喪愛の王子さま



 ずっと、ずうっと遠い昔にそれはそれは美しい自然に囲まれた島がありまして、その島には国を治める王家が住んでおりました。恵み豊かなその島で、人々はたいそう幸福に暮らしておりましたが、ある年をきっかけに、国の様子はすっかり様変わりしてしまったのです。
 国には一人の王子がおりました。紫の宝石のように美しい瞳に聡明な頭脳を持ち、彼は人々を愛し、無償の信頼を持ち、王家と国はこの先もずっと繁栄していくものと思われていました。しかしそんな王子は、父王の裏切を受けて慈悲なき残虐な暴君と化してしまいます。
 誰よりも敬愛し心を許し、信じていた父王に裏切られ、暗殺されかけた王子は人々を信じることを止めてしまいました。目に映る全てが自分を謀ろうとしているように見え、ありとあらゆる残虐な手段を用いて少しでも自分を不安に思わせたものを殺しました。
まず彼は手始めに家族を殺しました。自分が継承した王位をいつ奪おうとして殺しに来るかわからないからです。次に大臣達を殺しました。肉親の次に権力を狙いそうに思えたのは彼らでした。
 この時王子はまだ幼い子供でしたが、裏切によって人心を信じる気持ちを失ってしまった彼には、生み育て愛してくれた実の母を処刑することも、生まれたばかりの弟をその手に掛けることも、可愛がってくれた姉の首をはねることもさして難しいことではありませんでした。彼はもはや「愛」という気持ちをこれっぽっちも信用していなかったのです。そんなものは判断を鈍らせるだけだと彼は考えていました。
 王子にとって世界とは、既に利用できるものとそうでないもの、その二つに一つでしかありませんでした。
 こうして十を数える頃には王宮に住まっていた人達を殺し尽くし、彼の隣には彼の命に従順であった乳兄弟の従者一人だけが残されました。従者が彼の側にいても殺されなかった理由はたった一つです。彼が、使える道具であったからです。
 王宮の中に人がいなくなったので、彼は王宮を造り変えてその地下に処刑場をこしらえました。捕えた人々を入れておく鉄檻と、次に処刑される人を入れる見せしめ台、中央の処刑台、そうして王がそれを見物するための玉座が円形の広場に設えられました。完成したのち、王は処刑場を作らせた民々を従者に命じて殺しました。
「これで、俺に仇なす者どもを殺すのが簡単になる。お前は、どう思う」
 完成した処刑場を眺めながら王子は従者に問いかけます。
「まったくの通りでございます。わたくしは王子に従い、ご命令とあればいくらでもこの手を汚しましょう。わたくしは王子を信じております」
「そうか、ならば、お前の父と母をまず第一に俺の前で殺せ」
「仰せつかりました」
 従者は命じられた通り、王子の御前で自らの両親を殺害しました。王子はまだ、この道具は利用できると考えて頷きました。

