少年リップルズ



「例えば今見ている世界が全部夢だったとして、目が覚めたらそんなものはなかったんだって思い知らされて、そうしたら遊馬くん、君ならどんな顔、しますか?」
「……は?」
「僕はきっと、笑うんだと思うんです。だってもう、笑うしかないから……」

 出会ってちょっとした頃(まだ、バリアンズガーディアンだとかなんとか彼が名乗る前に)そういうことを訊かれたことがあった。俺は馬鹿だから真月が言っていることが今一つ理解出来ず、つまりそれってどういうことなんだ? と首を傾げるばかりで、それに真月は薄く笑んで見せていた。
 今思うと、あの表情はちょっとした感傷と失望、それから安心、安堵、期待、そういう複雑な感情がないまぜになっていたものの現れだったんだろう。例えば真月零が夢だったとして、目が覚めたらベクターとしての全てしか残っていなくて、そうしたら「真月零」の一体何が残るんだろう?
 まあ、笑うしかないだろうなと思う。実際ベクターはその後全力でその「夢」をぶっ壊して、真月零という幻想を消し去った。ベクターの中に、もうあの少年はいないのだろうか。別に二重人格とかじゃないから、演じていたベクターが要らないとただ一言思えばそれで全てが終わってしまう。

 真月零は優しかった(それって全部演技なんだけど)。
 真月零は俺の大事な友達だった(向こうはそんなこと思ってもいないらしいけど)。
 真月零は俺のことを好きだって言ってくれた(でもそれは出任せだったらしい)。
 ――真月零は。

 「遊馬くん」といつもニコニコして俺の名前を呼んでくれたあの顔が脳裏を過ぎった。泥だらけになったりぼろぼろになったりしながら裏道を探したりなんかして楽しそうにしていたあの姿が、全部全部本当にただの作り物だったということが今でもにわかには信じ難い。
 もしもベクターが息をするように嘘を吐く奴だったとして、……それは、多分そうなんだろうけども、でもなんだかしっくりこないのだ。わだかまりが残って喉につっかえる。だって、なんだよそれ?
 だったらお前、何のために泣いたり、笑ったりしてたんだよ。
 真実俺を騙すためだけにそんなことをしていたんだとすればそれはとんだお笑い草だし、多分徒労だった。
 俺はそんなことされなくってもお前のことずっと信じてるのに。



◇◆◇◆◇



 近頃。
 「僕」は遊馬くんのことが「すき」なんだとそんなふうなことを思う。彼のことを想うとふわふわして曖昧な気持ちになるのだ。ちょっと浮ついたような変な浮遊感。腕を大きく広げて体中で彼に抱きつくとようやく地面に足がつく。
 彼は「僕」が笑うと一緒に笑ってくれる。失敗しても怒らないし、「僕」のことを慰めて、一緒に頑張ろうなんて言ってさえくれる。優しい遊馬くん。「僕」はその後ろをもたつきながら追い掛けて、彼のその優しさに追いすがる。
 ねえ遊馬くん、一緒に学校に行きましょう。今度一緒に遊びに行きませんか。一緒にお昼、どうですか。「僕」今日お弁当作ってみたんです。それから、帰り、一緒に寄り道しませんか。
 ねえ遊馬くん。
 「僕」のこの気持ちは、何なのでしょうか?
「だって、『僕』っていうのは本当はどこにもない亡霊のその更に影法師みたいな、どうしようもない偽物なんです……」
 九十九遊馬の好みを徹底的に分析してその結果出来上がったのが「僕」。人当たりの良い顔をして、人懐っこくて、遊馬くんのことが大好きで、尊敬してて、基本的にいい子。それが「真月零」と名前を付けられたキャラクター。
 バリアン七皇ベクターが製作した対九十九遊馬篭絡用の馴染みのいい仮面。
「愚かしい話ですよね。そんな『僕』が遊馬くんのこと、『すき』だとか……だってそれって当たり前のことじゃないですか。遊馬くんが好きそうな役柄を作ったら、その役柄が好きになりそうなのが遊馬くんだってことぐらい分かり切ってたことなのに……」
 嘘だと簡単に見抜かれないように、ベクターは設定した役柄に成りきるのが得意だ。だけどこんなに一つの役にのめり込んでしまったのは、経験のない全くの初めてのことで酷く戸惑う。これは誰の心だろう? 真月零という設定上のキャラクターのもの?
 それとももしかして、ひょっとして、うっかり、ベクターそのものが?
「『僕』にとって君は諸刃の剣みたいなものなんです。君の隣って、すごく『僕』にとって居心地がいいんだ。だけど『僕』はつくりものだから……」
 君の隣にいる心地よさとか、君と一緒にいる喜びとか、そういうたまに通り過ぎていく感傷みたいな切れ端はあくまでも仮想のキャラクターが見ている夢にすぎなくて。
 そのマリオネットの糸を手繰っているベクターはいつだってあの平穏を破壊して笑顔を踏み潰して残虐な行為を彼に強いて残酷な仕打ちを与えてお人好しの顔を絶望と後悔で染めてやりたいと考えている。
「『僕』、どうして生まれたんでしょう?」
 恐らくは君のために自分自身にかけた魔法。一番自然に君に接することが出来るように、汚い本性に蓋をして綺麗なドレスを着るシンデレラみたいに綺麗で愛らしい化けの皮を被って。
 時には自分すら騙す勢いで、本性を知る仲間たちをも欺いて。
 そうやってリアルな嘘をずっと吐いている。
「そうしたら、嘘が本当に君を『すき』になってしまったから、『僕』は……」
 きっと今の「僕」は夢でふっとそれに気付けたとして、目覚めた「僕」は誰なんだろう?
 ずっとずっと嘘を吐いてたいのは、君ならこんな拙い嘘でも信じてくれるからで、……それは「僕」が、「真月零」というそこに存在しないものが、仮初めのキャラクターが、心底、本当に愚かで憎らしいことに「九十九遊馬」に焦がれていたからじゃないのかって――

