スカーレット信愛



「ベクター。怪我の様子はどうなんだ」
 ミザエルとドルベが前屈みに俺を覗き込んできていた。ああそうだよざまあねえなってやつだ。ぼろ雑巾にでもなったみたいだろ。
 何を思ったのかミザエルが俺の額に触れる。残念だろうが俺には熱なんぞないし、脳の損傷もなかった。
「負けたか。自信満々に次は成功すると言っていたのにも関わらず……確かに《ヌメロン・フォース》、あのような力は想定外だったが。あれだけ策を弄してこれでは、あまり悠長なことも言っていられないかもしれないな」
「黙れこの銀河眼馬鹿。ドルベならまだしもてめえみてえな手抜き野郎に言われるのは我慢がならないんだよ。満足したか? お待ちかねの銀河眼対決がまたも頓挫して?」
「ベクター、我々の戦いは真の銀河眼使いを決める崇高な儀式だ。サルガッソの灯台などという卑怯者の使うカードを用いていては話にならん。それにまだカイトとの決着の機会が永遠に失われたわけではない」
「尤も最後まで渋っていたがな」
「それを言うな、ドルベ」
 二人してそんなどうでもいいことを言う。妙に余裕ぶった態度は死ぬ程気に喰わないが、しかしミザエルとドルベを相手に出来る程今の俺に体力が残っていないのも確かだったので舌打ちに留める。ミザエルがそんな俺の姿を一瞥して息を吐いた。舐めくさりやがって。
「……わからないのか、何故自分が負けたのか」
「あぁ? そんなの決まりきってんだろ。いみじくもお前も言ったばかりじゃないか、《ヌメロン・フォース》なんてものは想定外だったと。手札も伏せもなくデッキには使いようのない魔法カード一枚きり、盤石の罠まで用意してそれが破られるなんぞ普通に考えたらありえねえよ」
 新しいゼアルの姿を思い浮かべて自嘲気味に顔を歪めた。あそこまでやればぶっ壊れるもんかと考えていたし、実際アストラルはぶっ壊れたが、それでもアストラルは遊馬の献身さに心打たれてしまったらしいのだ。惨めにも棄てられず、疑いが全くの無に消えたわけではないが信じるのだとか抜かしやがった。それでより強力な力を得たりして、意味がわからない。
 しかしそう言うとミザエルは首を振った。ドルベもどうやらミザエルに同意しているようだった。
「違うな。そうじゃない。これはお前がドクター・フェイカー達を使った仕込みで失敗したのと同じ理由によるものだ。少なくとも私はそう考える……そもそも前回の失敗だって全てが九十九遊馬のせいだったわけではないだろう。ドルベからレポートを借りたが、あれは彼らの父性愛を全く計算に入れなかったのが悪かったんだ」
「はぁ? 愛だぁ?」
 腕組みをしたミザエルの真面目くさった顔には俺を馬鹿にする意思はないが、少しのあわれみと呆れが同居している。居心地が悪い。「何が言いたい」と問うと嘆息が返ってきた。不愉快だった。
「何故九十九遊馬が裏切られてなお『真月零』を見捨てきれなかったのか。アストラルが九十九遊馬への疑念を噴出させてもゼアル化を成し得たのか。安易にくっ付いてきた者達が九十九遊馬を恨まなかったのか……つまるところ、お前は愛情を軽んじすぎていたんだ。それが敗因だろうと、そう私は言っている。そしてそれが我々に対するお前に欠けているものだとも」
「無条件で何でもかんでも許容することが情だと? 必要なものだと? そんな甘ったれたことで我々バリアンがやってけるもんかね」
「無論彼らのように甘いだけというわけにはいかないが。少なくとも私は仲間に対する親愛は持っているつもりだ。ギラグや、アリトのことも」
 そこで口ごもる。それから少し悩むそぶりを見せてからきつい眼差しでミザエルは改めて俺を見た。そこに関しては譲るわけにはいかないという宣告、強い意志がその中には込められている。
「アリトの件、私は許したわけではない」
 そこで合点がいった。ああ、そうか。こいつはギラグと馴れ合いをしていたから、アリトの遺言か何かをそこで聞き知っているのか。今回俺が真月を演じていたと種明かしを遊馬にしてやったことでミザエルの中で繋がってしまったのだ。
 ということはミザエルから話がいっているだろうドルベにもあの時アリトに追い討ちをかけたのが俺だと知れ渡ったってことだな。
 面倒だ。何もかも。
「……効率よく成果を出すための必要な犠牲って奴だよ」
「本当に必要だったのか、怪しいものだな。おまえ個人の鬱憤を晴らすのがいいところだろう。……本来協力し合うべき我々七皇すらも信用せず安易に謀ろうとするうちには、情というものは確かに理解出来ないかもしれない」
「なんだと?」
「それでも出来れば理解して欲しいとは思っているんだ。確かにお前は根性の曲がった奴だが、それでも手を取り合うべき同志には違いない。まあ、あまり期待はしないでおくが」
「……。……だったら」
 ミザエルは眉間に皺を寄せたりなんかしながら好き勝手に言い放つ。俺は苛々して歯を鳴らしながら噛み付くように漏らした。ああ、わからねえよ。わかりたくもない。だが、それでも理解せよというのならミザエル。
「ならば九十九遊馬を、お人好しの――お前の言うところの愛情の塊であるらしいあれを手に入れればそれはわかるのか」
「それは、真月零を演じていたお前が一番よく知っているんじゃないか。ベクター」
「……ああそうかいそうかい。二人揃って、まあ……」
 ミザエルの返答は簡素かつ、どこか突き放したふうにも思えるものだった。その中に暗に「多分無駄なんじゃないか」という言葉が見て取れて、元々下がるところまで落ちきっていた俺の機嫌は更に急降下する。どうせ気紛れだとか出来るわけがないだとか考えているんだろう。そうあたりを付けて俺はその話題を締めた。
 だが生憎、そう言われてはいそうですかと引き下がるつもりはない。ならば取るべき手段が一つあるのだ。
「ドルベ……俺とてバリアン世界のために働いてるんだ。今回のように次も口出ししないでくれると助かるね」
 ――九十九遊馬を今度こそ敗北に追い込んで、捕らえたうえで聞き出してやればいい。



