのか。無理強いをさせられているとか、嫌な思いをしているとか……」
「別に、ないぜ。ただゴロゴロしてるだけだからたまに暇っていうか、デュエル、してないなぁ。真月が駄目だって言うんだ。おれのなかにあるヌメロン・コードに良くないんだって」
 けろりとしている遊馬にアリトの眉間の皺が深くなる。「お前が押し込んだのか」アリトが低い声で糾弾した。
「遊馬の体内にそんなふざけたものを」
「違うな。遊馬が初めから宿していただけだ。生まれた時から依り代だったんだよ、神降ろしの」
「だがお前が手を出すまでは普通の人間だった。ありふれた、デュエルが好きな少年だった!」
「馬鹿げた夢想は棄てろ。原初の可能性を持って生まれて何事もなく生涯を終える方が間違っているんだ。むしろ俺は保護してやったんだよ、遊馬が傷付かないようになァ?!」
「――ッ!」
 肩を竦めて諭してやると痛ましい表情で唇を噛み、アリトはぽかんとしている遊馬の手を握る。
 遊馬は不思議そうに首を傾げてアリトを見た。その様にまた一歩、アリトの表情が絶望に向かって歩を進めていくようだった。
「どうしたんだよそんな怖い顔して」
「遊馬。俺はお前を天使だと思った。実際、その通りだったのだとも今確かに思っている。……悲しいんだよ。俺が信じた『天使』は、いつも、どこかへ拐かされてしまう……」
「へんなやつだな……アリトは……」
 遊馬がにへらと笑う。無知を象徴付けるだらしない笑い顔。それは確かな衝撃となってアリトを貫く。
「おれは、どこにも行かないぜ。真月のそばにいるから……」
「遊馬。真月零なんてやつはどこにもいない。そいつはベクターだ……俺達バリアン七皇の一人のベクターなんだ」
「? 知ってるぜ、そんなこと。でも俺は真月を信じてるんだ。真月になら何をされてもいいし、多分俺は何でもしてやれると思う。それがベクターでも同じ。おれが信じる奴に名前がもう一個あったってだけじゃないか」
 そう、晴れ渡った空が青いことのように水の外で魚が生きていけないことのように大気圏の外で人は死んでしまうことのように、当たり前に遊馬は言った。
「それがおれが出来ることだから」
「ゆ、うま……?」
「真月はおれの親友なんだ。優しいし、おれを守ってくれる。大事にしてくれる。欲しいものをくれる。真月がいるから、おれは何でも出来る」
「何でも、だって」

「うん。例えば、おれと真月以外の世界中全てを壊すことだって」

「――ベクター!!」
 遊馬のその言葉に最早我慢ならなくなったのだろう、アリトが叫んだ。
 そのまま俺の胸ぐらを掴んでくる。体力馬鹿だけあって少し息苦しいが、それよりもアリトの偽善ぶった顔の方が俺にとっては見物だったので多少の痛みなどはどうでもよかった。遊馬は真っ先に俺の名前を呼んでいたが、そんなものは今のアリトには聞こえていないらしい。
 アリトの怒りに満ちた瞳が問い掛けてくる。「真月零の姿で、九十九遊馬を寵愛する。果たして滑稽なのはどちらなのか?」。
「お前は、遊馬を傾倒させてアストラルとの仲を引き裂いたんだって言ってたよな。だがよ、本当に傾倒してんのはお前なんじゃないか、なあ、ベクター……」
「何が言いたい」
「溺れる魚だ。お前はいつか破滅するぜ。遊馬を――こんなふうに弄んで――好き放題に――滅茶苦茶にして――囲い込んで…………」
 アリトの蔑みが俺を射抜かんとする。だが生憎と俺は蔑まれることには慣れっこだ。それを知っているだろうにアリトはそれを止めなかった。どころかより強く憎々しげに俺を睨んだ。
「赦さねえぞベクター。この下衆野郎が」
 ぎりぎりとアリトの爪が皮膚の下に食い込んでいく。俺はそれをせせら笑った。力の限りに嘲笑ってやった。最後にものを言うのは力だ、それを求めて囲い込むことの何が悪い。
 それを見てアリトが愕然として目を見開き俺の首を締め上げていた手のひらから力を抜く。ぞっとしたように手を震えさせて忌々しげに歯軋りをし、くそ、と吐き捨てる。
「おいやめろよアリト、真月に何するんだよ」
「遊馬……お前にはもうわからないんだな……」
 アリトが首を振った。駆け寄って俺にしがみつく遊馬に向けられた感情は、ともすると失望にも似ていた。
 見初めていた天使を地上どころか地下深くに引きずり堕とされてどうしようもなく哀しんでいた。
「……救えねぇ」
 そうして神を孕む少年を、かつて太陽だった希望をそっと抱き寄せる。胡乱な遊馬の瞳はもう何も語らない。その中に残されているのは俺が許した僅かなものだけ。

 盲目白痴の、救いようのない愛の残滓だった。