「……なぁんて、な?」

 ――という幻想を「俺」はぐちゃりと容赦なく握りつぶす。これからそれが障害になるのならそんなリアルな「真月零」の苦悩も焦燥も感傷も要らない。役作りは大事だが、それは判断を見誤らない程度が望ましい。この身も心も何もかもを遊馬のための偽物に変える必要はないし、むしろそれは望ましくない。
 君のために「僕」は泣きました。笑いました。傷も負いました好きだったらしいです。
 でもそれは全部キャラクターに付けられた設定だ。
 「俺」自身が本心から遊馬にくれてやるものは絶望だけでいい。あの愛らしい身を焦がす裏切りがいい。

 大事なものなんて一つだってくれてやるもんか。



◇◆◇◆◇



「その結果心臓を捧げてるんだから、ざまあねえな」
「いや、俺、知らねえけど……」
「ついかっとなって衝動的に心臓を対価に契約した。お前のせいだ」
「だから知らねえってば」
 ほとほと困り果てた様子で遊馬はベクターに向き直った。顔にはただ一言困惑の二文字。ベクターはというと、仏頂面でどこか向こうを睨んでいる。この空間ではどうもバリアンの力がうまく使えないらしいのだ。赤いペンダントが反射して虚しく光った。
「お前に俺のものなんか欠片もくれてやるはずじゃなかったのに」
「なんだよ……俺が何したっていうんだよ」
「大いにしただろうが。散々俺様の計画を台無しにしてくれやがって……」
 とうとう怒りの矛先が遊馬の方角を向く。まずった、と思って慌てて適当なフォローをしにかかるが逆効果だったみたいで、ベクターは苛立たしげに「はっ――」と息を吐くと目蓋を伏せった。
「大体、何でお前と俺の二人で閉じこめられてんだよ」
「それは……えっと……俺が遺跡のトラップを適当にいじったから……」
「度し難い程に愚鈍だなァ、ったくよ」
「その内シャークとか、カイトとか、助けに来てくれるって!」
「俺はその二人はまったく嬉しくない」
 これだから単細胞馬鹿は、という視線を露骨に向けられて流石の遊馬も自分がコケにされていることに感づいたらしい。カチンときたというふうな顔で「悪かったな!」とぞんざいに言ってむくれてしまった。子供かこいつは……と考えたところで本当に子供だったことに思い当たって辟易する。
 ナンバーズの眠る遺跡を訪ねる中で引き当てたハズレ遺跡で二人してこういう面倒な事態に陥ってしまった。そもそも何故遊馬とベクターで二人きりなのか。最悪の組み合わせだ。
「ベクター」
「気安く話しかけんな」
「でも他に喋る相手いないし。丁度いい機会だからさ、俺お前に聞いておきたいことがあったんだ」
 しかも遊馬は人の話を聞かないときた。あからさまに嫌そうな顔をしてみても見ちゃいない。そうしている間にも遊馬はぺらぺらと喋り続ける。多分この少年は相手が聞いていようがなかろうが関係なくて、ただ溜まっているものを発散したいだけなのだ。
「お前って、きっと嘘を吐くのと呼吸するのが殆ど同じ意味を持ってるような奴なんだろうなって最近になってちょっと思ったんだけど、……なんで『真月零』って名乗って俺のとこにきたんだ? バリアンの中でそういう日本人みたいな名前わざわざ作ってたのベクターだけだったし。なあ、ほんとにさ、あの『真月零』は、俺を騙して裏切る、そのためだけに作られて今はもうどこにもいないのか? ――お前はさ、捨てちゃったのか?」
 墓地に送るコストみたいに。棄てたとも。それがどうした。そう思ったが沈黙を貫く。それを答えてしまうと深みにはまってしまう気がしたからだ。
 誘導尋問のはじめに引っかかってしまいそうな。
「そっか。ベクターとしてはやっぱ棄てたってことにしてるんだな。でも俺、今でも……どうしても、『真月零』が百パーセント混じりっけなく嘘だったって思えないんだ。真月は生きてた。今ベクターが俺の隣にいるのと同じぐらい確からしく、真月は俺の側にいたんだって。ベクター、お前と真月はさ、同じなんだよ」