◇◆◇◆◇



 派手に音がして、重たいものが壁に叩きつけられ衝撃のリバウンドで跳ねた。さぞや痛かったことだろう。九十九遊馬が歯を食いしばり、痛みに耐える姿が俺の視界には大写しになっている。
 それは俺に捕まり囚われの身となってしまった遊馬が受けた、何度目かの暴力だった。
 チェーンで縛られた遊馬は両手の動きがままならない為かろくな受け身も取れずにモロにダメージを喰らってしまったようで、体中のあちこちがずたぼろになっていた。私服も所々が破けていておかわいそうなことこの上ない。まあ俺がやったんだが。
 それに、例え両手が自由だったところで綺麗な受け身なんか決められなかっただろう。ずたずたのぼろぼろが、ちょっとはマシになってずたずたのぼろになるかというぐらいの差に違いなかった。
「おーおー健気なこったな。泣きも喚きもしないか。支えになるアストラルも出てこないぜぇ、皇の鍵はお前と離れ離れのお友達のところだからなぁ?」
 試しに一つ煽ってみるが、そう効果もないようだ。今遊馬は痛みに顔を歪めてこそいたが、俺を「貴様」と罵ったあの瞬間に匹敵する感情はその表情から読みとることが出来なかった。その代わりに躊躇いが見て取れる。何を躊躇している? 感情のままに俺を憎悪することか。それともなにがしかの罪悪感か。阿呆臭い。
 こいつは立場ってものを理解しているんだろうか。してないだろうな。そのぐらいは簡単に察しがつく。
 くだらないお友達ごっこをしている間に、「遊馬くん」のことは把握出来たつもりだ。こいつはお人好しの真っ直ぐ馬鹿で大切なものが多すぎる。アストラルと真月零をはかりに掛けられて板挟みになり窮地に陥った遊馬は、例えば同様にアリトとアストラルをはかりに掛けたとしても、あのアークライトの三男坊とをはかりに掛けたとしても、思い悩むのだろう。
 愚かにも全てを大事だと判ずる。何もかもを守りたいと願う。アストラルを唯一無二の絶対と定められない、それが俗に言う優しさだとして、俺にとってのつけいる隙でもあった。
 実際サルガッソでもそれを利用したプランはうまくいっていた。それで危機感を煽りアストラルを陥れ、絆は壊れた。アストラルの中に遊馬への疑念が払拭出来ないものとして生まれた。そいつは遊馬も俺の言葉を肯定する形で認めていたはずだ。
 あんなわけのわからない力でカードの書き換えなどという真似さえされなければあそこで俺は成功を収めていたはずだった。
 この少年も完膚なきまでに叩きのめされ惨めな敗北を喫し全ての信頼を失い俺の好むような顔をしていたはずだったのだ。
「やっとお前の惨めったらしい命乞いでも聞けるかと思ったのによぉ。文句の一つでも言ったらどうなんだ?」
「……言わねえ。アストラルと離れちまったのはあいつだけでも逃がそうとした俺の判断だし、こうやって今俺が縛られてるのも俺の弱さだから」
「つまんねえこと言うなよ遊馬くぅん。それともなんだァ? 今から真月ごっこでもすりゃあ怒ってくれるのか?」
「怒らねえ」
 肩透かしだ。俺はかぶりを振った。こいつはまだ真月零なんていうありもしないものを庇い立てするつもりなのか。
 反吐が出そうだ。
「あーあ、こうまでされて、なんで真月零に愛想を尽かさないもんかね。真月零はお前を裏切ったってことになるんだぜ? お友達の振りをして、騙し騙し騙し騙して仕返しをしていたってわけだ。失望するもんじゃないのか。どうしてだ。なぁ遊馬ァ、どうしてお前はあれを希望なんぞと宣った?」
 真月零として俺が遊馬に渡した「RUM-リミテッド・バリアンズ・フォース」。次のドローがそれだとわかりきっていてなお希望だと言った遊馬の顔が蘇る。それでも信じるなんぞと言ったのだ。散々に叩き壊された友情の象徴であるそれを躊躇いもなく、臆面もなく。
 まあドローして確かめた後ブッ倒れたから、もしかしたら何かの奇跡を期待していたのかもしれないが。