 それからの出来事は惨劇というにも生温く、あまりにも凄惨で、そしてあっという間の出来事でした。王子は無作為に人々を殺すようになりました。ある女は王宮の外に散歩に出た王子の視界に入ったので処刑されました。またある男は、王宮に請願を持っていったその場で処刑されました。更にある子供は、たまたま王子の耳に入る場所で泣き出したので処刑されました。処刑は日夜休む間もなく、王子が起きている間は続けられ、島は死体で溢れ返り程なくして生者と死者の数は逆転しました。
「近頃は、生きている人間をあまり見なくなった。目に入るのは俺に怯えて処刑を執行する処刑人と俺の世話をするお前だけだ。そこで、とりあえず処刑人どもを殺そうと思う。奴らはもう用済みだ。お前はどう思う」
「王子のお考えの通りでよろしいのではないでしょうか。わたくしは王子を信じております」
「そうか。ならば、殺そう」
 そうして僅かな臣民も死に、王宮には王子と従者の他いなくなりました。島にはもう、王宮の外で隠れ暮らす人々しか残されておりません。ですので王子は、島中を焼き払うことにしました。そうすれば殺すための人間が炎から逃れようと姿を現すと考えたからです。また、いぶり出すのに失敗したとしても結局死んでいることには変わりないので、好都合でした。
 王子に命じられて従者は島の木々に火を放ちます。瞬く間に火の手は島中の緑を喰らい尽くして膨れ上がり、残っていた人々は蟻のように湧いて出て、王に助命を懇願しました。
「なんだ。まだ、こんなに居たのか」
 王は助けを請うた順に人々を殺しました。逃げようとしたものは、命じられた従者によって殺されました。
 人々を殺し尽くし、最早生き残っているものは王子と従者ばかりになりました。返り血に汚れた従者はじっと王子の方を見て、命令を待っているふうです。そこで王子はふと気になって彼に問いかけました。この道具は随分と彼の役に立ちましたが、そろそろ、使う用途もなくなってきていました。
「正直に答えろ。俺は正しいか? 間違っているか?」
 王子がそう問うと従者はこくりと頷き、彼の命に従って罪なき民を虐殺した手を自らの胸にあててこう言いました。
「それでは申し上げさせていただきます」
「どちらだ? お前はどう思う」
「王子は、間違っておられます」
 従者は真っ直ぐに紅い瞳で王子を見据えております。今までにたくさんたくさんたくさん飽きてしまうほどに見ていた血の色と一緒でした。けれど今までに見てきたたくさんの目と違ってそこには怯えがありません。絶望もありません。懇願も、震えも、何もありません。
 王子には従者が何を考えているのかがわかりませんでした。ですので、王子は従者の胸に血で塗れた剣を突き立てました。
 刺した個所から血が吹き出て、王子を汚します。なまぬるくて、王子はその時初めて血の匂いが臭いと感じました。
「王子」
 息も絶え絶えの体で、腹からとめどなく血を流しながら従者が王子に手を伸ばします。それが彼に残された最後の力なのだということが、何故か王子にははっきりとわかりました。
「なんだ。恨み言か。だが、俺はお前を裏切ったわけではない。俺は最初から誰も信じてはいなかった」
「いいえ。わたくしは王子に裏切られたとは思っておりません」
「では、なんだというのだ」
「わたくしは、王子を信じております」
 そうして精一杯に微笑んで、「あいしておりました」、と紫色の唇で呟いて従者は命を落としました。体が後ろ向きに仰け反って倒れようとするのを何とはなしに受け止め、従者の名前を呼んでみましたが、いつも王子に従順だった従者はもう二度と彼の命に従うことはありませんでした。
「おまえ、死んだのか」
 王子は従者の体を手からとり零して転がしてしまいました。
「これでもう俺の他に生きているものはいなくなった。最早、殺す相手はいない……」
 そう呟いて、そこではたと王子は立ち止まります。確かに、もう王子の他に生きている人間はこの島にはおりません。従者は息絶えて王子の足元に転がり、ぴくりともしません。従者の目蓋はぴたりと閉じられて、生前真っ直ぐに王子を見、けれど諌めることなくただ従ってくれた紅いまなこを見ることはもう叶わないのです。
 炎が燃え盛っています。人の油が燃えている匂いです。とうとう従者に火の手が移り、彼の体が燃えだしました。
 王子は、思い出したように剣を手に取って天高く掲げます。
「なんだ。ここにまだ一人いるじゃないか」
 掲げた剣をくるりと回して切っ先を自らの胸の中央に宛がうことに彼は何の感慨も抱きはしませんでした。生きている人間は殺す、ただそれだけのことだから彼にとっては何もおかしなことはないのです。
「俺はまだ生きている。俺を殺せば、全部、終わりだ」
 そうして狂ったように彼は笑いました。狂ったように――いいえ、もうずっと前から彼は狂っていたのでしょう。哄笑が彼の唇から溢れ返って、炎のはぜる音に混ざっていきます。そのまま彼は自らの手で自らを勢いよく刺し貫きました。血を口から吐いて、噎せ返った鉄の匂いが口中を汚しても彼は笑うことを止めません。
 螺子の外れた人形のように、命尽きるまで、王子は笑い続けました。

 やがて大雨が降り注いで炎は鎮まり、島にはたくさんの死灰と朽ちた王宮が残されました。そのうちに灰は土に還り、また元の緑豊かな土地となるための養分になっていきます。
 廃墟となった王宮跡は遺跡として多くの冒険家達が訪れるところとなりましたが、かつてその島に住んでいた人々も、やってきた冒険家達も、誰一人として惨劇の真相に辿り着くことはありませんでした。
 全ての発端となった父王は、やがて王子がこの国を滅ぼすという予言に従って苦渋の末に彼を殺すことを決めたのだという真相を、誰も知ることはないのです。