 答えてないのに当てられた上に更に勝手に進行していく。そりゃまあ生きてたことは生きてただろうよ。知らず胸中で毒づいた。「真月零」というものは言ってしまえば仮想OSのようなもので、「ベクター」というメインプラットホームの上でそれによって構築されたシステムを単独で走らせて運用していたというのが実情に近い。決して二重人格などではないが、台本に書かれた役柄のように薄っぺらくはない。馬鹿だが感覚は鋭い類の遊馬を騙しきるためには完全な『真月零』になる必要がある、と判じていたからだ。
 それはあたかも別人になりすまそうとするかのように。
「完璧に制御出来てたとか、分けられてたとか、今お前心の底から思ってるのか? だってどっちも同じ体で同じ脳味噌使って同じ思考回路で動いてたんだろ。今だからわかるけど、警部モードの真月と冷静に考え事してる時のベクターって同じ顔してるし、困った顔も一緒だし、案外変わってないんだ。だから自分で気付いてないだけで、影響されてるし反映されてるんじゃないかなぁ。……ほら、こんなふうに」
 遊馬の手がベクターの心臓がある位置をぺたりと押さえた。この状況じゃなかったら、そうじゃなかったら突き飛ばしていたのに。でも今はそれが出来そうにもなくて、ただこどもの体温の高い手のひらと、遊馬のおぞましい赤色の目に気圧されている。
「お前の俺を見る目はずっと一緒。真月もベクターも、俺のこといつだってまっすぐ見てくれる」
 なんて、安上がりな絶望だろう。
 魔法が解けるように「真月零」はいなくなって、「遊馬くんを好きだった」誰かの夢は醒めて、そこに真月零は最早残されていないそのつもりだったのだ。何も残せるものなんかなかった。遊馬を手籠めにしたらそれで役目は終わって、なかったことになって……
 だというのに。
「真月零って名前で色々やるの、結構楽しかったんだろ? 目は嘘を吐かないって言うの、俺ほんとだと思うんだ。な?」
 笑えない。まさか仮初めのキャラクターに入れ込みすぎて、感情移入なんてくだらないものをしそうになっていたのか。
 真月零になりかけて、それでつい「反射的に」心臓を捧げてしまったのか?
「……そんなことない」
「え?」
「どんなに『僕』がきみのことを好きだって言っても、『僕』が生まれたことに意味なんかないし生み出したこともどこにもない。『ベクター』は、『真月零』には、もうならない」
 言葉端が心なしか震えていた。嘘は嘘で虚構は虚構で、出任せが真実になるなんてことがあっていいはずがない。
 だけど遊馬は「ふーん」と気のない返事をして、それから、
「だったらさ」
 恐ろしい言葉を何ともないように言った。

「俺がその自己暗示とか全部すっ飛ばして蹴っ飛ばしてやるから」

 ――まっぴらごめんだ。
 遊馬の体温を感じながらそうベクターは思考した。
 もう夢なんか見なくったっていいのに。
 また、遊馬が勝手に喋り始める。今度はもうそれを聞き流す余裕もベクターの中にはなかった。肉越しに触れられている心臓が跳ねる。脈打っている。すぐそこにある九十九遊馬を確かに感じ取っている。
 かぶりを振った。溺れていたなどと信じたくない。
 役目を終える直前に「僕」が、「真月零」が抱いていた気持ちがリフレインする。ぶり返して襲いかかってくる。「僕」が生まれた意味は? 次はどんな顔で君と出会えるだろう? 「僕」が、まだ、君のために何かを伝えられるなら……あの時握りつぶした残滓達に包囲されて、耳を塞いだ。

 いやだ。

(こんなこどものことを「すき」だなんて、口が裂けても言いたくなんかないのに)