「なんでって……真月がくれたカード、俺はやっぱり信じてるんだ。アストラルとヌメロン・フォースに書き換えられたのはあのカードが真月がくれたリミテッド・バリアンズ・フォースだったからだって俺、思ってる。俺と真月の絆があったから、アストラルがそれを受け入れて勝利に繋がる絆に生まれ変わったんだ」
「虫酸がはしるな。綺麗事も大概にしとけ。そもそもいくらお前が真月との絆だなんだ抜かそうとも真月の方はちっともんなこと思ってねーんだよ」
「でも、お前何回も言ってただろ。リミテッド・バリアンズ・フォースを『真月との絆』だって。俺がそう思うだろうって考えて渡したってことだ。だからやっぱり俺にとっては絆のかたちで、希望なんだ」
 捕縛され、俺に何をされるかもわからないこの状況でまだそんなことを言っている。俺の機嫌を損ねてしまえばいつ殺されてしまってもおかしくないというのに。いくら鈍かろうともそのぐらいは察しているだろう。それを裏付けるかのように遊馬の折り曲げられた膝は時折ごく僅かな震えを見せている。
 だのに表情は畏れを見せない。俺に屈しない。未だに敗北なんぞ知らないとでもいうように俺と対等なつもりの視線を投げかけてきている。
「この状況で思うこととかねえのかよ」
「……なあ、ベクター」
「あ?」
「……あのさ。なんでお前が俺にこんなことするのか、恨んでるのか、正確なことは知らないけどさ。俺は真月零を嫌いかと聞かれたら違うって答えるし、もしベクターを知ることが出来たら、お前にも好きだって言えるかもしれないって思ってるんだ」
 遊馬は静かに言った。
 ――ちがう。
 思わず胸中で否定した。俺が望むものとも、予測していたものとも、それは違ったのだ。
「何で……そんなことを言えるんですか遊馬くん……」
「え……べ、ベクター?」
 咄嗟に、揺さぶりをかけるつもりで声音を変えてみる。だが効果なし。動揺する代わりに、遊馬は自分の血で汚れた体をずるずると引きずって俺に近寄ろうとしてくる。
 なんで。こいつは。違う違うそんなんじゃないのに。
「わからない。暴力的なまでに理不尽です。だってそうでしょう、どう足掻いたって絶望しかないのに、何をしたって真月零は帰ってきやしないのに、泡沫なのに幻なのにそれでもあの偽物をゆるして挙げ句の果てに……」
「おい、どうしたんだよ。大丈夫か」
「そんなふうに俺を愚弄する。『好き』と言えるだァ?! お前のそれはただの博愛という名を借りた偽善、胸糞悪い性善説にすぎねぇんだよ!!」
 感情的に、偽善者の横っ面をはったたいた。パン、という乾いた音。子供の柔らかな頬が赤く腫れ上がる。痛いだろう。さぞ痛いだろう。いかにお前のようなお人好しだとしても、流石にもうそんな甘いことは言っていられないだろう。
 だというのに、
「……でも、俺はベクターを信じてられる」
 遊馬はやはり、そんなことをあの真っ直ぐな丸い赤の瞳で告白した。「おまえを愛せる」と言われているようだった。
 ざわめきが収まらない。これが愛? 俺に足りないのだとミザエルのやつが盛んに言った情なのか? 笑えない冗談には殺意しか抱けない。
「あ……そっか」
 俺の狼狽を見て遊馬がぱちくりと丸い瞳を瞬かせる。心からの怯えを知らない瞳。本当の絶望を知らずに、一度抱いたかもしれない恐れもあっという間に忘れ去ってしまう都合のいい子供の目。
「お前は、信じてないんだな」
 告げる遊馬の目は何に染まるでもなくただ、紅い。
 まるで見透かしてでもいるかのように揺るぎなく確かに、俺を見据えている。
「知識では知っているのかもしれないけど信じてないんだ。だから根底のところでわかってない。……もしそれを俺が伝えてやれるのなら何度でも言ってやる。だって俺、もうしばらくはベクターのそばに置いとかれるんだろ? 捕虜なんだもんな。だからさ、俺はベクターのことを、」
 違う、そうじゃない。ミザエル、これがお前の言うものだとしても、こんな、こんな――