◇◆◇◆◇



「どォした遊馬くんよォ。かたくなーにベクター、ベクター、って言いやがって俺のことを真月と呼ぶのはもう絶対に嫌だってのか? 寂しいねぇ……でもまあ、しょうがねえよなぁ。真月零は遊馬くんを裏切ったんだもんなぁ?」
 玉座に座り込んで仕掛けの紐を悪戯に弄びながらベクターは意地の悪い声音でねちねちと遊馬を責めたてる。ベクターは彼本来の声ではなく、遊馬とお友達ごっこをしていた時の少年らしい声音や警部の声音でしきりに遊馬を煽り立てていた。見せしめ台の上で成すすべなく振り子を避けて座っている遊馬はそれに答えようとしない。つまらなくなって、ベクターは溜め息を吐いてパッと紐から手を離した。
 俯いている遊馬は時折アストラルの方に目をやり、ナンバーズ96とのデュエルの行く先を見守っている。その様子にまた苛々してベクターは舌打ちの後に遊馬を怒鳴りたてる。
「おいおいなんとか言えよォ遊馬くぅん、僕達親友でしょう? どうして、さっきからちっとも僕の方を見てくれないんですかぁ? 僕のこと嫌いになっちゃった?」
「……」
「まだだんまり? 手が滑って後ろの檻に入ってるお友達、殺しちゃいますよ?」
「……嘘だな。お前は、そんなことしないし多分それは出来ないよ」
「……ハァ? ようやく口を開いたと思ったら、お前脳味噌いかれちまったのか? 今更この俺に情けを期待してるんだとしたらそいつはとんだお門違いってやつだ」
「そういうんじゃない。そもそも檻に入れられたまま何か出来るんなら、俺のこと檻から出したりしなかっただろ」
 今度は遊馬の方が溜め息を吐いて、ずっと下に向けていた顔をようやく上向きに動かす。目は、相変わらず胸糞が悪くなるぐらいに透き通って綺麗な紅色をしている。そのどこにも怯えはなく、絶望もなく、懇願も、震えも、その中にはなかった。
 苛々する。気分が悪い。どうしてそんなに、真っ直ぐな瞳で敵を見ていられるのだ。
「お見通しだってか? わかったふうな口聞いてんじゃねえよ。これでもしお前の読みが外れてたらお仲間は今頃木端微塵だぜ」
「じゃ、やっぱあそこに仕掛けはなかったんだな」
「むかつくぜ遊馬ァ、俺を試してでもいるつもりか?」
「別に。でも、お前、やっぱり俺のこと殺さないだろ。そうなんじゃないかって思ってただけ。ベクター、俺な、最初はそりゃショックだったんだよ。真月は死んだんだ、そんなの嘘だ有り得ない、って思ってたら全部演技で実はベクターの罠だったんだとか言うじゃん。真月を殺したベクターのこと絶対許さないとか思ってたのにそれじゃもう許さないも何もないし。なんかそれでよくわかんなくなっちゃってさ……」
「……何が言いたい」
「でも、最近やっとわかった。俺、多分信じてるんだ。真月のことも、同じようにベクターのことも」
 息を呑む。遊馬は淡々と語っているし、彼はそもそも駆け引きや勝負ごとに向かない正直者だからベクターを揺すろうと明確に思っているわけではないのだろう。だが、なんだ、これは。
 この心臓を鷲掴みにされているような不快感は。止まらない冷や汗は。自分が圧倒的優位に立って主導権を握っているはずなのにこんなにも気圧されているのは何故なのだ。
「ベクターのこと信じてる。お前はこの場で俺を殺さないし、小鳥やシャーク達も殺せない」
「ふざけるな! どうして俺を信じるだなどとそんなことを……」
「ふざけてない。俺は、お前を信じる。騙されたことはそりゃ悲しいよ。だけど俺の隣に真月がいたことも、《リミテッド・バリアンズ・フォース》をくれたこと、俺を助けてくれたこと、俺と友達でいてくれたこと、一緒だったこと、笑ったり遊んだりしたこと、それは嘘じゃない。だから」
 ――紅い瞳が、見えたような気がした。
 遊馬のものと良く似ているが、彼のものではない。もっと眼前に、息がかかりそうなぐらい近くで、あのような真摯な目がベクターを見ているのだ。かつてその目も遊馬と同じようにベクターに語りかけた。「信じている」と、血を零しながら、彼は笑って……
(なんだ……これは……)
 針を刺すような痛みに続いて、この遺跡に来てから何度目かの全身を揺さぶる違和感と不快感。ドン・サウザントに文字通り心臓を握られているあの感触とは違う苦しみがベクターを襲う。誰だ。あの紅い瞳の持ち主は、それを向けられているのは、誰なのだ。
(俺を信じて……俺が、殺した……)
 かぶりを振る。そんなはずはない。あるはずがない。ベクターはバリアン七皇の一人であり、それ以外の何者でもない。知らない。何も、知らない……
(だったらこの光景は何なんだ)
 燃え盛る炎の中で一人の男が自らを突き刺している。この遺跡の壁画に描かれていた誰かの末路が酷く鮮明な映像になってベクターの頭の中でフラッシュバックしていた。狂ったように笑いながら、躊躇いなく自分に剣を突き刺す。飛び散る血液、散乱する死体、人体の焼ける匂い、目から滴る涙。覚えはない。ないはずなのだ。
「……ベクター?」
 遊馬が突然おかしくなったベクターの様子に首を傾げた。疑うことを知らないまなこ。それが射抜くように、ベクターに襲い掛かってくる。
「う……うぅ……」
「お、おい、息、苦しいのか」
 ふざけている。遊馬を睨んでベクターは胸中で反芻した。ふざけている。信じるとのたまったに飽きたらず遊馬は、自分を害している敵を慮るような言動にまで出ているのだ。形が歪なものであったとしてもそれに関わりなく、遊馬の信頼がベクターには痛かった。この痛みを知っている気がする。前にも、向けられたことがあるような気がする。
 殺されて尚「あいしている」と言った男に、遊馬の信愛はとてもよく、似通っていた。
 その言葉が持つ致死性まで含めて、何もかも。