「これからきっと好きになる」

 こんな言葉が欲しかったわけじゃないのに。



◇◆◇◆◇



 苦痛に歪み絶望に染まるさまが、俺が得意とするものでまた欲するものであった。
 まかり間違っても憐憫ではない。遊馬に好きだと言われることでもない。真月の姿をしていた頃に彼が勝手に結んできた友情に俺は内心で唾を吐いたりなんかしていたのだ。
「……どうしたもんか」
 傷だらけの哀れな遊馬は体力を使い果たしたのか、眠りこけていた。両腕は相変わらず重たく冷たい鎖に拘束されているというのに、俺のすぐそばで無防備な寝顔を晒している。意識が途絶える直前に俺が怖くはないのか、と聞いたら彼は「怖くない」と答えた。
 平然と当たり前のように。
 アストラルがいない以上遊馬だけでは何がしかの能力を手に入れるだとかいうことは期待出来ない。ならば首輪でも付けて飼い殺しにして、アストラルやらに対する切り札として強化するか。しかし俺はそこでその考えを止めてしまった。ミザエルの言葉がどうしてもわだかまって残っていた。
 俺が遊馬を手懐けて、例えばあのなかなか曲がらない意志をもう二度と戻らないようにへし折ってみたとしてもミザエルは首を縦には振らないだろう。むしろ、俺を否定するだろう。曇り硝子のように濁った瞳になった遊馬を見た日には俺を手酷く批判するだろう。
 結局、鳥籠の鳥に愛を謳わせたところで、愛玩動物に成り下がった遊馬に服従を誓わせたところで、それはミザエルが示したものではないし俺を満たすものではない。
「あいつらの言う通りだってか。遊馬を囲ったところで何も手に入りはしない……」
 「きっと好きになる」という遊馬の声が頭の中でこだましていた。俺に優しさを期待しているわけでもないだろうに何故こいつはそんなことを口に出来るのだろう。そう言えば真月が戻ってくるとでも夢見ているのか?
 あの馬鹿で間抜けで、九十九遊馬がああも血相を変える程に友愛を抱いていた優しい真月零を?
 馬鹿げている。あんな無知なガキの戯れ言なんぞが本当に俺を敗北に追い込んだのか。
「俺は嫌いだぜ。貴様をどうしようもなく憎悪してどうにかして絶望させてしまいたいと思う程に嫌ってる。そんな俺をそれでも好きになるとか言えるのかよ、なぁ」
「……うん。ベクター」
 突如聞こえてきた音にびくりとする。気付くと、紅色の寝ぼけ眼が俺をぼんやりと見つめてきていた。嫌いな目だ。覚醒と眠りの狭間にいるままでその瞳の持ち主は俺に語りかけてくる。
「それでもおれは、おまえを好きになれる。おれが真月をずっと友達だって信じてるのと、おんなじぐらいに……」
 そうして繋がれた両腕をゆっくりと伸ばし、壊れものにするように俺に触れた。少年の無垢な指先は、真月零であった頃に触れたどの指先よりも柔らかく、俺に鋭い痛みをもたらす。
 理解出来ない。無力な指先にどうしても感じる恐れを、突き刺さるようなそれを俺は理解したくない。
「デュエルをしたらみんな友達だって、今まで俺はそうやってきたんだ。ベクター」
「やめろ……」
「何度だって俺はそれを言える。真月と友達になったように、俺はベクターとも友達になれる。きっと」
「やめろ……!」
 指先を振り払う。じゃらりという鈍い音がして鎖ごと手が遊馬に跳ね返った。それでも遊馬は俺に不快な眼差しを向け続けている。まるで俺を慮るような目で深遠を投げつけてくる。
 苦しくて仕方ない。遊馬の偽善ぶった博愛は針の筵に似ている。
 ――ああ、情けないことに。俺は焼け付くこの感情が、痛みが、ミザエルやドルベの言うところの愛であることを認めてしまうことをたまらなく恐怖しているのだった。